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屍を愛する王子 1-1




女がその時、最初に知覚したのは嗅覚だった。

酷い臭いが鼻をつく。

何かにその臭いを例えようとしたけれど、似たような臭いに該当するようなものは女の日常生活の中で存在しえなかった。

排泄物や腐敗ゴミなんてレベルではないほどの悪臭に思わず咽る。

身体の中に入ってしまった悪臭を出したいとでもいうように、女は激しく咳き込んだ。

咳をして呼吸をするとまた身体の内部に信じがたい程の悪臭が入り込んで、吐き気が込み上げて口元を押さえて固まった。

ビュウビュウと激しく風が吹き荒び、垂らしたままの今時珍しい黒髪は風に弄ばれ顔に細かくぶつかり、土ぼこりが空気中を舞い上がり、何かを視界に収める前に目がチクチクと痛んだ。

離れたところから風の音に紛れて喧騒と、パンパンと何かが破裂するような音が響いている。

まるでテレビドラマか映画で聞いたことのある拳銃の発砲音のようだ。

土ぼこりが目に入って、目が開けられない。

悪臭で呼吸がしづらい。

吐き気がする。

自浄作用でじわりと滲んだ涙ごと目に入ったゴミを取ろうと、ごしごしと指先で目許を擦った。

眼球を痛めることはわかっていたが、目はチクチクと針を刺したように痛むし、周囲の状況はわからないし、異臭は酷いし、どうしても我慢出来なかった。

一刻も早くどういう状況に置かれているのか知りたかった。

やっとのことで目に入ったゴミを取り除いた女は、涙でかすむ目をうっすらと開いた。


「?」


ぼんやりと女の周囲に何か折り重なっているのがわかる。

一体何だろう、それにこの異臭は……女がそれを確かめるためにしゃがみ込んだ瞬間、間近で目に入ったそれの正体に気づき、女は「ひっ!」と引き攣れたような声を上げてのけぞった。

そのままバランスを崩し尻餅をついた女の尻の下にも、手の平にも妙に柔らかな感触とぐちゃりという気持ち悪い音。

弾力のある柔らかさではない。

煮崩れたような角煮、腐敗した屑肉、この触感の気持ち悪さをどう表現すればいいだろう。


「いやあっ!!」


それが何か察し、女は慌てて飛びのいたけれど、吐き気が込み上げて慌てて口元を押さえて堪える様に体を丸めた。

気持ち悪い、おぞましい。

前屈みなってとにかく衝動を押さえ込む。

脂汗が額や鼻の頭に滲み、体が小刻みに震え、呼吸が浅くなる。

気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い!

涙で滲んだ視界には折り重なった大量の死体。

腹部や欠損した腕、もしくは足から赤い血液を流し、目をカッと見開いたままの死亡直後といった武装した死体もあれば、赤土に塗れ腐乱した死体もあった。

土に汚れた軍服のような服装の死体は年若い男で、うつ伏せに地面に横たわり唇の端に乾いた血をこびり付かせ穏やかな表情で眠るように死んでいた。

見える範囲ではその若者はあまり衣服の損傷もなく死んでいるようには見えなかったが、その上に折り重なるように倒れているぼろきれを纏った農民のような腐乱死体は目を背けたくなるような状態だった。

思わずそれが目に入ってしまい女はブルブルと激しく震えながら再び強烈な波となって襲ってきた吐き気と戦う。

女が落ち着いた状態ならばその奇妙さに気づいただろうが、吐き気と戦い、死体を見て錯乱した状態では無理からぬことだった。

衝動が収まり、体力を消耗した女は死体に囲まれたままぐったりと座り込んだ。

肩で息をし、どうしても慣れることの出来ない腐乱臭に眉を顰めて、涙で滲んだ瞳でぼんやりと薄手のストッキングに包まれた膝頭を見つめた。

ライトベージュのそれは土や気持ち悪い液体で汚れていた。

手を洗いたい。

体を洗いたい。

ここから逃げ出したい。


「……dkowubcd」


どうして自分はここにいるんだろう、ぼんやりとそう思った女は遠くの喧騒に紛れて聞こえた声にハッと顔を上げた。

驚いた拍子にひゅっと息を吸い込み、吐き気が再び押し寄せてぐぅっと喉が嫌な音を立てた。

再び涙で滲む視界。

必死に目を凝らすと女から離れた場所、折り重なる死体が山となっている場所で、死体の中で蹲るように膝をつく男がいた。

まるで死体という名の巣に守られる雛鳥のようだ、女は咄嗟にそう思った。

さらさらとした金の髪は風に煽られ、黒衣に包まれた腹を押さえる白い手は赤に塗れていた。

遠目では顔まではわからない。

けれど、男の赤に塗れた手を見た瞬間、女はひやりとした。

何となくだけれど、とても恐ろしく感じたのだ。

男は屍の上に片手をついて緩慢な仕草で立ち上がると、よろめきながら一歩一歩踏みしめてこちらに向かってくる。

男が歩くたびに踏まれた屍が嫌な音を立てた。


「……っ」


女の前で立ち止まった男は、人目を引くような端正な顔立ちをしていたが、どこか怜悧で酷薄そうな雰囲気を醸し出していた。

彼は自らの押さえた腹部を見下ろして、美しい紫水晶の瞳を苛立たしげに細めると浮世離れした雰囲気にそぐわない舌打ちをした。

つられて女も男の視線を追い、彼の腹部を押さえた白い手の間から止まることなく赤い血が滴っていることに気づく。


「kljdsahuiweun.csfopnjxi」


苛立たしげな響きを宿した低い声が、女にとって意味がまったくわからない言葉を吐き出した。

遠くに聞こえる喧騒が近づいている気がする。

女は立ち竦んだまま、男の蒼白な顔を見上げた。

土ぼこりが激しく舞う怒号や悲鳴、銃声がする方向を見つめて男は疲れたように嘆息すると、ふと何かに気づいたように紫水晶の瞳を煌かせて、にやりと笑うと女を見つめた。

怖い。

ぞっと背筋を怖気が走って、女はビクリと身体を震わせた。

今は周囲のたくさんの死体よりも、目の前の男の存在が怖くて仕方なかった。

逃げ出したくて堪らないのに、がくがくと震え竦んで動かない足は、まるで自分の足ではないようだった。

何故、自分はこの男をこんなにも怖がっているのだろう。

男の血に塗れた手が女に伸び、乱暴な手付きで女の胸倉を掴んで引き寄せた。


「っ!!」


咄嗟に抗おうと腕を動かしたが、それよりも早く男の唇が女のそれに押し付けられ、厚い舌がするりと唇の隙間から入り込み口内を蹂躙した。

血の味のキスにぞわりと怖気立ち、それとは別に身体の中で得体の知れない何かがずるりと蠢いたのを女は確かに感じ、びくりと体を竦ませる。

合わせた唇の上で男がふ、と息を漏らして笑ったけれど、女は身の内で蠢いた何かの感触が怖くて、逃れたくて、振り上げた手で無我夢中で男を突き飛ばした。

女の周囲でざわりと何かが蠢いた。

いや、女の周囲にあるものなんて一つしかない。

だけど女はけしてそれを認めたくなかった。

突き飛ばされて死体の上に仰向けに倒れた男が狂ったように笑う。


「はははははははは!箱になど戻すものか!全て呪われてしまえ!」


狂ったように響き渡る笑い声。

男の言葉がわかるようになったが、女はそれに気づく余裕もない。

女の周囲に存在した屍が這いずるように蠢き、笑い続ける男に襲い掛かり呑み尽くす光景を最後に女は意識を失った。







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