カレーにナス
仕事終わりの夜、俺は決まって映画館に向かっていた。
レイトショー。
人も少なく、館内にはゆったりとした時間が流れている。
スクリーンの光に包まれる瞬間、
仕事の疲れも、考えごとも、
一度だけ遠くへ押しやられる。
その時間が、好きだった。
いつからだろう。
同じ時間帯に、同じように一人で来ている女性がいることに気づいた。
アクション映画を観ることが多い。
上映中、彼女はスクリーンからほとんど目を離さない。
もしかしたら、
自分と同じように仕事の疲れをここで晴らしているのかもしれない。
お気に入りなのか、いつも同じあたりの席に座る。
それは自分も同じだった。
何度も見かけるうちに、
気づけば自然と彼女の姿を探してしまうようになっていた。
(……今日も来てる)
それだけで、少しだけ安心する。
他人だけど、まったくの他人でもない。
知り合いとも言えない、名前のない距離。
そんな、不思議な関係だった。
――ある日。
映画チケットの半券サービスで
ドリンク無料券がついていた。
映画のあと、併設のカフェへ寄る。
カウンターに並んだときだった。
――あ。
彼女がいた。
隣の席が空いている。
(……座れるな)
そんなことを一瞬考える。
でももちろん声はかけられない。
そんなことできるはずない。
肌寒い夜だった。もう夜も遅い。
コーヒーではなく、ホットティーを頼むことにした。
「ご注文いただいた、〜番と〜番のお客様」
呼ばれたタイミングは、ほとんど同時だった。
顔を上げる。
彼女の手にも、同じカップ。
ドキッとした。
目が合いそうになり、慌てて視線を落とす。
結局、何も言えないまま店を出た。
「偶然……かな」
帰り道、小さく呟く。
さっきの一瞬を思い出して、
声をかけてみれば良かったかな、とか。
でも、もし気持ち悪がられても嫌だし……。
そんな堂々巡りの考えが、浮かんでは消え、浮かんでは消えた。
――翌日。
会社に営業で来た女性の顔を見て、思わず立ち上がってしまった。
昨日の彼女にとてもよく似ている
(……まさか)
いや似ているどころかきっと……。
驚きながら見ていた視線に気づいたのか、
ふと、一瞬、目が合う。
でもその時彼女はすっと目を逸らした。
胸が少しピリッと痛んだ
昨日は自分の方から目線を合わせなかったのに。
でも今度こそは勇気を出して声をかけてみることにした。
「あの……もし、人違いだったらすみません」
彼女は驚いたように目を丸くし、
それからふっと笑った。
「やっぱり」
「昨日、同じ映画館にいましたよね?」
――それが、二人の始まりだった。
始まるのに、さほど時間はかからなかった。
彼女の名前は、佐和。
同い年で、映画も音楽の趣味も。
休みの過ごし方さえも
驚くほど似ていた。
付き合い始めてからは、
ナイトショーではなく普通の時間に映画を観るようになった。
映画の内容もアクションではなく、恋愛ものが多くなっていた。
映画のあとは、よくカフェに寄った。
ある日の帰り。
「あのシーンさめっちゃよかった」
佐和が言う。
「彼が呼び止めて、主人公が……」
「ああ、あそこな」
思わず笑う。
「絶対泣きそうになっただろ」
「うん、なった」
「だよな」
「でもあそこで抱きしめるの、ずるい~」
「はは、分かる」
二人で顔を見合わせて笑った。
それから、あーでもないこーでもないと、他愛もない会話をするのが楽しかった。
そんな風に、
同じ気持ちを共有できることが嬉しかった。
「こんなに合う人がいるんだ」
彼女はいつもホットミルクティー。
寒そうにしていればマフラーを差し出す。
疲れていそうなときは、黙って甘いものを頼む。
欲しいものは、言わなくてもなんとなく分かった。
そんな小さな“わかり合い”が、幸せだった。
それだけで十分だと思っていた。
そう、完全に分かり合えてたはずだったあの頃は――。
順調だったはずの関係が徐々に些細な衝突やすれ違いから、ほつれ始めていく。
これといった大きなきっかけがあった訳ではない。
「今日のラスト、よかったよな」
そう言うと、佐和は少し考えてから言った。
「うーん……そうかな?」
「え?」
思わず聞き返す。
「私は、あそこで主人公がそっち行くのは、違う気がした」
その言葉に、少し引っかかった。
いつもなら、「そうだよね!」
と意見が合うはずの所で、食い違う。
「でもさ、好きなら正直になるべきだろ」
「そうかな? それは人それぞれ違くない?」
ミルクティーを飲みながら、彼女は否定の言葉を被せてくる。
“でも……だって……いや……”
その頃から映画の話だけでなく、
ちょっとした日常の会話でもそんな風にズレた不快なやり取りが増え始めた。
――ある夕飯の時のこと。
「今日さ、カレー作ろうと思ってるんだけど」
佐和が言った。
「いいじゃん。カレー好きだし」
「ナス入れるようと思うんだけどさ、いい?」
「え、ナス?」
思わず顔をしかめる。
「ナスってあのナスだよね?」
「そのナス以外にある?」
「え……でも……カレーにナスって、どうよ?」
「どうって……普通に合うよ。結構おいしいよ?」
「いやぁ、ないわ……」
「えー、なんで?」
「なんとなく」
「食べたことあるの?」
「……ない」
佐和は少し呆れたように笑った。
「食べてもないのに否定するんだ」
「だって合わなそうじゃん」
「いや、案外合うんだって」
「いやー、カレーにナスはないな」
「だから、食べてみれば分かるって」
「食べなくてもわかるから」
「そんな決めつけなくってもさ」
明らかに苛立ち始めていた。
結局それでケンカになり、佐和は怒ってそのまま帰ってしまった。
お互いの言葉に、引っかかる。
不快な空気が二人の間に漂い始めていた。
似ているからこそ、 思ったことを隠さない。
隠さないから、ぶつかる。
その小さな衝突は、 少しずつ二人の間に積み重なっていった。
―最後の夜。
いつものカフェだった。
映画を観たあと、 二人ともほとんど喋らなかった。
テーブルの上には、いつものホットティーとホットミルクティー。
湯気だけが静かに上がっている。
佐和がぽつりと言った。
「……私たちさ」
その先を、なかなか続けない。
「たぶん、似すぎてるんだと思う」
思わず顔を上げる。
「似てるから、期待するんだよね」
「分かってくれるって」
彼女は少し笑った。
でもその笑顔は、どこか寂しそうだった。
「でもさ」 カップを指でなぞりながら言う。
「思ってること、全部言うからケンカになる」
「言わないと、今度は我慢になる」
言葉が見つからなかった。
沈黙のあと、彼女が続ける。
「……たぶんさ」
「私たち、合ってたよ」
「こんなに合う人いるんだって……嬉しかった」
それは俺も同じ気持ち。
何も言わず相槌を打つ。
同時に、鈍い痛みが胸に重くのしかかる。
「でも……」
「今は、一緒にいると少し息が詰まる……」
「だから、距離を置きたい?」
「……うん」
彼女は下を向き、しばらく沈黙の時間が流れた。
そして俺は、意を決して確認する。
「つまりその……別れたいって事……だよね?……」
「…………。」
かなりの間があり、彼女は小さく頷いた。
「……うん」
湯気が、ゆっくり消えていく。
それが、二人の最後の夜だった。
――あの時。
少しは抗えば良かった?
悪い所があるなら直すから、頼むからやり直してほしいと。
もう一度、チャンスをくれと懇願してれば、また結果は違ったのか?
それなのに、どうして何も言えなかったんだろう……。
――それからしばらくしてまた、 一人でナイトショーに通うようになった。
スクリーンに映る誰かの物語を眺めながら、 ふと隣の空席を見る夜がある。
寄り添いたかった。 寄り添ってほしかった。
のに、でも、それがどうしてもできなかった。
スクリーンの光が消える。 席を立ち、 ひとりで夜の街へ出る。
そのままスーパーに寄り、食材を眺める。
じゃがいも、玉ねぎ、人参をカゴに入れる。
チラッと横を見るとナスと目が合った。
素通りしようしたはずなのに、なぜか勝手に手が伸びた。
――そして今。
キッチンに立ち、鍋を沸かしている。
鍋に火をかけ、玉ねぎを炒める。
人参を切って、じゃがいもを入れる。
それから――
少し迷って、ナスを手に取った。
あの時の会話が、ふと頭をよぎる。
――
「カレーにナスって、どうよ?」
「案外合うんだって」
――
「……入れてみるか」
苦笑いしながら、ナスを切って鍋に入れた。
ぐつぐつと、カレーが静かに煮えていく。
皿によそい、一口食べる。
……あ。
思わず、もう一口。
意外にも、美味しかった。
スプーンを置き、少しだけ笑う。
「……ほんとだ」
あの時、素直に食べてみればよかったな。
きっと、こういうことだったのかもしれない。
分からないことを、最初から決めつけてしまうこと。
分かり合えるはずだと、勝手に期待してしまうこと。
そういう小さなことの積み重ねで、
二人の距離は少しずつ変わっていったんだろう。
もう隣に座ることはなくても、 もしかしたら、どこかで同じ映画を、同じ夜に見ているかもしれない。
そう、もしかしたら他のだれかと。
まだ切なさはあるけれど、そんな風に思えるだけで、
不思議と胸は痛まなかった。
「幸せでいてほしいな」
小さく呟く。
鍋の中のカレーから、湯気が静かに立ちのぼる。
その湯気を眺めながら、もう一口食べた。
――ナス入りのカレーは、
思っていたより、ずっと甘くて、優しい味がした。




