第3話 鬼の子供たち
捨てる。捨てる。捨てる。
最後の日、私はひたすらガラクタを捨て続けた。これで終わりだという思いが、私に一切の躊躇を失わせた。とにかく早く終わりたい。この陰気な部屋ともこれでおさらばだ
「手、赤いけど。また切ったの?」
ふいに、卯目さんが言った。
「え?」
見てみると、確かに軍手が赤く染まっている。脱いで確認したが、私の血じゃなかった。
じゃあ、何?
その時、気がついた。周囲のガラクタに赤い物が付着している。そして見つけた。それは、私の足元に落ちていた。柄にまで、血がべっとりと付いたナイフだった。
「うあっ」
私は尻もちをついてしまう。
「どうしたの!?」
卯目さんとおっさんが慌てて私の方にやって来た。私が見ている物を見る。
「これは――」
血。血。血。
その感触は、まだ私の手に残っていた。
刺した、私が。
あいつを。あの男。
全部あいつが悪いんだ。あいつが。
ベルちゃんを傷物にした。
母を奪った。
私を……私を――。
何かが、耳に入って来た。
部屋の隅から聞こえてくる。
ぞわりと背筋が冷たくなった。
ガラクタの中に、いる。
それは赤子の泣き声だった。
「やばいんじゃないすか、これ?」
青い顔をして、おっさんが言う。
「ここを出るわ。隠村さん――」
肩を掴んだ卯目さんの手を、払いのける。
私はゆっくりと、ガラクタの中を覗き込んだ。
「ぅううううっ……!!」
吐き気を催し、思わず手で口を塞ぐ。もう立っていられず、腰が抜けたように私はその場に膝をついた。
「隠村さん!」
卯目さんが背後から抱きついた。
「どうして捨てた?」
声がした。
誰かの声。
頭の中に直接聞こえるような。
赤子の声が大きくなる。
「違う……違う……」
「どうして捨てた? どうして捨てた? どうして捨てた?」
「違う、違う、違う! 捨てたんじゃない! 捨てたんじゃない!!」
私は叫んだ。悲鳴だったのかもしれない。とにかく、声の限りに叫んだ。
「隠村さん、落ち着いて! 何も答えちゃだめよ!」
「私は……産みたかった……! 本当に……! 育てたいと思った……!! 捨てたんじゃない……捨てたんじゃない……!!」
「やばいっすよ、これ! 卯目さん!」
部屋を震わせる、大きな音がした。それは地の底から吹き上がってくる風のような、恐ろしい音だった。
「来てます……。鬼がもう……来てる……!」
「喚くな、坂田!」
卯目さんは一喝した。それは日本刀の一閃のように鋭い声だったから、おっさんは沈黙した。
「やるわよ、準備して」
卯目さんはそう言うと、上着を脱いだ。
「もぉお、まさかこんなことになるなんて……」
おっさんはもはや半泣きで、狂ったように髪をかき乱した。それから、しぶしぶとしか言いようもない様子でシャツの袖をまくった。
驚いた。おっさんの腕にはびっしりと刺青が刻まれていた。よく見ると、絵ではなく、文字が刻まれているようだった。
「頼むぞぉ、阿蘇さん……力貸してくれぇ……」
腕の文字をさすりながら、消え入りそうな声でおっさんは言った。
「あなたがしっかりしてくれなくては困るわよ。私はもう使いものにならないんだから」
卯目さんはシャツの袖をまくる。彼女の右腕は、真っ黒だった。そういう刺青なのかもしれないが、まるで腐っているみたいに見えた。
「分かってますよ」
おっさんは頬を叩いて気合を入れる。
バッグから水の入った瓶を取り出すと、部屋にまき散らし始めた。それからまだ袋に入ったままの蝋燭を取り出す。百円ショップで売っているような、数が多いだけの安っぽい蝋燭だった。それを、同じく簡易的な蝋燭立てにつけ、手際よく並べていく。
「隠村さん、ここに来て」
卯目さんは自分の隣を指した。
私は大人しく指示に従う。
二人は円状に蝋燭を置いていく。それを何列にも重ねる。安っぽい蝋燭だけれど、こうも数が多いと重厚に感じてしまう。
あっという間に、怪しい儀式のスペースが出来上がった。
私を間に挟んで、二人は床に正座をする。
「何が起きても、絶対に声を上げないで。私たちを信じなさい」
「は、はい……」
卯目さんはこきりと首を鳴らす。「やれやれ」
それから、襖へと向き直る。
低い声で何かを呟く。
経文か何かなのだろうが、聞き取れなかった。日本語ではないことは確かだけれど、どこかの国のものとも思えなかった。人間には聞き取れない、謎の音を発しているように思えた。
不思議なことに、蝋燭の内側にいると赤子の泣き声はほとんど聞こえなくなった。
でも、私の耳には残っている。全身を這い回る不快な怖気とともに。
もう訳が分からない。夢なら早く覚めてほしい。
と。
襖が開いた。
そこは押し入れではなかった。
闇。
何をも貪欲に飲み込まんとするような、漆黒の闇があった。
蝋燭の火がチラチラと揺れる。
部屋に広がる私たちの影が、奇妙に動く。
襖の奥から、何かがぼとりと落ちてきた。
思わず、その場で跳ねてしまう。声を出さなかったのではなく、出せなかった。恐怖が過ぎると人は声を忘れてしまうらしい。
コロコロと床を転がるそれは、達磨だった。
ぽてんぽてんと次々に達磨が落ちて来る。
それが終わると、今度は清涼スプレーの缶が落ちてきた。
かと思うと、スノードーム。
狐のお面。
見たこともないゲーム機。
雛人形。
革張りの分厚い本……。
戦車の模型……。
金魚鉢……。
次から次にガラクタが落ちて来る。
私がせっかく綺麗にした部屋は、瞬く間にゴミに覆われた。
気がつけば、蝋燭の灯の外側は見通せないほどの闇に包まれていた。襖の奥の闇が流れ込んできたみたいに。私たちの影も飲み込まれている。この灯の外に一歩でも出てしまったら、二度と戻っては来れないだろう……恐怖で鈍る頭でも、それだけは分かった。
そこにある静寂は、やけに作り物めいていた。
闇の中で、ガラクタたちが息を潜めて私たちを見つめているんだ。
外側の火が消えた。
闇が少しだけ迫って来る。
ガラクタたちはほくそ笑む。
また一つ、消える。
堪え切れずにカタカタ揺れる。
消える。
消える。
消える。
闇はすぐそこまで迫っていた。
私はもう頭がおかしくなりそうだった。
脳が冷え切り、まともな思考なんてとてもできない。
意識が薄くなっていた。
いつの間にか、襖から物が落ちて来なくなっていた。
終わった?
よかった。これ以上はもう、耐えられそうにない――。
その直後、「をおおおおおおおおおおおおお」と闇の中から叫び声が上がった。それは獣の咆哮のようでもあったが、同時に人間の怒りの声にも聞こえた。
火が消えていく。
もはや闇は目前まで迫っていた。
手を伸ばせば届くくらいに。
すると、卯目さんが叫び出した。
続いて、おっさんも叫び出す。
外の声と同じ、獣の咆哮。
人間の喉からこんな声が出るのかと、思わず感心してしまった。
また一つ火が消える。
闇が迫る。
みんなが叫ぶ。
赤子の泣き声が聞こえてきた。
とても近くだ。
耳を塞いでも、まだ聞こえてくる。
一体、どこから?
ああ、分かった。
お腹の中だ。
気がつけば、私は叫んでいた。
「ああああああっ!! ごめんなさい! ごめんなさい! ごめんなさぁいぃいい!!」
最後の火が、消えた。
「……」
「……さん!」
誰かの声が聞こえる。
誰だろう、私を揺さぶるのは。
瞼を透過して、仄かな明かりが見えた。
明かり?
「隠村さん!」
目を開けると、卯目さん心配そうな顔が飛び込んできた。
そこは公園のベンチだった。
確かにあのアパートにいたはずなのに……。突然のことに私の頭は追いつかず、きょとんとして卯目さんを見た。
「よかった、気がついたのね」
卯目さんは心底安心したようだった。
「心だけ持っていかれたのかと思ったよ」
おっさんは、ふーっと息を吐く。
「ど、どうなったんですか?」
「何とか帰ってもらったよ。本当、もうだめかと思った」
おっさんは幾分か痩せたように見えた。
「あれは、高尾さんだったの……?」
「ええ。あなたを食べに来たのよ。よっぽど気に入ったんでしょうね」
「諦めてくれたの?」
「いいえ、残念だけど……。あなたは鬼に目をつけられてしまった。これから普通に生きるのは難しいかもしれない」
腕を押さえ、卯目さんは言う。
闇の中の声は、いまだに耳に残っている。背筋がぞくりとした。鬼だけじゃない。目の前の、この二人も。
「あなたたちは……何なの?」
「何なのと来たね。命の恩人だぜ、一応さ」と、おっさん。
「前にも言ったでしょ? 鬼の子の話」
私は無言でうなずく。
「私たちはそうなのよ。鬼の力を持って生まれたの。鬼を監視して、場合によっては何とか説得するのが仕事なの」
「説得していたの?」
いわく、あの「をおおお」という獣の咆哮のようなものが、鬼の言葉なのだという。私をよこせという高尾さんに対し、必死で帰ってくれと言っていたそうだ。
「どうして……私は狙われたの?」
「さあ、分からないわ。何か惹きつけられるものがあったのかもしれないし、たまたま高尾さんの眠りが浅くなっていたのかもしれないし」
「そんなことで……」
「ただ、最後の泣き声……」
おっさんは腕を組み、卯目さんを見る。「無生物だらけの中で、あれだけ生きたモノだったのが気になるな」
そういえば。
あの部屋で、生き物は見たことなかった。
「あれは、鬼が出したものではないと思う」と、卯目さんが言った。
「そんなことがあるんですか? それじゃあ……」と、おっさんは私を見る。
「私……?」
二人は何も言わなかった。
お腹に手を当てる。
おかしいと思っていた。
泣き声を上げられるほど、まだ大きくはなかったから。
私の心が形となって現れたモノ。
ただのイメージ。
望んだものじゃない。
欲しかったわけじゃない。
無理やり、与えられたもの。
それでも……奪われたくなかった。
たとえほんのわずかな時間だとしても。
あの子は、私の大切なものだったから。
「ごめんなさい」
誰の耳にも届かない小さな声で、私は言った。
心は軽くなっていた。
それが何よりも悲しかった。
「それじゃ、奉仕活動はこれでおしまいだ。一週間お疲れ様でした」
「よくがんばったわね」
場の空気にそぐわない、明るい声で二人は言った。
私はジッと二人を睨みつける。
「それで……これから私はどうすればいいの? 一週間頑張った結果、鬼にストーカーされるわけ?」
私が訊ねると、二人は顔を見合わせる。
「人々に紛れるの。普通の人たちの中で、普通の人たちのように生きればいい。そうすればきっと、鬼はあなたを見つけられなくなる」
「人の子に戻るんだ」と、おっさん。
「でも、もしそれができないんだったら……」
卯目さんは頭を振ると、言った。「戦うしかないでしょうね。自分の居場所を確保するために」
「卯目さんもそうなの?」
「おすすめはしない」
腕を押さえ、卯目さんは言った。
別れ際、卯目さんは自宅の電話番号を私に手渡した。
「鬼のことで何かあったら、これに電話して」
「代わりに食べられてくれるの?」
「力になってあげる。可能な限りね」
「僕の力は期待しないで」と、頭を掻きながら坂田さんは言った。
二人に見送られ、私は駅へと向かった。
電車の中は、帰宅途中の人々で溢れていた。
とても座れないので私は出入口近くに立ち、乗客たちを眺めた。
普通の人たちの中で、普通の人たちのように生きる。
鬼から隠れるように、ひっそりと生きる。
難しいことでもないかもしれない。
だって、みんなそうやって生きているんだから。
それが普通なんだから。
私にだってできるだろう。
スマホを取ろうとバッグの中に手を伸ばすと、何かが入っていることに気がついた。
取り出すと、顔に煙草の痕のある醜い人形。
ベルちゃんだった。
思わず、笑みがこぼれた。
駅から巧みな牛歩戦術を駆使して、家まで帰った。住宅地にひっそりと佇む一軒家。帰って来るのは久しぶりだが、別に感慨もなかった。鍵を持っていないので、インターホンを押した。
「はい」と、声がした。
私が答えないでいると、すぐにバタバタと音がしてドアが開いた。
ピンクのスリッパが現れる。履き替えるのを忘れたんだろう。そそっかしい人。
「鏡ちゃん……」
「ん……」
顔を上げると、顔をくしゃくしゃにした母がそこにいた。
私が何か言う前に、彼女は私を抱きしめた。
「……ただいま」
そう言うと、私は母の背中に腕を回した。
鬼に見つからないように、息を殺してひっそりと生きる。
なんて。
そんなこと、できるはずがない。
私は私の生きたいように生きる。
誰にも邪魔されてたまるか。
鬼でもなんでもかかってこい。




