第15話 主を導く、少女の名。
――『魔法使いとなる条件』――
【以下ノ手記ハ国家機密ニシテ、
濫リニ口伝スル事ヲ堅ク禁ズ】
一、世界に仇なす力を持つ者であること。世界の抵抗を受けた異界からの存在をその目にする事が出来るのであれば、それは世界への対抗力を有する事の証明となる。
二、護りに特化した金属性の魔術を扱う才能を有していること。魔法を扱う者は、その一身に大切な者を護る心を持たねばならない。
三、己の貞操を三十に至るまで護り続けた者であること。自らを律し、世界によって敷かれた生命の本能を超越する賢者こそが魔法使いに至る権利を得るのである。
―『皇国ジパング・童帝、魔法使い藤野秋也による見解』の後訳にて抜粋―
俺が目を覚ました時、既に夜は明けていた。部屋に差し込むいつもの朝日に、眼は微睡む。
しかし俺というものは朝に強いもので、今の状況というものは直ぐに頭に入る。
夢の中に夢見心地になれないからこそ、起きている間に幻想を見る。
それが、俺が理想主義者たる所以というところか。
俺の横を見れば、となりですぅすぅと寝息を立てながら幸せそうな顔で眠りの世界へ旅立っている最愛の少女の姿がある。
頬に人差し指を当ててみると、ん、と呟くのが何とも可愛らしい。
さて、前日はそういった夜の行為をいたしていたかと、それは少し語弊がある。
あの激動の戦いの夜からは既に三日が経っている。
そしてあの日の夜に、俺と舞は夫婦としての契りを交わしたのであった。
大切な人と結ばれる、というのは、何にも勝る幸福感情を齎してくれるものである。
お互いが初めてだったものだから、それはもう緊張というレベルでは無かった。
舞と出会った、およそ一カ月前の自分は舞の手を握るだけでも手一杯というレベルであったのだから、それを考えれば今の俺は随分と成長したものだと言える。
ただし、それもまた舞限定なのだろうけれど。
マイという少女は、主たる俺の尊厳を傷つけるような事はしない。
故に、俺がどれだけそういう事に疎いと言えども、決して馬鹿にするような事は言わなかった。
「大丈夫です、主様。これからはずっと一緒に居られるのですから、お互いに慣れていけばいいのですよ。……で、でも、この恥ずかしさだけは、ずっと慣れないかも知れませんけど……」
三日前、そんな言葉を残したあの夜の。舞の恥じらいの様子を忘れる事は、これからも無いだろう。
ああ、もう。可愛すぎてなんと表現したら良いのか分からないっ。とまあ、そんな具合であるからして。
というわけで、今日の俺達は互いに服を着て布団を被っている。
いつものピンクの花柄の寝間着で身を包んでいる舞の姿は、ちょっぴり子供らしい愛らしさを放っていた。
寝る際にはすっぽりと腕の中に収まる舞の感触とその温かさには、いつも本当に癒されるのだ。
そんな舞の健やかな寝顔を眺めていると、ふいに彼女は目を覚ましたようで。
ゆっくりとその桃色の瞳を開き始めると、こんな言葉を口にし出したのである。
「……う、うん……?朝、なの……?……あ、主様。……え、あれ、どうして秋也と私が、一緒に……!?ま、まさか、してしまったの?……ど、どうしよう、魔法使いとなる方の為に、私は――」
「おい、落ち着け、舞。それは四日前とそれ以前の話だ。あと、君の主様たる藤野秋也は、今や魔法使いだ。だから安心していいぞ」
なんとも面白い事に、このマイ・マイム・ベサソという少女は、やはり朝の寝起きが格段に悪いもので。
今回はどうやら、自分がまだ雅として演技をしている頃であると、寝ぼけが来ているようだった。
この数日間毎朝こんな感じなので、これからもずっと舞と居る限りは、今朝の舞はどんな反応をするんだろうか、と楽しむのも味であるかも知れない。
布団の中にお互い寝たままの状態で、そんな寝ぼけ眼の舞の額を、コツンとちょっと強めに中指で叩いてやると。
はっと気付いた様に彼女は布団の中から飛び出した。
そのベッド上の布団の上に正座をすると、彼女は辺りを見回す挙動を見せる。
そして布団の上で横になっている俺と目を合わせると、そこで完全に意識がはっきりしたようだ。
恥ずかしさに顔を赤くして、正座のまま深々と頭を下げるのであった。
いやはや、本当に毎朝面白い。きっとこの点に関して俺の楽しみが尽きることは無いと思われる。ん?こういうのは悪趣味だろうか。いやいや、そんなことは……。
「……あ、えと、おはようございます、秋也さん。申し訳ありません、その、いつもの如く寝ぼけてしまっていたので……。それと、額を叩くのはちょっと痛かったです」
「ああ、おはよう、舞。なんというか、目を覚ます丁度良い加減が未だにわからなくてだな。えっと、すまない」
あの位の強さで額を叩いてみなければ全然起きないであろう、というのが昨日実証された為、少し強めに小付いてみようと思ったのだが、強すぎたようだ。
反省をしなければならない。
一方そんな風に謝る俺に対して、その原因を作った彼女としては何だか申し訳なくなったのだろうか。
舞は慌てたように顔を上げると、また申し訳なさそうに面を伏せるのであった。
「い、いえ。主様が悪いわけでは無くて、私の寝起きが悪いのがそもそもの原因なのです。だから、そんな風に秋也さんが私に謝る必要なんて、無いんです」
「いいや、そんなことは無いさ。俺と舞は、もう夫婦みたいなものだろ?親しき仲にも礼儀あり。可愛い嫁さんの要望も聞いてやれないような、そんな旦那になるつもりは無いからな」
――そう、今の俺達はまさに、夫婦のような関係なのである。ただ、流石にまだ挙式というものは行っていはいないけれども。
聞くところによると、マイの祖国である皇国ジパングにおいては、女性における貞操観念はとても堅いものであり。
一度契りを交わした相手とは、一生を共にする程の感覚を有するということであった。
とはいっても、当然ながら離婚というのも有り得るもので。
しかしジパングでそれを行うのは基本的には男性側からだと言うのだから、俺が舞と離れることなど今後も有り得ないだろう。
俺が舞を手放すことがあるとすれば、それは俺が死ぬときだけだ。
無論、あの悪魔との戦いの際に行った同調の契約がある以上、俺が死ねば舞も強制的に命を絶たれるので、死ぬ瞬間でさえも一緒なのだが。
それでありながら出会った当初の舞が夜伽がどうのこうのと言い出したのは、やはり自国の文化に関する記憶の欠損からだと言えるだろう。
ジパングで夜伽を行うのは、生活の苦しさから身売りを受けたような、可哀相な少女達だけなのだという。
さて、俺のそんな発言を聞いた舞は面を上げると、感激したような面持ちで。
それでいて凄く照れたような表情で、恥ずかしそうにはにかむと、舞はこんな事を言うのだった。
「私、秋也さんのような旦那様を持てて、本当に幸せ者です。……朝の寝起きの悪さの分を埋める以上に、マイは主様の為にこれからも頑張って尽くそうと思います。ですから――」
そう舞が言い切る前に俺は布団から起き上がると、思わず俺はその腕の中に、彼女を抱きすくめてしまっていた。
こんな可愛い少女が、これからも俺の為に尽くしてくれるという。
そんないじらしい事を言われてしまえば、俺は彼女に触れたいと思ってしまう。
ああ、もう本当に。俺は狂ってしまいそうな位に彼女を愛してしまっているのだろう。
その仕草に、その透き通る声に、その瞳に、愛くるしさを感じられずには居られない。
そんな俺の突然の行動に驚いたように一瞬身体を震わせた舞だったが、それを受け入れるように、舞はその細い腕を俺の背中へとまわしてくれた。
トクントクンと鳴り響く互いの鼓動。
それが心地よく感じられるのは、存在の同調のお蔭だけでは無い筈だ。だが、それを思うと、こうも考えられる。
俺が死ねば舞も死ぬのなら、俺の命というものは、それはさながら舞の『心臓』であるのだと。
この俺の脈打つ鼓動が、舞の命そのものなのだ。
この少女は本当に大切な、俺の半身。絶対に失いたくは無い。
互いの腕の中で幸せな感情に包まれると共に、少しおかしな話だが、何だかこんなことも聞きたくなってしまった。
どうでも良いと言えばそうなのだけれど、今後の余生を共に歩む上で、それがあったとしたらどうなるのだろうと少し気になったもので。
「なあ、舞。もしもの話だが、俺よりも朝早く目が覚めて、逆に俺が寝ぼけてたりしたら、その時はどうしてみたい?」
寝起きが悪いことを気にしている舞に対しては、これは少し意地悪な質問かも知れないが、それでもちょっと楽しみなことでもある。
俺と同様に抱き着いたままの舞は、少し悩むように間を空けた後、こうしてみたいというのが決まったようで、その口を紐解いた。
「……そう、ですね。そんな事があったとしたら、きっと天変地異の前触れだと思うので、慌てて秋也さんの頬を、両手でパチンと叩いて起こすと思います」
「ふっ、あはは。そりゃ痛そうだ。そんな天変地異になる日が訪れないことを祈らないとな」
「あ、で、でも、主様が起きたその後には、ごめんなさいの証として、叩いた頬には口付けをする思います。これはお母様の教えてくれた、傷み消しのおまじないで……。だからそんな時は、それで許してくれると、嬉しいです」
俺の答えに、慌ててそんな言葉を付け加える舞。
当然そんな小さな事に根に持つようなことは絶対にしないとは思う。
けれどそんな風にアフターフォローをしてくれるのだと思うと、そんな情景になるのも悪くは無い気がする。
因みに舞の扱える三級・治癒は怪我の回復を瞬時に行い促進するものであり、不完全であるが故に痛みそのものを全て消すものではない。
故にそんな場合の頬の痛みに対しては、特に意味を持たないと言える。いや、流石にこれは蛇足か。
それと、確かに舞の寝起きが良くてこの俺に寝起きが悪いだなんてことがあるとすれば、それは確かに何かが起きてもおかしくは無いとも感じられるものであり。
成る程、これが良い意味での『あざとい』というやつだろうか。
こんな可愛い少女にそんなことをされたら、どれだけ強く頬を叩かれようと、怒るに怒れない。
まあ、それもまた俺にとっての舞だから、というのもあるかも知れないけれど。
「じゃあ、それは約束だな。とまあ、そんな日が訪れるかが問題だけれど」
「む、分かりませんよ。もしも私達が生まれ変わったら、今度は私の寝起きが良くて、秋也さんの寝起きが悪くなっているかも知れないですし」
「生まれ変わったら……って、その場合そもそも俺と舞が一緒に居るのが前提なのか。確かにそんな都合良くいけば、それ程嬉しいことは無いけれど」
なんとも俺の好きなロマンチックに溢れる発想であるが、俺自身は余り生まれ変わりなどというものは信じていない。
死んだら終わり。そんな風に思うからこそ死というものを思えるし、今生きる世に理想を求めたりもするのだ。
ただ、もしも次の生を授かることがあるとするなら、俺としても舞と居たいと思う。
それにしてもそんなことを言い出すくらいなのだから、輪廻の輪の中で生まれ変わる、という仏教的な思想感覚というものは。
マイの祖国である、皇国ジパングとやらにも共通している概念なのかも知れない。
「そんな風に都合良くゆく事も、あると思います。私と主様は、存在の同調を受けていますから。それは、魂の繋がりとも言えます。お互いがどこに居るのか分かる感覚があるということは……それは魂の在処もまた同様に分かるという事なのです」
ですから、と小さな声で呟いて、そして舞はこんな言葉を紡いでみせた。
「――きっと、私が主様を見つけ出して、私達は再び出逢うのですよ」
そんな舞の言葉に少し驚いて、俺が横目にその視線を彼女の方へと向けてみると、だ。
そう言って楽しそうに笑って目を瞑っている舞の表情が目に入った。
もしかしたらそれは舞なりの冗談だったのかも知れないが、輪廻を余り信じていない俺がそんな風に思ってみるのも、悪くは無いかな、と。
腕の中に互いの温かな体温を感じていたその時の俺は、彼女の言葉に釣られて、そう感じてしまうのであった。
▼
ここ数日の傾向であればお天道様が南へ上り、冬の寒さに暖かな日差しを照りつけてくれる時刻である、正午。
されど残念な事に、本日は生憎の雨となっていた。
立ち込める暗雲としんしんと降り注いでいる小雨に、この日本との離別を思うと、言い様も無い寂しさを覚えてしまう。
今俺と舞は、いつものアパートで昼食を食べている。これが、この世界に居る間の最後の食事だ。
あの後俺達は、異世界へ渡る為の準備を行っていた。
京都御所から帰還した後のこの数日間にも何をしていたのかと問われれば、やはり異界への旅支度である。
あちらの世界に持っていく物の厳選や、アパートや銀行等々で金銭的なものや契約に関する手続きを終えていた、という感じだ。
マイの祖国に骨身を沈めるというのなら、こちらの世界のお金など残して置いた所で意味を成さない。
というわけで、あちらの世界で価値があるであろう物に換金した以外は、椿の通帳の口座へと大半を振り込んで置いた。
長女の庇護や義理の親には一銭も渡す気は無いが、椿へ渡す分には惜しむ事はない。
両親は長女に藤野家を継がせる気が満々の様なので、既に勘当された血の繋がりを持たない俺がどこかへ行った所で、もはや問題など無いのだろう。
余りその点については気にしてないが、次女の椿がどんな人と結ばれ、どんな人生をこれから歩んでいくのか。
それを見届けられないのは少し、いや、大分寂しいものがある。
「……秋也さん。今日がこの世界に居られる最後の日になりますけど、私と共にジパングへ行くと決めた事。後悔はしてないですか?」
ご飯を食べるお箸の手を止めた舞が、ふいに投げかけたその問い。
そんな事を考えながら黙っていた俺の様子を見て、どうやらこの少女は少しばかり心配になったらしい。
「心配しなくて良いぞ、舞。契約の時にも言ったように、舞の傍に居られることが、俺の一番の望みなんだからな。君と共に行くと決めた事に、後悔はしていないさ」
揚々とした声でそう返した俺に、舞は少しホッとしたような表情を見せてくれた。
彼女からすれば、俺に自分の祖国、この日本と別れる決断をさせているのだから、何かと不安は残るのだろう。
それ故に、椿に関して触れるのは止めて置いた。
舞の心に余計な負担をかけたくは無いし、それも俺の心の内に留めて置くべきだと思ったから。
「……私は本当に、主様には無理をさせてばかりです。でも、私がこの国で主様を頼った分、あちらの国では私を存分に頼って下さいね。それに、私が持つベサソの名は、きっと役に立つ筈ですから」
俺の言葉で少しだけ気分が戻ったように舞はそう言うと、再びお箸に手を付けて、白いご飯を美味しそうに口に含んだ。
ベサソの称号。それはマイという少女が、今までの人生をかけて手に入れたモノだ。
ジパングにおいて火系統の魔術師の頂点を指すその称号は、確かな意味を持ってくれそうである。
そして昨日俺が手に入れた、あちらの世界において影響力を持ちそうな物が、実は二つある。
一つ目はマイの持つ扇子だ。
扇子というのはジパングおいては身分を表す役割を持つらしく、持つ者は必ず二本は所持しているとのことで。
その内の一本は信頼における者に渡し、自らと同じ権限を持つ事の証明とするのだという。
俺が受け取ったのは、マイム・ベサソの称号を示す、朱雀を象った赤い文様の刻まれた色鮮やかな扇子。
何か困ったことがあれば、これを示す事で身分証明の代わりになるのだとか。
実際作りも良く、かなり高級な竹や紙を使用している感じが見受けられた。
きっと、あちらの世界では暫くの間、未だジパングでの確定した身分を有しない俺にとって、これが重要になるのだろう。
そして二つ目。
これはもう、なんと言ったら良いのか、個人的には規格外の物だった。
それというのは、昨日突然俺達のアパートを訪れた山守餅、通称お餅が持ってきた物であるのだが。
「――二日ぶりですね、御二方。先日の非礼を、この場にてお詫び申し上げたく思います。そして私達が全く咎めの無い恩赦を、藤野様とマイ様から頂きました事、多大に感謝しております。本日に至りましては、先日の話を聞いたわたくしの祖父が痛く感激し、謝礼として差し出すようにと持ち出した粗品を、献上しに参った次第でございます」
そう言って突然現れたお餅が、長々しい言葉と恭しい態度で玄関口の俺達に差出したのは、一つの古びた長方形の木箱。
お餅自らが開けたその箱中身を確認してみると、そこにあったのは綺麗に手入れされているであろう一つの危険な鉄の塊だった。
過去、海外へ旅行に行った際に俺も実際に使用した事がある為に、名称は覚えている。
その名は、M1911A1、通称『コルト・ガバメント』。
45ACP弾を実装可能で、装弾数は七発プラス一発。茶色のグリップが特徴の、アメリカ製の自動式拳銃であった。
その箱の中の脇には、実弾の込められた十数個のマガジンが目に入る。
正直日本国におけるその銃の存在に驚きつつも、それがモデルガンかとお餅に問えば、「勿論実銃です」と至極当然のように答えた為に若干頭が痛くなったのだが。
取り敢えず礼を言って受け取って置いた。ずしりとした重量感が、腕にくる。
それはお餅の祖父が過去に手に入れた物であり、常日頃から整備を怠らなかったお気に入りの一品なんだとか。異界に旅立つ際に、持って置いて損は無いだろうとの話である。
入手経路に関しては秘匿とのこと。別段知りたくもない様な類の話だと感じたので、全く以てそれで構わなかった。
ただ、どう考えてもこれは銃刀法違反である。先日の報復に、これを俺に渡した後に警察にでも家宅捜査をさせて、俺達を嵌めるのかも知れない。
……等という無粋な考えも一瞬浮かびはしたが、その時は舞の異空間な振袖に隠せば良かれと俺は考えた。
大体そんな事をしても入手経路を問われた際に山守家が問題になるのだから無意味であるし、そんな馬鹿な真似をするとは思えない。
因みに俺がそれを受け取ったことに気を良くしたらしいお餅が、
「そういえば聞いて下さい、藤野様。今朝は若とお節がですね――」
と、全く逸れた話を始めようとしたので、舞が丁重に玄関の扉を閉めて彼女を帰したのは余談である。
将来は典型的な、近所の家の前で談笑するようなおばさんに成りそうな性質だ、あの女は。いや、楽しそうで悪くは無いけれども。
さて、そんなこんなで昨日手に入れた二つの品、扇子と拳銃。これらが今後どのように役立つのかは知れない。
だが、何かと自分の不安要素を大いに振り払ってくれるような心強さを与えてくれる物であるのは、間違いないだろう。
因みに昨日の夜の内に、いつも俺の喉を潤わせてくれた、あの月桂冠の軟水の心地とは別れを済ましてある。貯め置きは全て飲み干した。
あの酒と別れるのも多少は名残惜しいが、きっとジパングにも俺の気に入る日本酒もあることだろう。その点は非常に楽しみだ。
そして今は食事を終えて皿も洗い終えた俺達は、舞が言っていた時刻である酉の刻まで互いにのんびりとすることにしていた。
やることも殆ど終えたし、この部屋に残してしまった余分な物も全て管理人を通じて処分して貰う手筈になっているのである。
舞によれば、魔法使いと出会って丁度三日目である本日の十八時に、異界への道は示されるのだと言う。
よって今の時刻からそれまでは、互いに自由な時間ということだ。
それと、夕飯はあちらの世界で食べる手筈になっているので、もう夕食の準備も必要はないとの事である。
俺は移住支度に必要な物を詰め込んだ鉄製のキャリーバックの中身を確認し、舞はアパートに置いていかれる予定の本をリビングでゆったりと読んでいた。
舞は元々本や辞書を読むのは好きらしく、基本的に俺が日雇いのバイトで居ない時は大体それで時間を潰していたのである。
それ故にこの世界にしか無い造語や法も知っていた訳だが。
一応の確認を終えた俺は満足感に一息吐いた後、最後にやって置かねばならないことを行うことにした。
これは、俺がこの世界でやり残した、最後の心残り。
俺は舞の隣の椅子に腰かけると、今月末に解約を予定してある自分の二つ折り式携帯を取り出し、一つの連絡先に電話を掛けた。
それは今まで唯一俺を気にかけてくれ、面白い土産を持って何度もこの京都を訪れてくれた大切な家族へのコール。
藤野家の次女であり、年の離れた大切な可愛い妹。藤野椿へと告げる、お別れの電話だ。
二回、三回と、相手にかかるまでの音が鳴る。それを待つ間の独特の緊張が、俺の中にはあった。
全く、椿に電話を掛けるのに緊張する一瞬など、昔にもこれからも、もう無いのだろうな。
五回目のコールが俺の耳に鳴り響いた時、ようやく椿が電話に出た。
「……んん?もしもし、秋にぃ?久しぶりね。二週間ぶり位……かしら」
少し眠た気な椿の声が電話越しに伝わる。まあ、今日は日曜日で休日だ。
既に正午を超えて一時半となってはいるが、この時間帯まで寝ていても有り得ないという事は無い。
それだとしてもこの時間まで椿が寝ていたのなら寝過ぎだと思うが。
「ああ、久しぶりだな、椿。なんだ、今日はまだ寝てたのか?眠そうな声だな」
「まあ、そうね。今の今まで寝てたわ。昨日は変な黒猫に運悪く出逢った上に、お姉ちゃんと遅くまでバトデイで遊んでたから、ちょっとね……。で、何か用なの?――あ、数日遅れだけれど、誕生日おめでとう。秋にぃ」
椿が言う変な黒猫、というのは、そういう椿の仕事関係の事なのだろうか。余り見当が付かない。
それともただ椿が寝ぼけているだけなのか。この線が濃厚かも知れない。
因みにバトデイというのはBattle Daysというカードゲームの略称である。
昔俺がハマって以降、当時小学生だった長女の庇護がのめり込み、今でも愛好しているらしい遊び。
毎回椿はそれに付き合わされているみたいだが、何だかんだで椿も楽しんではいるようである。
「ああ、ありがとう。いつの間にやら、俺ももう三十になってたわけだ。椿はまだ十六だしな……その若さを羨ましく思うよ。――まあ、その御蔭で可愛い嫁さんが出来たんだけどな」
そんな事を言いながら、俺は横で本を読む舞の方へと振り向いて笑う。
それを聞いた舞が頬を染めて、気恥ずかしそうに俯くものだから、可愛すぎてどうにも敵わない。後で頬っぺたでもプニプニさせて欲しい。
その俺の言葉には、「……え?」と驚いた声が椿から返された。
まあ、驚くよな、殆ど女の子との交流も何も無かったような俺に、嫁が出来るなんて想像もしてなかった筈だろうし。
北野天満宮を訪れた際に、俺の隣に居た少女だと説明すると、椿は理解してくれた。やはり椿にはあの時既に舞の姿が見えていたわけか。
その後は、この一カ月と数日の間に起きた出来事を楽しげにつらつらと俺は椿に話しつつ、マイにも電話を代わって会話をさせたりもしてみた。
最初は舞も緊張したような声色だったわけだが、数分話す内に互いに慣れてきたのか、その会話にも楽しげな様子が垣間見れた。
この二人が仲良くなってくれるのは凄く嬉しい事なのだが、俺の昔の話やらなんやらと舞に暴露したりするのは止めて欲しかった。
その内には、小学生だった頃の椿を苛めていた男子をぶん殴って病院送りにしてしまったという、椿視点のアホみたいな武勇伝も含まれていた訳だが。
まあ、これが最初で最後の舞と椿の会話となるのだから、多少の事は目を瞑ろうと思う。
「――中々良い女の子を捕まえたじゃない、秋にぃ。なんだか、秋にぃには勿体ない位ね。舞さん、凄く従順そうで、秋にぃの事が本当に大好きだって感じだったわよ」
舞との電話から俺に代わると、楽しそうな、けれどほんの少し寂しそうな声色の椿の声が耳に伝わった。
兄が自分の傍から離れていくような感覚に、椿が物寂しさを感じてくれているのなら、それは一人の妹の兄としてはとても微笑ましいことだと思う。
「ああ、舞は本当に可愛いさ。俺に勿体ないと言えば、まあそうなんだろうな。でも神託やら運命に倣って言えば、俺以外とは結ばれることは無い運命だったんじゃないかな、とも思うけどな」
「……ホントに惚気てるわね。まあ、秋にぃが楽しいのなら良いのだけれど。あと、前回の占い結果、『世界の逆位置』は見事に当たったわね。私の占いの腕も上がったのかしら」
そういえば、そんな占いの結果を前回の椿の訪問の時に聞いた覚えがあった。
確かに、危機的状況に陥りつつも世界と対立し、それを乗り越え、更には異世界へと渡ろうしている俺の今の状況そのままとも言える。
「というわけで、今回も占ってみたわ。凄い簡略式だけど、その分直接的な意味を表してると思うの。近い将来は『隠者の逆位置』。結果は『皇帝の正位置』が出たわ。……何、秋にぃ、異世界の帝にでもなるの?」
そんなもの俺が知るかと言いたい所だが、前回の結果が中々的を射ていたのでこの結果も蔑ろには出来ない。
一応は胸に留めて置くとしよう。
その後も暫く話していたら、結構な時間が経っていた。楽しい時間というは、勝手に過ぎていくものだ。
ただ、今回ばかりは楽しさよりも名残惜しさがその会話を止めようとはしなかったのかも知れないが。
話に一息ついた所で、椿がふぅと一息吐くと、ついに終わりの言葉を告げられた。
「……ねぇ秋にぃ。あまり長く話しても、寂しくなるから、そろそろお別れしないとね。その、最後の日くらいは、私も素直になってみようと思うの。……あのね、何だかんだで私、秋にぃの事、大好きだったわ」
その言葉を聞いたその一瞬、余りの驚きに心臓が止まりそうになった。なんという不意打ちなのだろうか。
いや待て、こんなに俺の妹は可愛かったのか。そんな事を椿に言われるのは小学校の終わり以来で。
この年になった義理の妹に言われるそんな言葉には、流石の俺も、年甲斐なく気が動転しそうになる。
「あっちの世界でも頑張ってね、秋にぃ。……大丈夫よ、秋にぃは、私の自慢のお兄ちゃんなんだから」
そんな胸に来る言葉を、椿は恥ずかしそうな少し震えた声で言い残し。
そして俺が答えるより早く、ぷつりとその電話は切られてしまった。
いつも素直じゃない椿が、珍しく勇気を出して言った最後の言葉。お兄ちゃんという、昔懐かしの俺への呼び名。
俺が何も答える前に椿が勝手に電話切ったのは、きっと恥ずかしかったからなのだろう。
相手は妹だと言うのに、そんな言葉を伝えられてこの時ばかりは、ちょっと、いや、かなりドキッとしてしまったのは、仕方のない事だと思う。
兎にも角にも、大事な妹にちゃんと自分が慕われていたことを想うと、胸の奥が暖かくなるのを感じて。
嬉しさと寂しさに、自分の頬を伝い始めた涙を拭いながら、これなら最高の心持ちでこの世界を旅立つ事が出来そうだな、と、その時の俺は思うのだった。
▼
それから刻は流れる様に過ぎ、酉の刻たる十八時に迫りつつあった。
この住み慣れたアパートにも別れを告げた俺は、いつもの白い着物を纏う、桜の髪飾りを付けた舞を隣に。
そして鉄製のキャリーケースを片手に携えながら、初めて俺達が出会った平野神社の鳥居をくぐっていた。
全てはここから始まった、というと何か情緒深いものがあるが、彼女と出会ってからここに至るまでというのは、まさしく数奇な運命だったと言えよう。
人生には不思議なモノを目にする事が二度三度あると言う。
あの出会いの日の丑の刻、そんな考えが頭を過ぎったことを俺は記憶している。目にすると言わずとも、不思議な事を体験したことは数知れずとあった。
マイ・マイム・ベサソと出会った事が一度目の不思議な事なら、一体どれだけの不思議を俺はこれから体験していくのだろうか。
人生何回あっても足りないような、そんな体験がこれからは待ち受けていることだろう。
辺りは既に冬の暗闇に包まれ、それを鳥居からの神社の門へと連なる道の、朱漆に彩られた並び立つ常夜灯の明かりが幻想的に照らし出している。
その道を歩むと、手水舎を脇にする、神社の門の前に辿り着く。
空を見上げれば頭上は曇天に包まれているが、今は雨は都合良く止んでいた。
この空と世界を挟んだ向こうに何があるのかは、曇ってその目には見えないが、幸先は良さそうだ。
既にこの時刻では門は閉められている為、以前舞が舞った神楽舞台を拝めることは出来ないが、それはそれで良いような気もする。
次に舞のあの鼓舞神楽を見るときは、あちらの世界であれば良いと感じたからだ。
それに、思い出というのものは、心の中にあるからこそ思い出なのだろう。
今はその舞台が目に見えずとも、あの時の舞の姿は、今もこの脳裏にしっかりと浮かべることが出来るのだから。
神楽舞台での出来事から思い出したが、そういえば、あの時の時点で如何程の記憶が舞に戻っていたのかは、未だに聞いていなかった気がする。
「なあ、舞。そういえばあの時、この神社の神楽舞台で舞う時、記憶はどれ位戻っていたんだ?」
「あの時、ですか。あの神楽舞台に乗った瞬間に、私は殆ど記憶を取り戻していました。あの時に故郷の事や、魔法使いを導き、その方にこの身を召されなければならない事を思い出したのです」
それは恐らくあの神楽舞台に立った瞬間の出来事。舞の故郷を感じさせるものだったからこその、記憶の奔流。
「……ですから、あの日の舞いは。この身を秋也さんに捧げる事が出来ないと分かってしまった私の、精一杯の想いを込めたものでした」
そう言って舞は少し遠い目をしながら、まるでそれが数年前のことのように反芻する様子を見せていた。
と、なるとだ。あの時点で舞は魔法使いに仕える為に、俺の傍から離れる事は決意していたということになる。
あの時から舞も俺の事を好いていたというなら、それはこの少女の、何とも儚い想いの込められた舞いだったのかも知れない。
そしてこれは、彼女と契りを交わした夜に聞いたことなのだが、契約を果たして以降の雅の演技もまた、俺への想いの決別の為に。
そして夫婦としての夜の契りを交わさないようにと、自分自身への自制を込めたものだったという。
魔法使いを皇国へ導き、身を捧げる役目を持ったマイには、俺と契りを交わす訳にはいかなかったのだ。
それを思えば、俺の側にいて欲しいと願ったあの契約は、舞にとってはある意味残酷なものだったのかも知れない。
「でも、それも今や過去の話です。今はこうして、あの時の私が望んだように秋也さんの傍に居られるのですから。それだけで、何に変わるものは在りません。私はただ、皇国にて、これからも主様にこの身をもって尽くすのみです」
そんな事を言って、嬉しそうに微笑む舞の姿がそこにはあった。
確かにそうかもしれない。過去は思い出に。そしてこれからの糧に。
あの過ごした日々があったからこそ今の俺達はある。それだけ分かれば、後はいい。これからはただ突き進んでいくだけだ。
けれど、未だに気になる事がただ一つ。これは過去に流すにしても、清算が出来ていないことである。
「……結局、『既に魔法使いが居る』と舞に思い込ませたあの神託ってのは、やはり女神の仕掛けた悪戯だったってことなのだろうか。本当にそれだけで片付けて良いものなのかと、未だに思う訳だが」
神託の巫女がそれを違えたのか、それとも女神が託した虚偽の混じった神託だったのか。
マイが言うには、今代の巫女は、今まで神託を外したことが無かったと言う。
だとするならば、今回ばかり女神が虚偽を交えたと言うのは、俺は些か腑に落ちなかった。
「……そればかりは、私にも分かりません。けれど推測としては、この世界との暦の違いが、神託の巫女の考えに影響していた可能性も考えました。一月を数年一度補充する閏年に、この世界の十一月と十二月を重ねてしまったのでは無いかと思ったのです。……ただ、もしかしたら本当に――」
そこまで言って舞は首を振り、艶やかな銀の髪を揺らす。
そして自分に納得させるように一度頷くと、舞は俺と視線を合わせて朗らかに笑ってみせるのだった。
「いえ、何でもありません。言葉が過ぎましたね。私の主様は、秋也さんただ一人に他ならないのですから、それだけで充分なのです。あの神託はきっと、悪戯好きな女神が施した、私達への祝福だったのでしょう」
……まあ、そうだよな。そう思うべきなのだろう。舞がそう言うように、そう割り切って解釈するのが一番かもしれない。
それでも多少は気になるが、今は舞と居られるというその事実があるだけで、それ以上はもう構わないのだから。
女神からの贈り物として、有り難く受け取って置くべきなのだろう。
そんな事を思いながら、俺は腕に巻いた腕時計に目を見やった。現在の時刻は17時59分。
それを覗き込んだ舞がその時刻を確認すると、一度深呼吸してから頷き、振袖から一枚の古めかしいお札の様なものを取り出すと、言葉を放った。
「……では、そろそろ頃合いですね。これは神託の巫女の特製の物なので、少し術の様式も違うのです。――それでは、いきます。
『導きの酉たる銀の鳩。我が銘称、美鳩の名において命ずる。我が主を導く異界の門よ。酉の刻、今此方にその在処を顕現せよ』」
その言葉が唱えられた瞬間、舞の手の中にあるその札からは銀の毛並をした一羽の鳩が姿を現わした。
するとその鳩は銀の翼をはためかせて、曇りゆく空へと勢いよく広げて飛び立ってゆく。
空の雲の層へ到達することなく何かの狭間に飲み込まれるかのように、その一羽の鳩は虚空へとその姿を眩ませた。
そしてその姿が消えると共に新たな事象が起きる。
その瞬きを目に認めた刹那、舞と俺の二人の足元には白地の魔導陣が現れ、その白き輝きを放ち始めたのだ。
不思議にも何か暖かなものを、俺がこの魔導陣の光に感じるのは、俺が魔法使いであるからなのだろうか。何の脈絡も無く、直感的に自分の中に抱いた感覚がそういったものだった。
それにしても、だ。先程舞が名乗ったミハトという珍しい響きの名前。それは舞の口からは初めて聞く名前なのだが、一体何なのだろうか。
不可思議に白く光る魔導陣の術中、舞は俺の方へと振り向くと、自らの左手を俺に対して差し出した。
そして俺が聞くよりも早く、俺の疑問のその名を解してくれた。
「……先程の名前、ですよね。我らが皇祖神たる女神を導きし、賢なる酉。皇国ジパングの神話に伝わる、賢なる美しき銀の鳩。それは敬意を込めて、御鳩と呼ばれています」
その話を元にして鑑み、日本神話に置き換えて言うならば。それはさながら、神武天皇を導いた八咫烏の様な存在と言えるかも知れない。
「それを置き換えて御を美とし、その名に因んで神託の巫女が私に付けてくれた……私の役割を示す、私のもう一つの名前。それが『美鳩』なのです」
そういえばあの時、舞が京都御所で言っていた言葉を思い出す。
確か、『道を切り拓きし賢なる鳩よ、女神の意思を汲まぬことを許したまえ』というような事を言っていた筈だ。
女神に対してでは無く、鳩に許しを請うような言い回しだったのは、自らがその名を冠しているが故に、ということだったのかも知れない。
「美しい銀の御鳩で、美鳩、ね。良い名前じゃないか。俺にとっては、本当に魅力的な鳩だったっていう訳だな、舞という少女は」
俺はそう言って笑い、先程舞に差し出された手を、自分の右手でしっかりと握った。
これはきっと、俺と逸れないようにと差し出された手なのだろう。
初めてこの神社で出会った時のような躊躇いは、俺はもう見せない。
生涯の伴侶として、これからもずっと。俺がこの手を離すことは、絶対に無いのだから。
「……秋也さんにそう言われると、やっぱり、少し恥ずかしいですね。でも、主様にそう言われること以上に、嬉しい事は無いのです。私、ちょっと身長は低いですけど、これからきっと伸びていく筈ですから。主様にとって、もっともっと魅力的になってみせます」
俺のその手をしっかりと握り返して、照れくさそうに頬を染めた舞は、そのままニコリと微笑んだ。
今のままでも充分に可愛いのに、これ以上魅力的になられちゃ堪らないと思うのだが、それもまた楽しみにしながら、皇国で過ごしていくとしよう。
そしてその輝きを増し始めた魔導陣の異界への光が俺達を包む中、心を決めるように一度目を瞑った舞が。
俺の生涯の中で最も記憶に残っている、大切な言葉を紡いだのであった。
「この主を導く名前と共に、マイは貴方と生きていきます。……立ち止まった時は、私が道を拓きます。迷った時には、私が主様を導きます。その生涯を終える時も、この魂は、主様と共に在り続けましょう」
そして、気既を持ったその桃色の瞳を俺へと差し向け、舞はこの世界で俺が耳にする、最後の言の葉を言い放つ。
その微笑みに、何にも勝る幸せな想いを携えながら――。
「愛しています、秋也さん。出会えたのが貴方で、本当に良かったです。これからも、ずっと、ずうっと一緒ですからね」
……ああ、言われるまでも無い。ずっと一緒だ。
そう言葉に返すと、俺は舞の手を握る右手を寄せて、その華奢な身体を腕の中に抱きとめた。
本当に大切なモノは、今此処にある。
俺にとっての幸せも、人生も、これからの全ても。
この幸せな感情と共に、この少女の為に在り続けよう。
これからどんな事があったとしても、彼女はきっと俺を導いてくれることだろう。
だが、それだけでは主としての威厳が無いというものだ。
彼女が困った時にも同様に、俺はこの少女を支えていこうと思う。
それが俺達の在り方で、たった一人の生涯の伴侶としての、幸せな道の歩み方なのだから。
舞の小さな身体をその腕に抱きとめたその瞬間、魔導陣の閃きは俺達を完全に包み込み。
そして俺達は、世界を異にする皇国へと旅立つのだった。
▽
人は、何を運命と呼ぶだろうか。
歩いた道を、生きた軌跡を。大切な人との、出逢いを。
辿り着くべき運命の道筋がそこにあるのだとしたら、俺はこの出逢いに感謝したい。
異世界から来たという、自称誉れ高き、高名な魔術師の少女、マイ・マイム・ベサソとこの俺、藤野秋也との出逢いの物語は、ここで幕を迎える。
この物語を目にした方々がどんな感情を抱くのかは知れない。
けれど、ただ一つ、ここにそんな物語が綴られていたという事を知ってくれる者が居たとするならば。
とても気恥ずかしいけれども、それはとても喜ばしいことだと俺は思う。
何故ならこの俺の最愛の妻、舞という少女について知って貰えたのだから。
――さて、長々とした語りも終わる頃だ。そろそろ俺も、筆を置く事としよう。
今もまた、この自室で過去の出来事を綴っている俺を呼ぶ、舞の声が聞こえてきているからな。
……そうだな、この物語を締める最後の言葉は、何にしようかと俺はずっと考えていた。
結局良い案が浮かばなかった為に、俺は読み手に対するこんな言葉で、この俺と舞の歩みを綴った物語を締めくくろうと思う。
信念を貫けば、そこには結果が待っている。
自分を例に出して言う事だが、未だ貞操を失っていない者であるならば、それを誇りに思えと伝えたい。
大切な人に捧げるべき貞操を、護り続けたその信念の証が、きっと誇れる時がくる筈なのだから。
三十路まで童貞を貫いた、魔法使いの俺が言う事なのだから、間違いない。
……とまあ、冗談めいた俺の本音をここに記して、ここに物語を終えてみせよう。
因みに前述においても重要なのは、童貞がどうたらと言う話では無いことは、分かって頂けている筈だとは思う。
それはさて置くとしてだ。
ただ一つ、マイ・マイム・ベサソの愛らしさが、この物語を読んでくれた方達にも伝わってくれたのなら、生涯の伴侶たる俺としては、最も嬉しい事だと思っている。
兎にも角にも、この場において舞の可愛らしさを語り尽くしてしまっても仕方が無いのであるからして。
最後にこれを記して、筆を置こうと俺は思う。
――俺達の歩みを読み解いてくれた方々に、多大な感謝を。受け継がれる俺達の意思を、心から嬉しく思う。
以上・原文 藤野秋也。
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【物語そのものに対する注釈】
―皇国歴1788年―
執筆された当時におきましては、この物語を本として出版されることは国家機密に当たるとされていました。
そして筆者であらせられる先帝は、その妻にあらせられるマイ様の言に依り、先帝の存命の間の出版は差し止めを受けておりました。
『本当に恥ずかしいからそれだけは止めて下さい。そんなの人に読ませたら、私、主様の事、嫌いになっちゃいますから』
そうおっしゃられた、私の御祖母様であるマイ様の言葉に、かつての秋也様は泣く泣く断念したとのことであります。
これは私のお母様に聞いた話なのですが、ここでも秋也様の意向であるマイ様の可愛らしさに触れられたのなら、孫である私としても喜ばしく思います。
かつて我等の祖国を治めた敬愛なる方々への、感謝の念を抱きつつ、これを注釈とさせて頂きたく存じます。
――我等の皇国に、幸多からんことを。
魔法使いの主様っ!【完】
私の拙い小説をここまで読んで頂き、本当に有難う御座いました。
これで『魔法使いの主様っ!』は完結です。
現代ファンタジー編の終了となりました。
次章からは皇国ジパング編の、
『皇国世界の主様っ!』というタイトルにて、実質の異世界編となります。
この後の彼らの物語に興味を持たれた方は、是非是非、読んで下されば嬉しいです。
エブリスタというサイトにて既に皇国世界の主様っ!は掲載しておりますが、まだまだ序盤ですので、ある程度文字数が貯まったらこちらにも次章として掲載考えております。
それでは、この出逢いに感謝を込めまして――。
Thank you for reading.
See you again.