第一話 沢村弘樹の呪縛。1-5
ヒグラシの鳴き声がやんで木々が紅葉していき、色づいた葉が散り始めても、弘樹達の勉強は続いていた。
身体の九割以上は空まわり気味な元気に、如何わしい欲で構築されていると周囲から認められていた祐一でさえも、今は無意識なのか――度々授業にでてくる単語をぶつぶつと念仏のように唱え、まわりからは壊れた野生馬と呼ばれるまでになっていた。
「寝るな! 祐一!! あんたはまだまだボーダーラインにすら達していないんだから、わたしが作成した特別補習をやるからね!」
夜も更け、弘樹や由紀が寝てからも、祐一の学問という戦は続く。
「あ、あねき……。ちょびっとだけ休ませてくれ……」
即座に数学の教科書でスパコーンッ! と葵は勢いよく祐一の頭を叩いた。しかし彼の不満が途切れることはない。
「だってあいつらも眠っちまったし、もう午前の二時を過ぎたんだぜ。それに今日も学校があるし、さすがに寝てえじゃんよ!」
「あんたの今の学力じゃ、逆立ちしたって無理なんだ!」
眠気を理由に休もうとする祐一に、葵は発破をかけた。
今まで積極的に勉強をしてこなかった者が、わずか半年で県有数の進学校に進めるほど現実は甘くない。
だが祐一は、まだ自分の潜在能力を信じていた。
「大丈夫だって! 姉貴も知ってるだろ。俺って本番では百二十パーセントの力をだせるタイプ……」
「はい! 数学の五十六ページから」
「少しぐらい聞けよ!」
「ちゃんと聞いてるよ祐一! わたしだって、あんたの百二十パーセントの能力を信じてるんだ! でも今のあんたじゃ、三百パーセントぐらいの力を引きださないと無理なんだ! だから頼む、せめて百二十パーセントのレベルまで到達してくれ!」
「……お、おう…………」
雪より冷たい真実に、祐一は固まってしまった。
動物や植物も、それぞれ活動を控えだす厳しい冬の季節が訪れる頃になると、もとから優秀な成績を収めていた葵を除く三人は着実に実をつけ、その実力は誰の目から見ても――紛れもなくあがっていた。
特に祐一の成績向上ぶりには担任の老体である先生が腰を抜かし、期末テストの日には、そのあまりにも奇妙な成績アップから、彼だけを対象にした〝神道祐一カンニング対策包囲網〟がしかれるほどであった。
成績の上昇と比例して身体が痩せ細り顔に生気がなくなっていく祐一のことを、弘樹は大丈夫なのか葵に聞いてみる。
「葵……。俺の気のせいかもしれないけど、ユウの奴――どんどん痩せ衰えていってるような気がするんだけど……」
「気のせいだ!」
「円周率は三.一四……。わ、割り算の場合は逆にして……、二次関数とは……」
胸を張って葵は気のせいというが弘樹もさすがに心配になり、祐一にも声をかけた。
「大丈夫かユウ? 体調が悪いなら保健室にでもいくか?」
「…………え? ああ、大丈夫……。天才がちょっと本気を出してるだけだから、ハハ……」
明らかに祐一の反応は鈍い。
「天才が本気を出したら、やつれるのか?」
「……常人の二百パーセントぐらいの栄養を、脳にまわしてるからな……。フヘッ……」
まだ受け答えができる祐一に、弘樹は少しだけほっとした。
「……紫式部はゲンジ…………。枕草子は……デストラメンテ……アイギス……ラグナ……バリ……トゥ」
今年は正月休みもない。唯一のイベントは元旦に近場の神社で受験合格を祈願し、皆でお守りを交換する程度だった。
そうして一月が終わると早くも受験日がやってくる。
四人は前日に神道家の合宿から解散し、各自それぞれの家に帰宅した。
弘樹が自宅で勉強しながら過ごしていると、東側の窓から小石がぶつかるような音が数回なった。
間違いなく由紀だと確信した弘樹は厚い黄色のカーテンを勢いよく開くと、彼女が自室で白い耳あてをしながら手を振っている。
さすがに冬は滑って危ないので東側の窓は固く閉じて、由紀にはベランダ越えを禁止にさせていた。
「寒いねえ」
窓を開けると凍える冷気と共に、由紀の声が聞こえた。彼女が投げたビー玉もいくつか転がっている。
「ああ、今年は特に寒いな。お前さっきからずっと窓を開けてたのか? 風邪には本当に気をつけろよ」
「ううん、ヒロくんが出てきてくれるまでは閉めてたよ。でも絶対に顔を見せてくれるのはわかってたから――ねぇヒーロくん」
由紀はミルクのように甘い声を弘樹にかけた。
そしてにやにやと弘樹を見つめ続ける。
「なんだ?」
「えへへ、みんなで受かると良いね」
「そうだな」
「あたしね、御浜北に合格したらやりたいこと一杯あるんだ」
「どんなことだよ?」
白い息を吐きながら、由紀はやりたいことを次々と口にしていく。
「えーとね……。山にいって、海にいって、遊園地にいってジェットコースターに乗って、それからね。ショッピングにもいって、プラネタリウムも一度は見にいきたいし、カラオケは苦手だから……ボーリング! それからね、それから――」
由紀のしたいことは、今すぐにできることばかりだ。
「受験が終わったら、すぐにでもいけるとこばかりじゃねえか」
すると風船のように由紀の顔が膨らむ。
「御浜北の学生じゃないと意味ないの! もちろんヒロくんと一緒だよ。それからアオちゃんにユウちゃんも誘ってみんなで! あ、でもでも! ヒロくんと二人きりでも、いろいろな場所にいきたいな。ヒロくんはどこにいきたい?」
「俺は……野球観戦だな」
「うん! あたしも生で一回は試合を見てみたいよ! にゃははっ」
由紀の歓喜の声に弘樹も嬉しくなる。
「じゃあ御浜北に絶対受かって、さっき言ったところを全部網羅してやるか! もうすぐ俺達の誕生日だしな」
二人の誕生日は、どちらも四月二十五日だ。
「あっ! そうだよヒロくん! 今年は何をくれるのかな?」
「今年は、そうだな…………」
いきなりの催促に悩む弘樹を見やると、由紀がクスクスと控えめに笑う。
「そんなに難しい顔をしなくてもヒロくんの贈りものなら、あたしはなんでも良いよ! ヒロくんの方こそ――期待しててね!」
どうやら弘樹の考えは、由紀には全て筒抜けのようだった。
「それじゃー、ゴールデンウイークになったら山も海も遊園地も全てまわって、それから買い物になった時に、何か好きなものを買ってやるよ」
「うん! ヒロくん大好き!!」
「言ってろ」
「えへへ」
そして二人は、ほぼ同時に口を開いた。
「盟約な」
「盟約だね」
こうして弘樹と由紀の受験日前日は、盟約という呪縛で幕を閉じる。