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屍を愛する王子 1-2




「……ター、マスター……」


声が聞こえる。

草の匂いが鼻腔いっぱいに広がり、さやさやとした風の音、遠くに水の流れる音も微かに聞こえてきた。


「マスター、起きてください」


柔らかな声が降り注ぐけれど、女は起きたくなかった。

ちょっと肌寒いけれど、優しいまどろみの中は気持ちよくて、その中でずっと寝ていたい。

酷い夢を見ていた気がする。

耐え難い酷い臭いの中で、腐敗した死体や腐汁に囲まれていたなんて、若い女性が見るには酷すぎる悪夢だ。


「マスター」


あれは夢だ。

夢に決まっている。

自分はそんなものとはずっと無縁な生活を……。

ゆさゆさと肩を掴まれて揺さぶられて、女はハッと意識を取り戻し黒の瞳を見開いた。


「っ!」


パシパシと瞬きを繰り返した視界に広がるのは人の顔、見たこともない男の顔だった。


「だ、……げほっげほっ!」

「マスター!」


かさかさに乾いた唇から出たのは掠れた声で、女は喉の調子を整えようと無意識に咳き込んだ。

一体、この男は誰だ。

上体を起こそうとしながら咳き込む女に、目の前の男は慌てた様に女が起きるのを手助けし、彼女の背を擦った。

その際、彼から微かに感じた臭いに女はギクリと体を強張らせて男を見上げる。

美しい男だ。

薄汚れた白っぽい外套をすっぽりと纏い、頭まで引き上げたフードから零れる前髪はミルクティーのような柔らかな色合いで、整った鼻梁、形のいい唇や眉、周囲に広がる森のような緑色の瞳。

見惚れるような美しい男だ。

男性的な美ではなく中性的な人形のような精巧な美しさ。

けれど……激しく咳き込んだ女を見下ろして困ったような顔をした美しい男は少なくとも日本人には見えないし、何よりも生者にはあるまじき血の気のひいた青白い肌をしていた。

背を支える大きな手も服ごしだというのに、とてもひんやりとしている。

それにこの臭い。

緑の爽やかな匂いに混じって、微かに感じる独特の臭気に女は眉を顰めた。

夢で嗅いだ臭いとは違って微かだし、質が違うから耐えられないわけではないけれど、新緑の中では異質な気がした。

美形は観賞用として大好きだが、物腰も柔らかで美しい彼は何となく不気味で真澄は距離を取りたいのをぐっと堪えた。

それでなくともあまり異性と接触がない真澄は、この近さが落ち着かないし、それを相手に見抜かれたくはない。

だからこそ何でもないふりを進めるしかなかった。

幼い頃から何でもないふり、興味ないふりで周囲との軋轢を避けるのが処世術となっていた。


「誰?」


掠れてはいたが、今度はちゃんと声が出たことに安心して少しだけ緩んでしまった口元を引き締める。

何となくバツが悪かったせいか真澄の声は硬くなった。


「貴方は、誰?」

「ファルーシュ・イゼリアと申します。ファルとお呼び下さい。マスター」


真澄の硬質な問いに対して男の声や物腰はどこまでも柔らかい。


(こういう男が接客に向いてるのよね……)


学生時代のバイトからフリーターを経て、今の職も含めて全て接客業だった真澄はそんなことを考える。

どういった相手にも柔らかな物腰を崩さない、そんな相手を凄いと思うと共に真澄はほんのちょっとだけ妬ましかった。

真澄は、接客は向いているが、プライベートでは人付き合いがとても苦手だったから。


「私、マスターなんて名前じゃないわ。真澄よ、春日真澄」


応える声も自然、硬くなった。

何故この男は自分のことをマスターと呼ぶのだろう。

真澄はうろうろと視線を動かして、周囲を確認した。

緑しかない。

かすかに水の流れる音が聞こえるということは川が近くにあるのだろう。

しかし、そんなことがわかっても何も解決しそうにもないので真澄はファルーシュと名乗った男に尋ねることにした。

質問は苦手だと苦い思いが心の中に込み上げるがぐっと堪えて、こちらを見つめていたらしい男を見つめ、そっと視線を外して男に問う。


「ここはどこ?何で森なの?私、確か、会社に向かっていたはずなのに……」

「ここはヨルク郊外、シルヴェニアラントの森です」

「……」


意味がわからない、真澄は眉を寄せて黙り込んで考えた。

外国?

意識がない間に自分は何らかの方法で外国に運ばれたのだろうか?


「ここは日本?日本よね、むしろ日本じゃなきゃおかしい。なにヨルクって……シルなんちゃらって」

「ヨルク郊外、シルヴェニアラントの森です」


静かな口調でファルーシュは繰り返した。


「……」

「ニホンとは何ですか?マスター」

「いや、マスターじゃなくて……」

「貴方はマスターですよ。前マスターより『屍を愛する王子』を受け取った。だから私は、戦場から貴方をお連れして逃げたのですから」


しっかりと手に証がありますよと言われ、真澄が自分の手を見ると彼女の右手には青っぽい文様が存在した。

刺青なんて入れた覚えはないし、とにかく薄気味悪かったし、会社の制服は手の平は赤黒い何かで汚れておりカピカピに乾いていて気持ち悪かった。


「せ、んじょう?」


ファルーシュは静かに微笑んで、真澄の背を抱かえ直した。

新緑の瞳が細められ彼はことんと首を傾げた。


「数多の骸が狂い踊った戦場で、貴方は『屍を愛する王子』の前継承者に会ったはずですよ」

「……屍、骸」


フラッシュバックしたのは敷き詰められた死体、金髪、紫水晶の瞳をした男性、身体の中で蠢く何か。

まさかあれは夢ではないというのか、真澄は愕然とするが衝撃はそれだけでは済まなかった。


「貴方は屍使い。私を始めとする動く死体リビングデッド屍鬼グール、スケルトン、デュラハンを従える我らが主です」


真澄は混乱する中で、聞き逃せないことを聞いた気がする。


(……“私を始めとする”ってことは)


つまり……?

自覚した途端、真澄は背を支える男の手を跳ね除け、ずるずると尻を擦ってファルーシュから少しでも離れようと後ずさった。

普段、見栄っ張りなのと表情があまり動く性質ではないことも相まって、余裕ぶって冷静ぶっている真澄だったが、この時はファルーシュが嘘をついているとか、冗談を言ってからかおうとしているということは微塵も考えなかった。

この美しい青年は“死体”なのだ。

ただそう思って、それがたまらなく恐ろしかった。


「や……ぃや」


気持ち悪い、おぞましい。

真澄は幼い頃から人の死に触れたことがまったくなかった。

身近な人が死んだということもない。

振り払われた手をそのままに青年が傷ついた顔をしたのが真澄にはわかったけれど、気持ち悪さは消えなかった。

本能的な忌避、真澄はどうしようもなく震え上がって縮こまった。


(怖い、気持ち悪い、誰か誰か誰か……)


縮こまっていると草で覆われた地面がぼこっと音を立てるのがわかった。


「なっ、何!?」


ビクリと体を竦ませてまるで追い詰められた小動物のような目で真澄は周囲を見渡した。


「マスター、駄目です!」

「え?あ、きゃあああああぁっ!」


ぼこっ、ぼこっという音を立てて地面から出てきたのはたくさんの骨。

動物の骨もあれば人骨もあった。

出現した骨は生前の形そのままに組み合わされ、滑らかに動くとファルーシュに襲い掛かった。

彼は得体の知れない動物の骨の攻撃をひらりと身のこなしだけで避ける。


「怖がったり助けを求めたりすれば貴方の能力に応じて、アンデッドが貴方を救うために出現します!」


ぎゃあぎゃあ騒ぐ真澄は、何だそれは!と突っ込む余裕もなかった。

座っている横からも得体の知れない小動物の骨が這い出てきて、いっそのこと気を失いたくなったが、事はそう簡単にはいくはずもなかった。

これならば、人と幾分も違わないファルーシュという青年のほうが何十倍もマシだ。


「いやー!やだやだやだっ!!何とかしてええええええ!!」

「これらは貴方に危害は加えません。目を閉じて……、心を落ち着かせて……」


骨たちの突進や薙ぎ払いをかわすファルーシュが薄汚れたローブの中から剣を抜き出したので真澄は体を縮こませてぎょっとした。

彼の体はローブに覆われているから全然気づかなかった。

初めて剣を目にした真澄は動転して首を振った。


「剣を使うくらい、危険なんでしょ!?何かあったらどうすんのよ!」

「剣は、彼らを退冶するためです。貴方が彼らを操れれば話は早いんですが……」

「無理に決まってんでしょ~!!」

「では、目を閉じて心を落ち着かせてください」


そんなの出来るはずない。

見てるのも怖いけど、目を閉じて見えないのも怖い。

気持ち悪くて仕方ないのに。

でもやらないとどうにもなりませんよ、と言われて真澄は泣きそうな気分になった。

目を閉じても彼らが戦う音や、カタカタと骨の軽い音が聞こえて気持ち悪くてたまらない。

変てこな場所に何故か来て、こんな目にもあんな目にもあって、どうしてこんなことになったんだろう。

アンデットを倒し終わって近づいてきた青年は真澄が怖がっていたことを思い出して一定の距離をつめてこない。

腰が抜けた真澄はズリズリと地面を這いずって彼に抱きついて子供のようにわんわん泣いた。

彼が死人だということはその時はすっぽりと頭の中から抜け落ちていた。







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