ノーチェ・トリステ——死にゆく巫女に願いを込めて1
移民問題は今も昔も統治者にとって頭を抱える問題だ。
無制限に移民を受け入れていては国内の秩序が保てず、しかし移民を完全排除しては『安くて便利な労働力』が手に入らない。そこには高度なバランス感覚が要求された。
インカ帝国はあるとき急激に勢力を拡大した。版図を広げる課程で多くの他部族、異民族を抱え込むこととなったので、移民に関する反応も比較的柔軟だった。帝国中から選りすぐられた美女『太陽の乙女』を、かつては敵だった他の部族長に与えることで、同胞意識を作り上げていったのだ。このように当時の太陽の乙女は政略結婚の道具だった。
◆ ◆ ◆
西暦1522年。南半球では夏にあたる2月、リマと呼ばれる都市に、ある船団が到着した。当時のリマは太平洋沿いの港町という関係上、多くの他部族や異民族との交流の場としても栄えていた。
到着した船団の主は立派な身なりの男だった。純金の飾りを体中にぶら下げ、鍛えられた肉体は立派な戦士を思わせた。その男は通訳を連れていた。
通訳によると、船団の主は遙かな北方——アステカ王国のミシュテカ族、その部族長だという。名は“黄金の谷”。ミシュテカ族はアステカにおいて見事な黄金製品を作り上げたことで知られている。
部族長はインカ皇帝との面会を求めた。国家存亡に関わる情報を持ってきたので直接話がしたい、と。部族長の一団は首都クスコに案内されることとなった。
コンキスタドールによって北のアステカ王国が滅ぼされたというのは、すでにインカ帝国にも伝わっていた。情報源は商売人か、もしくは今回のような戦争遺民によるものだった。
アステカの部族長は首都クスコに到着し、インカ皇帝と面会した。皇帝はヴェールの向こうに座っていて、顔は判別できなかった。
部族長“黄金の谷”は、アステカの戦士たちの勇敢なる戦いぶりを雄弁に語った。湖上都市テノチティトランの戦いで野蛮なるコンキスタドールの軍勢を敗走せしめた場面などは、大変な熱の入れようだった。
この戦いは、悲しき夜と呼ばれる。アステカ側が勝利を悲しきと表現することはない。これはコンキスタドール目線の言葉だ。
皇帝は情報提供を感謝し、偉大なる戦士をねぎらった。そしてこのまま帝国に住むよう提案した。首都クスコからほど近い北東の都市、交通の要衝でもあるピサクへの移住を許可したのだ。
部族長は配下を率いて山の上の都市・ピサクにたどり着き、その全貌を目にした時には大変な驚きを感じた。
インカ皇帝の勅命によって作られたという都市は、非常に洗練されていた。麓からは標高差があるにもかかわらず、そこは都市としてなに不自由ない作りだったからだ。
厳かな神殿に、壮大な広場。軍隊の駐留地としても広大なスペースが確保されていた。軍事物資のための巨大な保管庫もある。精緻な石組みによって作られた人家は、数え切れないほどだ。ここが平地にある都市とだと言われても納得してしまいそうな施設の充実ぶりだった。
中でも目を引いたのは、見事な段々畑だ。まるで巨人のために作られた階段かと思うほど一段一段が高く、しかも精密に建造されていた。畑の面積から換算すると、山の上の都市にもかかわらずこのピサクは3000人以上もの人々を養えるのではないかと思われた。
山頂に位置するピサクから東の広大な段々畑を見下ろすと、えもいわれぬ爽快感が体中を駆け巡った。それと同時に、インカ皇帝の絶大な権力を思い知った。
そして都市の西には、インカ帝国最大の墓地と言われるタンタナマルカがある。断崖に横穴を掘って死者を埋葬する方式の墓地群には、無数の墓穴が空いていた。
神殿区、行政区、軍管区、居住区、そして壮大な段々畑に至るまで、その全てに新鮮な水が行き渡っていたのは地味ながら驚嘆するほかなかった。石組みの水路を都市内の隅々にまで巡らせるには、高度な設計技術を要する。もちろん建造に携わる職人たちの練度も。このことからもインカ帝国の高い組織力がうかがえた。
現在のペルー共和国有数の遺跡『ピサク国立考古学公園』として、インカ帝国時代の複合施設は今も多くの観光客を魅了する。
◆ ◆ ◆
1533年、囚われのインカ皇帝アタワルパが身代金として『部屋ひとつを埋め尽くすほどの黄金』を支払い、その見返りに処刑された。コンキスタドールによるこのような横暴により、国内は混乱の極みだった。
新たな皇帝マンコ・インカは首都クスコを取り返すために戦いを繰り広げた。一度は奪還に成功するもすぐに奪い返され、ついに首都を諦めて山中の城砦都市ビルカバンバに立てこもった。こうして首都を奪われながらもインカ帝国は今しばらく生きながらえることとなる。
この時、アステカ王国の移民団は皇帝に付き従ってビルカバンバへの再移住を決断した。移民として受け入れてくれた恩を返すという考えもあった。だが最大の理由は、部族長“黄金の谷”がインカ皇帝から太陽の乙女を『下賜』されたからだ。乙女との間に子も産まれたことにより、帝国への帰属意識が高まっていた。森林の城砦都市はピサクほどの住み心地ではなかったが、皇帝直属という一体感もあり、住民の士気は高かった。
以上のような動乱を生き抜き、北からの移民たちがすっかりインカ帝国の国民として馴染んだ1558年、部族長の孫娘としてひとりの少女が誕生した。
その子は非常に愛らしい顔立ちをしていた。部族長もその息子も、帝国で最も美しい太陽の乙女を娶ってきたので、それは当然と言えた。だがその赤子の最大の特徴は、生まれながらの銀髪だったことだ。まるで偉大なる太陽の火によって燃やされた後に残る上質な灰——見る人を魅了する銀灰色の髪だったので、その赤子はインカ帝国の公用語から『火』と名付けられた。
乳幼児死亡率の非常に高かった時代、ニナは健やかに年齢を重ねた。そして成長するごとにその美貌を知られることとなった。
だが言い寄る同年代の男子たちはその都度排除された。
ニナは11歳にしてすでに太陽の乙女となり、神殿での勤めに励んでいた。もし太陽の乙女が男と深い仲になった場合、相手の男は処刑され町中でさらし者にされる。他人とのふれあい——特に男との接触は避けなければならない立場だった。
部族長の孫娘。太陽の乙女——このようにニナは世間から課された役割によって、身勝手な振る舞いなどできなかった。
しかしニナは好奇心旺盛だった。特に興味を持ったのは宣教師の持つ聖書だ。文字という、国内には存在しない概念。それによって生み出される説話や物語。宣教師が聖書片手に広場で布教活動をするとの情報をキャッチした時は、物陰からこっそりと話を聞くのがニナの日課になっていた。
だが多感な少女の平和な時代は長続きしなかった。




