第1話 合流点と分岐点
〜プロローグ〜
なっちゃん…
そう呼ぶ声に目が覚め、カーテンの無い部屋から外を眺める
まだ時間に余裕がありそうだ
もう少しだけこのまま寝かせて…
そう返事をする
ぽつんと置かれた薄いピンクの香水瓶
それを顔の近くに引き寄せて
再び瞼をゆっくり閉じる
もう少しだけそばにいていい?
そう聞こえたように感じた
「あっ……」
今から車に乗ろうとする1人の女子学生に目が行く。その部分があたかもトリミングされたように鮮明に。
大袈裟でなく。遠目で見て、決して派手さを感じないのだが、なぜか妙に惹きつけられた。
この見知っている後輩に…。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
桜の花はとうに散った。
散った花びらが校内の路上を埋め尽くし、その後の雨風で脇に追いやられ、残ったものは行き交うたくさんの学生の足によって踏み固まれてしまっている。
その木々に緑色が目立ち始めた4月下旬の頃。少し肌寒さの残るポカポカ陽気の昼下がり。
研究室に立て籠って作業しているのが何だか勿体ない。
…と言うか、それは言い訳だ。
ここ最近ずっと集中出来ていない。
博士課程の大学院生の俺。
博士号取得を目指して研究をしていると言えばカッコよく聞こえるが、やっている事は日々地味な作業。
そして同じような作業をずっと繰り返していると、手元は慣れて、頭も慣れて、思考空間にゆとりが出来る。
勝手に空隙が出来てしまう。
そのぽっかり空いたスペースに余計な想像が流れ込んでくる。
それが嫌なのだ。
そのゆとり部分で、意思とは別に勝手に構築される妄想が嫌だ。
ん?
妄想はきっとポジティブな単語だ。ネガティブな意味で使われる時には“被害”という接頭語がちゃんと付いてるもんな。
言い直そう。
そのゆとり部分で勝手に構築されてしまう負の妄想が嫌なのだ。
日中の着信が怖い。
9時ごろからそわそわして18時を過ぎるのを祈りながら待つ。
もう対応したくない。
つらい。
未登録の見知らぬ番号が画面に映し出されるたびに…胸の奥がジクジクと沁み込むように痛む。
そして…色々と想像して心が汚れていくような感覚が…
本当に嫌になる。
よし!散歩でもしよう!
と、サボるというワードを罪悪感を軽減する散歩に文字変換。
そして気分とは裏腹に颯爽と校舎を抜け出した。
いつものようにズボンの右前ポケットに電話を入れて。
そこに右手を突っ込んで、甲の部分で電話に触れる。
振動がすぐに伝わるために。
掛け直しをしなくて良いように。
少し歩いたところで、ふと、立ち止まった。見知っている女の子に目が留まった。
もしかしたら見入ったのかも知れない。
なぜだか切り取られたかのような景色に見えるからだ。
先程までの胸に忍び寄った嫌な気分を振り払うようになのか
自然と明るく
快活に…
「深谷!」
と、声を掛けた。
校舎脇にある駐車場で、今から車に乗り込もうとする女の子に向けて。
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深谷美咲希は今年から修士課程1年生になる女子学生だ。
大学3年生の半ば頃に同じ研究室に配属され、今年は卒論も仕上げて卒業し、大学院生として改めて入学した。
男ばかりで少々マニアックな研究をしている学生が多い我が研究室。今年度もまた、その数少ない女生徒の1人となった。
長めの黒髪が特に印象的。
服装は数年前の『いかにもな理系女子』のイメージそのもの。
リケジョという言葉が広く認知され、普通に市民権を持ちつつある昨今、いわゆる可愛い、綺麗な着こなしの理系女生徒が増えてきている。
しかし、失礼を承知で言うが、彼女におおよそオシャレな雰囲気は無い。
いつも青地のデニム系パンツと、あえて地味目なものを選んだかのようなカットソー(この間はトレーナーのような服を着用)。
今は肌寒いのか、いつものインナーに紺のダウンジャケットを着ていた。
アクセサリーなども身に付けておらず、あまり化粧に凝っている様子も無い。
しかし髪の黒さと対照的な色白の肌がアクセや化粧よりもひときわ際立つ。
愛想が良いわけではないが、かと言って悪いわけではない。どちらかと言うと良い方か。
何というか、受け答えが礼儀正しい。
誰に対しても。
親のしっかり施した教育が透けて見える。
ただ必要以上とも思える。
彼女の後輩は当然であるが、男女関係なく先輩、同期は皆そろって、
『深谷さん』
と呼ぶ。
彼らは、彼女に何かしらのオーラのようなものを感じてるのだ。
そう。
彼女は美人なのだ。
美人と言っても、近寄り難いツンとした見た目では決してない。
でも、どんな時も誰が相手でも礼儀正しい言葉遣い。そして、雑談的な会話をしてても常に丁寧な接し方をしてくる美人さん。
冗談ではなく、きっと迷子の幼児に向かっても敬語で話しかけそうだ。
だからこそ、誰も呼び捨てにすることが出来ないのだろう。
しかし俺は違った。
美人さんとは思うが、たまに接する機会があっても緊張感などまるで走らない。
年齢差もあるのかも知れないが、なんというか個人的には接しやすい。
そして、かわいいのだ。
かわいいというのは見た目とか女の子だからという事では無い。
頑張って自分の力で研究を進めようとする姿勢が。
他の後輩達は暗に手伝ってもらうために相談にくるが、彼女は違った。
あくまでアドバイスを貰い、それを自らの力のみで実行しようとする。
ゼミの飲み会の幹事などを決める時、皆がやりたがらないと察すると「じゃあ、私がやります」と手を挙げる。
決して我儘な事は言わず、人に頼る姿も見せない。
たぶん人付き合いが相当に不器用なのだろう。
勝手なイメージではあるが、“親しき仲にも礼儀あり”がきっと彼女が好きな言葉だ。
しかし、礼儀を気にし過ぎてか『親しき仲』が置いてけぼりになっている。そんな感じだ。
また、自分との関わりが深い他人に対して、必要だと思われたい、頼りにされたい、役に立ちたい、嫌なやつとは思われたくない。
そのような意識の強さが隠していても俺には薄っすら見える。
繰り返しになるが、だからこそこの深谷がより“かわいい”と思ってしまうのだ。
なぜ私こと佐藤夏が彼女のことを多少なりとも理解が出来るのかと言えば、おそらくそれは俺が彼女と同系統の人間だからだ。
一見してちゃらんぽらんな俺と実直な彼女。両方見知る者達にこのような事を言えば、誰がどう見ても大きく違うと言うだろう。
そして、爆笑しながら簡単に否定するだろう。
いや、絶対に否定する。
しかし、他の誰がどう言い、どう思おうと、感覚的に、直感的に、そして確信的にそう思えるのだ。
だけど当然、大きく異なるところがあるのも事実。
本当に大きな大きな違いがある。それは“人との距離感を計れるかどうか”というとこだろう。
彼女にはそれが無いのだ。
その足りないものを本能的に埋めてあげたいと思っていたのかは分からない。
しかし、あの礼儀正しい口調を少しでも崩したい…と、なぜだかウズウズして子どものイタズラのような事もしていた。
例えば、俺の背向かいが深谷の席なのだが、本人が居ない時にその机に『フカタニミサキ』とセロハンテープで貼った事があった。
こういうイタズラをするのは俺くらいなので
「佐藤さん!やったでしょ?」
と笑って返して欲しかったのだが、戻ってきた彼女はスーパーノーリアクション。
無言でペリッペリッとセロハンを剥がして何事もなかったかのようにPCを開いて何らかの作業をしていた。
それを見て、すべったとか、スルーされたとかは不思議と思わない。
やっぱり深谷は面白れぇなぁ…とか思っていた。
今考えると、彼女の作られていない感情を見たかったんだなって思う。
そんなこんながあった中で、彼女は卒論をきちんと仕上げて3月中旬に卒業した。
そして新たに大学院生として改めて同じ大学に4月初旬から入学したわけだ。
でも、そこから久しく見てなかった気がするな…と。
遠目に映った彼女の姿を見た時にふと思った。感じた。だからこそなのだろうか。
声を掛けたい…と。
散歩がてらに俺が歩いていた場所と、深谷が停めてた車の場所。20mくらいとそこそこ距離があっただろう。
無視できる距離だ。
でも、なぜだか、つい大きめの声を出して…
呼び止めた。
ごくごく普通の呼び掛けだったはずだ。
なのに。
小学校、中学校、高校、大学、就職先やetc。
今までと違う様々な環境に移った時や、友達や恋人ができる時。
その時々で各々に分岐点がやってくる。
俺も例外ではなく数々のそれらがあった。
でも、この呼び掛けは、今までのすべてがあたかも、ここに辿り着くための合流点だったかのように。
たまたま見かけた深谷美咲希への何気ない呼び掛け。
これが人生すべての…と言っていいほどの強烈な分岐点となった。