常音 :約1500文字
「ご紹介いただいたのはこちらになりますね」
「まあ、これなのね……。デザインもいいじゃない。しかも最新型ですって。よかったわね、本当に……」
とある補聴器専門店。少年は背中を丸め、縮こまるようにして椅子に座っていた。膝の上で両手を固く握りしめ、時おり視線だけを左右に走らせては、すぐに床へ落とす。
隣に立つ母親が、その背中を軽くぽんと叩いた。少年は顔を上げて小さく頷いた。
親子は医師の紹介を受け、この日初めて補聴器を買いに来たのだった。
店員が差し出した補聴器は小型で肌の色に自然に馴染むデザインだった。耳に収めれば外からはほとんど目立たない。これなら人目を引くこともなく、学校でちょっかいをかけられる心配も少ないだろう。
もっとも今、少年自身はそんなことを気にしておらず、ただ緊張で体を固くしていた。
無理もない。彼は幼い頃に両耳の聴力を失い、それ以来ずっと音のない世界で生きてきた。人の声や音楽はもちろん、風の音も雨音も知らない。ただただ突然肌を撫でつけてくる無遠慮で不気味な現象にすぎなかった。
テレビの中の人々はほとんど虫のようにわちゃわちゃと動くだけの存在だったし、祭囃子も彼にとっては想像の外のものだった。
風や雨を題材にした詩を読んでも情緒など感じられない。物語の登場人物が音に耳を澄ませ、なぜ感傷に浸るのかがまったく理解できなかった。
それがもうすぐ変わろうとしているのだ。胸の奥は落ち着かず、店に入る前に飲み物を口にしたばかりだというのに喉はもう乾いていた。
「さあ、つけてあげるわね」
母親がそっと手を伸ばし、少年の耳に触れた。細い指先が耳輪をなぞり、慎重に補聴器を装着していく。その感触がくすぐったく、同時に気恥ずかしさもあって、少年は肩をすくめて困ったように笑みをこぼした。
「じゃあ……スイッチを入れるわね。いい?」
母親が少年の顔を覗き込み、ゆっくりと唇を動かして言った。少年はその口の動きを見つめ、小さく息を吸い込んでからこくりと頷いた。
いよいよだ。胸がどくんと脈を打ち、口元がわずかに緩んだ。
音ってどんなものだろう。お母さんの声ってどんな感じなんだろう。音楽は。笑い声は――これまで想像すらできなかった無数のものが胸の中いっぱいに広がっていった。その瞬間だった。
『――げろ!!!』
耳を引き裂くような絶叫が響いた。
少年は目を見開き、椅子から跳ね上がった。反射的に両手で耳を塞ぎ、その場で身を縮める。
母親は「あらあら」と驚いたように呟きながら、すぐに少年の正面に回り込んだ。手話を交えながら「大丈夫?」と問いかける。少年は唾を飲み込み、小さく何度か頷いた。
母親にそっと手首を取られ、ゆっくりと耳から手を離した。
音はそこにあった。低く唸る空調の音、店の外を通る車の走行音、自転車のベル、そして人の声。これまで当たり前に存在していたが、自分が触れることができなかった無数の音が一斉に流れ込んできた。言葉の意味はわからないが、母親と店員が何かを話しているのが聞こえている。
ついにみんなと同じ世界に来たのだ。音で満たされた世界へ。
だが今その感動を抑え、少年の意識を占めていたのはたった一つの言葉だけだった。
さっきのって……。
少年は涙ぐむ母親の横顔を見ながらそっと耳に触れた。
「本当によかったわあ。実はこの子のお兄ちゃんもお姉ちゃんも、この子が生まれる前に事故や病気で亡くしていて……それで、この子がこうだから、あたし、本当に大変で……」
「ああ、そうでしたか……」
ふいに少年の脳裏に記憶が浮かび上がった。
いつかの夜中。真っ暗な部屋。眠っている自分の額にかかる生暖かい息遣い。
耳の奥へ滑り込み、貫いたあの鋭い激痛。
闇の中で歪んだ母の顔。
その傍らには二つの小さな白い人影。彼らは大きく口を開けて必死に何かを叫んでいた。
曖昧だった記憶がざわざわと輪郭を取り戻していった。
――げろ。
――にげろ。
――逃げろ。




