第2話 少女の記憶と、二人の暮らし。
「秋也さん、ご飯が出来ましたよ」
「おおっ。今日の夕飯は何かな」
――俺と舞の出会いの日から、既に二週間が過ぎていた。
相変わらず俺以外の人間で彼女の姿を見れる人は誰も居ないようで、結局どこにも宛ての無い舞は、我が家の家政婦状態で過ごしていた。
まあ、どちらかといえば、もはや主婦のようだと言っても遜色ないのかも知れないけれど。
「麻婆豆腐か。うん。結構苦手な食べ物だな」
「我が儘言わないで下さい、秋也さん。私より美味しく料理も作れない癖に。苦手な物にも慣れて下さい」
へいへい、と相槌を打ちつつも、スプーンを片手に何だかんだで美味しいなと思いつつ食べる俺。
二週間も経てば、この関係にも大分慣れた。畏まった言葉を使いがちだった以前と比べれば、舞の言葉も大分フランクだ。それだけ今は俺に気を許しているのだと、そう解しても良いだろう。
この二週間の生活と言えば、俺がどこかで適当に日雇いバイトをして、舞は俺のアパートに残って家事をするといった感じだ。
洗濯機の使い方や台所用品の使い方等は記憶に無い物だったようなので、それらを教えたら全て一回で覚えてくれた。
更に料理の本を彼女に一冊買い与えたら、その後は見事なまでに美味しい料理を振る舞ってくれるようになったのだ。
まあ、姿が見えないので材料を買い込むのは俺なんだけど。
藤野家――実家の両親に勘当されてからは、日雇いのバイトで適当に生活してきた俺だ。
それほど社交的でない俺に友人関係が特にあるわけでもない。それでもなんとなく生きてきた。
ああ、そういえば勘当されて以降は同窓会にも呼ばれていない。今の俺の住所も電話番号も、あいつら知らないだろうし。
俺から連絡を取れば良いだけなのだろうけど、そういうことも面倒でしなかったからだな。
そんなこんなで割合孤独な生活を送ってきた自分にとって、舞という少女の存在が傍に居る生活は、本当に心躍るものだった。
「秋也さん。麻婆豆腐、辛いですか?」
「ん? いや、丁度良い位だよ。相変わらず舞は、料理のそういう配分は完璧だな。俺の味覚でも分かるのか?」
そういって俺はおどけて見せる。
まあ味覚云々は当然冗談なわけなのだが、そう疑いたくなる位に舞の作る料理は俺が丁度良く食べれる味付けになっている。
作る量も二人合わせてきっかり腹八分目位に近い。
よく気が付く女の子だと言ってしまえばそれまでだが、それだけでは計り知れない程の才知を舞が秘めているように俺は感じていた。
「それは良かったです。私は、程よさの完璧を目指すのが好きですから。秋也さんがそう言ってくれるのなら、頑張っているかいもあるというものです」
そう言って舞は誇らしげに笑ってくれる。全く、なんと可愛らしいことか。俺が舞を見ることが出来る存在でホントに良かった。
「実はと言うと、麻婆豆腐は私の好物なんです。だから、秋也さんにも好きになって貰わないと、私がこの料理を食べることが出来なくなっちゃいますから。だから作ったんですよ」
「あれ? 四日前位に買い物カゴの中に麻婆豆腐を入れてた時は、この料理は知らないから買ってみるとか言ってなかったか?」
「……え?」
自分で言ったことを、ただ忘れている……というだけの、話でもないのだろうな。
「……そういえば、そんな事を言っていたような気もします。あれ、どうして私、麻婆豆腐の存在を忘れていたのでしょう?」
そうやって頭に手を添えて考えるような仕草をする舞。
この二週間を過ごしてきて、こういう事が幾度かあった。
今回のこれも、それらに該当するのだろう。
恐らくだが舞は、こんな感じで少しずつ記憶を取り戻している。
ほんのちょっとした事がきっかけで、かけられた施錠が一つ一つと解かれ、その閉ざされた扉が開かれていくかのように。
焦っても記憶は戻るとは限らないし、焦ろうとすればするほど精神が不安定になっていく――という事象も、記憶消失になった人には起こりうるものだ。
無理して急激に思い出させようとする必要も無いだろうと俺は考えている。
「それは多分、舞の記憶に関係していることだからじゃないかな。麻婆豆腐が好物だったということが、記憶を失う前の舞のルーツだったのかも知れない。まあ、単なる憶測なんだけどさ」
「うーん……。どうなのでしょう?でも確かに、何か、自分というものが戻ってきている感じは少ししました」
「そっか。じゃあこんな感じで生活していけば、きっといつかは舞の記憶も元通りになるかも、だな。まあ、焦る必要は無いから、ゆっくり取り戻していこうか。何か分かったことがあったら、俺に教えてくれると嬉しいよ」
そうは言うものの、俺の心境は中々に複雑なものであった。
確かに舞に最初に会った時には、早く記憶を取り戻させてあげようと思ったものだ。
けれど、考えてみるとだ。人が記憶を失う程の出来事となると、それは短絡的なものじゃない。
絶対に思い出したくない、触れたくない、心が壊れてしまいそうな位に追い詰められた時に、自分の心の防衛反応として記憶を壊すという例もあるのだ。
そうだとしたら、ただ記憶を取り戻せば良いというものではないだろう。
それと同時に、だ。
舞が記憶を取り戻すという事は、俺の手元から離れていくことと同義でもある。
家族もいるかもしれない、友人もいるかもしれない。本当だったら彼氏なんてのも居るかもしれない。
彼氏がいたとしたら少し悲しいが、十歳以上も年の離れた良い大人が何を言ってるんだと突っ込まれそうなのでその発言は今は自重するとして、だ。
何故彼女の姿を見る事が今の所俺しか居ないのかは分からないが、それまでの彼女の人生では普通に誰からにでも見れる存在であったと俺は考えている。
そうでなければ誰が育てることが出来たと言うのか。なんにせよ、この年にもなれば出会いに別れがつきものだという事は、俺は重々承知している。
俺の傍から離れていくことは寂しい事ではあるが、それは世の常。
後腐れも無いように、という意味も込めて、最初に宣言した通り、舞には夜の手出しもしていない。
いや、その点に関しては俺にそういう度胸が無いだけ、ということもあるけれど。
記憶を取り戻した時が俺から離れていく時なのだと思うと少し、いや、大分俺は躊躇してしまう。
……たかだか二週間の付き合いで、と笑われることも分かっている。
けれども俺にとって、夢のような瞬間なのだ、舞と居る時間というものは。
「秋也さん、お皿、お下げしますね」
「――ん? あ、ああ。じゃあ皿洗い、頼むな」
「はい。任せて下さい。その位しか今の私には取り柄が有りませんからね」
そう自重気味に、けれども少し誇らしげに言って俺の目の前の皿を流しに持っていく舞。
今の舞の格好は、出会った時のままの服の上に、エプロンとなっている。当然食事や料理をする際であるので上着の振袖のような白い着物は脱いでいるのだけれども。
履いたスリッパの音をパタパタと鳴らしてテーブルと流しを行き来する舞の姿は、どこか小動物の姿を連想させる。
大人びた言動の割には小柄な印象から、背丈は恐らく百五十センチ程度であると俺はみている。その様子を動物で表すのなら、リスといった所だろうか。
今は家事全般を舞に任せているので、俺が皿洗いや料理といったものを手伝うことは無い。
それは今現在家事の役割を任せている舞に対する、侮辱になり得ると思うからだ。
任せられた以上はキチンとやる。
それが舞の信条、そして意思であるらしいし、記憶を失った者には何か自分を支える一つの基盤を用意しなければならないと俺が考えた故に。
自分は何者なのか。何をすればいいのか。自分を自分足らしめるものが無いとき、人はそれを欲しがるものだ。
だからこそ、俺は『秋也の代わりに家事を行う』という役割を与えたわけだ。というよりかは、元々は舞がそういう事をしたいと要求してきたわけなのだけれど。
そうやってやるべき事が出来たのなら。自分は何をすればいいのか、何をする者なのか。それが明確になる。右も左もわからなくなりそうな人を支える基盤と成り得る。
とまあ、これらは後々とって付けたような理由ととらえてもいい位に、今の俺はただ横着してるだけのような気もしてしまうのだけれど。
テーブルの椅子に腰かけながら、俺は玄関付近の方に置いてあるテレビの報道に、ふと目を見やった。
『今年度の自殺者は2万1千人を超え、これはここ数年で最大の数値を記録しており――』
言いかける途中で、俺はリモコンで番組を切り替えた。
やれ不景気だの自殺者数増加だの殺人事件だの。
そういった内容の報道が、いつもの様につらつらと流れているのが毎日なこの国。はっきり言ってそんな暗い報道は、余り見たいとは思わない類のものだ。
俺が生きてきた間は、バブル崩壊後の失われた10年の就職難で命を絶った友人も少なからずいた。
今の御時世でもそれがあるというのは悲しいが、そんなことよりは明るい報道をもっと流して欲しいと思わずにはいられない。
「夢も希望も、今の時代には無縁……なんだろう、な」
俺が小学生で、低学年の頃には夢にも思わなかった世界だ。現代の不況のやつは。
バブルが弾ける前には、夢も希望も、追って生きて良い時代があった。
そんな言葉が、それこそ幻想と思えるくらいには、現代は暗い。
「夢も希望も……なんですか?」
つい、と横を振り向けば。
丁度傍に居たらしい舞の横顔と声に気付く。
こんな話をしてもきっと、舞も良い表情はしないだろうが、それでも彼女は俺のどんな話でも聞いてくれる。返す言葉はなくとも、頷くだけでもしてくれる。
だからつい、弱音も、不満も。思う事も、零してしまうこともある。
「いや、な。つまらない話だぞ?」
「それでも構いません。何だっていいのです。秋也さんが思う事は、どうぞ、私に話してください」
そういって、彼女が小さく微笑んでくれるものだから。
「舞は、聞き上手だよな。……まあ、今テレビでもやってた事だけどさ。経済に、金に、仕事。世の中は、そんな不明瞭なもので周ってて、皆、それに振り回されて……。なんで、こうなんだろうな」
「えっと。こう、とは?」
「生活だけは出来ても、夢も希望も無い世の中だってことさ。今、俺達が生きている現代は。漂う雰囲気は、閉塞感ばかりだ」
「それは、いけないことなのでしょうか」
「……どうだろう。親父から、『俺が生きてきた時代はもっと、夢があって、自由に溢れてた』だなんて聞かされて十代も二十代も育ってきたものだから、そう思うだけなのかも知れないけどな。昔より、ずっと娯楽も増えて、便利な世の中になってる事も否定は出来ないしな」
それは、いけないことなのか――と。
舞にそんな言葉を切り返されて、それはどうなのだろうか、と。
今まで余り思わなかったことも、改めて考える。
確かに。閉塞感があるからといって、それはいけない事なのだろうか。
既に悪いと思っていたものを、そもそも悪いことなのかとに疑いを持つことは、余りなかったように思う。
なら、どうあれば、『良い』世の中なのだろうか。
昔よりもずっとインフラが整備されて、生きる上での便利さは遥かに向上している。テレビもネットも、冷蔵庫も車も、エアコンも。
個人が一人で生活する分には困らない程度に世の中にいきわたっている。夏の熱さや寒さに苦しんだりしていた昔と比べれば、それはずっと良い事なのかも知れない。
その代わりに、夢も希望もないとするのなら。
それは――『悪い』ことなのだろうか。
「結局、比較してどちらの方がより良いの悪いのかだなんて、そんなことを考えなければ答えが出ない時点で、余り良い状態にはない、のかな。いや、こんな事を考えていられる余裕が生活の中にあるだけ、自分は全然困ってはいない、のだろうけれど……」
そんな風に世間を嘆く俺に、定職はなし。職業は、日雇いや短期間なバイト暮らしの、いわば、フリーアルバイター。
これを職業と呼べるのかは、謎ではあるけれども。
というわけで、かくいう俺はフリーターであるわけだが、生活の部分に関しては、身持ちが居ない分には困っていない。
日雇いバイトでブラブラと生活しながら、持ち前の資金による株のネット売買で、多少の儲けも出している。
まあ、そんな生活状態であるから、働いて家族持ちな奴らが多くいる同窓会に出ようなどという考えが薄れてしまうのも。
それを比較されたくないと思う、つまらない自分の矜持が心の根にあるからなのかも知れない。
世間がどうとか、世の中がどうとかを憂う前に、今の自分はどうなんだと考えて、苦笑する。世の中が悪いから自分がこんな生活をし続けてきたのかと言われれば、どうなのだろう。
自分も含めて、多くの人達がこんな生活をしてきたから、こんな世の中になったんだ――という嫌な考えも頭に浮かんで、かぶりを振りたい気分になってきた。
「……まあ、いいや。今日は疲れたし、考えるのは止めよう……」
俺は少し溜息を吐いて、ひんやりとした感触のするテーブルへと顔を伏せた。今日は力仕事な工業系のバイトに出ていたので、身体は疲れている。
「はい。お疲れ様です。秋也さん――」
▽
そんな舞の声を子守唄に、気付けば俺は眠りの世界に飛び立ってしまっていたらしい。
それから自分の意識が覚めた頃には、先程の時刻から数十分の時が過ぎていた。
少し休もうかという位の気分でそのまま目を閉じたら――どうやらいつの間にか、俺はそのまま寝てしまっていたようだ。
寝ぼけ眼で顔を上げ、背筋を伸ばしてみると、肩から毛布が地面に落ちた。
状況から察するに、気を利かせてくれた舞が、毛布を俺の背中にかけてくれていた、ということだ。
全く、良く出来た娘である。
「……あ。秋也さん、起きましたか? 今日は、疲れていたみたいですね。お風呂は沸かしてあるので、どうぞ先に入ってください」
「ん。ああ、ありがとう、舞。じゃあお言葉に甘えて先に入らせて貰うよ。それと、毛布有難うな。よく気が付く」
「いえ、これも私の『役割』ですから。それに、秋也さんの寝顔を眺めているのも結構楽しいものですよ。普段と違って、凄く可愛いですし」
褒められたことに気分を良しとしたのか、満面の笑顔でそんなことを言う舞だが、言われるこちらとしてはそれは恥ずかしい。
後二週間ほどで二十代を終えてしまう年齢の男にしては、元々俺は童顔気味らしく、自分より年下の者に年下だと思われた事も幾度かあった。
その為普段は気合を入れた表情で生きようとしていることも有り、確かに寝てるときの無防備な様子は普段とは違って見えるかも知れない。
しかし可愛いとまで言われると、流石に恥ずかしく感じてしまうものだ。平静を保っていたいという自らの意に反して、頬が勝手に熱くなる。
「あ、そう言えば。一つ試してみたい言葉がありました」
「なんだ。言ってみてくれ」
「ご飯にしますか?お風呂にしますか?それとも……た・わ・し?」
……不覚にも少し笑ってしまったのは、いつも真剣な舞が冗談を言う様子にギャップを感じたからだろうか。
その後風呂場に行ったら何故かタワシが一つ増えていたのは、奇妙な話である。
それから俺が風呂を出た時には、時刻は夜の十時を回っていた。
風呂を出て身も心も颯爽とした気分になった俺は、スウェットに着替えて舞の所へと向かう。
すると、今度は舞が台所のテーブルの上に腕を乗せて眠っていた。
すぅすぅと寝息を吐きながらも、たまにむにゃむにゃと口を動かす様は、さながら小さな子供のようでとても可愛い。
こんなに気持ちよさそうに眠っている所を起こすのは少し罪悪感が生まれそうではあるのだが。
このままここに寝かせると風邪をひいてしまいそうなので、それこそ後に罪の意識を感じてしまうことになるだろう。
そう思い、起こしてやるかと俺が舞に近づいた時だった。
健やかな寝顔の舞の頬に、一筋の涙が伝わり始めたのだ。
「……お母、様……。私、頑張るから……だから……心配、しないで……私は……マギ、だもの……」
寝言。珍しく彼女が零した、一つの言葉。これはきっと、彼女の記憶が夢に出ていることに他ならないのでないだろうか。
弱弱しくも、けれど秘めたる意思を言の葉に乗せたような、そんな舞の心の呟き。
その様子を見て、彼女を起こすことに少しの躊躇を覚えてしまうものの、俺はやはり舞を起こすことにした。
「おーい、起きろ、舞。お風呂、次は舞の番だぞ」
肩を叩いて、舞の顔を俺は覗き込んだ。
うつらうつらとした目で俺の目を直視して、固まってから数秒後、はっと気付いたかのように舞は顔を赤くして飛び起きる。
「あ、秋也さん……? もしかして、私の寝顔、ずっと見てました……?」
「ずっとじゃないけど、少しだけ。舞の顔を眺めてるのも、結構楽しいものだよ。普段も可愛いけど、もっと可愛いし」
これはさっき俺が起きた時に言われた言葉の仕返しのようなものだ。
言う側も大分恥ずかしいが、言われる側も相当恥ずかしいものである。この恥ずかしさ、舞も味わえっ!という感じである。
「ふ、ふぇっ!? あ、あのあのあの、その、は、……恥ずかしいです……」
最高潮に顔を赤く染め上げていく舞。なんだこの生き物。可愛すぎるぞ。
というか呂律が上手く回ってないぞ。大丈夫なのか、舞。
恥ずかしさに顔を手で覆う舞だが、その時自分でも気が付いたのか不思議そうな表情で、舞は涙で少し塗れた自分の手を見つめていた。
「あ、れ……? なみ、だ……? 私、寝ている時に、泣いていたのでしょうか……。秋也さん、さっき私、もしかすると、寝言で何か言ってたりしてませんでしたか……?」
「……ああ、言ってたよ。多分、舞の記憶に関することだ」
内容まで伝えるべきか少し迷ったものの、結局俺は先程の寝言を覚えている限りに一言一句違えず舞へと伝えることにしたのである。
「……お母様。それに、マギ、ですか……」
「ああ、そんなことを口走っていた。様付けで親を呼んでるってのは、なんだ、微妙に一般とは多少かけ離れた環境だったのかもしれないな。あと、マギってのも……」
「はい。その単語には、特別惹かれるものがあります。きっとそれが、私の記憶を辿るルーツだと、思います」
本人がそういうのならば、間違いないだろう。
ふむ、一つ明日やることが増えたな。明日は日雇いの仕事は無にして、ネットやら本やらでそれについて調べてみるとするか。
しかし、マギって単語。なんなんだろうな。マギ。マギー。マギーしんじ。はっ!
「マギってのはまさか、マジシャン……魔術師のことか……」
どういう発想の仕方なのかと自分でも気になるところだが、強ち間違いでも無いだろう。寧ろ的を射ているのだと断言したい。
だがその俺の呟きは、予想に反して舞には大きく影響した。
いや、先程の俺の行動は、事を急ぎ過ぎしてまったのだと、自省の念に駆られる事態が起きてしまったのだ。
「――魔術、師……? 私が、私が、マギ……。魔術、師……あれ、どうして私、こんな所に。なんで? ……ダメ、こんな所にいちゃダメ。探さなきゃ、探さなきゃ! 私は――」
「お、おい、舞!?」
蒼白な表情を見せ、心ここに非ずな様子で言葉を発し、そして頭を抱えた後には、糸が切れたように舞は倒れ込みそうになった。
俺は咄嗟に出した腕で受け止めたが、舞の顔色は確実に悪くなっている。
しかも意識も途絶えてしまったような様子だ。
なんてことだ。なんの気兼ねも無く放った一言が、ここまで舞に負担をかけてしまうとは。
意識は無いようだが、呼吸音はしっかりと聞こえている。
抱きとめた俺の腕に当たる、舞の豊満な胸の奥から伝わる心音も、彼女がただ気を失っているだけなのだという事を教えてくれた。
俺はそこで一つ安心して、大きく溜息を漏らした。
溜息を吐く事で少し冷静になった脳内で、俺は取るべき思考を滑らせる。
取り敢えず、何よりもまず先に、舞を安静にさせるべきだ。
俺は舞をお姫様抱っこで担ぐと、自室へと足を運んだ。
アパートでありながら、さながらマンションの様な形式でもある俺の住居には、台所を除いて部屋が二つある。
いつもはもう片方の部屋に布団を敷いて舞は寝ているのだが、こういう状況だ。
俺が自室で寝ているベッドは中々に上質なもので、寝心地はかなり良い方だ。
そちらに舞を寝させた方が回復を期待できるだろうと考えた俺は、自分のベッドの上に舞を寝かせると、羽毛布団をかけてやった。
「無理させてごめん、舞……」
失念していた。記憶喪失という状態である、この少女の繊細さを。俺の行動が余りに軽率だった。
何が保護者だ。彼女のことなんてこれっぽっちもわかっていなかった。
……いや、違う。わからないからこそ、ほんの少しのことでも彼女の口から聞きたいと思ってしまったのか、俺は。
ベッドに寝かせることが功を奏したのか、数分経つと舞の顔色も少し良くなってきていた。
この分なら、意識を取り戻すのも時間の問題だろう。自責の念に駆られながらも、俺は舞の寝るベッドに背中をもたれ、座り込んだ。
布団など無くても良い。今日は寝るつもりなど無いから。多少の寒さは我慢する。
取り敢えずは、舞が目覚めるまでは舞の傍に居よう。そう決めて、俺は振り向き、舞の小さな手を両手で握った。
こんなか弱い少女に何があったというのだろう。
何があって、他の人には姿が見えなくなったのだろう。
何があって、あの単語一つでここまで苦しむような記憶喪失になってしまったのだろう。
――知りたい。そして、この少女を助けたい。そう思ってしまった。
それが先程のようにこの少女を苦しめることになろうとも。
それは彼女の事を真に考えてなどない、完全なる俺のふざけたエゴ。
けれどそれは、今まで何も成しえなかった貧弱な自分がこの時抱いた、一つの矛盾した確かな意志であった。