第21話 ベサソの扇子と、母の想い。(前編)
「――ま、まさか。本当に、こんなに大きな虎妖鬼を一人で倒しちゃうなんて……! 藤野さんって、歴史に名を残す位の、とんでもない魔術師の方なんじゃないですかっ!? 凄いです、凄過ぎます!これ程の御方がこんな村に来て下さっていたなんて……!」
妖鬼が動かなくなり、息絶えたのを目にしたカグラは、安心感と嬉々とした感情からか、隣りに座る俺の腕へと抱き着き、そんな事を言って見せた。
半ば興奮気味の様子になって、俺の隣りではしゃぎ、尊敬の眼差しのようなモノを俺に向ける彼女の様子に、戦いに気が立っていた俺の心もほんの少し微睡む。
恐怖の緊張の糸から漸く解放されたのだから、カグラとしてはその位に喜びを見せるのも当然かも知れない。
だが俺自身としてはこの勝利に対して今この場で彼女と同じ風に、素直に喜びをあげる事は出来なかった。
それというのも、全身の気が抜けたというか、大量に分泌されたアドレナリンの感覚が徐々に抜けてしまってきていて。
得も言われぬ虚脱感に見舞われていたから、というのが大きいのかも知れない。
あと、敬語混じりな彼女のおかしな口調に関しては、言った所で興奮している今はどうにも治して貰えないだろうから、指摘するのは止めることにした。
ようやく訪れた安堵感にどっと溜息を吐き、両手を地について項垂れて。月明かりに染まりつつある空を仰いでから、俺はそれに答える。
「凄い、と言われてもな。俺にはどんなものなのかよく分からないけど……でもまあ、カグラが無事で良かったよ。どこか怪我は無いか?」
「うん! 最初の足の怪我以外には、特に何も無いです。私を虎妖鬼を護ってくれた藤野さんの魔術が、本当に凄かったからだよっ!」
屈託の無い笑みでそんな事を言ってくれるカグラだが、案外と無意識に傷つく言葉を吐いてくれるものだ。
俺が彼女の前を走って、最初の怪我さえさせなければ、この戦いもせずに済んだかも知れないのだから。
ただ、そんな事を気にしても後の祭りだ。彼女自身もそんなつもりで吐いた言葉でも無いだろう。
俺はほんの少しの苦みを綯い交ぜにした笑みを浮かべて彼女の頭にポンと手を載せて髪を撫でた後。
体勢を立て直した俺は、今この手で奪った命である虎妖鬼の亡骸へと合掌をし、一時の間、目を伏せた。
今この手で俺がその命を奪った虎妖鬼へと、他ならぬ俺が手を合わせたのを見た彼女も、慌ててそれに呼応する様に俺から腕を離し。そしてその手を合わせ、合掌をした。
この国の習慣というものは知らないが、亡き者を送る際に手を合わせるという感覚というのは、どこか通ずるものがあるのだろうか。
人は何かを得て、そしてそれを守るために、何かの命を奪い続ける生き物だ。
自分達の命を失いたくないが為に、いずれかで犠牲を払って貰って、俺も生きている。
それが日本で生きてきた自分は普段は目にしなかっただけだ。それを身を持って体感する機会が、元居た国での自分には無かったに過ぎない。
今、俺はこの巨体たる虎の命を絶った。他ならない俺自身が、動物の命を奪った。
命を掛けて戦い、勝利した俺はその事実を身に受け、ほんの少しであろうとも、悼みを見せるべきだと思ったのだ。
それだけの事。だが、それが何よりも大事なことのような気もする。
それからもう一度、お互い数秒間の黙祷を、目の前に横たわる死した虎妖鬼へと捧げた。
恐怖感を掻き消す為だったとはいえ、これが俺が初めて名乗りをあげた決闘の相手なのだ。この時自身の内に、妙に特別な思いが込み上げていた事も、否定は出来なかった。
「……さて、と。この虎妖鬼の死体を道中にこのまま放置して良いものか迷いものだが、俺達だけで移動出来るものでも無いわけだ。今は一端、この場に置いたまま村へと戻るとしようか。カグラの母親もそろそろ心配してるだろうしな」
弔いのささやかな合掌を止め、カグラにそう声をかけると、彼女も合わせた両の手を膝へと降ろして、ゆっくりと目を開いた。
そしてこちらを振り向いて俺へと視線を合わせてから、その声に答えてくれた。
「うん、そうだね。今日はこのまま、帰るとしましょうか。でも、本当に藤野さんの口に合うような食事は用意出来ないと思いますが、ささやかながら此度の件の歓迎をしたいと私はお思いになっておりますっ」
いや、もう指摘してもどうにもならないとは先程も思ったのだけれども。
流石に余りにも彼女の言葉使いが気になってしまうから、普段通りの言葉に直して欲しくなってきた。
誰に対しての尊敬語なのかもこれでは分からないレベルだ。誰か、この村娘に敬語の使い方を教えてあげられなかったのか。
使う機会が無かったと言うのが本人の弁ではあったが、もう少し、大人になる前に覚えておかないと流石にまずそうな気がする。あるかどうかも不明ではあるが、俺の父性本能的にも。
「いや、俺は魔術師ではあるんだが、別に高貴な人間って訳じゃないんだ。カグラの母親の作ってくれる料理で十分すぎる位に美味しいのであって、変な事を気にする必要は本当にないから。寧ろ俺は、お世話になってる立場なんだから、カグラが気にする方が間違ってる位だしな。……まあ、それはともかくとして、村へと戻るとしようか」
そう言って、虎妖鬼の存在感の死骸を背に俺は立ち上がると、カグラも着物に着いた砂を座ったまま少し払ってから、それに倣うように立ち上がろうとした。
だが、そんなカグラが足に力を込めようとする動作を見せた瞬間、彼女は力なくストンとその場に尻もちを着いてしまった。
どうやら、完全に腰が抜けてしまっていたらしい。
あれだけの猛獣の姿を目にして、何度も恐怖の咆哮を浴びたのだ。年端のいかぬ少女にとっては、無理も無い。
「ご、ごめん、藤野さん。腰が抜けちゃって、私、立てないみたい……。あ、はは。その、迷惑は本当に承知の上ですが、村まで私を負ぶって貰えないかなー、なんて……」
「ああ、了解。お安い御用だ。じゃあ、俺の後ろに手を掛けてくれ。カグラをそのまま、村まで背負っていってやるから」
若干遠慮しがちな声でそう呟いた彼女の声に、快くそう返してカグラの前へと周った俺は、彼女の前に片足立ちの姿勢でしゃがむ。
そして、背負い易くなるように後ろを振り向きながら両腕を彼女の方へと向けた。
それに対して、おずおずと応じ、俺の背中に手を掛けたカグラ。
そんな彼女が、何だか気恥ずかしそうに顔を赤く染めながら、
「……あ、ありがとう、藤野さん。……本当に、この命を助けて貰ったこの御恩は……。私は一生、忘れないからねっ」
と小さな声で俺の耳元でささやいたのが、妙に嬉しく、少しくすぐったく感じられたのは。
きっと俺自身も、心の何処かで今自分のした事を、誰かに肯定されたかったからなのかも知れない。
微かな癒しの瞬間に自分の頬が緩んだのをその身に感じながら、「気にしなくていいさ」と彼女の言葉に返し。
そして俺はカグラを背負ってそのまま立ち上がろうしたのだが……それは、そんな折りの事であった。
突然、ふわりと小さな風が頬を通り抜けて俺達の髪を揺らしたかと思うと、だ。
俺達の目の前に横たわる虎妖鬼の身体が、カメラのフラッシュのような、一瞬の瞬きの白い光を放ったように見えたのである。
「え……? 藤野さん。今、何が起きたの?なんか、一瞬虎妖鬼の周りが光ったように見えたんだけど……」
「いや、俺にもよく分からないんだが……。まさか、『まだ第二形態を残しているので復活します』とかいう、昔馴染みのゲームのラスボスみたいな展開なわけじゃ、ないよな?」
俺はカグラを背負ったままその場で立ち上がらず、今の出来事をどう解釈すれば良いのだろうかと、冗談を交えた言葉で彼女にそう答えた後。
取り敢えず微かな警戒心を持ったまま静止した。
ただ、どう説明すれば良いのか分からないが、先程横を通り過ぎたように感じられた微かな風と、その光は。
俺達に害意を持ったものでは無いような……それも単なる勘かも知れないが、そんな感覚もまた、過ぎらせていた。
その為警戒とは言っても、一応は少し身を引き締める程度の心構えで俺は済ませている。
「らすぼす? げぇむ……? それって大陸言語なの?その例えはよく分からないけれど、妖鬼は一度死した身の上でその身体を酷使した存在であって。妖鬼化した状態で一度死に絶えたら、もう復活する事は無いはずだと思いますっ。だから多分大丈夫だと……っと、アイタっ!」
俺の言葉の単語にそう返したと思ったら、突然後ろに何かが落ちてきたように、コツンと音がした。
それと同時に、カグラはそんな、小さな苦悶の声をあげていた。
「おい、どうしたカグラ。頭に何か、物でも落ちてきたのか?」
彼女の声にそう返して振り向いてみると、彼女は困惑気味な表情を浮かべて一度首を横に捻って見せる。
そして右方の地面に手を伸ばして、何か小さな丸い物を拾ったようであった。
「えっと、うん。何かいきなり私の頭の上に、変な石? みたいなものが落ちてきたみたいで。ちょっと待ってね。えっと……。……え、何これ、凄く綺麗っ!」
一体何を拾ったのだろうかと、彼女の方へと身体の向きを傾けていると。
まさかまさかで、今度は俺の頭上で、コツンという音が、静かな森の中の道に小さく響き渡った。
唐突な出来事に俺も若干困惑気味であるが、どうやらカグラに続いて俺の頭にも何かが落ちてきた様子。
頭上をコロリと転がったその何かが落ちてくるであろう場所に、事前両手をかざしてみると。
俺の手には小さな球体の石のような物が転がり落ちてきたのである。
それは直径四センチ程の、表面によっては白色とも、金色とも取れるような、鈍い輝きながらも鮮やかな彩色の混じった丸い玉。
何が何だか分からないが、後ろでカグラが拾った物とも見比べてみれば、どうやら彼女の頭に落ちてきた物も全く同じような球体らしかった。
手の平の中に収まるサイズの小さな球体を手に携えながら、お互い顔を見合わせて頭を捻りはしたものの、だ。
どうにも怪しいので俺がそのまま捨て置こうかと悩み始めようとするよりも早く、
「きっと害は無いから大丈夫!こんな綺麗な珍しい物を置いていく手なんて無いよっ!捨てるなら私が貰っちゃうからね!」
と目を輝かせて俺に迫ったカグラの、持ち前のコレクター精神とやらに押し切られしまったもので。
そのままコートのポケットの中にそれを仕舞った後にカグラを背負い。
それから月の明かりに照らされた田んぼ道を二人で眺めながら村に帰ることにした訳だが――。
まさか、この白金色の小さな球体が、俺とカグラのこれからの運命に、ここぞという所で大きく関わってくるだなんて事は。
思考を巡らすのも億劫に思ってしまう程に疲れ切っていたこの時の俺は、全く思いもしなかったのであった。
『――我を撃ち滅ぼした者共よ。命を悼むその慈悲深き振る舞いに敬意を表しよう。その身に異なる世界を従えし魔法使い、そして稀なる才気をその身に秘めたる黒き瞳の少女よ。我が生まれ育った郷土の地を、護られん事を……。
……ってまあ、多分聞こえてないだろうに、変な風に畏まっても仕方が無いか。てへぺろ、てへりんこ。我を下した顛末の責任は、この時代を生き永らえ、果たして貰うからな――』
▽
空を仰げば、光で地を照らす月が輝くだけの夜の闇。
目を凝らして自分の腕に巻いた時計を見てみれば、その針が挿す時刻は十九時であった。
そんな現代では考えられない程に早い時刻から、灯りを消した家々が点在する村の入り口へと。
カグラを背負ったままでようやく辿り着いた俺は、そこでふうと安堵の溜息を漏らしていた。
文明器が灯す明かりの無い暗闇を歩く間というのは、俺にとって電気というものを開発した過去の偉人の凄さを改めて痛感させられた時であった。
普段の自分が今までどれだけ人工的な明かりに助けられてきたのかを実感する機会となったとも言える。
先程上から落ちてきた不思議な球体を拾ってカグラを背負って以降。
完全に夕焼けが沈む前に何とか森と山の中に作られた道は抜けようと焦りながら俺は歩み、それから程なくして脇には田んぼが広がっている道の脇へと出た俺は、カグラを背負ったまま街灯も何も無い月明かりのみに照らされる田舎道を。
静かに響き渡る虫の声と、疲れが故にいつのまにか俺の背中で眠ってしまったらしいカグラの寝息の呼吸のリズムを耳にしながら、彼女を起こさない程度の速度で俺は進んできたのだ。
街灯が無いのであれば、相当暗い為に足元にもかなりの不安が隠れているかも知れないとは最初は思っていた。
だが、水田に引かれている水を照らす月の光の微かな揺らめきがその暗闇を僅かに緩和してくれていた。
その為、カグラを背負ったまま大ゴケする、等といった不測の事態に会う事もなく、何とかここまで辿り着く事が出来たのである。
とはいっても、やはり街灯や懐中電灯、火の明かりと比べれば相当に心元無いレベルのものしか無かったのだけれど。
こんな時にも、舞が俺の直ぐ隣りに今も居てくれたなら、火属性の五級魔術である微炎でずっと道中を照らしてくれそうなんだけどな、と。
そんな取り留めも無い事も途中想像してしまった位だ。
そして現在、村の入り口で疲れの溜息を一度吐いた俺は、とにかくカグラの住居へ急ぐべきだろうと村の中を歩く。
虎妖鬼の咆哮がこの村にまで響いていた事が理由かは知れないが、村の中の家々を眺めながら歩いていると、既に皆寝静まったかのような静寂が村全体を包んでいるような感じがした。
そして村に着いてから数分と経たぬ内に、灯りの付いていない、この数日俺がお世話になった二階建て木造板葺屋根の家の前へと辿り着く。
他の住居と同じように明かりは着いていないのだが、味噌汁や美味しそうなご飯の香りが彼女の家からは微かに漏れていた。
……まだ、カグラの母親も寝ていないんだろうな。きっと、凄く心配しているに違いない。
そんな事を思いながら、背にもたれて、俺の右肩に顔を寄せてすぅすぅと寝息を立てるカグラの可愛い寝顔を一瞥した後、俺はその玄関の戸をコンコンと叩いた。
すると屋内で、小走りに玄関へと向かう足音が聞こえたと思ったら、俺が名乗る前に勢いよくその扉が開かれた。
「カグラ!? カグラなのですか……!? っ……ふ、富士さん。それに……カグラも……。寝息が、聞こえる、と言うことは……カグラは、私の娘は……ちゃんと、生きているのですね……。良かった、本当に良かった……」
草鞋も穿かずにそう言って俺達を出迎えてくれたのは、他ならないカグラの母親であった。
心底安堵した、というように、彼女は自らの胸に手を当て、ほっとしたように溜息を漏らしていた。
相当に心配だったのだろう。そんな心労をこの人に負わせてしまっていた事を思うと、申し訳ない気持ちで俺も萎縮してしまう。
「心配を掛けさせてしまって、申し訳ない。帰りが遅くなった上に、カグラには……、娘さんには、怪我まで負わせてしまって。一人の責任ある大人として、本当に申し訳ないです」
腰を折るとカグラに負担がかかりそうなので、頭を折ってそう謝罪するそんな俺に対して。
カグラの母親は、落ち着きを持った大人らしい、優し気な雰囲気を持った声をかけてれた。
「頭を上げてください、富士さん。帰るのが遅れた事も、きっと、何か事情があったのですよね。先程大きな虎の咆哮も聞こえましたし、それが関わっているのかは知れません」
実際、虎妖鬼の咆哮は聞こえども、そんな奴とまさか実際に俺達が戦っていたことなどきっと知る由もない筈だ。
ただ、帰りが遅れた事に何かしら関わりがあるとはこの母にもある程度予想できたのだろう。
「ですが、何はともあれ多少の怪我はあれども、無事に私の娘と、そして今私達の家族である富士さんが帰ってきてくれたのです。それを喜び、貴方に感謝を示す事はあっても、貴方がそのような言葉を告げられる必要などありませんよ」
透き通った響きの、落ち着きのある優しい声が、俺の心に染みた。
それは出会ってからいつも俺の心を癒してくれた、舞の声にもとても良く似ていて。
やはり、この人が俺の大切な伴侶である舞の、産みの親なのだろうなと、心の内に感じられた。
それを思うと、不思議と安心した心地がして、情けなくも、何だか少しだけ涙腺が緩みそうにもなってしまう。
俺ってそんなに涙もろかっただろうか?いや、そうじゃないな。多分、マイという少女に対する俺の依存度合いがどれ程大きいのか、という事なのだろう。きっと。
「ですから――。娘を無事に連れて帰ってきて下さって、本当に有難う御座います、富士さん。少し冷めてしまいましたが、ささやかな夕食の準備も出来ております。さあ、早くお入りになってください。ここは、貴方の家でもあるのですから。それに、畏まった言葉など要りませんよ。この家で今日の疲れを癒すよう、ゆっくりと羽を休めて下さいませ」
そんな温かみのある言葉に触れ、彼女の言うように俺は頷き、屋内へと入った。
そして、玄関口に背を向けて玄関の敷居にカグラを背負ったまま座り、俺が靴を脱ごうとした時。
「う……ん……?」
と、小さくぼやけたような声が耳に入った。どうやら、俺の背中で眠っていたカグラがここに来てようやく起きたらしい。
「おはよう、カグラ。揺れる俺の背中で、ぐっすり眠れたか?といっても、まだ夜なんだけどな」
「え、うん。おはよう、富士さん……? …………あ。違う、そうだった。私、藤野さんに負ぶって貰って、それで、そのまま寝ちゃって……。ご、ごめんなさい。私、重くて藤野さんの重荷になってたよね……。えっと、ここは私の家、だよね。私、ずっと寝ちゃってたのかな」
そんな微妙に気の利かない、俺のおかしな言葉を俺の肩にたもたげた頭で耳にしたカグラは。
寝ぼけ眼ながらも、少しずつはっきりとしてきた意識で先程のようにそう答えた。
「ああ、ここはカグラの家だ。全然重くなかったから、気にする事なんてないさ」
「そ、そっか。……じゃあ、私の小さな胸の感触も背中で楽しめたよねっ! この命を助けて貰ったお礼に釣り合うなんて事は全く思わないけれども、こんな私でもちょっとした恩返しは出来たのかなー! なんて」
そんなカグラのぶっとんだ発言に、驚きながらも俺は、思わずプッと笑ってしまった。
何をませた事を言うのかこの少女は、と。彼女のデコを中指で軽くピンと俺は弾いてやった。
カグラはほんの少しだけ痛そうに額に手を当てて頬を膨らませて見せたが、その表情は柔らかく、直ぐに笑顔を見せてくれる。
それは彼女なりの冗談のようで、そんなちょっとした俺達のやり取りが、今回の事を通したお互いの信頼感を示しているような――そんな風にも感じられた。
ただまあ……。
この世界全体ではどうなのかは知らないが、しかしこの村においては。胸を覆う下着、いわゆるブラという物はないようで。
確かに背中のカグラの僅かながらの胸の感触に、変に役得かもなぁと。
一瞬だけ思ってしまった事も否定は出来ないので、若干虚を突かれたような感じで冷や汗をかきそうになったのも、実は否めないのだけれど……。
こんな十四、五才の少女相手に三十にもなったおっさんの俺がそんな事を思ってしまっただなんて事は。流石に黙って墓まで持っていきたいものである。
ごめんよ、舞。変態ってわけじゃない。単純に、俺は男ってだけなんだ。うん。……ばれたら、怒られるかな、舞に。
「あらあら、今朝よりも随分と仲良くなったのですね。二人とも。これは、私の孫の未来も安泰かしらね」
ふいに聞こえた言葉に振り向けば。そんな俺達のやり取りを傍で見ていた彼女の母親が、菜種油に火を付けて明かりを灯した灯篭を手に持って、後ろでニコリと笑っていた。
いや、それは気が早いというものですよ、奥さん。その口ぶりだと、何やら俺とカグラの婚姻が確定してるみたいに聞こえなくもないような……。
というか確かに貴女の孫はこれから出来るかも知れないけれども、根本的に相手が違うと言いますか。その場合はカグラから見れば姪、甥の立場にある筈なのでして。
「お、お母様! もうっ。私と藤野さんは、そういう関係じゃないって知ってるのに、からかうのは止めっててば! ……――あ、えっと、その。藤野さんと、そうなるのが嫌ってわけじゃなくって!藤野さんの名誉を守りたいから、わ、私なんかとそういう関係になってるのをお母様が言うのを止めて欲しいって意味です……。か、勘違いしないでくださいのですっ!」
瞬間的に赤面した顔で、思いっきり否定した後にそんな風に、物凄い狼狽っぷりで変な口調を交えながら恥ずかしそうにそう弁明するカグラの姿に。
俺とカグラの母親と顔を見合わせて、それからお互い、プッと笑い出してしまった。
片手を口に添えて、くすくすと笑う母親に、「分かってる、分かってる」と言いながらカグラの頭にポンポンと手を添える俺。
それから、言葉の恥ずかしさにぷいっと横を向いて赤く染まった顔で困ったように小さく怒ってみせるカグラの姿。
そんなどこかのホームドラマのような状況に、今その場の雰囲気があっての事かも知れないが――。
どうにもそれが不思議と俺の笑いのツボにハマってしまったようで、何だか今日一日の疲れがふっとんでしまいそうな位にこの時声をあげて笑ってしまった。
それに加えて、だ。今でさえも彼女達が言うように俺は家族の一員として扱われているのだが、
舞と夫婦になる祝言を挙げる事になれば、名実ともに俺は彼女達の家族となれることだろう。
それを思うと、俺にとって舞以外に何も無かったこの世界にも、新しい自分の故郷と、家が出来たような気がして――。
何だかそれが、無性に嬉しく思えたのだった。
▽
それから今日あった事を話しながらでも、夕食が冷め切ってしまわない内に腹の虫に食わせようと、菜種油の灯篭の明かりを傍に、三人でご飯を食べ始めようとしていた時の事であった。
何やら外で土を踏みしめる集団の足音が聞こえ始め、何事かと思いながらも、味噌汁をすすりながら三人でまったりとしていた所。
足音の鳴る音が大分多くなっているようで、提灯のようなものを手に提げている十数人の集団が離れた所からこちらに向かっているのが開いた家の戸から見え出した。
恐らくは村の者達なのであろうが、一体何事なのだろうか。
何か知らない間に、俺は村のしきたりでも破ったのだろうか。それとも村特有の回覧板でもあって、それを回しに来たのか?
色々と適当な憶測が俺の頭の中で飛び交い始めていたが、ある程度の疑問の個人的回答が出るよりも早く、俺達の居る家の玄関の戸はトントンと叩かれた。
「あ、はい。今、開けますから」
とカグラの母親は玄関の戸へ向かい、一度敷居のしたで草鞋を穿いてからその玄関の戸を開けた。
そこに立っていたのは、提灯を下げた、所々が禿げかけている頭をバーコードのように留めている、五十代の、淡褐色の着物を着た青髪の中年の男。
それからその後ろに連なるように玄関の外でずらずらと集まった十数人の老若男女たる、村の方々であった。
「……あら、誰かと思えば、村長さんでは無いですか。そういえば、今日明日にこの村に帰られるとの話しでしたね。となると、本日の夕刻付近に帰られたのですね。明日まで待たずにこんな夜更けに尋ねて下さるとは、どうされましたか?」
「ああ、夜分遅くにすまないね、ナツミさん。実は村長として、今夜中にでも確かめたい点が二点程あったので、今しがた貴女の住居の灯りが点いている内に尋ねて置こうかと思ったのだよ。今少し、時間を貰っても構わないかな?」
何やら怪しいおっさんが怪しい事をけし掛けに押し寄せてきたのかと変な風に警戒しそうになる俺だったが、
唯一玄関口に臨む彼の後ろで、十数人程連なっている老若男女の村人面前を見れば、どうやら今玄関口でカグラの母親に話しかけた五十代付近の彼は、本当に村長として何らかの用があって訪れたように思えた。
……まあ、その二点の内の一つと言うのは、今となっては容易に想像がつく。
カグラの隣りで味噌汁をすする俺に対しての村長の目線が、それを物語っていたからである。
様子と流れからして、一つは十中八九俺に関する事だろう。
真剣な表情で尋ねる村長にたじろぎながらも、ナツミと呼ばれたカグラの母は、凛として答えるように努めているようにも見えた。
「あ、はい。分かりました……。それで、その要件というのは……」
「うむ、簡単に分ければ、カグラちゃんの安否に関する事と……。それから、そこに座って夕食をとっている、見慣れない男性の方についてのことなのだよ」
そう言って村長は、玄関口に対面して食事を取っているカグラと俺の方を交互に見ていた。
まあ、要件と言えばその辺りなんだろうな、と。
はっきりと要件を理解した時点で、俺とカグラの二人は超然とした態度のまま、場の雰囲気に似合わず、箸でご飯に手を付け続けていた。
むしゃむしゃと玄米を頬張る俺達の咀嚼の音が厳かになりかけている静かな空間に響き渡るが、そんな事はなんのその。
命のやり取りで神経をすり減らした俺とカグラからしてみれば、人を気遣うよりも空き切ったお腹を満たす食欲の方が大事であった。
まだ若いカグラは良いとして、そんなことをしている三十代の大人としては俺は中々に駄目な人間かも知れないが、あんなふざけた大虎を倒したのだから、今日はその位はもう、許して欲しかった。
「ふむ、先程カグラちゃんが、影の薄い『誰か』と村の外に出て行ったらしいという話を聞いてだね。それから彼女が向かった方角から虎妖鬼らしき咆哮が聞こえて、それ以降カグラちゃんが戻ってきたのを誰も見ていないとの話だったので、心配だとの報告があったのだよ。……どうやらその様子だと、無事に帰って来れたようだね。いや、良かった良かった」
カグラの元気そうな姿を認めてそう言った後、真剣な表情を俄かに崩し、気さくな様子を見せながら村長はそれを告げていた。
彼の後ろに連なる若い村娘や、年配の方々もその言葉を聞いておおいに喜び、安堵している様子が玄関の先に見える。
成る程、皆カグラが心配で集まってきていたという事か。
彼女の明るい性格に、俺も結構助けられている部分もあるのだから、この村に人にとってもそうなのかも知れないとも少しは思っていたが。
予想以上に慕われているのだな、俺の隣りに居るこの少女は。
「ええ、本当に。ただ、足に少し怪我をしたみたいですけれど、大事なくあの娘は帰ってくることが出来ました。村の方には御心配をかけてしまいましたね。無事に帰ってこれたのも、富士さん……、いえ、藤野さんのお蔭なのですけれど――」
「……待って下され。今、何と言った? 足に、『怪我』を負った……?それは本当なのか?」
少し緩んだ場の雰囲気に、柔和な対応でそう答えたカグラの母、ナツミさんの発言に、村長の態度は突然強張ったように変化を見せた。
その会話による彼の表情の変容に、どういう事なのかと俺も一瞬箸を止めたが、少し考えただけでその理由は直ぐに理解出来た。
そうだ。軽微なれど、怪我となれば『血』の匂いを発している可能性を漂わせてしまう。
それはあの時カグラが絶句し、自らの命が絶たれるのは確定したと言わんばかりに絶望の表情を見せたその原因。血に連なる危険性を持つ怪我という言葉は、虎妖鬼に狙われる対象を示すワードなのだから。
「え、あ……。ち、違います! 今のは語弊と言いますか、本当に微々たる怪我でしてっ! 決して妖鬼の鼻にかかるような程の物では……!」
「……すまない、少し見せてもらう。一度この家に上がらせて貰うよ」
ナツミさんもやはり、言ってから気付いたらしい。
血の匂いがあるという事は、村の近くにまで咆哮を響き渡らせた虎妖鬼がカグラを狙ってこの村に襲い来る可能性があるという事に他ならない。
そうなれば、その者はどうなるのか。
恐らくその事実が確認されれば、危険性を排他する為にカグラはこの村から一端排他される事になる。……そういうことなのだろう。
だが、俺とカグラは知っている。既に虎妖鬼が息絶えた事を。
この俺、藤野秋也という魔術師が、単身にてあの死した白虎を打ち破ったという事実を。
故にカグラは不安そうな表情を見せない。彼女も茶碗の上に箸を置くと、俺の左腕にその華奢な腕を回して抱き着き、俺ににんまりと彼女らしい笑顔を見せた。
ま、そうだな。その事実がある限り、そういった面での不安もないだろうよ。この村の者も、安心しろって事だ。
ナツミさんを押しのけて、靴も脱がずに強張った表情で家の床へと上がる村長を前に、俺は前に右手を広げてさし出す。
言葉を放つ前に彼にその場に静止するように促し、そして俺はそこで発言を加えた。
「一度、落ち着いてくれないか。村長さん。確かにカグラは今怪我をしている。それは貴方が確認するまでも無い事実ではある。だが、夕刻に近隣の山から村の近くにかけて、いく度も咆哮をあげていたもう虎妖鬼が山からここに迫る事は無いんだ」
「……カグラちゃんが怪我をしている、というのは、君の言葉に寄らずとも、今理解した。確かにここから見ても着物が少し赤く染まっているように見えるな。仮にそれが本当に何を根拠に言ってるのだ、君は。あれ程までに、……いや、村にまで咆哮が響き渡り、地を揺らす音が聞こえる程に迫った虎妖鬼が血を狙って襲い掛かる事が無いのだと、どうして言い切れるのか」
……夜目が利くのか、この村長。
暗がりの世界に慣れてない現代人の俺とは、やはり暗闇の世界の順応度が彼ら村人達の方が優れたりしているのか。人工的な明かりの無い世界の暗闇に対する耐性の低さを、地味に感じる。
そんな俺の言葉に対しては、いきなり敬語を使わずそう答える何も分かっていなさそうな若輩の男が己を諌めようとしている事に対する憤り、というよりも。
寧ろ困惑の方に傾きがちな声色の言葉で村長の役割を担うその男は返してきた。
洋服を着た男、というだけでも高貴であると捉える者が居るこの世界でなら、今提灯の明かりで俺をかざし、
俺が着物で無いことを理解した時点で、彼が無駄に侮るのは危険と判断した可能性も有り得そうだ。
何よりも、記憶も取戻し、魔術が使える様になった今、以前の舞と同様に、俺の存在の希薄化状態は解除されている可能性が高い。
見慣れぬ洋服を着た俺の存在感は、村の者が今まで判断していた以上に違ったものとして見えていることだろう。
「何故、と問われれば、その迫り来るであろう虎妖鬼自体が、既に滅びているからだ。……あの巨体の白虎は、魔術師たる俺が、魔術と武器を使って倒した。だから、もう夕刻の虎妖鬼に怯える必要も無いというわけだ。何だったら今からでも確認しに行けば良い。今も奴の死体は社付近の森の道中に転がっているからな」
俺のその答えに、玄関の外でその会話を聞いていた村人達から動揺の声が聞こえた。
本当なのか、じゃあもう怯える必要はないのだろうか、いや、一人で倒すなど有り得ない、だがあれ程の良質な洋服を着ている者なら相当に高位な魔術師の御方なのでは、等々と。様々に。
多元的な憶測を交えた声が後方で飛び交うのもその身に受けながら、目の前の村長は俺の言葉によって判断に迷いを見せた。
そして提灯の熱さからか、それとも対応への焦りからか。冷や汗を流しつつも村長は態度を改めて、答弁を加える。
「……ならば、貴方の話が本当だとして、その証拠たる死体を確認をするのは後に行うとします。しかし今は夜の闇。提灯を掲げていくにも外は暗く、確認するにも別の危険が紛れてるかも知れないわけですからな。故に私共としては、出来れば今この場で貴方がそれ程の魔術師で有る事と、身分の証明となるものが知りたいのですよ」
まあ、そう来ると踏んでいた。だが、その点はぬかりない。その証明になる物も持っているし、いざとなれば二級魔術の魔導陣を展開できる魔力もまだある。
因みに俺が、最初から彼に敬語を使わなかったというのは、既に神経が疲れ切っていてどうにもそこまで気を回したくなかったというのも、その理由の一欠けらにはある。
だがそれ以上に、侮られるような対応よりも最初から圧しておいた方が、その事実を認めさせ易いのではないかと判断したから、というのが大きい。
未だにこの国での文化的価値観を把握出来てはいないが、『男の人なら、もっと堂々としてないとね』と、今朝の着替え時にカグラが言っていたように。
ここは敬語で柔和な態度を見せるよりも強気で威厳を持った態度を示した方が、この国では強い者と判断され易いとの、俺の短絡的な思考にその言動の態度が基づいている。
……まあ、結局はどちらでも変わらないのかも知れんが、ちょっとした補完というやつだ。
さて、俺自身出来ればもう魔術に神経をすり減らしたくはない。
魔導と魔躁は全くの別物であり、確かに魔導陣自体で魔術の行使は可能だが、二級と三級魔術の連続展開での魔躁に神経を使いすぎて、俺としても大分疲れているのだ。
今俺が所持しており、決定的な力を持つであろう『それ』を見せる事でこの場が事足り、収まるのであれば。俺としては万々歳である。
――それじゃあ、この場で一つ。旅立つ前に君から貰った物を、頼りにさせて貰うとするさ、マイ。
権力と権威は、似て非なる物。権力は僅かな時間でも、個人が新たに作り上げる事が出来るものですが、権威というものは長年の実績や継続をもってして培い、築き上がっていくもののように思います。それ故、その骨幹には信頼というものが何よりも大事なのかも知れません。
権力は、パワー。
即物的、実力をもって人を従わせる。
権威は、オウソリティ。
その威をもって、自発的に人を下らせる。
そんなマイの扇子の力を借りようとしている秋也の采配や、いかに。
後編に続きます。