000:星降る丘
どこまで来たのだろうか。
逃げるのに必死で、あれから何日経ったのか分からない。
少なくとも【黄昏の森】に入ってからは丸三日ほどが過ぎている。
月は雲に隠れ、星の明かりも目の前の小高い丘には届かない。
眠気と空腹からくる眩暈に必死に耐えながら進んで来たものの、既にそれも限界であった。
ふらふらと最後の気力を振り絞って丘を登ると同時に、力尽きその場に倒れ込んだ――。
◇◇◇
「おい、大丈夫か⁉︎」
不思議な装いをした白銀色の髪の青年が、丘の上に倒れている何者かに気付いて声をかける。
まだ息はあり、外傷は特に見当たらないため魔物に襲われたわけではなさそうである。
森で迷った末に行き倒れたのだろうか。
とにかく、青年にとっては見過ごせない状況であった。
「しっかりしろ! 目覚ませ‼︎」
「ん、なに」
先程より大きな声で呼びかけると、謎の人物はようやく目を開ける。
旅人には似合わぬ質素ながら質の良いローブに身を包んでおり、目深にフードを被っているため容姿からは判別できないものの、透き通ったその声色から女性であることが窺い知れた。
傍らには彼女のものであろう杖が落ちている。
「こんなところで倒れてるなんて、迷って遭難でもしたのか?」
ぐうぅ~。
ローブの女性を助け起こしながら青年が尋ねると、返事の代わりに大きな腹の音が返ってくる。
「なんだ腹減ってんのか。待ってろ、今何かやるから」
「すみません、森に入ってからほとんど飲まず食わず、ずっと歩きっぱなしで……力尽きて倒れてしまったようです」
「とりあえずこれ、水と乾パン。焦って食べると喉に詰まるから気をつけろ」
青年が差し出した食べ物を受け取り、彼女は礼を言ってから豪快に口に入れる。
ゆっくりと咀嚼し水と一緒に飲み込んだ後、唐突に声を上げた。
「あ! お祈りするのを忘れていました」
「空腹で倒れてたってのに、お祈りしてから食べる奴がいるかよ」
「そうは言っても、教えで決まっていますから」
宗教か、と零す青年をよそに、胸の前で手を組み祈りの言葉を続ける。
「天と地と、命の恵みに感謝の祈りを捧げます」
残りのパンを食べ終え、彼女は自己紹介と共に改めて青年に礼を伝える。
「エーファと申します。この度は助けていただき、本当にありがとうございました」
「気にするな。俺は旅人のノア・ヴェルトだ。よろしく」
彼女は今一度自身を助けたノアという人物を眺める。
久しぶりの食事に夢中で気が回っていなかったが、彼はこの辺りでは滅多に見かけない恰好をしている。
異国風――おそらく東方の出で立ちで、持っている武器もまた、あまり見たことの無いような細長い形の剣であった。
にもかかわらず、髪色は白銀、目の色は橄欖色でオリーブのような色味をしていて、容姿と名前は東方人の特徴とは異なっている。
「その、細長い剣は何ですか? それに恰好も随分珍しいもののようですが」
「今そんなことが気になるのか……? これは太刀って言って、東方群島で鍛造される武器だ。服は着物、これも東方の服装だな。どっちも俺の師匠から譲り受けた物だ」
「なるほど貰い物ということですか」
「ああ。そんなことより、何でこんなところで行き倒れてたんだよ」
話は最初の問いへと戻り、彼女は答えに困窮する。
自身の素性を明かすべきか。
エーファが思案している様子を見て、ノアは何かしら事情があると察する。
「別に言えないなら無理に言う必要はない」
「すみません……このご恩は必ずお返しします」
その時、薄暗がりの森に、突如として巨大な何かが影を落とす。
思わず空を見上げた二人の目に飛び込んできたのは、小さな丘を丸ごと覆わんばかりの、漆黒の巨竜の姿であった。
竜は明確にこちらを認識し、今にも襲いかかろうとしている様子で低空を旋回している。
「おいおい、何だあれは。魔物か?」
ノアが横に目をやる。彼女は巨竜に驚き怯えつつも、何かしら心当たりはあるようだ。
「あれは、おそらく魔女の――」
「魔女? とりあえず下がってろ。あんなのと戦ったことは無いが、やるだけやってみる」
言い終わるとほぼ同時に、竜が降下しながらこちらへと向かってくる。
鞘から太刀を抜き、彼女の前に出てかばう形でノアは竜の爪による攻撃をいなす。
幸いにもエーファはある程度戦闘の心得があるようで、彼が標的になっている内に上手く距離を取り、竜の死角へ入っていた。
両手を組み、詠唱して魔導を使う。
「《星の祝福》よ、降り注げ」
彼女の周囲に、煌めく星々のような魔力が無数に現れ、それがノアの身体の中へと吸い込まれる。
瞬間、彼は一気に身体が軽くなり、魔力が漲るのを感じていた。
「身体能力と魔力を強化する術です。少しはお役に立てるかと」
「助かる。ありがとう」
「尻尾の攻撃が来ます‼︎」
エーファの声で反射的に屈み、竜の尻尾による横薙ぎの攻撃を避ける。
そのまま大きく踏み込んで逆袈裟に斬り上げると返す刀で勢いよく振り下ろす。渾身の連撃は効いたかに思われたが、彼が感じた手応えにはあまりにも違和感があった。
「明らかに生物を斬った感触とは違うな。これは……」
攻撃に怯む様子も無く、尚も襲い来る巨竜から距離を取り、エーファの元へと向かう。
標的を見失った竜は、再び空中に飛び上がり辺りを見回している。
「あの竜は多分、魔導による創造物だ。日が暮れてるからわかり辛いが、普通の生物や魔物とは違う」
「ではどうやって倒せばいいんでしょう。私、魔導での攻撃はあまり得意じゃないですし、ノアさんの武器もあの竜には効果がないのでは?」
「俺も魔導は使える。それに、あの竜が魔力でできてるってんなら、俺の勝ちだ」
漆黒の巨竜が再び二人の姿を捕らえ、今度は上空から、ブレスによる遠距離攻撃を放つべく動作に入る。
圧縮された黒い魔力が発射されると同時に、ノアも太刀に魔力を纏わせ、横一文字に空を斬った。
「――《無想》」
繰り出された斬撃は、本来斬ることができないはずの魔力のブレスと、そして竜さえも一刀両断にしていた。
雲散霧消。
後に残るのは、空気中を漂う魔素の粒子のみだった。
太刀を鞘に納め、乾いた金属音が静寂の森に響き渡る。
魔導を斬る魔導。
魔力をぶつけ相殺したのではなく、文字通り一方的に消滅させた。
「もしかすると、貴方なら……」
貴方となら、あの〈傲慢の魔女〉を討ち倒すことができるかもしれない。
今すぐには無理でも、それほど遠くないうちに。
「なんか言ったか?」
巨竜との戦闘の影響で無残な姿になった荷袋を残念そうに見ながら、ノアがこちらに向かってくる。
「ノア・ヴェルト。貴方は一体何者なんですか?」
「言ったろ、ただの旅人だ。こうして行く先々で人助けをしてる」
おどけた様子で彼女に向かって両手を広げる。
彼は荷袋の中身がダメになったことを愚痴っているようだったが、それはエーファの耳には入っていなかった。
話が終わっても彼女の反応が無いことに困惑の表情を浮かべている。
「何者かを尋ねる前に、まず自分の素性をしっかりと明かすべきでした」
彼女はそう言うと被っていたフードを外す。
腰まで届く白金色のロングヘア、緑青色の瞳、真剣な表情ゆえだろうか、整った顔立ちからは少しばかり近寄り難い雰囲気を感じる。
声色と同じく透き通るような白い肌は、薄暗い森の中では発光しているようにさえ見えた。
「改めまして、私の名前はエーファ・エストレア。中央大陸エストレア聖教国の、そしてその国教である〈星竜教〉の象徴たる存在――”聖女”です」
しばらくの間、無言の時間が流れる。
ようやく口を開いたノアが発した言葉は、あまりにも単純なものだった。
「そうなんだ」
「え、それだけ⁉︎ 反応薄くないですか?」
「存在は聞いたことあったけど、いまいちピンとこなくて」
彼はこのままここで夜を明かすつもりらしい。
いつの間にか集めていた薪を丁寧に組み、荷袋内の数少ない生存者である麻紐を解して上にのせている。
太刀の刀身に、懐から取り出した火打石を打ち付けると、手際よく着火させて焚き火を完成させていた。
「水がないな」
独り言ちると、ノアは焚き火と荷物の残骸を残して何処かへ行ってしまった。
随分と自由な人だ。
などと考えながら、去り行く後ろ姿から目を離すと、エーファは焚き火の側に座り込む。
揺れる火に安らぎの気持ちを覚えると同時に、これまでの疲労がどっと押し寄せてくる。
国も、そこに暮らす民も、身を挺して守ってくれた侍女すらも置いてきてしまった。
戦うという選択肢もあったが、それは死ぬことと同義だった。
色々なことが同時に起こり過ぎて、気が動転していたというのは、ただの言い訳になってしまうのだろうか。
「近くの水辺に蛙がいた。多分食える」
焚き火を眺めながら物思いに耽っていると、彼が戻ってきた。
片手には蛙を二匹、もう片方には革の水筒を持っている。
「はぁ……貴方って可笑しな人ですね」
エーファは深い溜息と共に呆れたように呟く。
「今どきそんな口説き文句じゃ夢魔も落とせない」
「別に口説いてないですし褒めてもいないです……あと、その例え初めて聞きました」
「わかってるよ。冗談だ」
会話しながら夕食の支度を始める。
彼は、動物の処理も手際が良い。
言葉にせずともこれが彼の日常で常識なのだということは伝わってくる。
エーファとしては、あの日から続く非日常はまだ慣れない未知の状況ばかりだ。
木の枝に突き刺さった蛙が火で炙られている。
その光景に、何も感じないというわけではなかったが、抵抗感を抱いたところで状況は何も変わりはしない。
何のことは無い、ただ場所が森の中で、食事が蛙であるだけだ。
自分にとっての当たり前は、誰かにとっての当たり前じゃない。
その揺るぎない事実を彼女は改めて認識していた。
彼もそれは理解しているだろう。ただ、蛙が世間一般にとって食料としてかなり特殊である、という事実は知らないのかもしれない。
「ほら、焼けたぞ」
聖女は手渡された焼き蛙をまじまじと見つめる。
少しばかりの嫌悪感と、少量の乾パンでは満たしきれるはずもない空腹感、勿論焼かれた彼(?)に対する同情の気持ちもある。
だが何より――。
「天と地と、命の恵みに感謝の祈りを捧げます」
後ろ脚を一口齧る。
香ばしさの中に、弾力のある皮の食感と淡泊な肉の味が広がる。
思ったより美味しい、と本気でそう思えた。
「その仰々しいお祈りは『いただきます』を言ってたのか」
エーファの食べっぷりを目の前で見ていたノアが、腑に落ちたというように頷いている。
「昔、師匠に何回も怒られたよ。『いただきます』って言えってな」
「何ですかそれ?」
「東方では飯を食う時に『いただきます』って言うんだと。食い物になった命と、飯を作ってくれた人に感謝してな。あんたのお祈りと意味は同じだろ?」
彼は顔の前で両手を合わせ、少し頭を下げる仕草をした。
「なるほど。良い言葉ですね、『いただきます』って。私も次から使ってみます」
「だろ? それじゃ俺も食べるとするか」
いただきます。
目を瞑ってしばらく咀嚼した後、ノアは飲み込み呟いた。
「うん、まぁ普通だな」
◇
「だから、空腹は最高の調味料って言うだろ? あんたは腹が減ってたんだろうけど、俺は昼も食べたし、昼の魚の方が美味かったんだ」
「それでもあの会話の流れで『普通』って言います?」
っていうかいつまで食事の話してるんですか、と聖女の言葉が闇に溶けていく。
木々は風に騒めいているが、不思議と魔物や動物の気配はしていない。
「私は、ここで倒れていた理由についてとか、それに関わる大事な話とかがあるんですよ」
ノアは蛙が刺さっていた枝を焚き火にくべながら答える。
「確かに気にはなってる。が、蛙が美味かったかどうかの話を始めたのはあんただろ」
「それはそうですけど!」
咳払いをひとつした後、エーファは姿勢を正して座り直す。
「先に結論から話します。私は貴方に、〈七罪源の魔女〉の一人、〈傲慢の魔女〉を討つ為に協力して欲しいのです」
物語の幕開けです。
もしよければ、お付き合いいただけると幸いです。




