第一話 沢村弘樹の呪縛。1-2
小学校を卒業して中学生になる頃には、正義の味方などという偶像は外界から絶え間なく入る、その他の夢がない情報によって、弘樹の頭の中でも徐々に駆逐されていく。
しかし弘樹は、由紀にだけはいつまでも正義の味方のような存在だった。
一年のうちで最も暑い季節である夏。ヒグラシが連日鳴き声をあげる七月。弘樹達が御浜学園中等部で過ごす最後の夏だ。
授業が終わった放課後、弘樹の耳に中等部の一階を占める三年生の廊下から、神道祐一の声が聞こえてきた。
「あのゴリラだけはマジでやめとけって!」
「俺さ、本気なんだ。葵さん、今彼氏とかいないんだろ? できれば二人きりになれる場をセッティングしてほしいんだ!」
現在は帰宅部の祐一だが、彼の隣にもう一人、過去バスケ部に在籍していた頃に同じ部活仲間だった少年が真剣な顔で自身の心情を打ち明け、お願いをしていた。
しかし元部活仲間の真摯な態度も意に介さず祐一は、葵の体面を汚す適当な罵詈雑言を躊躇なく、まだ生徒が多く残っている廊下で叫んだ。
「外面に騙されるな大介! 学園では仮面を被ってるだけだ! 家では俺の前で屁もしてくるし、飯を食べたら必ずゲップを俺に浴びせては、すぐに自分の汚部屋に去っていくような奴だぞ。って――!」
その時、彫りが深く均整のとれた顔立ちとスリムなウエスト、そして中等部指定の黒と真紅で彩られたチェックのスカートから、よく鍛えてある健康そうな日焼けをした褐色の両足。さらに肩まである鮮やかな黒髪を後頭部の中心で一つにまとめたポニーテールにして、それを上下に揺らしながら、力強いブラウンの瞳を光らせ『廊下を走るな!』の張り紙さえもぶち破るようなダッシュを披露し、三年四組の教室から出てきた少女が、二組付近の廊下に立っていた祐一達のところにまで猛然と突き進む。
まるで虎を連想させる正体は祐一の双子の姉。神道葵だ。
葵は祐一のところまで乱暴に駆け寄ると「ゆういち!」の怒声と共に、膝に蹴り、鳩尾に蹴り、顔面に蹴りの、沖田総司も感心するであろう見事な三段突きならぬ三段蹴りを、自分の弟に容赦なくぶち込み、即座に口を開く。
「わたしは人前で放屁やおくびなんてしないし部屋も綺麗だ! 第一お前の部屋もわたしが掃除しているではないか!」
放屁やおくびをすることは否定しない。そんな人物が神道葵だった。
手足がすらりと伸びていて背丈も祐一同様に高い葵が一歩進み、まだ悶絶している弟の隣にいた少年に向かい、二人の会話が聞こえていたらしく「すまん! 今のわたしは誰ともつき合う気はない!」と速攻で相手をふった。
四組から二組までの距離で告白の話題が聞こえていたのは、姉弟専用で使用する呪いの回線をオープンにして、祐一が葵にわざと伝わるようにしていた結果なのだが。
三段蹴りをくらい未だ立ちあがれずに蹲って微動だにしない祐一を見て萎縮したのか、少年は「す、すみませんでした!」となぜか謝り、慌しく走り去る。
そして葵の躍動的なブラウン色の瞳が、間の三組の廊下から一部始終を観察していた弘樹をとらえた瞬間、「弘樹ではないか! わたしとこのバカはもう帰るところだが、君も一緒にどうだ!?」
と、周囲を一切気にせず、元気一杯に弘樹を誘う。
この件に弘樹も条件つきで同意をしようとしたところ、
「ヒーロくん。おまたせ! あ、アオちゃん!」
非常に良いタイミングで、三組の教室からその条件が現れたのであった。