第33話 別れたい
メールというのは不思議だ。
そのうち文字から"表情"が見えるようになってくる。
さらには“声が”まで加わってくる。
しかも、同じ文字なのに、表情や声の感じ方が違ったりする。
今は調子が良いなとか、悪い中でもマシだな、とか。
これは、たぶん、俺の特別な能力という訳ではない。
誰もが獲得し得るものだと思う。
相手が見せる大量の表情、相手が送る大量の文字、そして、その相手を深く想いながら、その送られた文字を見ていくと、きっと分かるようになる。
みさは真っ直ぐ素直に俺に向き合ってくれてる。
俺は、だいたいこのくらいの時間からおかしくなるな…とか
今きっとみさはこういう事をしているからそろそろ…とか
そんな風にほぼ四六時中頭の片隅でもしっかり入れていた。
だから、同じ文でも"みさの表情"が次第に見えるようなっていった。
学会の要旨提出期限も迫る。
みさはかなりバタバタしていた。
何度も言うが、教授の要求が大きいのだ。
たかが学会発表でそこまで…と俺は思うのだが。
彼女に期待する教授はどんどん要求し、どんどん書き換えさせる。
俺の指導教官は、この教授でなく、准教授の中嶋先生だ。
俺は何度か学会で発表している事もあり、ある程度、任せてもらえている。
そして、出来上がったものにおかしい所はないかのチェックで終わる。
“結局のところ、要旨はさっと目を通すもので、意味が伝わればそれで良い。
大事なのは、要旨でなく、プレゼンシートなのだから”
のスタイルが中嶋先生だ。
俺もそう思う。
だが、みさのついている教授は違う。
こだわりが強い。
教授についてる学生は、みんな期日ギリギリまでやらされる。
凄い教授だなとも思う。
あれだけ多くの学生を見ていて、みんなちゃんと目を通して、その上で妥協しないからだ。
研究者というよりは教育者なのだ。
大学の先生としては教育者寄りの方が良いとされるが。
普通の学生だったら、
「もう良いじゃん。あはは」
と手を抜いたり、もうこれ以上は思い浮かびませんと教授に助けを求める。
しかし、みさは違う。
生真面目で与えられた事をしっかりしなければ…とやってしまう。
だからこそ、教授は期待してどんどん要求する。
しかし、教授は理解していないものがある。
忘れていることがある。
うつ病だ。
彼女はその性格のせいもあり、うつ病になり、そして、今、そのうつ病で休学中なのだ。
うつで休学中である事を完全に忘れている。
いや、この教授の中では、うつ病は病ではないのだ。
彼の論理において、うつ病という病気は存在しない。
みさの表情がどんどんヤバい方にいっているのが分かる。
他の人にはこの微妙な違いには気が付かないだろう。
俺はPC画面を虚ろな目で見ている彼女に駆け寄る。
「もうここら辺で、教授に助けを求めたら?」
と声を掛けた。
「でも…。先生がもっと考えてみろって…」
「もう十分だよ。みんな、ここらで先生に頼ってるよ」
「もう少しだけやってみる…」
「分かった。終わったらメールして。帰り送り途中でご飯食べて帰ろう」
「…うん」
それから、23時あたりまで彼女は教授とやり取りした。
もう研究室にいるのは、要旨がすでに出来上がってのんびりしている俺と須田。
そして、愚痴をネタにダラダラと話している2人の男の子の後輩くらいだった。
戻ってきたみさは、疲労困憊だった。
だから、さっさとご飯を済まして、彼女を森公都市駅の駐車場まで送り届けた。
みさは自分の車に乗り込んだものの、なかなか出発しない。
俺は、契約駐車場ではあるが、彼女の契約スペースの隣が空いていたので、並ぶように止めた。
30分くらい経った頃、さすがに…と思い、俺は、彼女の運転席側の窓をコンコンと叩いた。
彼女は、CDのボリュームを上げて、そこで叫ぶように泣いていた。
しばらくして窓を開けてみさが言う。
「もう少ししたら大丈夫になるから。大丈夫になったら帰る」
俺は、自分の車に戻り、待っていた。
しばらくするとメールが着た。
『(みさ) だいぶ良くなったので帰ります。なつも気を付けて帰ってね』
俺は、そのメールから、なんとなくヤバさを感じ取った。
久しく見ていない敬語が混じっていたからだ。
そして、彼女は車を動かした。
それを見届け、彼女は実家の方向に右折、俺は来た道を戻るために左折した。
そして、駅のロータリーでUターンして、こっそり後を追った。
例の農道でまた停まるかも…と思ったからだ。
しかし、みさはそこを通り過ぎて行く。
実家に帰ったと安堵して、俺は自宅に帰った。
俺は家に着き、ぼーっとテレビを見ている時に携帯が震える。
『(みさ) 死にたい』
戦慄が走った。
『(なつ) そんなこと思わないで』
俺はそう返した。
それしか返しようがないのだ。
『(みさ) 死にたい」
また彼女は入れてくる。
『(なつ) そんなこと思わないようにしよう』
そう思うな…のような強い言葉は逆効果と直感的に分かる。
かといって、無視もできない。
この両方は、突き放されたと受け取られかねないからだ。
『(みさ) つらい』
『(みさ) 消えたい』
と連続で返ってくる。
『(なつ) 一旦、要旨はここまでするって先生に言おうよ。大事なのはプレゼンであって、要旨はそこまで力入れなくて良いんだから』
と進言するも…
『(みさ) もう疲れた』
『(みさ) 私はダメ人間』
と返ってくる。
『(なつ) どこがだよ(笑)』
『(なつ) あれほどしっかりやろうとするダメ人間がどこにいる』
『(なつ) みさがダメ人間なら俺は人間ですらないぞ(笑)』
と、なるべく明るくなるように返す。
『(みさ) もう疲れた。寝る』
と返ってきた。
『(なつ) ゆっくり寝てね!おやすみ』
と送った。
その日、これ以上はメールがこなかった。
翌日、学校に行くとみさがいて、すでにPCを眺めていた。
今日は家庭教師のアルバイトがある日。
彼女は、できる時間が限られてるため、そして、今日が提出期限であるため、早くから学校に来ていた。
疲れている。
本当に良かったのだろうか…
そう俺は思った。
学校に来いと誘ったのは俺だ。
あのまま家で休学中を過ごせば、彼女は復学できないと踏んで学校に来させた。
学会に参加を決めたのは彼女自身だ。
半期の休学を開ける時にきっかけが欲しいと彼女が自発的に提案した。
ここまで疲弊するほどになるとは思わなかった。
教授を考慮に入れず賛成をした俺は最低じゃないのか…
色々頭を後悔が駆け巡る。
教授に対し怒りもわくが、彼女が受け入れた以上、何も言えない。
みさはバタバタしていた。
学会参加費を払いに行き、すぐに返ってくる。
それから、電子申請の期限時間の17時ギリギリぐらいまで教授と話し合い、期限15分前に申請完了したようだった。
俺もこの日は塾講師のアルバイト。
いつもはない日だが、生徒はテスト前で日にちを臨時変更されていた。
当然、みさを送れないし、電車の方が明らかに早く着く。
みさは青ざめた感じで、
「お疲れ様でした」
と言って教室を後にする。
せめて学校の最寄り駅まで送るよ、と駆け寄り、車で駅まで向かった。
みさは終始ぼーっとしていた。
「今日は、ゆっくりな!」
「うん」
と、力ない変事をして、みさは車を降りて駅のホームへ向かった。
塾のバイトも終え、真夜中に電話をした。
1番苦しくておかしくなっているだろう時間を見越して。
みさは出ない。
掛け直した。
コールから留守電に変わる頃にやっと取った。
「もしもし」
「………」
「もしもーし。もしもーし」
「………」
みさは話さない。
だか、息遣いは聞こえる。
泣いているようだ。
「もしもーし!もしもーし!聞こえないよ〜」
繋がってないのかな?もしもーし。
あえてそう言った。
「…もしもし…」
か細い声でみさは返事した。
「今日はお疲れ様。やっと終わったね!」
「………」
返事はなかった。
でも、泣いているのをこらえている様子ではある。
"死にたい"メールを送って着たことはあえてスルーした。
今の状況でそこを突いたら、何となく危ない感じがしたからだ。
俺は、必死に元気付けようとする。
でも、必死さがみさに伝わってはいけない。
そう考えた俺は、冗談を所々に散りばめながら、自然に、元気付けようとする。
今日のバイトであった面白いこと。
塾で須山さんがおかしなことをしてた事。
ほぼ無言で泣いている様子のみさ。
明るすぎない程度の明るさで、延々と1人語りを繰り返す。
その中に時々質問めいたものを入れる。
でも、答えてはくれない。
心が折れることなく、しばらく続けた。
すると
「…うん」
と反応が返った。
ここで畳み掛けたい。
でも、我慢。
冗談を入れたり、なるべくその返事を追及しないように気を付ける。
鬱の対応策などは俺は知らない。
正直言って、そんな都合のいいものがあるとも思えない。
自分の感覚に頼るほかない。
ただ、漠然と追及する言い方はダメな気がする…
そう肌で感じたので、延々と一人言めいた会話をした。
会話とは言えない会話を続けた。
しばらく続けた後、大きな反応がまたあった。
「…なつ。…ありがとう。ちょっと良くなってきた」
これを機に一人言から会話が成立し出した。
厳密に言えば、まだまだ一人言寄りな会話だが。
俺は、ここがチャンスだと思って例のことを聞いてみることにした。
探りながら慎重に。
「みさはダメ人間なんかじゃないよ」
「みさがダメ人間ならば、俺と須山さんはアホ人間だ」
少し笑った様子を感じた。
少し明るくなってきたので、核心に触れた。
「みさ、昨日、"死にたい"ってメール入れてきたよね?」
昨日はそこまでつらかったの?
「…うん」
ここでダメという単語を使ったらいけないと直感した。
そこで、俺は、それを使わないように気を付けて、会話を続ける。
「みさはね、俺にとって大事な大事な女の子なの」
彼女なの。
だから、いなくなって欲しくないの。
だからね、死にたいとか思って欲しくないな。
つらい、苦しいは吐き出すのは良いよ。
ただね、消えたいや死にたいは少し違う気がするの。
その言葉には、変な力があると思うの。
だから、なるべく使わないようにしようよ。
自己暗示にかかりそうだし。
「…でも、思ってしまうの…」
と、か細くみさは答える。
「…使わないようにって変な言い方だな。よし、思わないようにしよ」
今すぐにとは言わないよ。
一緒に思わないようにしていこうよ。
そしてね、なるべくポジティブな言葉を入れていこ。
こっちを自己暗示をかけてさ。
極力明る過ぎず、でも少し明るい雰囲気で、俺はその後も、違う話題も入れつつ話をする。
「なつは本当に良い人。ダメで悪い私なんかと居たらダメな気がする…」
と、みさは言う。
あぁ、もう本当にこの子は…
そう思いながらも、明るい雰囲気で続ける。
「何を言ってるんだい」
むしろ俺じゃなきゃダメでしょ。
そしてね、俺にとってもみさじゃなきゃダメなのよ。
ここでは、”ダメ“という言葉を使ったが、ポジティブなダメ。
俺はあえてこの単語を、良い意味合いで扱ってみた。
みさが反応した。
「私ね、怖いの」
「何が怖いの?」
「なっちゃんを失う事が…」
私、頭おかしいし、いずれ絶対に愛想尽かされる。
「何言ってるんだよ。俺は居なくなったりしないから」
みさが俺を必要としてくれてるのは嬉しいけど、俺だってみさが必要なんだよ。
みさじゃなきゃダメなんだ。
だから、安心してくれ。
俺はみさ以外は嫌なんだ。
「うん」
少し元気に聞こえた。
ここらでちゃんと休ませなきゃ。
そう思って、電話を切る方向に促した。
「よーし!今日は俺も疲れたしそろそろ寝るかな!」
みさもゆっくり休めよ。
「うん」
「じゃあ、おやすみ」
「…」
「おやすみ〜」
「…」
「どうしたの?」
「うん…」
「おやすみ」
「…」
「切りたくないの?」
「…」
「じゃあ、おやすみ」
「…」
「もうちょっと話したいの?」
「…うん。声を聞いていたい。でも、なっちゃん疲れてるだろうし…」
「良いよ!お話する?」
俺は明るく言った。
「でも、嫌われたくない…」
「嫌うわけないじゃん」
「でも良いよ。今日はみさも疲れたし寝る」
「そうか。じゃあ、また明日な!」
「うん」
「おやすみ」
「うん」
「おやすみ〜」
「うん」
「うんってなんだよ〜寝るよ!」
おやすみ〜
「…おやすみ…」
「じゃあね、おやすみ〜」
と言って電話を切った。
寝ると言いつつ、俺は寝ずに漫画を読んでいた。
電話を切って2時間が過ぎたあたりに携帯が震える。
当然、みさからのメールだ。
そして、俺のみさ専用着信フォルダに、新単語が3つ追加された。
『(みさ) こわい』
『(みさ) 今なら間に合うの』
『(みさ) 別れたい』
最後の単語を見た瞬間…
今日一日の疲れがどっと押し寄せた。
疲労で完全に力が抜けた。
放心状態になった。
そのまま布団の上に倒れ込み、しばらく起き上がれなかった。
どういう気持ちで、みさがこの文字を送ってきたのかは理解できる。
でも、それは頭で理解できているだけ。
心はついていかない。
気持ちがついていけない。
それほど、この文字は力を持っている。
力を奪うという力を持っている。
見返りを求めて一生懸命だった訳じゃない。
自分がしたいからやってきた。
そう思って向き合ってきた。
だけど
たった1つのフレーズで…
たったそれだけで…
自分が一体何をしているのか
何をしたいのか
そういうものが全て
よく分からなくなってきてしまった。




