第17話 今日から俺は、富士さんだ。
ふと足を踏み入れた時。そこは、どこぞとも知れぬ異界の地であった――。
などという、まさしく神隠しような事が物語の中にはあるという事だが、生憎な話、その手の流れに少し俺は疎い。
そもそも現実的にそんなことがあるとしたら、人攫いやら何やら犯罪の香りがする様な事件に巻き込まれた時である、というのが筋に思われるが。
果てさて今の俺の現状を鑑みるに、一体どうしたものか。
そのような攫われた際にされるべき拘束もされず、現在の俺がただ悠然と立っているのは、古風な木造建築物が点在している村の中だった。
既に夕刻らしく、西を見れば、沈みゆく太陽の明かりが遠くの山々の隙間から差し込んでいる。
ふいに後ろを振り返ってみれば、草は刈り取られて少し整備された固そうな土の道があり、それを挟んで水田が続いているのが目に入る。
その先には山々が連なっている様子がぼんやりと見えたが、一体俺はどこぞの田舎に迷い込んだのだろうか。
――そもそも。俺は、誰なのだろうか。
記憶というものが非常に曖昧で、一体何故自分がこのような場所に居るのか分からない。
ただ、今まで自分が以前住んでいた地は、このような場所でなく、もっと発展した地域であったということは覚えているのだが。
取り敢えず、ここは日本国のどこかだと信じたい。
「……あの、一体この村になんの御用が? お召しになっている洋服からして、高貴な方かと、お見受けいたしますけれども」
そんな風に頭に何かのもやが掛かっているような、釈然としない感覚に頭を悩ませていると。
ふいに真後ろから、うら若き少女のものらしき声が耳に入った。
いきなりの声掛けに少し身体をビクッと震わせてしまったのが自分としては一瞬恥ずかしく思うのだが、それを誤魔化す良い術も持たぬので、少しゆっくりとした様相で俺はその声に振り返る。
そこに居たのは、百五十センチにも満たないであろう身長と、特徴的な銀色の髪を身に宿す、十四、五辺りの年齢の顔立ちをした少女だった。
俺と比較すればおでこ一つ分低い位の背竹なので、俺に対して見上げるような形で、彼女はその黒い瞳をこちらに向けている。
「ああ、ええっと……。それが、自分にも良く分からないというか。何故ここに居るのかも、一体ここがどこなのかも分からない状況なのだが……」
洋服からして高貴な、という彼女の先程の言葉が一体どういう了見なのか知れないが、彼女の服装は所謂着物というものである。
腹部辺りに帯を巻き、足には白足袋の下にわらじを履いていた。
辺りを少し見渡してみると、こちらへ物珍しそうな視線を向けながら村を歩く者の姿が数人に目に入るのだが、皆着物を身に纏っている。
もしかすると、俺の様な服を着ている者の方がこの村では圧倒的に珍しいのかも知れない。
俺の言葉に少し不信感を持った表情をその少女は見せるも、俺の言葉に嘘は無いと感じたのか、真剣に考えるような素振りを見せ始めた。
「その口ぶりからして、今は記憶が無い、ということなのかな? ……じゃなかった。ということ、ですか? ……うーん、村長も官吏の方も今日は居ないようだから、どうしたものかな……。自分の名前とかは思い出せますか?」
「……俺の名前……? 確か、ふじ……ふじ、……なんだったかな。どういう訳か、それしか思い出せない」
自分の名前というものが思い出せないというのは、かなりの問題だ。
それもまた、何となく分かるようで分からないという不思議な感覚であり。
曖昧という曖昧さが今の俺の記憶というものを左右しているような、表現出来ない感覚が今の俺の中にはある。
「ふじ、ですか。記憶も無いようですし、それじゃあ貴方の事は、富士さんと呼ばせて貰おうかな。もう今日は暗くなるし、明後日には村長も官吏も戻ってくると思うので、それまで私の家にでも滞在すると良いよっ。余り良いもてなしは出来ないけれど、夕食位は御馳走できますから」
出会ったばかりの初対面だと言うのに、この着物の少女は、こんな俺を怪しいとも言わずに泊めてくれるという。
もしかしたら俺を高貴な方だと思い込んで蔑ろにするべきではないと考えているのかも知れない。
しかしそれ以前に、この受け入れの早さからは、根本的にこの少女の考え方が文化的に自分とは違うように感じられた。
それにしても、少し言葉使いに気になるものがある。
敬語に地の話し方が混じっているように思われるので、これはこの少女の本来の話し方では無いのだろう。
「突然に図々しくて、本当に悪いとは思うが、そうしてくれるなら凄く助かる。後、俺なんかに敬語使いをする必要は無いから、楽に話してくれないか。その話し方、少し無理してるように感じる」
「……ああ、やっぱりそうだよね。うん。じゃあ、そうさせて貰うね。あまり敬う言葉を使うような機会が少ないから、どうにも私、言葉使いは綺麗に出来なくて」
少し恥ずかしそうに、はにかみながら、彼女は背中程までにかかる銀の髪に指をかけてくるりと巻いた。
誤魔化すような時によく行う動作に見えるが、可愛らしい顔立ちと相まって、その愛らしさが良く出ている。
「袖すり合うも多少の縁、困った時はお互い様、とも言うよね。記憶が無いとはいえ、多分高貴な暮らしをしてきた方にとっては辺鄙な所ではあると思うけれど、ゆっくりしていってね」
そう言って十四、五才らしき年齢相応な無邪気さを思わせる笑みを浮かべると、その銀髪黒目の着物の少女は俺の手を取って歩き出した。
その少女の姿を見ていると、何だか懐かしさという感覚が芽生えるのだが、これは俺の記憶に関係があることなのだろうか。
良く分からないが、その少女の容姿には何か惹かれるものを俺は感じていた。
そう、何かこの少女に良く似た何かを、俺は今失っているような――。
そんな心地がするのだ。
▽
その手に引かれて十数メートル進んだ先で少女が立ち止まったのは、木造の古めかしい様式の一軒家の前。
二階建ての構造ではるが、俺の知識にある瓦屋根ではなく、板でその屋根を葺く板葺き屋根であった為に、俺としては少し驚かされるものがあった。
「富士さん、ここが私の家なの。さあ、入って入って!」
言われるままに俺はその手に引かれ、彼女は横引きの戸を片手で開くと、揚々とした声で帰宅の声をあげた。
「ただいま帰りました、お母様! 聞いて驚いて! 今日は客人がいるの」
「あら、お帰りなさい、カグラ。市に出かけたと思ったら、御客人を連れ来るなんて。……もしかして、好い人の紹介なのかしら?」
カグラの言葉に対して、楽しそうにふふっと笑って返す声が、その家内から聞こえてきた。
会話の様子からして、どうやらこの少女の名前はカグラというらしい。
好い人、というのは、要するに恋人と言う意味だろうか。
余り俺が耳にしたことの無い表現の言葉だが、話の流れからしてそんな感じなのだろう。
「えっ。……ち、違うよ! そんなんじゃなくて、その、記憶を無くしたっていう……えっと、多分、旅の人?が居たから、数日ここに泊めてあげようと思って連れてきたの!」
必死で否定するような声をあげながら、俺を引いていた手を離したカグラは、慌てる様に玄関でわらじを脱ぎ、室内へと上がっていく。
俺もそれに倣い、靴の紐を解いて室内へと上がると、台所らしき場所で料理をしている藍色の着物を着た一人の女性の姿があった。
髪の色はカグラと同じく銀色。この少女と同様に、二人とも日本人には余り見られない髪の色だ。
その色艶を見るに、それは単純な白では無く、やはり銀色という表現になる。
「あらあら、それは良い事をしましたね。何分みすぼらしい所ですが、ごゆっくりと……て。……え、あの、ひょっとして、貴方様はもしや、『華族』の方なのでは……? も、申し訳ありません。今日は、高貴な御方のお口に合うような、余り良い食卓の準備は出来ておりませんで……!」
俺達が室内に上がった物音に振り向いた、その大人の女性は。俺の姿を見るなり驚いた表情を見せ、突然畏まったようにそんな事を言い出したのである。
そんなにもこの洋服、というかピーコートやズボンといった物が珍しいのだろうか。
いや、それよりも先程の単語は、家族?……じゃないよな。ニュアンス的に『華族』、か。
それって確か、明治時代以降の身分制度の呼び名だった気がするが。
まさか、俺は昔の日本に知らず知らずの内にタイムスリップでもしてしまったのだろうか?
……って、そんな馬鹿な。きっとこの村だけで続く呼び名だろうとは思うのだが、何だか雲行きは怪しい。
いくら何でも洋服を着ているだけで高貴な人間だと思われるのは、現代の日本では余程の辺境中の辺境であっても有り得ない。
「いや、そんなに畏まらくても……。俺は貴女方にお世話になる身ですし、こちらこそ恐縮で。その、俺は何故か一部の記憶がどうにも飛んでまして、自分が何故この村に来ていたのか。あと、常識が少し分からなくなっているので何とも言えませんが……。とにかく自分は、華族といったものでは無かった筈です」
俺のその言葉を聞いて、カグラの母親らしきその女性は、少し安心したように胸を撫で下ろした。
この人の年の頃は、三十代前半といった所だろうか。
カグラと同じく銀色の髪に黒い瞳を宿した、目鼻の整った百五十から百六十センチ中ば辺りの背丈の女性である。
つぶらな黒い瞳やその顔立ちも、身長の高さ以外はカグラとよく似ている。
その容姿からは、大人の女性らしさを持つ豊満な胸の存在が、その身に纏う着物からも、浮き彫りとなって見受けられた。
「そ、そうですか。ではもしかすると、軍人の方だったりするのかも知れませんね。なんにせよ、記憶が無いというのでは大変でしょう。暫く私達の家にいらして下さい。それと、私のようなものに殿方が恭しく話す必要などありませんよ。今日から暫く家族になるのですから、もっと気楽な言葉で構いません」
「……お母様。例え軍人さんだとしても、こんな綺麗な洋服を着ているのは、きっとその中でも位の高い方だと思うのだけれど……まあ、いっか」
そんな母の言葉に、俺の隣でぼそりとそんな言葉を呟くカグラ。
成る程、そういうものなのか。
何となくだが、何とはなしに分かってきた。
――どうやらここは、俺の知っている国ではないようだ。
洋服を着ていれば位の高い軍人?そんな思考は俺の知識には無い。本当に、一体ここは何処なんだ。
取り敢えず、郷に入っては郷に従えだ。カグラの母親に対する口調も先程言われた様に、平時のものでいくとしよう。
「本当にすまないが、数日の間、ご厚意に預からせてもらうことになる。何か宿代や食費の代わりになる物が有れば良いのだけれども……」
「ううん、そんなの要らないよ、富士さん。さっきも言ったけれど、困った時にはお互い様!飢饉でも無い限り、助け合いの精神は皇国ジパングの臣民たるものは、常に持っているものだから。記憶が無いとはいえ、余り気にすることは無いからね」
そう言って隣で、俺を安心させようとするかのように。カグラは俺に対して、朗らかな笑みを見せた。
それはとても嬉しいことで、古き良き日本の精神のようなものだといえば確かに聞こえは良いが、それで俺が危険な人間だったらどうするのだろうか。
警戒心がまるで無いというか、俺の住んでいた所とは大分違って。この少女の言う、この国や村の常識では、そういうものなのらしい。
それに、皇国ジパング……ね。何という事だ。先程推測を立ててみた、過去の日本世界ですら無いようだ。
はは、本当に神隠しにでも遭ったのだろうか、俺は。
しかし、それにしてもこの状況に余り動じていない俺はなんなのだろう。
ここに来るまでの記憶を失っているから余計な知識が入っても特に気にする程でもないのか、それとも元々その皇国ジパングとやらに聞き覚えがあるのか。
色々と分からない事は多いが、ただ何となく。
俺を不安にさせない何かがこの世界のどこかに居てくれているような――そんなよく分からない感覚が俺にはある、というのが一番大きな要因なのかもしれない。
全くと言って説明が付かない感情だが、実際そうなのだから仕方が無い。
丁度かなりお腹も減っていたので、その後はカグラの母の好意に預かって食事も一緒に頂いた。
玄米に豆腐のお味噌汁。それに沢庵の漬物が付いた純和食だった。
どれも美味しく頂いたわけだが、台所を見ると、水道の蛇口という類のものが付いていない。
この皇国ジパングとやら、そういった水路の技術は発達していないのだろうか。
まあ、例えその技術があったとしてもどうにもここは山中の村であるし、そこまでは通す技術も無いのだろう。
カグラに話を聞くと、基本は井戸から水を汲んでいるとのこと。
それに俺が驚くと、「そんなことに驚くなんて、やっぱりどこかのお偉いさんなのかな……」などと呟かれたのであり。
今後はそういうことに驚いたとしても表情に出すのは止めようと俺は思った。
夕食の片づけが終わり、本当に昔馴染みというか、薪をくべて釜風呂を沸かす手伝いをして熱々の風呂へと入った後は、寝巻用の着物を貸して貰うことになった。
貸して貰ったのは男物の着物だが、いかんせん良く着方が分からないもので、多少四苦八苦しながらの着用であった。
ただそれも、少し慣れれば着心地は悪くは無い。
辺りも殆ど暗くなり、そろそろ就寝の時刻なったということで、下で色々と片付けをしているカグラの母を後目に、俺はカグラに二階へと案内された。
自分の衣服とその荷物を片手にギシギシと軋む暗がりの階段を上ると、そこには開けた一つの広めの畳部屋があった。
周りを見渡すに、二階にはこの部屋しか無いらしい。話によるとどうやらここに三人分の布団を敷いて今夜は床に就くということらしい。
「今日は月明かりがあるから、もう少しだけ起きてられそうだね。月の神様に感謝しないと。……ねえ、富士さん。洋服の中身や荷物に結構色々ありそうだったけど、何か記憶を辿れそうなものとか無いのかな?」
その言葉に。「成る程」と俺は相槌を打った。それは良い手かも知れない。私物の確認というのは、重要なことだ。
それにしても、富士さんと呼ばれると何か自分が大きくなったような気分になるのだが……取り合えず本当の名を思い出せない内は、その名前で当分は良いとしよう。
富士山の響きで捉えると、何故か何かで一番になれと言われてるような心地さえしてしまうのは、何処かのテニスプレイヤーの影響なのか。そういえば自分は本来、何かの頂点に立つ存在だった気がする。
それまた一体なんだったのかは、やはり記憶の不鮮明さによって不明なのだが。
「ふむむ、俺の所持品で記憶に関係するもの、か。そうだな、取り敢えず服の中でも探してみるとするか。えーっと、眼鏡に、財布に、拳銃に……。――拳銃?」
カグラの言葉に、脱いである自分のズボンを漁ってみると。ベルトの脇にホルスター付きで携帯されていたそれは、とんでもない代物だった。
今の着物に着替える前に洋服を脱いだ時、何かゴトリと重量感のある音がしていたのだが、何故今までこの圧倒的な存在感のある危険物に気が付かなかったのか。
そこでふいに、ピッと脳裏に走る電流のような感覚と共に戻った、俺の中の一部の記憶がこう訴えかけてきた。
――この銃は、間違いなく本物だと。
「……富士さん、拳銃って? 何それ。一体何で出来てるの?ちょっと触らせて欲しいなっ」
珍しい物を見れた、と目を輝かせているカグラの姿が隣にあるのだが、それだけはマズい。
入手経路の記憶は未だに思い出せないが、とにかく本物であることに間違いないのだから、この少女に触れさせるわけにはいかない。
「……駄目だ。これには絶対に触れないでくれ。これを見て少しだけ記憶の片鱗が戻ったが、これは俺以外が触ると危険だ。場合によっては……人が死ぬ」
駄目だと言った瞬間に、それに手を伸ばそうとしていたカグラは、憮然とした表情の、不満そうな様子を一瞬見せた。
だが、人が死ぬという言葉を聞いた瞬間に血の気が引いたような表情でその手を引っ込めて、俺の言葉に頷いた。
触らぬ神に、祟り無しといった感じだ。この娘は賢明な判断の出来る少女なのだと言える。
「まあ、こっちの財布の方なら問題ない。見てくれても構わないさ」
残念な思いをさせた上に、少し彼女を怖がらせてしまった事に多少の罪悪感を持ってしまった俺は、カグラに二つ折りの財布をそのまま丸ごと手渡した。
どうせ入っているのは俺の国の通貨だ。この少女にとっては珍しいものであっても、直接的な価値があるものではないと俺は判断したのである。
何より俺はこの少女を既に信用してしまっている。この少女がそれを奪うような事も無いだろう。
ぱあっと顔に花開かせたような表情で、嬉しそうに俺の財布を受け取ると、その外観を見たりパカパカと開いたりしてカグラは楽しんでいた。
革製の財布は、こちらでは珍しいのかもしれない。
「このお財布、凄いね! 何で出来てるのかな……。暗くてよくは見えないけど、凄く精巧な作りっ。ねえ、富士さん。……その、失礼だとは思うけれど、中身も見ていいかな!」
本日一番の笑顔でそんな事を頼まれると、断る気には全くなれない。この少女は、珍しいものやお金といった物が好きなのだろうか。
それにどうせ見られたとしても、皇国ジパングとかいう国の住人には、日本の通貨の価値など分かるまい。
二つ返事でカグラのそのお願いを了承すると、彼女は早速財布の中身を開けて手に転がした。
ジャラジャラと音がして、そのカグラの小さな手に落ちたのは十数枚にも満たない硬貨。
それらは金色に輝く、数枚の五十円玉サイズの金貨と、五百円玉よりも二回り程大きな数枚の銀貨だった。
……って、え? 金貨?
「――こ、ここここれって! ま、まさか、噂にしか聞かれない、旧一圓金貨……!? わ、私、こんなの初めて見たよ……! そ、それに、これも旧一圓銀貨っ。巷では殆ど流通してない筈の、こんな物を持ってるなんて……。やっぱり富士さんは、お偉い方――!?」
その事実に対する驚きと困惑を抱いているような様子と声をあげたカグラだったが、何故かその数瞬後には俺の身分に対する懐疑心よりも硬貨に対する好奇心が勝ったと言わんばかりに。
カグラは俺に対して身を乗り出して、こう尋ねるのだった。
「ふ、富士さん。これ、もっと触って確かめてみてもいいかなっ」
そして興味津々だという表情を、俺に対して上目使いの形で見せてくる。
流石にそのカグラの勢いには、予想外の硬貨が財布に入っていたことの困惑よりも先に、俺は少したじろいでしまう。
まあ、まだ身を乗り出してくる分、驚きの余りその身を引かれるよりは、もしかしたら大分マシなのかも知れないが。
それでもカグラが齢十四、五の見た目の少女とは言え、俺の主観ではかなり可愛い女の子なので、少しドギマギとしてしまう。
この娘ももう少し成長したら、将来は相当な美人に……って、俺は何を考えているのだろうか。
それはともかく、またもや高貴がどうのと言われた所で記憶の無い俺としては非常に困るのだが、そんなのは俺が一番聞きたい事だ。
俺はお金に不自由しない程度の生活をしていた、ただのフリーターであって。この皇国ジパングとやらで高貴な身分を持つような人物では無かった筈なのだから。
興奮したような様子でカグラはその手の中に広がる硬貨を眺めている。
旧一圓金貨に銀貨、とな。そもそも何故俺が財布の中に金貨など入れているのだ。
俺がそういうアンティークな物を集める趣味があった覚えはない。いや、記憶を無くしていれば当然かと思われるかも知れないが、そういう事に関する記憶は確かにあるのだ。
だからこそ不可解だ。
現代の日本国の金銭では無く、そのような異質な物が俺の財布の中に入っていたことが。もしくは、俺が日本に居たという記憶がそのものが間違っているのか?
旧一圓金貨とは、金貨という性質上まさか日本で言う今の一円と同じ感覚である筈が無いし、貨幣価値が幾分か違うはずだ。
俺は月明かりだけが照らす部屋の中、それをよく見て何か覚えが無いか確かめてみようかと、カグラの左の手の中にある金貨へと手伸ばすと、ひょいっと一枚だけそれを取り上げた。
「あ……!」
と、カグラが何故か名残惜しそうな声を発したのだが、俺がそれ以上取り上げない様子を見ると、彼女は再び自分自身の手の中に視線を戻し。
何やら嬉し楽しそうに、再び自分の手の中に残った数枚の金貨と銀貨を眺め始めていた。
その様子を見るに、どうやら俺がこれらを持っていたことに関する驚きよりも、この硬貨自体に対する関心の方が今のカグラの中では強いらしい。
やはりカグラはそういう趣味なのだろうか。それがコレクター的な趣味故なのか、珍しい物に目が無いからなのかは分からない。
それにしても、その感情や気にするべき内容よりも、自分の興味関心を優先してしまう辺り、この少女の性格はあの娘に良く似ている。
そう、あの京都の街を周った時に、扇子が売られているのを見るや否や。
感情に優先してそれに対する興味が先行し、その思いを表情に隠せなかった、俺の大切なあの少女のような――。
……いや、待て。あの少女、だと?
どういうことだ。まさかこの俺に、共にあの京都の街を周る女の子が居たと言うのか。妹の椿でもない、誰かが……。
……――ああ、そうか。そうだった。何故、俺の記憶からそれが飛んでいたのか。
カグラと同じく、銀の髪を宿し、俺に対して少しだけ素っ気無い振る舞いを見せていた……今この手にある金貨を俺に渡した少女が、あの時確かにいた筈なのだ。
だが、誰だ。
それは一体――誰なんだ?
名前が、思い出せない。
それでも今思い浮かぶのは、あのさらりとした銀の髪に、俺を惹きつけて止まない、赤みがかった桃色の瞳。
そして悪魔と呼ぶべき異形の存在から俺を守った、あの後姿が脳裏をよぎった。
振り返り、強情なまでの異彩を放つ、意思を持ったあの瞳を俺に向けた時の、彼女の言葉も。
『私の名前は、――。これから宜しく頼むわね。……私の――さま』
思い出したい。あの少女のことを。
わかる筈なのに、なにか靄がかかったように、それを鮮明なものとして見せないように俺の意思を何かが阻害している感覚がある。
くそ、なんだって言うんだ。頭が、痛い……。
走る半影と共に、ズキリと脳への刺激がかかる。……駄目だ、これが続くのなら、このままだと……意識が持ちそうにない。
「うーん、いつか私も、こんな金銀貨を沢山集められたらなぁ……。って、ふ、富士さん?顔色が良くないように見えるけど、大丈夫――」
手の中の銀貨を鑑賞していたカグラが、俺のおかしな様子に気付いたらしく掛けてきた声が俺の耳に届いた気がした。
だが、俺の意識はそこで霞がかったように途絶えてしまう。閉じられていく俺の目蓋と、天井を仰ぐようにぐらりと傾き始める俺の身体。
ただ一言、その瞬間にようやく思い出せたあの愛しき少女の名と、あの時抱いた仕様もない子供じみた愚痴を呟きながら。
俺はそのまま朝まで意識を失ってしまうのであった。そして、その朝が数日後であるというのが、予想し得るものでは無かったのは言うまでもなく。
ただこの時の呟きさえ、またこれ以降の一時記憶の彼方へ再び混迷してしまうことになるわけだが、思い出した際にこの自分の愚痴の阿呆らしさを笑う事になるのは、まず間違いないだろう。
「……はは、だから味噌汁の味は、薄めにしてくれって言ってるだろ……みや、び――」
今でこそ、明治時代の一円金貨なんて何百万もする代物ですが、昔もその価値は中々のものだったと思います。明治30年までは庶民の間で一般流通していた最高硬貨は五十銭銀貨でした。それ以降から一円銀貨は流通し始めたましたが、一円金貨は譜面価値以上の値打ちを当時から誇っていた、もしくは金持ちや身分の高い者のステータスだったんじゃないかな、と。
というわけで、ちょっとこういう話も導入してみようかと。
ジパングの通貨のイメージは、明治時代の硬貨な感じです。
こちらの設定にそのままある一時の価値を当て嵌めてます。
一銭銅貨が今でいうと、100円。
五十銭銀貨で5000円。
500円玉より大きな一圓銀貨が10000円
アルミ一円玉サイズの一圓金貨も10000円の価値があります。
カグラの趣味は、珍しい物の観察や収集となっております。