タンタナマルカの谷の中1
『被告人はこのように犯行を犯したが、犯行当時は心神喪失状態にあったと確認できた。よって刑法39条1項、刑事訴訟法336条に基づき被告人へ対し無罪を言い渡し、判決とする』
東京湾閉塞事件の裁判は3日で終了した。
魔人の眷属関連の裁判は非常にスピーディだ。
それは、眷属という人間と、所有する拡張人体の利用価値が高いためである。
魔人とその眷属の所有物は、決して奪えない。魔界の住人の全ての所有物にはセーフティロックがかかっている。こっそり盗み出そうとしても盗めるものではないのだ。たとえ手にすることに成功しようと、拡張人体が起動することはない。
その例外と言えるのが、戦利品だ。
挑みかかってきた相手を撃退した場合に限り、相手の所有物を我が物にできる。それは現代社会では少々受け入れられがたいシステムだが、それが魔界の住人の倫理観なのだ。
なので、拡張人体・太陽棍は面高の物となった。さすがに人間であるニナを所有物扱いするのは法的に難しいので、将軍の保護観察下に置かれることとなった。
眷属の逮捕・裁判を速やかに終わらせるのは、もちろん国益のためである。形ばかりの裁判を行い、すぐに無罪判決を出し、相手に恩を売る。そして居場所を提供し、その超常の力を日本のために役立ててもらう。
眷属が魔界への帰還を望んだ場合はその思惑も無駄になるが、滞在してくれるだけで万々歳なのだ。
そもそも今回の事件で、日輪卿とその眷属ニナは日本に対して何の敵対行為も企てていない。
東京湾内の船や飛行機の航行を禁じるというのは、あくまで日本側の都合だ。日輪卿は船の撃沈や飛行機の撃墜などは行っていない。
よくわからない物体が浦賀水道上空に浮かんでいた。なので政府に将軍にそれを排除させた。
今回の事件はそれだけだ。
魔界の住人は他者を害してはいなかったが、日本の法律には触れていた——というだけの話である。
世間の反応が薄いのもそのあたりが理由だろう。
◆ ◆ ◆
ニナが将軍庁31階【将軍・孤児・難民居住区】の住人となってからすでに1週間以上が過ぎていた。
冬物はすっかりタンスの奥へとしまわれて、花見気分もいい加減に抜けてきた4月中旬、太陽の巫女は引きこもっていた。
ニナには居住区の一室があてがわれている。ベッドや机など、最低限のものは設置されているが、彼女がそれ以上の家具を望むことはなかった。彼女が敗北して日輪卿と離ればなれになってから10日以上、食事すらとっていない。魔人の眷属は本来食事や呼吸などを必要とはしないが、本能的にそれらを欲するのが普通だ。
だがニナは一切の栄養摂取をせずに、あることを一心不乱に続けていた。
それは彫刻と読書だ。
ニナが将軍庁に来て望んだ物は、木材のブロックと彫刻刀と書物だけだ。床に新聞紙を敷き、削りカスはまとめてゴミ箱に捨てるという行儀の良さは見せる。だがその行いには生気というものが全く感じられなかった。
体育座りのように両脚を抱え込んで座り、長い肩掛けで脚部をつま先まですっぽりと覆ってしまう。そうして壁に寄りかかり、肩掛けの隙間から手を出し、木材に彫刻刀を入れ続ける。それ以外は本を読んでいるか、ただひたすらに眠っているかだった。
◆ ◆ ◆
面高は心配になって、個室の入り口前に立ち止まってはたびたびニナに声をかけた。しかし彼女から帰ってくるのは短い答えだけだ。まるで最初に出会ったころのように、非常に素っ気ない反応だった。言葉を学びたいから友達のように話してくれと言っていた彼女はもういないのかと、不安が募っていった。
だが、面高は決して彼女の部屋に入ろうとはしなかった。いくら保護観察を任されているとはいえ、本人の許可もなく乙女の部屋に入るのはためらいがある。なので部屋の外から見守るだけにしていた。
明らかな異変を感じたのは、4月も下旬にさしかかる某日の朝だった。
面高がニナの個室前を通りすがりざま、ふいと視線を室内に送った時。
ニナは起きていた。
いつのもポーズで座ったままだ。
だがその手には本も彫刻刀も持っていない。ただ放心したような様子で、半眼のまま壁を見つめているだけだった。朝日の差し込む室内で、窓の外の青空を眺めるでもなく、壁紙の模様を見ているようでもない。どこか別の世界を見ているように思えるほど虚無的な視線だった。今までにない異変を感じた面高はさすがに放ってはおけなかった。
「ニナ、入るよ」
部屋の主からは返事も、視線すらも帰ってこなかったが、面高は構わず入った。身体を肩掛けですっぽりと包み込んでしまった少女と目線を合わせるため、少年は少女の正面にしゃがみ込み、優しく問いかけた。
「——そのコップは完成したの? それで今は休んでるってわけ?」
ニナの横には木製のコップがふたつ置いてあった。今までに彼女が一心不乱に彫り進めていた成果物だ。ヤスリもかけていない、何の装飾も施されていない、削り出したままの素朴な木杯だった。他には読みかけの聖書が置いてあるだけだ。
「最近夢を見るんだ」
唐突な言葉だった。面高の問いに答えるわけでもなく、目線を合わせるわけでもない。感情のこもっていない声だった。
だが少年には反応が返ってきたこと自体が嬉しかった。
「どんな夢なの?」
「祖父の率いる部族がタワンティン・スウユにたどり着いて、そして私が死ぬまで」
「……」
魔人は人類社会にとって必要とされなくなった人物を眷属とする場合が多い。つまり死にゆく人だ。
ニナがゆっくりと語る一族の物語を、面高は黙って聞いていた。少年の知る限り彼女は言葉少ない。それがなぜこうも延々と不吉なことを話し続けるのか、不安が募っていった。
ひとつの帝国が滅亡し、そして太陽の巫女が眷属として天に昇っていくまでを、ニナは感情を込めずに語り終えた。
「今までの私の記憶と、毎晩夢で見る内容。どちらが本当に起こった出来事なのか、もう私にはわからない。私の記憶を裏付けてくれる人は、もう全て死に絶えた」
ここで初めてニナは面高の目を見た。少女には恨みも怒りもない、ただ諦めだけがあった。
「——お別れだ、おもだか」
あまりにも急な告白に嫌な予感がして、面高は全身の血流が一瞬止まったかと思えた。
「……故郷に帰りたくなったの?」
せめてそうであってくれという面高の願いは裏切られた。
「私はもうすぐ死ぬ」
「……魔人の眷属って頭でもふっ飛ばさなきゃ死なないんだけど」
眷属が死ぬ条件くらいは面高も知っている。それは脳や頸椎の損傷、もしくは本人が生きることを諦めた時だ。生物であれば絶望により自らの命を絶つことはありうる。たとえ不朽不滅と言われる魔人であってもだ。
少女が自らの意志で死を選ぶなど考えたくもなかった。
「日輪卿に救われたとき、私は生きることを放棄していた。目の前で皇帝が殺され、国中は戦禍でめちゃくちゃになった。太陽の巫女なんて無力な存在で、私は生きている意味を見いだせなかったんだ」
死を覚悟した人間にどんな言葉をかければいいのか、面高にはわからなかった。
「——でも日輪卿は医者として私を生かし続けた。傷の治療を終えたあとも拡張人体を私のうなじに接続して、眠りにつかせたまま……生きる意味のない私に、生きる意志を与えてくれたんだ」
「じゃあさ、治療はもう終わってんじゃないの?」
ニナはゆっくりと首を振った。
「私もそう思っていた。でも違ったみたいだ。たぶん私の心はとっくに死んでいて、日輪卿が拡張人体を通じて私に生きる活力を与えてくれていたんだ。接続を解除されてから、私の体はどんどん動かなくなっていった」
「……薬が切れたときみたいなもん? 苦しいの?」
少女は肯定も否定もしなかった。
「私の肉体がどうなっているか、肩掛けをめくって確かめてくれ」




