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記憶を操る男

 いったいあれは何なのか。

 東山輝明は自分の頭の中に浮かんだ映像について考えていた。知人の山田が言うには、それは記憶生命体の姿らしい。記憶生命体? 

 『それは記憶自身が生命を宿した存在だ』と山田は言った。

 ・・・それがなぜ自分に見えた、いや、感得できたのか・・・

『あなたも潜在的超能力者なのです』と山田は言った。

 ・・・私が超能力者だと? バカな・・・

『彼にそのことを気付かれた以上、あなたの命が危ない。身を隠しなさい』と山田は言った。

 ・・・命が危ない? どういうことだ・・・

 思考に意識が集中していたためだろう、自宅マンションに向かう細い路地の曲がり角で、暗闇からいきなり現れた男と東山はぶつかりそうになった。

 もうすぐ日付が変わろうかという深夜で、周囲には人影がない。暗闇にクチナシの花の甘い香りが微かに漂っている。

「ああ、失礼・・・」そこで東山の声が途絶えた。

 男は東山の口を片手で押さえ、もう一方の手に握ったナイフを東山の腹に突き立てた。ヒヤリとした感触の後、真っ赤に焼けた鉄の棒が差し込まれたような熱さと痛みが東山を襲った。男は二度三度とナイフを引き抜いては刺した。

 東山の身体から力が抜け、ズルズルと地面に倒れた。


 平成十●年五月下旬 東京都

 矢沢瞭は日本橋にある耕文社ビルの応接室で『雑誌現代社会』編集長の朝倉幸三と向かい合っていた。グレーのポロシャツにジーンズ、足元はスニーカーという、いつもながらのラフなスタイルだ。

 矢沢瞭はフリーのジャーナリストである。百八十センチの長身に筋肉質のすらりとした体形で、年齢は三十歳になる。涼やかな目元には笑うと目尻に笑いじわが浮かび、出会った相手に人懐っこい印象を与える。高い鼻梁とほっそりとした顎のラインが端正な顔立ちを引き立てている。独身の気楽さで、アメリカと日本を行き来しながら仕事の依頼を受けて記事を書いていた。朝倉とは過去に何度か仕事の依頼を受けた旧知の間柄である。

 応接室に差し込む初夏の明るい陽光とは対照的に、向かい合って座る瞭と朝倉の顔には沈痛な色が浮かんでいた。

 応接テーブルの上には珈琲カップがふたつ置かれていて、その横には朝刊が広げられていた。朝刊の三面にはフリージャーナリストの東山輝明が何者かに刺殺された事件の記事が小さく載っていた。

 朝倉のだみ声が応接室内に響いた。いつもは豪快な笑い声と大きなだみ声で周囲を圧倒している朝倉だが、今日はさすがに神妙な顔をして声にも力がない。

「矢沢君は殺された東山輝明とは親しかったよな。確か君の大学の先輩だったと思ったが」

 瞭は小さく頷くと、両手で包むように持った珈琲カップに目を落とした。やり切れない思いなのだ。

「ええ、兄貴のように思っていました。僕がこの道に入ったのは、東山さんから声を掛けてもらって取材の手伝いをしたのがきっかけですから。東山さんは子供の頃にご両親を亡くされていて親戚に引き取られて育ったそうです。実は僕も生まれてすぐに両親を亡くして里子に出されたんです。同じ境遇だといって可愛がってくれました。しかし、なぜ東山さんがこんなことに・・・」

 瞭は朝倉の顔を見た。雑誌の編集長という仕事柄、朝倉は驚くほど情報通なのだ。その朝倉は肉厚の赤ら顔を上げると眉間にしわを寄せた。

「分からない。取材でトラブルに巻き込まれたのか、単なる強盗なのか、はたまた怨恨か・・・皆目見当がつかないんだ。矢沢君は何か思い当たる節はないのかい」

 瞭は首を横に振った。

「僕はここ二か月ほどアメリカで仕事をしていましたので、東山さんとは顔を合わせていないんです。一月前にラインで話したときは、何か新しいテーマで取材を始めているようなことを言っていたんですが、詳しい内容までは聞きませんでした。東山さんの取材テーマなら朝倉さんの方が詳しいんじゃないですか?」

「ザクッとした話だけ聞いた。何でも第二次世界大戦中の日本陸軍における特殊兵器の開発に関することらしいが、それ以上は分からない」

 瞭が首を捻る。そんな昔の話がいまの殺人事件に繋がっているとは思えない。

「戦時中の特殊兵器ねぇ・・・。警察は何と言っているんですか」

 朝倉はうんと頷くとソファーに背中を預け、両手を頭の後ろで組んで天井を見上げた。

「事件の所轄署に知り合いの刑事がいるから、ちょっと探りを入れてみたんだが、まだ周辺の聞き込みと東山君の当日の行動ルートの確認の最中らしくて、本格的な捜査はこれからだそうだ。但し、遺体の所持品を見ると、財布、時計、ノートパソコンなどの金目のものが持ち去られているが、鞄の中の取材メモ、取材資料、手帳類は手付かずで残されていたから、警察は強盗を本筋に考えているようだがね。逆に、こっちに情報がないかと聞かれたよ」

 瞭はズルリと一口珈琲を啜った。喉の奥に広がる苦みは、珈琲のせいだけではないようだ。

「自宅の捜索は行われたんですか」

「これかららしい。強盗なら自宅は関係ないからな」

「なるほど。亜希子さんはさぞ気を落としているでしょうね」

 独身の瞭は、何度も東山の自宅に呼ばれて妻の亜希子の手料理を御馳走になっている。仲睦まじい東山夫婦の楽しそうな笑顔が瞭の脳裏に浮かぶ。

「まあな。旦那があんな風に殺されたんだ、平気じゃいられないだろう。先程、電話してみたが不在だった。身元確認や遺体の引取りのために警察にいるんだろう」

 瞭は暗澹たる思いでもう一口珈琲を啜った。瞭はふと思い出したように顔を上げた。

「怨恨といえば、去年でしたか、東山さんが取材中に暴行を受けた事件がありましたよね」

 朝倉がギョロリと両目を動かした。

「ああ、人の記憶を操る記憶屋がいるという都市伝説の取材中に、新興宗教団体の信者に襲われたんだ。東山君の自宅にも信者が押しかけて、亜希子さんまで怪我をしたな。だがあれは刑事事件も結審したし、騒動も決着している。うちの社から警察を通じて先方の教祖とやらに話を通して、これ以上は手を出さないということで話がついたからな。もう一年も前の話だ。今回の事件とは関係ないだろう・・・とはいっても・・・。そうだな、警察に情報提供しておくか。とにかく、犯人捜しは警察に任せるしかないな。何か情報があれば教えてあげるよ」

 瞭はペコリと頭を下げた。フリーのジャーナリストに行きずりの強盗犯探しなど無理だ、できることは、亜希子を慰めることしかない。

「ありがとうございます。それじゃあ僕は、時間を見て亜希子さんの様子を見に行ってきますよ。葬儀の手伝いも必要でしょうから」

 瞭はそう言うと立ち上がった。


 東山の葬儀が終わり、一週間が経った。

 東山を殺した犯人は依然として逮捕されていなかった。鞄の中に残されていた手帳から、ここ一月ほどの東山の足取りは判明していて、関係先への聞取り調査は既に終わっていた。昨年の新興宗教団体とのトラブルも洗い直されたが、今回の事件に繋がるような事実は認められなかった。朝倉からの情報によると、警察は行きずり犯による強盗殺人事件ということで捜査方針を固めたらしい。

 瞭は、千葉県船橋市にある東山の自宅マンションを訪ねた。東山の妻亜希子の体調が心配だったのだ。通夜や告別式のときには気丈に振舞っていたが、顔色は青く目は虚ろで喪主席に座った亜希子の姿はボンヤリと霞んだ幽霊のように見えたのだ。

 インターホンを押すと、ガチャリとドアが開き、亜希子が顔を見せた。化粧気のない顔に浮かぶぎこちない笑顔は、瞭を見て無理に笑い顔を造っているためだろう。げっそりと痩せた亜希子の顔を見て瞭の心が痛んだ。

 寒々しい部屋の中で瞭と亜希子はソファーに向かい合って座った。テーブルの上には亜希子が淹れた珈琲の入った大きなマグカップがふたつ置かれている。瞭が無類の珈琲好きだと知っていて、亜希子はいつも大きなマグカップになみなみと珈琲を入れて出してくれるのだ。どこかに仏壇があるのだろう、微かに線香の匂いが漂っていた。

「瞭ちゃん、この前の葬儀のときはありがとう。何から何まですっかりお世話になっちゃって」

 亜希子が深々と頭を下げた。瞭はイヤイヤと前に出した両手を横に振った。

「いいんですよ、大変だったのは亜希子さんですから。そのう・・・少しは落ち着かれましたか」

 亜希子はひっそりと笑った。無理に浮かべた笑顔だとひと目で分かる。

「まだ気持ちの整理がつかないの。心にぽっかりと穴が開いちゃったみたいで、何も考えられない。目をつぶると遺体安置所で見た血の気のない輝明さんの顔が浮かんできて、夜も眠れないの。いまはお医者さんに処方してもらった睡眠薬を飲んでいるのよ」

 亜希子の声は、肺に開いた針の穴から漏れている空気の音のように小さく力がない。その声を聞いて、瞭の胸は痛んだ。

「無理をしないでください、といっても難しいでしょうね。とにかく、身体を壊さないようにしてください。僕にできることがあれば、何でも言ってください。大した力にはなれないでしょうが、ひとりで悩むよりはいいでしょうから」

「瞭ちゃん、ありがとう」

 亜希子はペコリと頭を下げた。瞭はやり切れない気持ちでマグカップに手を伸ばした。釣られたように亜希子もマグカップに手を伸ばす。ふたりが珈琲を啜る間、暫しの静寂が訪れた。

 瞭はマグカップを両掌で包むように持って、茶道の茶碗のようにクルクルと回しながら思いついたかのように言った。

「警察から犯人について何か連絡がありましたか」

 瞭の声に亜希子は首を横に振った。

「金目当ての行きずりの犯行だろうという話で、周辺の聞き込み捜査をしているらしいけど、犯人の手掛かりはないみたい。そんなにお金を持っているような恰好はしていないのにね。時計だって安物だし」

 身だしなみに気を遣わないのは瞭も東山と同じだ。金目当ての衝動的な犯行なら、身だしなみはあまり関係ないのかも知れない。単に、東山が不運な場所に行き合わせたということだろう。

「東山さんの最近の取材資料などは警察が捜索して持って行ったんですか」

 瞭としてはやはりその点が気になる。

「刑事さんがひとりきて、机の上とか引出しの中をおざなりに見ただけよ。輝明さんの仕事部屋はそのままにしてあるから、何か気になることがあるなら瞭ちゃん調べて頂戴。万年筆とかパソコンとか、使えるものがあれば持っていってよ。形見分けね。そうだ、瞭ちゃん、晩御飯食べていかない? ひとりじゃ作る気にもならないけど、瞭ちゃんがいるなら久しぶりに腕を振るうわ」

 料理が気晴らしになるのだろう、少しだけ元気が出たような顔をした亜希子を見て、瞭は頷いた。

「それじゃあ、ご馳走になります。それまで仕事部屋で取材資料を拝見しようかな・・・」

 亜希子がキッチンに向かう姿を見て、瞭は東山の仕事部屋のドアを開けた。警察は行きずり犯による強盗事件と考えているようだが、取材上のトラブルという可能性も捨てきれない。少なくとも最近の取材資料には目を通しておく必要がある。


 几帳面な性格の東山らしく、仕事部屋は書籍や資料が整然と並べられていた。どこに何があるか分からないような瞭の部屋とは大違いだ。机の引出しを開けると、取材した案件ごとに資料がファイルに綴じられていて、そのファイルが五十音順に並べられている。隣の引出しには職業柄大量に入手する名刺が五十音順に並べられていて、しかも、一枚一枚に受領年月日の日付印と、何の案件かという簡単なメモまで書いてある。

「最近の取材テーマ・・・朝倉さんは、確か『第二次世界大戦中の特殊兵器開発』とか言っていたな」

 古びたファイルは無視して最近のものと思われる新しいファイルに目を通していく。

 最初に目についたのが、一年前に取材していた記憶屋と呼ばれる都市伝説に関するファイルだった。記憶を操る男がいるという都市伝説を追ううちに、怪しげな施術でマインドコントロールをしている新興宗教団体『陽光の僕』に行き当たった。実態を調査する過程で陽光の僕の信者から暴行を受け、東山は全治一か月の大怪我を負ったのだ。

 東山の自宅マンションに押しかけた信者は亜希子を監禁して軽傷を負わせている。暴行事件は決着を見たものの、その後亜希子は重度の心的外傷後ストレス障害を発症して半年ほど入退院を繰り返していたのだ。ファイルに挟まれていた封筒の中には、当時の亜希子の治療経過に関する資料も残されていた。亜希子は心神耗弱の上、自殺未遂まで起こしていた。

「知らなかった・・・亜希子さんがこんなに苦しんでいたなんて」

 事件当時、瞭はアメリカで仕事をしていたため東山の事件は伝聞でしか知らなかった。やっとそれを克服したと思ったら、今度は夫が刺殺されたのだ。亜希子の心中はいかばかりかと瞭の気持ちは沈んでいく。

 五、六冊のファイルに目を通した後、最近の取材テーマらしきファイルが現れた。

『旧日本陸軍 特殊潜在能力開発室 特殊能力兵器』

 ファイルの中には、極秘と印の押された旧日本陸軍の機密文書の写しや関係者からの聞き取りメモが入っていた。特殊能力兵器とは何だ? 瞭の目がその文字に吸い付けられた。

 瞭が資料をパラパラとめくり始めたとき、キッチンからガチャンという音に続いてドサリと何かが倒れた音がした。手にしたファイルを放り出して、瞭は部屋を飛び出した。積み上げていたファイルが崩れたが構っている場合ではない。

「亜希子さん! ああ、何てことだ」

 キッチンで亜希子が床に倒れて激しく痙攣していた。床には割れた皿やコップの破片が散乱している。気丈に振舞っていたがやはり限界だったのだろう。瞭は亜希子の元に駆け寄りながら、スマートフォンを取り出して119番通報した。


 東都船橋総合病院の病室のベッドの上で亜希子は眠っていた。亜希子の青白い顔は眼窩が落ち込み、頬がこけて骸骨のように見える。ベッドの横には点滴スタンドが立っていて、亜希子の痩せた腕にはカテーテルが刺さっていた。

 瞭はベッドの横の丸椅子に腰掛けて、亜希子の寝顔をボンヤリと見ていた。主治医によれば、亜希子が倒れた直接の原因は栄養失調と睡眠薬の過剰摂取によるものだが、それ自体は現象面に過ぎず、根底には夫が刺殺されたことによるトラウマが引き起こす重度の心的外傷後ストレス障害(PTSD)があるのだそうだ。体力の回復の状況に合わせて、薬物療法と心理療法を併用して行っていく必要があるが、PTSDがどこまで改善されるかは分からないらしい。

 病院に担ぎ込まれた亜希子が意識を取り戻したとき、瞭が話しかけても全く反応しなかったのはPTSDのためだろう。虚ろな目を開けて何も言わずに天井をジッと見つめるだけの亜希子の顔が、瞭の頭の中に浮かぶ。気持ちの優しい、悪く言えば繊細過ぎる亜希子の精神はガラスのように砕けてしまったのだろう。

 看護師が病室の入口から顔を出して、面会時間の終了を告げた。瞭はため息をひとつ吐いて重い腰を上げた。


 翌日、瞭は亜希子の見舞いのために東都船橋総合病院に向かった。エレベーターで四階に上がり、亜希子の病室に向かって廊下を歩いていると、亜希子の病室から男が出てきた。亜希子の見舞客なのか? 瞭は廊下ですれ違いざまにさりげなく男を見た。

 五十歳代の痩せて貧相な顔つきの男。少し猫背で身長は百六十センチ程度。男は目を伏せて瞭の横を通り過ぎた。これまで見たことのない男だ。亜希子の親類縁者かも知れない。

 病室の入口で立ち止まって、離れていく男の背中を見つめていた瞭は、やがて諦めたように首を振ると病室のドアを開けた。病室には消毒薬の臭いに混じって清純な花の香りが漂っている。先程の男が持ってきたのだろう、ベッド脇のサイドテーブルの上の花瓶に花束が活けられている。

「あら、瞭ちゃん。お見舞いにきてくれたの、嬉しいわ。忙しいのにありがとう」

 亜希子はベッドの上に上体を起こした姿で瞭を見ると、ニッコリと笑った。痛々しいほどに痩せた顔は変わらないが、表情は柔らかく目に光がある。言葉にも明るいトーンが感じられる。

「あのう・・・」

 瞭は思わず絶句した。いったいどうしたというのだ? 昨日までの亜希子の様子とは全くの別人である。

「いやだ瞭ちゃん、そんなところに突っ立ってないで、お座りなさいよ」

 瞭は眼を白黒させながら、ベッドの横の丸椅子に座った。

「亜希子さん、お身体の方はいかがです」

 瞭はおずおずと声を掛けた。亜希子は柔らかな笑顔を浮かべて小さく頷いた。

「ありがとう、身体はまだまだだけど、気持ちの整理はついたわ。くよくよしても始まらないもの、死んだ輝明さんが生き返る訳でもないしね」

 心の踏ん切りがついたという風に、口調はサバサバとしている。どうも調子が狂う。

「そうですよ、いやなことは早く忘れて前を向いて歩いていかなきゃ」

 亜希子の変化に戸惑いながら瞭は相槌を打った。

「本当にねぇ・・・。輝明さんったら私ひとり残して勝手に天国に行っちゃうんだもん。でも、心筋梗塞なら仕方ないわ。人間ドックでコレステロール値が高いとか、軽度の不整脈だなんて言われていたのに、大丈夫だなんてほったらかしにするから・・・。瞭ちゃんも他人事じゃないわよ、気を付けてね」

 瞭は両目を見開くと、唖然とした顔して亜希子の顔を見た。亜希子の言っている意味が、咄嗟に理解できなかった。亜希子は平然とした顔をしている。

「心筋梗塞? 亜希子さん、何を・・・」

 亜希子は不思議そうな表情で小首を傾げた。

「何よ瞭ちゃん、びっくりした顔して。輝明さんの死因を聞いてなかったっけ? マンションに帰る途中、路上で心筋梗塞に襲われたのよ。深夜だったから人通りもなくて、助けてくれる人もいなかったのね。悲しいけどこれも運命なのよ、妻の私が受け入れなきゃ」

 瞭は耳を疑った。亜希子は何を言っているのだろう。精神的なショックが大きすぎて現実逃避してしまったのか。まさか発狂・・・。瞭は亜希子の顔をまじまじと見たが、亜希子の目や表情や仕草には、狂人に見られるような狂気が感じられない。とにかく、話題を変えようと瞭は思った。

「ところで、さっきお見舞いに見えられた方はどなたです。仕事関係では見たことがありませんが、ご親戚の方ですか」

 今度は亜希子がキョトンとした顔をした。

「お見舞い? 瞭ちゃん何を言っているのよ。今日お見舞いにきてくれたのは瞭ちゃんが最初よ。このお花だって瞭ちゃんが持ってきてくれたんでしょ。ウン、良い香り」

「・・・」

 瞭は返す言葉を失った。

 ・・・僕の見間違いか・・・いや、確かにあの男は亜希子の病室から出てきた。飾られている花がその証拠だ、あの男が持ってきたのだ。しかし、亜希子はそのことを覚えていない。記憶の混濁・・・記憶障害・・・まさか記憶の改変? 瞭の脳裏に東山の仕事部屋で見た記憶屋という都市伝説のファイルが浮かんだ。そんなバカな。あれは都市伝説だ、現実のものじゃない。人の記憶を操るなどできる訳がないのだ。しかし、目の前の亜希子を見ると、記憶が改変されたとしか思えない。これはいったい・・・。

 上の空の状態で三十分ほど亜希子の話し相手をして、瞭は病室を出た。少なくともこの精神状態であれば自殺云々ということにはなるまい。まずは身体を治すことが先決だ。記憶の混濁なのか記憶障害なのか・・・あるいは記憶の改変なのか・・・は、その後ゆっくりと治療すればいいのだから。それとも、このまま殺人事件のことなど忘れて生きていく方が幸せなのかもしれない。イヤな記憶などなくしてしまえばいいのだ。


 亜希子の病室を出た瞭は、東山のマンションに向かった。昨日は亜希子が急に倒れたためそのままになってしまったが、東山の仕事部屋に置いたままの取材ファイルが気になったのだ。記憶屋という都市伝説のファイルが頭から離れない。

 瞭は亜希子から預かっている合鍵を使って部屋に入った。人気のない室内にほのかに線香の香りが残っていた。東山の仕事部屋は昨日のままだ。キッチンに駆け出した際に床に崩れたファイルからこぼれ出た資料が床に散乱していた。

 几帳面だった東山さんが生きていたら、この状況を見たらどやされるなと思いながら、瞭は床の上の資料をかき集めた。仕事には厳しいが、プライベートでは兄貴のように優しかった東山の笑顔が瞭の脳裏に浮かんだ。

 拾い上げた資料を整理しようとして、ふと手に取った写真に瞭の目は釘付けになった。写真には五十歳代の痩せて貧相な顔つきの男が写っていた。隠し撮りをしたのだろう、斜め四十五度の角度から捉えた男の視線はあらぬ方を向いている。

 ・・・さっきの男だ! 亜希子さんの病室の前ですれ違った男に間違いない・・・

 床の上に散乱しているのは記憶屋のファイルに収められていた資料だ。この男は記憶屋に関係しているのか。記憶を操る記憶屋がいるという都市伝説・・・記憶の改変などできるのか・・・殺人事件のことを忘れて、いや、別の記憶を得て別人のように明るくなった亜希子の姿が浮かぶ。やはり亜希子は記憶を改変されたのだろうか・・・あの男に。

 瞭は床に座り込むと、記憶屋に関する資料を貪るように読み始めた。


 東山のマンションを出た瞭は、東京都港区新橋にある烏森第二ビルの外階段の陰に隠れるようにして立っていた。

 午後五時を過ぎているが初夏の空はまだ明るい。サラリーマンでひしめく表通りの飲食街の喧騒が嘘のように、目の前の路地は歩く人の姿もまばらでひっそりとしていた。どこからか焼き鳥の少し煙ったような甘い匂いが漂っている。

 東山の仕事部屋で見た記憶屋のファイルによると、男の名前は山田。住所は不明だが、新橋の路地裏で失せ物探しの店『舟』を開いている。東山は断定していないが、都市伝説にいう記憶屋とはこの舟を指すようだ。

 山田は東山輝明の殺害に関係しているのか。山田はなぜ亜希子の元に訪れたのか。それに加えて、都市伝説でいわれるような記憶を操る能力が山田にはあるのか。亜希子の急な変化は山田が記憶を改変したからなのか。情報が少なすぎて瞭には答えが見えない。

 仮に山田が東山の殺害に関係しているのであれば、山田をこのままにしておく訳にはいかない。最終的な捜査は警察に任せるにしても、容疑者と成り得る事実を掴んで警察に引き渡すのだ。それは瞭にとっての東山の弔い合戦だ。まずは山田が何者なのかを調査しなければならない。瞭はそのために山田の張込みを始めたのだ。

 午後六時過ぎに山田が大きな手提げ袋を手にして現れた。山田は路地に入っていくと、手提げ袋の中から折り畳みの椅子とテーブルを出して広げた。テーブルの上に置いた雪洞に火を付けると『舟』という文字が路地を覆う夕闇の中にぼんやりと浮かんだ。山田は椅子に座ったまま下を向いて単行本を読み始めた。瞭はその様子を確認すると外階段に腰を下ろした。

 ひとりの客もないまま、午後十一時になると山田は店を片付け、隣で店を構えている手相占いの老婆に無言で会釈すると、大きな手提げ袋を持って路地から出て行った。 

 山田は疲れた足を引きずるようにトボトボと新橋駅に向かって歩いていく。午後十一時の新橋駅前広場は酔ったサラリーマンの集団で溢れかえっていて、声高に話す酔っ払いの嬌声怒声の入り混じったウワーンという騒音と、彼らの吐く息で駅前広場全体がムッとした生暖かい酒の臭いの中に沈んでいる。

 瞭の前方には人ごみをかき分けるように歩く山田のやや猫背の背中が見え隠れしている。

 山田は新橋駅のガード下通路を抜けると、都営大江戸線の汐留駅に向かった。汐留駅に向かう人の流れは大きな河のようで、その流れに身を任せて山田は歩いていた。汐留駅の改札の手前まで進んだ山田は、左手に持った手提げ袋を揺するようにして右手に持ち替えると、不意に足を止めてぐるりと辺りを見回した。

 山田の二十メートル後方を歩いていた瞭は、山田が止まった瞬間、咄嗟に目を伏せた。気付かれたか・・・瞭は一瞬ヒヤリとした。

 瞭の頭を靄のような白っぽい何かがザラリと撫でていった。

 撫でられた部分の頭皮の毛根が収縮して瞭の髪の毛がザワリと逆立ち、背中や腕には鳥肌が立った。それは瞭の意識の中に入り込もうとしたのだ。靄の中から伸びた無数の小さな触手が、頭皮の毛穴から脳内に侵入しようとしたが、瞭の意識に阻まれたのだ。撫でられた部分が感電したかのようにピリピリと痺れている。こんな感覚は生まれて初めてだ。

 瞭は思わずその場で一瞬立ち竦んだ。

 瞭がおずおずと目を上げると、改札に向かって流れていく人ごみの中で、ひとりだけ反対方向を向いて動かない山田が無表情でジッと瞭を見つめていた。山田の目が青白く光っているようだ。山田は瞭の顔を確認すると、不意にクルリと背中を向けて改札を抜けた。

 尾行がバレた。瞭は尾行の継続を一瞬ためらったが、直ぐに腹を括った。

 ・・・こうなればどこまでも付いて行ってやる。仮に山田に待ち伏せされて尾行を問い詰められても、何のことかとしらばっくれるまでだ。それぐらいできなければ、フリージャーナリストで食ってはいけない。・・・

 改札を抜けた山田を慌てて追いかけた。

 山田は清澄白河駅で半蔵門線に乗り換えると住吉駅で下車した。瞭が尾行していることに気付いているはずだが、山田は一度も瞭の方を振り返らない。山田は住吉駅を出ると住宅街に向かって歩き、細い路地を曲がると、五階建ての古い賃貸アパートに入った。

 瞭の尾行に気付いている山田におびき寄せられたのだろうか。簡単に山田の住所が判明したことに、何か裏があるのではないかと瞭が疑念を持ち始めたとき、汐留駅で感じたピリピリとした感覚が蘇ってきた。もし、あれが頭の中に入ってきていたら、どうなっていたのだろう。記憶の改変? 瞭は思わず顔をしかめて山田のアパートを見上げた。

 いったい山田は何者なのか。


 翌日、瞭は山田の住むアパートに向かった。

 午前八時過ぎ。路地のかげで身を潜めていると、山田がくたびれた紺色のスーツ姿で小さなカバンを持ってどこかに勤めに出かけた。

 その姿を確認した瞭はアパートの二階に上がった。205号室のドアに山田と書かれた小さな紙切れが貼り付けてあった。部屋番号を確認した瞭は、その足でアパート一階の管理人室を訪ねた。

 瞭は管理人に声を掛け、取材の際に時々使う『東京中央興信所』の名前の入った名刺を差し出した。山田に縁談の話が進んでいて内々に身元調査をしていると言うと、黒ぶち眼鏡をかけて薄い頭髪をペタリと撫でつけた人の良さそうな管理人は、興味深げな顔をして瞭を管理人室に迎え入れた。

「へえ、あの山田さんに縁談ねぇ」

 管理人は応接セットに座っている瞭の前に湯のみを置いた。瞭は頂戴しますと言ってお茶を一口飲んでから切り出した。

「まだ、山田さんはご存じないのですが、山田さんの遠いご親族の方の骨折りで縁談の話が持ち上がっています。話が進む前に内々にどんな人なのか調査してほしいと、先方から私どもにご依頼がありまして・・・。差し支えなければ、いまの勤務先や普段の生活、人となりなど管理人さんのお分かりになる範囲で教えていただければ有難いのですが。ああ、もちろん謝礼の方もご用意させて頂いております」

 フムフムと話を聞いていた管理人の顔色が、謝礼と聞くとパッと明るくなった。

「いやいや、謝礼などなくても山田さんのためになるなら協力は惜しみませんよ」

 これなら何を聞いても大丈夫そうだと思った瞭は、とっておきの営業用スマイルでニッコリと笑った。相手の警戒心を解いて情報を引き出すのは、フリージャーナリストの瞭にとっては朝飯前だ。

 管理人は壁に備え付けられたキャビネットから書類を引っ張り出すと、これを見ろとばかりに、瞭の前にアパートの賃貸借契約関係書類を広げた。

 関係書類によると、山田の本名は山田一郎、昭和三十年一月生まれ、五十一歳、東京都江戸川区出身、独身、勤務先・神田神保町三丁目セイワ企画株式会社・事務員、転居前の前住所は江東区新木場八丁目・・・後藤ハイツ103号室となっていた。

 メモを取りながら瞭はさりげなく尋ねた。

「山田さんの普段の生活や交友関係についてご存じでしょうか」

 管理人は当然だという顔をして頷いた。筋金入りの管理人を自負しているのだろう。

「山田さんは毎朝午前八時過ぎにスーツ姿で出勤して、午後五時過ぎに帰ってきます。その後、大きな手提げ袋を持ってどこかに出かけます。どこに行くのかは知りませんが、午後十一時過ぎに帰ってきます。毎日判を押したように、この繰り返しですよ。休日は部屋に閉じこもっているようで姿が見えません。アパートの住人との交流はありませんし、私の知る限り、友人が訪ねてきたこともないですね」

 宅配便の受け取りで管理人が席を外した隙に、瞭は管理人室の壁に掛かっているアパートのマスターキーにそっと近づき、製造会社とキー番号をメモした。フリージャーナリストという職業柄、あらゆるケースを想定しておく必要があるのだ。例えば、不法侵入とか・・・。

 必要情報を入手した瞭は、営業用スマイルを浮かべたまま軽く頭を下げた。

「ありがとうございました。大変参考になりました。ところで本日の調査の件はくれぐれも山田さんにはご内密に願います。縁談という微妙なお話ですから・・・」

「もちろんです」

「これは些少ですが・・・」

 瞭の差し出した謝礼の袋を管理人は嬉しそうに受け取った。

 管理人室を後にしようと腰を上げ、ふと気になった瞭はメモ帳に挟んであった写真を取り出した。

「この写真の男性は山田さんに間違いないですよね」

 瞭の示した写真を見た管理人は困ったような顔をした。

「山田さん? はて・・・山田さんの顔・・・」

 瞭の心の中にムクリと不安が湧き上がった。

「どうされました」

「いえね、山田さんの顔が浮かんでこなくって、こんな顔でしたっけ? 年でしょうかねぇ、山田さんだけどうしても覚えられなくて・・・ハハハ、何せ影の薄い人ですから」

 管理人は、大したことではないという風に苦笑いを浮かべている。管理人は山田の顔を判別できないことに何の疑念も持っていない。

 瞭は写真の中の山田の貧相な顔を食い入るように見つめた。まさか、管理人の記憶が操作されているのか。


 山田の勤務先のセイワ企画株式会社は小さな不動産管理会社だった。山田が午後五時すぎに退社したことを見届けてから、瞭は会社に入り受付で声を掛けた。中では数人が帰り支度の最中で、「はあい」という返事の後、固太りの豆狸のような中年の女性が出てきた。

 瞭は『東京中央興信所』の名刺を差し出し、アパートの管理人のときと同様に、山田の縁談に関する内々の身元調査であることを告げた。瞭の声が聞こえたのか、事務室から更にふたりの女性が興味津々という顔をして出てきた。ひとりは鶴のように痩せて背が高く、もうひとりは亀のように手足が短い。

「山田さんに縁談ねえ」

 アパートの管理人と全く同じ反応をして、三人は互いに顔を見合わせクスクスと笑った。三人の様子を見ると、山田は勤務先で軽んじられているようだ。

「あの人、仕事中は全く無駄口を利かないし、休憩中もひとりで本を読んでいるんですよ。五時になったらさっさと帰っちゃうんで一緒にお酒を飲みにいったこともないわね」

 最初に受付に出てきた豆狸がそういうと、残りの鶴と亀も頷いた。瞭は質問を続けた。

「友達から電話が架かってくることはないんですか」

「これまで見たことないわね。友達いないんじゃないの」と豆狸。

「山田さんはいつからこの会社にお勤めですか」

「さあ・・・五年くらい前だったかしら」と豆狸。

「違うわよ、私より前だから十年は経っているはずよ」と鶴。

「そういえばよく覚えていないわ。いつの間にか会社に居たって感じ・・・影が薄いからじゃないの」と亀。

 そう答えた三人は、何がおかしいのかゲラゲラと笑った。

 お付き合いで笑顔を浮かべている瞭だが、内心では驚愕していた。山田の同僚の三人は、山田がいつからこの会社にいるのか分からないことに気付いていない。

「大変参考になりました。ところで本日の調査の件はくれぐれも山田さんにはご内密に願います。縁談という微妙なお話ですから・・・」

 瞭は三人に釘を刺してから、メモ帳に挟んであった写真を取り出した。

「この写真の男性は山田さんに間違いないですよね」

 三人は顔を寄せ合って写真を見ると口々に答えた。

「山田さんの顔?・・・よく覚えてないけど、たしかもっと太っているわ」と豆狸。

「どうも印象が薄くて・・・こんな顔だったかしら。よく分からないなあ」と鶴。

「これって山田さんの若い頃の写真じゃないの。だって、山田さんっておじいちゃんだもの」と亀。

 毎日顔を合わせているはずの三人が山田の顔を認識できない。瞭は何か得体のしれない薄気味悪さを感じた。彼女たちも山田に記憶を操作されているのだろう。


 山田のアパートと勤務先の調査を終えた瞭の山田に対する疑念は、晴れるどころかどんどん大きくなっていた。

 アパートの管理人も勤務先の同僚も山田に記憶を操作されている可能性がある。アパートの管理人に届けている山田の前住所も架空のものだった。いったい山田の周りで何が起こっているのか、山田は本当に他人の記憶を操作できるのか。そして、山田は東山の殺害に関係しているのか、関係しているのであれば東山を殺さなければならないほどの理由は何か。瞭の思考は答えを出せないままグルグルと回り続けていた。

 このままでは埒が明かない。こうなれば、当たって砕けろだ。

 瞭は山田の勤務先の調査を終えると、その足で新橋に向かった。客のふりをして舟に乗り込んで探りを入れてみるのだ。烏森第二ビルの脇の細い路地の入口に立った瞭は、意を決した顔をして路地に入っていった。


 七月十日 千葉県松戸市

 城北大学は千葉県松戸市にあり、広いキャンパス内にはまるで公園のように木々が生い茂り、その中に何棟もの校舎が瀬戸内海に点在する島のように建っていた。

 危うく迷子になりかけた瞭は面会の約束時間に十五分も遅れて小日向信夫教授の研究室にたどり着いた。瞭は汗をぬぐい深呼吸してからドアをノックした。

 脳科学が専門で深層心理学の権威といわれる小日向教授は見事な白髪をキッチリと七三分けてスッキリと痩せた両頬には縦に深いしわが一本走っている。細身の身体にダブダブのカッターシャツを着て棒タイを締めた姿でデスクの前の椅子にちょこんと座っていた。

 小日向教授は瞭の顔を見ると一瞬怪訝な表情を浮かべてから粗末な応接セットに瞭を案内した。

 瞭は約束の時間に遅れたことで教授が気を悪くしたのではないかとヒヤリとし、丁寧に詫びると名刺を差し出した。小日向教授は「気にしなくていいよ」と顔の前でパタパタと手を振って、ニッコリと笑った。銀縁の丸眼鏡の下の両目が優しく光っている。

 小日向教授は瞭の名刺を手の中でクルクルともてあそびながら口を開いた。

「それで今回はどのようなご用件ですか」

 瞭は背筋を伸ばすと、しかつめらしい顔をして用件を切り出した。

「本日は大変貴重なお時間を頂戴して恐縮です。早速ですが、教授は脳科学がご専門で、深層心理学の権威でいらっしゃるとともに暗示や催眠術といった分野にも造詣が深いと伺いました。実は僕の周囲で実際に起こっている記憶に関する不思議な出来事について、教授のご見解を賜りたいのです。記憶や暗示・催眠術といった分野は全くの門外漢でして、書籍等で一通りの勉強はしたつもりですが何分難しくて。基礎的なお話を伺えれば有難いのですが」

 瞭はそう言うと、別人のようになった亜希子の変貌や山田の周囲の人々の反応など、瞭が眼にした記憶に関する不思議な事象を説明した。

 小日向教授は何か言いたそうな素振りをしたが、結局何も言わず瞭の説明を最後まで聞いた。

「いかがでしょうか。記憶が消されたあるいは改変されたとしか思えないような状況なのですが、実際に人の記憶を全く変えてしまうことなど可能なのでしょうか」

 瞭の質問に小日向教授はにこやかな笑顔を浮かべて答えた。

「人間の脳の働きは最近になって解明が進んでいましてね。脳の中のどの部分がどういった役割を担っているのかとか、脳細胞を構成している神経細胞ニューロン同士がどうやって情報を伝達しているのかとか、そういった生理学的・生物学的な分野の解明はほぼ完了しています。

 しかし、ニューロンの中で意識がどのようにして生まれるのか、記憶がどのようにして蓄積されているのかについては、諸説あるもののまだこれだという結論は出ていないのです。もちろん意識や記憶がニューロンの活動によるものであることは疑いようがありませんが、ニューロンの複層的な電気的刺激の連鎖パターンが意識や記憶とどのように繋がっているのかは解明されていないのです」

 瞭はなるほどと頷いた。

「すると人為的な記憶の操作や消去は不可能だということでしょうか」 

 小日向教授の銀縁の丸眼鏡の下の両目が少し大きくなった。

「例えば脳梗塞で特定の部位、例えば言語野のニューロンが壊死したようなケースでは、言葉に障害が出るという大まかな関連性は確認できているのですが、同じような部位の壊死であっても個々に発生する障害の程度や内容は千差万別でその理由は解明できていません。

 脳のどの部分がどのように記憶に関連しているのかが分からない現状では、人為的な方法で一部の記憶の消去とか一部の記憶の改変というのは不可能でしょうね」

 この分野の権威である小日向教授の答えには迷いも曖昧さもない。

「薬物などで記憶を全て消去することは可能でしょうか」

 小日向教授は腕組みをすると首を横に振った。

「ニューロンをすべて破壊して廃人にすることを記憶の全部消去というなら、それは可能でしょうね。でもそれは、記憶の消去とか記憶の改変という意味とは異なりますよね」

 小日向教授の説明に、瞭はなるほどと頷いてから質問を続けた。

「教授、ということは先程僕が説明した記憶に関する不思議な事象は、一種の催眠術か暗示によるものと考えるべきでしょうか」

 小日向教授は顎に指を当てて考えている。

「そうでしょうねえ。催眠術や暗示は記憶自体を操作するものではなく、あくまで意識上に浮かび上がらないようにするだけですからね」

 やはり催眠術かなと瞭が小さな声で呟いた。その様子を見て小日向教授はニヤニヤしながら言った。

「そうそう、超能力というのはどうです。記憶を消したい人の額にこうやって両手をかざして『ねんりきぃ~』とかいってウニァウニァってやると記憶が消えちゃうんです」

「教授、ふざけないでくださいよ。こっちは真剣なんですから」

 瞭は口を尖らせた。小日向教授はいたずらっ子のような笑顔を浮かべた。

「アハハ・・・ごめんごめん。でも、あながち冗談ばかりでもないのですよ」

 小日向教授は急に真顔に戻った。何ごとかと瞭が顔を引き締める。

「私ども脳科学の分野では結構有名な話でしてね。第二次大戦中は陸軍の研究施設にいて、戦後は帝都大学の教授になった佐渡忠吉博士という人がいるのです。この人は人間の特殊能力、いわゆる超能力の研究を科学的におこなっていましてね。何でも新しい脳神経細胞を発見してそれを増殖・活性化させることで超能力を発現させることができるという論文を発表して注目されていました。その新しい脳神経細胞、ネオニューロンと名付けられたのですが、それを増殖・活性化させる試薬も開発したと発表したのです」

 瞭の目が一瞬輝いた。

「それはすごいじゃないですか。でも僕はこれまでそんな話は聞いたことありませんが・・・何かあったんですか」

 小日向教授は話たくてウズウズしているという顔をして瞭の方に身を乗り出した。ワイシャツの首からぶら下がっている棒タイが振り子のようにブラブラと揺れている。小日向教授は秘密を打ち明けるように言った。

「やっちゃったんです。人体実験。しかも大学の研究室で学生を実験台にして」

 瞭が目を剥く。

「そんなことをして大丈夫なんですか」

 瞭のお約束の反応を見て、小日向教授は何だか嬉しそうだ。

「だ、か、ら、大丈夫じゃないんですよ。実験は失敗して学生は脳死状態になり結局死亡しましてね、佐渡博士は学界から追放されました。たしか逮捕されて服役したと聞きましたが、その後の消息は不明です」

 小日向教授は書架の中から古い本を引っ張り出してきて、ペラペラとページをめくった。

「あった、これが掲載された論文で左上に佐渡博士の写真も載っていますね。参考にコピーをお渡ししましょう」

「ありがとうございます。あのう・・・教授、そろそろ脳や深層心理に関する基本的なところのお話をお願いします」

 脱線した話を無理やり元に戻して、瞭は小日向教授から一時間ほどかけて脳細胞に関する生理学的・生物学的な基礎知識と深層心理・催眠術・暗示に関するレクチャーを受けた。

 取材を終えた瞭は小日向教授に礼を言い、研究室から退出するためにドアノブに手をかけた。何かが頭の中に引っ掛かっている。

 瞭は小日向教授の方を振り返って尋ねた。

「そういえば、最初に僕が入室したときに教授は怪訝な顔をされましたよね。僕の説明の途中でも何かおっしゃりたいようなお顔をされましたが、何か気になることでもあるのでしょうか」

 小日向教授はそれまでの柔和な笑顔を引っ込めて真顔になった。

「矢沢さんが私のところに取材にこられたのは今回が二回目ですよ。しかも前回と全く同じことをお聞きになったので不思議だなぁと思いまして。まさか覚えていらっしゃらない?」

「僕が? そんな馬鹿な・・・」

 瞭は両目を見開き口をポカンと開けたまま凍り付いた。

「ちょうど一か月前ですよ。どれ、どこかに・・・あったあった。ほら、前回頂いたあなたの名刺ですよ。」

 小日向教授は名刺フォルダの中から一枚の名刺を抜き出して瞭に差し出した。それは右上に一月前の日付ゴム印が小さく押してある瞭の名刺だった。

 それを見た瞬間、瞭の頭の中に電光が走った。自分の名刺を持った瞭の手がブルブルと震えた。瞭の頭の中に薄く広がっていた霞がグルグルと渦を巻いて収斂し、頭の中がゆっくりと晴れていく。

「そうだ、あの日、山田の勤務先の調査を終えてから『舟』に向かって・・・それから今日までの記憶がない! 教授、僕も暗示に掛けられているようです。それを解いてください! お願いします」

 瞭はすがるような目をして小日向教授の前に座った。


 七月十一日 東京都内

 午前八時に山田はいつものくたびれた紺色のスーツを着てアパートの部屋を出た。物陰からその姿を見届けた瞭は足音を忍ばせて管理人室の前を抜けると階段を上り、山田の部屋の前に立った。瞭は黒の薄い革手袋をはめると、以前に管理人室でメモしたマスターキーの鍵番号から複製した合鍵を取り出した。左右に目をやって人影がないことを確認すると、瞭は合鍵を使ってドアを開け、素早く部屋の中に滑り込んだ。

 小日向教授の研究室で自らも記憶を失っていることに気付いた瞭は、小日向教授の診察を受けた。小日向教授は瞭の深層心理に掛けられた暗示を解くため、催眠療法による施術を試みたが、結果として瞭には暗示が掛けられていないことが判明した。小日向教授によっても瞭の記憶の欠落の理由は分からなかった。

 瞭は自分の記憶も山田に操作されていることを知り、山田の正体を探るための最終手段として山田の部屋に不法侵入する決意をしたのだった。

 東山は山田の秘密を知ったために殺害されたのだろうと瞭は考えていた。殺人を犯してまでも守らなければならない山田の秘密とやらを必ず探り出してやる。そして、山田を警察に突き出すのだ。そのための不法侵入は必要悪だ。瞭の頭の中には弔い合戦という言葉が渦を巻いていた。

 一DKの山田の部屋はきれいに整理されていて、窓際に置かれたベッドと小さな机、壁一面を埋め尽くした大きな本棚以外にはこれといった家具はなかった。キッチンを覗くとひとり分の茶碗やお箸などの食器が洗い物かごの中に整然と並べてあった。

 瞭は机の引出しを全部抜いて床の上に並べ、丁寧に中を調べた。電気ガスなどの公共料金の請求書やセイワ企画株式会社の給料袋などが種類ごとに几帳面にまとめられてゴムで括られていた。いずれもここ十年ほどの物ばかりであり、このアパートに引っ越してきてから以後のものと思われた。アルバムや写真の類は見当たらなかった。カーテンレールにハンガーで掛けられている洋服やズボンのポケットにも手を入れてみたが何も入っていない。

 山田は自分の過去を全く消し去ってしまっているのだろうか。そんなことができるのか。瞭は部屋の中をゆっくり見回した。残る捜索場所は本棚しかない。

 瞭は本棚の前に立つと、ぎっしりと並べられている本を一冊ずつ抜き出して、順番を崩さないように注意深く床に並べた。単行本や占い・手相に関する本ばかりで気を引くような本はなかった。空になった本棚には置かれていた本の跡を示すようにうっすらと埃が積もっている。 

 瞭は落胆して床に座り込んだ。無理な中腰の姿勢で本を床に並べていたため膝と腰が悲鳴を上げていた。床一面に並んだ本を暫く見渡してから、瞭はダメだとばかりに首を振って大きく一つため息を吐くと、ノロノロと立ち上がり、本を本棚に戻し始めた。

 不法侵入までして捜索したものの、手掛かりらしきものは発見できなかった。その徒労感のために身体が鉛のように重たい。

 本を三分の二ほど戻し終えたとき、瞭は手に取った一冊の占いの本に違和感を覚えた。

 瞭が手に取ったその本は本棚にある他の本に比べて格段に古いもので、表紙は色が変わってボロボロになっていた。パラパラとページをめくると、ページの間に一枚の写真が挟んであった。

 その写真には建物の玄関の前で四人が並んで写っていた。男性ふたりと女性ひとりはいずれも二十代前半で、残りのひとりの男性は五十代に見える。そして一番左に写っている二十代の男性が紛れもなく山田の若い頃の姿であることに瞭は気づいた。過去を全て消し去った山田が残した、過去に関する唯一の手掛かりだ。

「見つけた」

 瞭は小さく呟くと写真をポケットに入れ、部屋の片づけに取り掛かった。


 東京都港区にある賃貸マンションの自分の部屋で、瞭は机の前の椅子に座り、大きな虫眼鏡で山田の部屋から持ち出してきた写真を見ていた。

 写真に写っている建物の玄関横に金属製の錆びたプレートらしいものが見える。プレートの上半分は陰になって判読できないが下半分には『・・・編纂室 特殊潜在能力研究所』と書かれている。それ以外には建物や周りの風景に手掛かりとなるような物は写っていなかった。二十代の三人はユニフォームだろうと思われる灰色のジャージを着ていて、五十代の男性は医者のような白衣を着ている。四人の視線がカメラの方を向いていないところを見ると記念写真ではないようだ。

 瞭は写真を丹念に見ながら、先程から頭の中にモヤモヤと何かが浮かびかけては消えるもどかしさを感じていた。

「ダメだ、ここまで出かかっているのに」

 写真を机の上に放り投げると、瞭は椅子にもたれ掛かって頭の後ろで手を組み天井を見上げた。目をつぶると頭の中を四人の顔がグルグルと回っている。

 ・・・どこかで目にしている・・・どこだ。どこで見たんだろう。誰を?・・・何を?・・・ダメだ繋がらない。・・・

 十分ほどそうしていたが何も浮かんでこない。一旦頭の中を空っぽにした方がよさそうだ。そう思うと、瞭は無性に珈琲が飲みたくなった。

 大学時代の友人たちからは珈琲中毒だと揶揄されるほど、瞭は珈琲に目がない。

 瞭はキッチンに移動するとケトルを火に掛けた。ドリッパーに紙フィルターをセットして、フィルターに珈琲粉を入れる。瞭の好みはモカだ。ケトルで沸かした湯を注ぎ、サーバーに落ちたコーヒーをカップに入れる。ズルリと一口珈琲を啜ってから、瞭は「ああ」と満足げな声を出した。

 その拍子に瞭の頭の中にキーワードが浮かんだ。

 ・・・特殊潜在能力? どこかで見たぞ・・・

 東山の顔が脳裏に浮かぶ。あれは・・・東山の仕事部屋で見た最近の取材テーマだ。ファイル名は『旧日本陸軍 特殊潜在能力開発室 特殊能力兵器』。瞭はもう一度写真に目をやった。建物の玄関横の金属製のプレートには『・・・編纂室 特殊潜在能力研究所』と書かれている。似ている、何か繋がりがありそうだ。

 その途端に小日向教授の声が瞭の脳裏によみがえった。珈琲の効果は絶大なようだ。

『第二次大戦中は陸軍の研究施設にいて、戦後は帝都大学の教授になった佐渡忠吉博士という人がいるのです』

 ・・・佐渡忠吉!・・・

 瞭は机の上に積み上げられている取材資料の山に慌ただしく手を伸ばした。先日の取材の際に小日向教授から貰った論文のコピーを手に取った。論文の左上に佐渡博士の写真が載っている。

「佐渡博士だ! 写真の中の白衣を着た中年の男は佐渡博士に間違いない」

 佐渡博士をキーにして特殊潜在能力開発室と特殊潜在能力研究所は繋がっているはずだ。そしてその延長線上に山田がいる、と瞭は確信した。

 瞭は携帯電話を手に取ると小日向教授の研究室に電話を掛けた。電話口にのんびりとした小日向教授の声が響いた。瞭は挨拶もそこそこに要件に入った。

「教授、早速で恐縮ですが、この前の取材の際に論文のコピーを頂いた佐渡博士について教えていただきたいのです。たしか人体実験をして学界を追放され、その後に逮捕されたと伺いましたが、それはいつ頃の事件なのでしょうか」

「ああ、あれね。確か僕がまだ学生の時だったから昭和三十八年だったかな・・・おそらくその前後ですよ。新聞にも出たんじゃないかな」

 瞭はメモを取りながら続けた。

「佐渡博士のその後について、何かご存じではありませんか」

「さあねぇ。服役したらしいですが何年の刑だったのかも知りません。少なくともそれ以後は学界では佐渡博士の名前は聞きませんね」

「そうですか・・・ありがとうございました」

「佐渡博士がこの前の話に絡んでいるんですか」

 小日向教授が興味深げに尋ねてきた。小日向教授が目を輝かせて身を乗り出している姿が瞭の脳裏に浮かぶ。

「いや、こちらは別件でして・・・それじゃあ失礼します」

 瞭は答えをはぐらかすと、そそくさと電話を切った。

 東山の仕事部屋にある『旧日本陸軍 特殊潜在能力開発室 特殊能力兵器』のファイルを調べなければならない。


 瞭は、千葉県船橋市にある東山の自宅マンションを訪ねた。瞭が記憶を失っていたため、亜希子と顔を合わすのは一月ぶりになる。その間に亜希子は退院していた。

 玄関のドアを開けて瞭を迎え入れた亜希子の顔は、ふっくらとして血色もよく、うっすらと化粧もしているようだ。瞭を見る亜希子の笑顔は屈託がない。記憶は改変されたままなのだろう。

「あら、瞭ちゃん、いらっしゃい」

 退院の付き添いができなかった瞭は、少し気まずい顔で頭を下げた。

「ああ、亜希子さん、ご無沙汰しています」

「ご無沙汰? いやねぇ、先週私が退院するときに付き添ってくれたじゃない。瞭ちゃん、何言っているのよ」

 舟の客になってから小日向教授を訪れた日までの一月間の記憶がない瞭は、亜希子にそう言われてがく然とした。退院の付き添い? 全く記憶にない。記憶がないといっても、その間も寝たきりになっていた訳ではなく、確かに普通の生活を送っていたはずだ。単に記憶していないだけなのだろう。

 亜希子が瞭の顔を覗き込んだ。

「どうしたの、変な顔して」

 瞭は気を取り直すように首を振った。

「いや、何でもありません。あのう、東山さんの資料ファイルをもう一度拝見したいのですが」

「どうぞどうぞ。必要な資料があれば持って行って頂戴。何なら全部持って行ってもいいわよ。ここに置いていても仕方ないもの」

 やはり亜希子の声には屈託がない。これでいいのだ。

 瞭は東山の仕事部屋で『旧日本陸軍 特殊潜在能力開発室 特殊能力兵器』のファイルの中の資料に目を通した。

 特殊能力兵器とはいわゆる超能力を用いた戦争兵器らしい。

 特殊潜在能力開発室の立案者は参謀本部付の神宮寺孝晴少佐。室長は斎藤直道中尉、研究責任者は佐渡忠吉博士。神宮寺孝晴少佐とは現在の神宮寺商事の会長であり、東山が殺害された日に、東山が取材のために面会した人物である。

 資料によると、特殊潜在能力開発室の施設は戦後に神宮寺商事が買い取り、新たに特殊潜在能力研究所として超能力の研究が続けられていた。佐渡博士もそこで研究を続けているのだろう。そして、特殊潜在能力研究所の住所は千葉県鴨川市清澄六百四十二番地であることが判明した。

 佐渡博士とともに特殊潜在能力研究所の前で写真に写っていたということは、山田はこの研究所と何らかの関係があるのだろう。ここが山田に繋がる最後の糸なのだ。

 最後の資料は封筒に入った録音テープだった。封筒の表には『旧日本陸軍中尉斎藤直道氏からの聞き取り』と書かれていた。


 ■■■【録音テープの再生】■■■

(機械を操作するガサガサという音に続いて少し鼻にかかった甲高い声)

「本日は平成十●年五月二十日金曜日、現在午後一時四分、目黒区兼松総合病院404号室内、インタビュアーは東山輝明。それではよろしくお願いします。最初にお名前をお聞かせください」

(かすれた低い声、時折ゼイゼイと呼吸音が混じる)

「斎藤直道、大正十●年生まれ、八十二歳です」

「単刀直入にお伺いします。斎藤さんは旧日本陸軍の特殊潜在能力開発室で研究されていた特殊能力兵器をご存じですか」

「ええ、戦時中は特殊潜在能力開発室で働いていましたから」

「特殊能力兵器についてご教示いただきたいのですが」

「先ず私の経歴からお話ししましょう。私は元日本陸軍中尉で、先の大戦中は特殊兵器研究所に配属されていました。元々戦前は大学で大脳生理学の研究をしていたからでしょう。昭和十九年でしたか、研究所内に特殊潜在能力開発室が新たに設けられまして、私は配置換えにより室長を拝命しました。その特殊潜在能力開発室で中心になって研究をしていたのは佐渡忠吉博士です。そこでは、特殊潜在能力いわゆる超能力の研究を行っていました」

「超能力ですか・・・陸軍がなぜ超能力を?」

「旧日本軍は、陸軍も海軍もですが、諜報戦に対する理解が低く能力も欠如していたため、敵国の情報は収集できていませんでしたし、日本軍の機密情報は敵国に筒抜けの状態でした。この結果、大正十年のワシントン軍縮会議や昭和五年のロンドン軍縮会議ではアメリカやイギリスにいいようにあしらわれ、不平等な合意を結んでしまったことが、大戦に突き進むこととなった要因のひとつと言われています。遅まきながら昭和十二年頃から諜報機関の育成が進められてきましたが、いかんせん付け焼刃の組織では到底アメリカやイギリスには太刀打ちできません。

 そのときに参謀本部にいた神宮寺孝晴少佐が立案したのが特殊能力兵器の開発です。超能力の中でも特に精神感応いわゆるテレパシーを使った特殊能力兵器という触れ込みで、レーダーに代わる索敵能力や敵兵士の士気を低下させることによる戦局の打開、敵国情報の収集や暗号解読など幅広い効果がうたわれていました。また、国際会議や外交交渉の場で相手国の代表の思考を読み取るとともに、相手国代表者の思考を変えてしまうことで我が国に有利な結論に導くことも可能だとされていました。

 先の軍縮会議のことが教訓として参謀本部内に根強く残っていたのでしょう、参謀総長がこの話に飛びつきましてね。鶴の一声でした。それに、諜報戦は人の秘密をコソコソと嗅ぎ回るような卑怯な行為であり武士道精神にもとるという意識が軍上層部にありましたが、超能力は神国日本の優秀な人民に備わった超越した能力であると言えば聞こえがいいですからね」

「しかし、そんな超能力なんて実際にあるのですか。しかもそれを兵器として?」

「これは佐渡博士からの受け売りですが、人類は進化とともに脳を発達させて意識という精神世界まで作り上げたのですが、それで終わりではなく更に高次の精神活動に向かって脳を進化させていくのです。進化した脳により人類が獲得する新たな能力がテレパシー(精神感応)でありサイコキネシス(念動力)でありレアボヤンス(透視)です。それらは人類に備わっている未覚醒・未発現の能力であり、脳の進化の先に必ず人類が手にするものです。したがって、いまの私たちには超能力ですが、進化した先の人類にとっては当たり前の能力といえます。超能力の研究は新しい能力の開発ではなく、人類に備わっている能力を進化という長い時間を経ずにどうやって早く発現させるかという方法論なのです。

 特殊潜在能力開発室に集められた被験者たちには一般人には見られないような相互の意思疎通が認められました。精神の同化現象により相手の考えが分かるというのです。

 その被験者の中に、佐渡博士が連れてきた伊東よね子という女性がいたのですが、この女性が極めて強いテレパシー能力を発揮しました。相手の思考を読むのはお手の物で、遠距離読心実験では驚異的な結果を出しました。また、千里眼というのでしょうか密閉された箱の中に置かれた封筒に入れた紙に書かれた文字を当てたり、遠方の軍事施設の鳥観図を正確に描くこともできました。

 神宮寺少佐が特殊能力兵器の開発を言い出したのも、以前から親交のあった佐渡博士から伊東よね子の存在を知らされたからだそうです」

「特殊能力兵器の開発は成功したのですか」

「駄目でした。当初、特殊潜在能力開発室は千葉県館山市内の軍事施設内に設けられまして、そこで研究や訓練が行われていたのですが、昭和二十年二月の空襲でやられました。特殊潜在能力開発室の入っていた施設近くの防空壕が焼夷弾の直撃を受けまして、その防空壕に避難していた被験者たちは殆ど焼死しました。私と佐渡博士は運良く外出していまして難を逃れました。鴨川市の清澄山中に移転したのはその後です。それ以降は超能力があると見込まれる被験者の確保も困難になりましたから、開発は頓挫しました」

「そうなのですか」

「これにはまだ続きがあるのです」

「続き?」

「先程、空襲で被験者の殆どが焼死したと言いましたが、伊東よね子も全身に重度の火傷を負い、私と佐渡博士が駆けつけたときには瀕死の状態でした。特殊潜在能力開発室の施設自体は無事でしたから、そこへ瀕死の伊東よね子を運び込みました。そして佐渡博士は伊東よね子の前頭葉を生きている状態で採取したのです」

「そんな・・・伊東よね子はそのときはまだ生きていたんですよね」

「ええ。人間が死んで心臓が止まってしまうと血流も止まり、脳へ酸素が供給されなくなるとニューロンはすぐに死んでしまいますから。超能力の源であると推定されていたニューロンを生きたまま採取する必要がありました。それに伊東よね子は後一時間持つかどうかという瀕死の状態でしたから・・・」

「それは殺人ですよね・・・」

「ええ、分かっています。時効だというつもりもありません。本来なら私の頭の中に仕舞い込んで墓場まで持っていこうと思っていました。実は私は末期がんで余命三か月と言われていましてね、あなたから取材のお話を頂いたときに伊東よね子の顔が浮かびまして・・・この際に全部お話しておこうと思いました。それに、この後、佐渡博士は人体実験を繰り返すのです」

「人体実験?」

「伊東よね子の前頭葉から採取したニューロンを調べた結果、そこに特殊なニューロンが認められたのです。ニューロンは脳内に数百億から一千億個以上あり、生まれた直後ぐらいにその数が最大になり、それ以降は減少するだけで増殖しません。ところがこの特殊なニューロンは増殖する能力を持っていたのです。しかも増殖する際にこれまで知られていなかったドーパミンの変種である未知の化学物質が検出されました。佐渡博士は特殊なニューロンを『ネオニューロン』、未知の化学物質を『SPD』と名付けました。

 また、普通のニューロン間の情報伝達は、ニューロンから延びた長い軸索内を情報が電気信号として伝わり、神経の終末に達した情報は電気信号から神経伝達物質という化学物質による信号に置き換えられます。ニューロン同士の結合部分はシナプス間隙という隙間があり、神経終末のシナプス小胞から放出された神経伝達物質が次のニューロンの受容体に取り付くことで、そこでまた電気信号に置き換えられ、そうやって情報が次のニューロンへと順次送られていきます。簡単言えば電気信号・化学物質・電気信号・化学物質・・・というように流れて行く訳ですが、ネオニューロン同士の情報伝達は電気信号のみで行われていました。ネオニューロン同士の結合部分はシナプス間隙という隙間がなく直接繋がっていたのです。このため情報伝達スピードが桁違いに速くなります。

 そしてネオニューロン群が興奮して活発な活動状態が生じると、非常に強い特殊な生体エネルギーを発することが分かりました。この特殊な生体エネルギーが超能力の源であり、超能力は脳内のニューロンの進化により発現する現象であることを佐渡博士は突き止めたのです。

 そして佐渡博士は、鴨川市の清澄山中に移転した特殊潜在能力開発室で、新たな被験者たちに対してSPD強化剤を投与してネオニューロンの増殖と超能力の発現実験を行いました。しかし新たな被験者たちは元々超能力の兆候も微弱でしたのでSPD強化剤の投与によるネオニューロンの増殖に耐えられるだけの脳の基礎体力が足りなかったのでしょう。実験は次々に失敗し、被験者たちはニューロンを破壊されて重度の意識障害や記憶喪失を発症してほとんどが廃人になりました。戦時中でしたから外部には漏れませんでしたが・・・人体実験とはこのことです。ご存じでしょうが、佐渡博士が昭和三十八年に起こした帝都大学での人体実験事件はこれの繰り返しに過ぎません。彼は懲りていないのです」

「佐渡博士がどこにいるかご存じですか」

「特殊潜在能力開発室が鴨川市内の清澄山中に移転したと言いましたが、戦後になってこの施設を神宮寺商事が買い取り、今は特殊潜在能力研究所となっています。神宮寺商事とは特殊能力兵器の開発を提唱した神宮寺少佐が戦後に興した会社です。その繋がりでしょう、佐渡博士は服役後に、特殊潜在能力研究所で研究を続けていると聞きました。もうさすがに人体実験はやってないでしょう。

 ふう・・・疲れました、もうこの辺で良いですか」

「ありがとうございました」

 (録音テープの音声が途切れた)

 ■■■【録音テープの終了】■■■


 七月十二日 東京都内

 瞭が山田の部屋へ不法侵入した翌朝。瞭は早朝から山田のアパートの前で張込みをしていた。昨日持ち出した写真を山田に気づかれないうちに元の場所に戻しておこうと、山田が出勤するのを待っているのだ。

 しかし、いつまで経っても山田は姿を現さなかった。昼過ぎまで待ってから、瞭がそっと山田の部屋の前まで行って見ると、205号室のドアに貼ってあった山田と書かれた紙切れがなくなっていた。ドアの横のある電力メータも動いていない。

 瞭はまさかと思いながら一階に下りると、管理人室で座ってテレビを見ている管理人に声を掛けた。

「東京中央興信所の矢沢です。この前はありがとうございました」

「興信所? この前? どこかでお会いしましたっけ? 私に何か御用でしょうか」

 管理人は不思議そうに瞭の顔を見た。瞭のことを覚えていないのだ。管理人の記憶も消されている。

「205号室の山田さんのことでお話をお聞かせ頂こうと思いまして・・・」

「205号室? 山田? そんな人はここには居ませんよ。205号室はここ数年ずっと空き部屋ですしね」

「そんなバカな」

 疑いの声を上げた瞭を、おかしな人だと言わんばかりに睨んだ管理人は、マスターキーを持って管理人室から出てきた。管理人の案内で205号室に入ると、中にあった家具や荷物はなくなっていてガランとしていた。

「ほらね、空き部屋でしょ」

 管理人の言葉を聞きながら瞭は『逃げられた』と思った。

 山田に繋がる最後の糸は、鴨川市にある特殊潜在能力研究所とそこに居るはずの佐渡博士しかなくなった。

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