第6話 魔術の少女と、主様。
『死んでくれる覚悟は、有りますか――?』
……心が揺らいだ。
舞と共に、死ぬ、覚悟?
「……本当に、どこまでも低い、確率の話です。……この方法を、使えば、お互いが生き残るよりも……二人とも、死ぬ確率の方が、圧倒的に、高い……のです……」
狙われているのが舞だけだと言うのなら、舞を置いて逃げてしまえば俺は死ぬことは無い。
舞は、姿の認識されない存在だ。恐らくは、あの悪魔もまた同様に。
警察も動かない。今日あった出来事を誰も知らない。
もしここで舞を見捨てても、誰も俺を咎めない。
誰もそんなことは――。
馬鹿か。身を挺して俺を守ってくれた、舞を見捨てる?
こんな俺の隣りで笑ってくれた、こんな少女を、舞を。俺が見捨てる、だと?
出来るわけがない。
そもそも舞が庇ってくれていなかったら、俺は既に命を落としていたかもしれない身の上だ。
そんなくだらない、馬鹿げた思考回路など受け付けない。受け入れられない。受け入れたくはない。
「……構わない。その方法を、教えてくれ」
流石に声が震えた。
意気を保とうとはしたけれども、小心者の俺にはそう答えるだけで限界だった。
「……無理、しなくて、良いです。無茶を言っているのは、わかっています。聞くだけ聞いて、……私を置いていくことを、決めてくだされば、良い、ですから」
そう言って、腕の中の舞は、左手を伸ばし、俺の頬へと触れ。
そして、辛そうな顔で笑った。分かってる。
今一番つらいのは、舞だ。
肉体的にも、精神的にも、俺の比じゃない。
人に死ねと言っているようなものだ。そんな事を押し付けようとしている自分に、無情でいられる筈が無い。
冷たい舞の手の感触が頬に伝わる。
風前の灯火。舞の力ないその小さな手に、不謹慎にもそんな印象を俺は抱いてしまった。
馬鹿だ、俺は。今もまだ、覚悟なんて決めていやしなかった。
舞がこの話を切り出す時に決めた覚悟と比べれば、俺の思考など屑にも等しかった。
俺がこの場から確実に生き残ることと、舞という腕の中の大切な少女を、命をかけてでも救う比重。
アヌビスの天秤にかけても良い。釣り合うことは、絶対に無いだろう。
そんなのは、最初から決まっていた答えなのだ。
自分でも、もうとっくに分かっている筈だ。
舞という少女が、自分にとって、どういう存在なのか。
「良い。決めた。俺はもう逃げない。死ぬときは、舞と一緒に死んでやる。だからもう、何も気にするな。俺は舞無しじゃ生きていけないんだ。舞が死ぬときは、俺が死ぬ時と同義なんだよ。だからもう、いい。迷わなくていい」
今なら、言えるだろう。ついぞ知れずとも、自分の中で芽生えていた、ここにある気持ちを。
「――俺は、君が好きだ。舞」
それは、俺の生まれて初めての告白。
本気で好きになってしまった、一人の少女への。本当の意味で命をかけた告白だった。
たかが二週間の関係に命をかけられるのかと、人は言うだろうか。
いいや、違う。本当の運命の恋ならば、時間など関係の無いこともある。一目惚れで始まる恋もあるだろう。
だが、こんな決意が出来る位だ。寧ろ、二週間は、俺と舞にとって長すぎる程長く、そして短すぎる位に過ぎるのが速い瞬間であったのだろう。
「秋、也さん……。……ああ、もう、どうして、そんなに……そんなに、嬉しいことを、言って、くれるのですか……。私も、……私も。秋也さんに、伝えたい、です。この、気持ちを……。ああ、本当に、……秋也、さんが、――う―つか――だったら、良かったのに――」
舞の声も、弱弱しくなってきた。聞き取れない言葉も、出てき始めた。
もう、時間が無い。
「私、の意識も、もう持ちません。……二人一緒に生き残れたら、その時に、全てをお話しします。――ここからは、『契約』、です。どんな願いであっても、私が必ず叶えると、お約束、致します。秋也さん、貴方の望みを、……言ってください」
「……俺の望みはただ一つだ。舞が俺の隣で、生きて、笑ってくれること。異世界から来た存在だというなら、この世界に居る間だけでも良い。俺の側に、ずっと居てくれ。それだけだ」
もう告白は言い切った身だ。今更、恥ずかしがることも無い。俺は躊躇うことなく、自分の中にある願いをぶちまけた。
プロポーズのような俺の言葉を聞いて、舞目をまん丸くして。そして、ぷっと笑った。
儚げだけれども、その瞳には確かな感情を灯して。
「秋也、さん。欲が、無さすぎです。……どんな願いでもと、言ったのに。でも、そんな秋也さんだから、私は……」
何を言うのだ。舞に傍に居て貰えること。
今の俺にとって、これ以上の望みも欲も、有るはずが無いというのに。
「――『契約魔導陣、零級』、展開。……秋也さん、唇を少し切って、私と、口づけを交わしてください。……それが、発動の条件です。もう、身体が、動きません。だから、秋也さんの方から……」
聞きとめた瞬間俺は足を止め、歯で下唇を噛み切り、そして舞に自らの口を重ねた。
この世に生まれ落ちて29年。
藤野秋也、生涯初めてのキスは、彼女の血の味がした。
互いの口を重ねて、数秒後。
舞がそれを離そうとする動作を見せたので、俺は名残惜しくも離れることにした。
柔らかな彼女の唇の感触が、俺の後を引いている。
その時みた舞の頬は、涙と共に朱色に染まっていて。
そして、最期の笑みを浮かべて、舞は言った。
「……秋也さん、ありがとう。……私も、私も……。秋也さんが……大好き、です」
――ごめんなさい。……さようなら。
瞬間。己に走る動悸。今まで感じたことのない位に異常なまでの、凄まじい勢いで心拍数を上げていく、お互いの心の臓の鼓動。
お互い……?何故俺が、舞の感覚が分かるかのように状況を述べられるのか。
一体、何が起きている。身体が熱い。突如、灼熱の大地にさらされたように皮膚が今にも燃えそうな痛みが走る。
煮えたぎる血液の流れ。吐き出しそうなまでの嗚咽に、異質な存在を身に纏う違和感。
更に横腹に走り始める、脳の神経さえも侵してしみそうな痛烈な激痛。
だがそれも、舞も同じく感じている痛み。共有された感覚に、腕の中の舞を、俺はより一層強く握りしめた。
負けられない。これが舞の痛みなら。
俺と舞が生き残る為の、戦いならば――。
苦痛に歪む己の顔を前へと向ける。
見える。あの悪魔が、もう、直ぐそこまで迫ってきているのが。
距離にして四十メートルといった所か。
確実にまずい、だが、俺の足は動かない。動けない。
俺の意志に反して、身体の全てがそこからの移動を許してくれない。
もう、駄目なのか。……いや、まだだ。諦めるな。
舞もこの苦しみに耐えている。それが、分かる。
逃げない、その明確な意思。戦い続ける意思。この小さな身体にどれ程の意思を備えているのか。俺にはそれが伝わる。
全ての限界が、沸点にまで迫る、その瞬間。
――世界が反転した。
森羅万象から解き放たれたかのような解放感。全てから許されたような、そんな感覚が走った。
だが、その解放感に歓喜していられる瞬間もない。
もはや悪魔と俺達の距離は目と鼻の先。直前に、振りかぶられた西洋剣の刃が見えた。
まだ、俺の足は動かない。
解放感と相まって、戻ってきた身体の感覚は、まるで自分の身体ではないかのように言う事を聞いてはくれなかった。
これで、終わりなのか?こんな奴に振り下ろされる刃に、俺達は命を散らすのか?
いいや、まだだ。舞の意志が伝わる。この直前にも、まだ諦めてはいない。
その凶悪な刃が悪魔によって振り下ろされるその刹那。
舞は応えた。
「――三級、硬化っ!」
俺の腕の中から舞は自分の左手を刃の直線状に振り上げた。
直後、訪れる衝撃。
言葉通り硬質化したらしい、舞の身に纏う右腕の振袖は。振り下ろされた西洋剣の刃をその一身に受け止めていた。
舞の着物に刃が通らぬと悟ると、その刃を再び振りかぶり、構える悪魔に対し。続いて紡ぐ、舞の第二の言の葉。
「二級、灼熱炎!」
幻想的な、事細かな多重線を描いた円状の物体が悪魔の目の前に現れると同時に、その舞の言葉が重なる。
あれが、魔導陣というものなのだろうか。
瞬間、悪魔の右腕と、それを持つ西洋剣に重なって現れたのは。
まるで地獄を連想させるかのような、歪んだ恐ろしさを放つ炎。
見る者全てを焼き尽くすとでも言わんばかりに、太陽の熱をも帯びさせたかと錯覚させるような熱気が迸る、灼熱。
「グ、ガァァァァァア!!!!!」
その後、悪魔が断末魔のような苦渋の声をあげる。
その灼熱が消えるとともに、悪魔の右腕の二の腕から先。そして今までの脅威であった西洋剣が、あたかも最初から無かったかのように完全に消え去っていた。
悪魔は痛みと警戒からか、その漆黒の衣らしき物体に包まれた足で、二歩三歩と後退する。
これが舞が決め込んだ、初の悪魔への反撃の結果だった。
そしてその瞬間に気付く。
俺の身体も先程より多少言う事を聞くようになっていた。
ぎこちなさは残るが、どうやら身体は脳からの命令を受け付けているようだ。
俺の腕の中から飛び出そうとしている舞の動きを感じ、俺は舞を抱えていた腕を離した。
トン、と地面に着地する舞。
俺の方を振り返ることをせず、舞はただ悪魔の方を眺めて佇む。
そして、俺が初めて聞く――初めて出会う彼女の、第一声が放たれたのである。
「……二級の魔術で、この程度の威力、ね。依然としてこの世界からの抵抗を魔導陣は受けるわけ、か。まあそれでも、あんたみたいな雑兵を焼き殺すには事足りるわ。っと、まずは傷を塞ぐべきよね。三級、治癒」
その言葉と同時に舞の斬られた横腹の位置に展開される先程のような魔導陣。
そして、それは、服越しに彼女の斬られた部位を修復しているかのように、数瞬小さな光を放った。どうやらあれには、怪我を治す力が有るらしい。
いや、それよりも驚くべきは、急激に変化した舞の口調だ。
あれは今までの舞のものとは違う、異質な印象を俺に感じさせた。
……そう、まるで舞が、別の誰かに取って代わってしまったのような。
その目下数メートル先には、睨みつけるように舞の――少女の様子を窺い(うかがい)ながら。左手で失った右腕を抑えるような動作をする悪魔の姿がある。
その後、奴は残った上の右腕から離した左腕に太い血管のようなもの浮かびあがらせた後、今度は左手の五本の指から強靱な爪を生やし始める。
めきりと音が立つかの様な挙動の後に、現れた悪魔の鋭い五本の爪の長さは一メートル程の長さを優に誇っていた。
「ふーん。そんなことも出来るわけね。でも、私にとってはそんなもの、脅威にも何もならないわよ。ま、そんな雑兵でも私に一太刀浴びせた訳だし、ここは名乗りを上げて置くべきかしらね。命を懸けての戦いなのだから」
悪魔と相対する舞、……いや、その少女の面持ちはこちらから見えないが、未だに少女と身体を共有するかのような感覚が少し続いているが故に、分かる。
彼女を纏う空気がガラリと変わった。その意識も完全に切り替えたように感じる。
舞が神楽舞台で見せた、あの舞いの様に、全ての意気が少女を中心に据えられたかのような雰囲気を纏う。
そして彼女は、大地に吠えた。
「聞け、『世界』よ!我が名は、マイ・マイム・ベサソ!皇国ジパングに仕えし、誉れ高きベサソの称号を冠した、異界最高峰たる魔術師なり!世界に遣わされし悪魔よ、いざ尋常に、勝負っ!」
名乗り声と共に、悪魔は少女、いや、マイへと駆け出した。
距離が間合いに入ったと思われたその時、悪魔は強靱な刃を思わせるその爪を構えた左手をマイへと横合いに薙ぎかかる。
「四級、飛箱っ」
身軽な身のこなしで跳躍するとともに宣言したその声に、空中に魔導陣が現れた。
空中に地が存在するかのように少女がその真上に着地すると同時に、魔導陣の丁度真下を悪魔の爪は通り過ぎる。
それを見届けるまでも無く、その魔導陣を蹴り、マイは空中へと舞った。
悪魔の頭上を通り過ぎての空中での一回転。
身体を翻しながら、彼女は宣言する。
「一級、灰燼炎!」
悪魔の頭上に現れた直径五メートルほどの長さを見せる赤色の魔導陣が展開される。
悪魔はその少女の姿を目で追おうと顔を上に向けたが、それが悪魔の見た最期の瞬間だった。
断末魔の叫びを上げるまでも無く、一瞬の閃きと共に悪魔の身体はまさしく灰燼の如く炭と化し、その場に砂のように崩れ落ちてゆく。
そして先程まで悪魔が駆けた地面へとマイは着地した。
その悪魔の姿は灰燼ともに消えゆく。
「ふん、呆気ないわね。ま、名乗りもあげずに闇打ちにかかる奴にはお似合いの最期よ」
その様子を見届けると、少女は俺の方へと視線を向けた。
その瞳に、俺は囚われる。
幾度となく見てきた赤みがかった彼女の桃色の瞳、そのものには変わりはない。
だがそれが、今までとは違う、何よりも強い意志を放ち、強情なまでの異彩を放っていた。
そして、あの舞のものとは思えない程の薄ら笑みを浮かべて、彼女は俺に言うのだった。
「――初めまして。私は、マイ・マイム・ベサソ。誉れ高き、高名な魔術師よ。これから宜しく頼むわね。……私の、主様」
多分わかる人は当然の如く分かると思いますが、彼女の名前の由来は、キャンプファイヤーの時に踊るあの曲です。『マイム・ヴェサソン』それはヘブライ語で、水に感謝をするという意味らしいです。(何故ヘブライ語の名前(称号)なのか、という点については、皇国編まで持越しの予定)