芝生に寝転ぶ罪過の天女3
事件解決後から昨日までは、日々のインタビュー責めとそれ故の籠もりっきり——ゼナリッタは明らかに気が滅入っていた。あからさまな傲慢さはなりを潜めたものの、もともと非常に気位が高いお嬢様なのだ。しかし面高に課せられた疑惑を少しでも晴らすため、反論の機会があるならばどんな媒体の取材も受け入れてきた。このことからも彼女の責任感の強さがうかがえる。
気疲れの見える彼女は、面高に少しだけ強く主張した。ニュース画面を指さし、『この花見っていうのに行きたい』と。
面高は彼女が世間から奇異の目で見られるのではないかと躊躇したが、聡明な姫はその頃すでに、世間が自分をどのように扱ってくれているかを察していた。
そして今回の外出予定を決めたとたん、少女の機嫌は急激な回復を見せたのだ。
街をただ歩くだけでも、ゼナリッタはあらゆる物に目を向け楽しんでいた。今までは町歩きを楽しむ精神的余裕もなかったのだ。
店先にディスプレイされた服やアクセサリーに眼を輝かせる。看板の文字をゆっくりと目で追っては声に出す。甲州街道を行き交う車——特にガソリン車や手動運転車へ強い興味を示す。新宿駅南口の人混みを、驚愕の混じった表情で眺める。広々とした階段をただ降りるだけで、その楽しさを目映い笑顔で表現する。
魔人の個体数が2000人以下というなら、それはつまり総人口2000人以下の村出身の娘が、世界一ともいわれる新宿駅の人流による洗礼を受けたようなものだ。これが人間なら恐れと好奇心を半々に抱くといったところなのだろうが、不朽不滅の魔人に恐れはない。ただ純粋に楽しみを享受しているのだろう。
将軍庁内では決して見られなかったその好奇心旺盛さを見ているだけで、面高は何かが満たされていくのを感じていた。
ゼナリッタは当然のように道行く人々の視線を集めていた。それは何より類い稀なルックスのせいだ。彼女を疎んじる目線などはほとんど見られなかった。
やがてふたりは新宿御苑に辿り着いた。ゼナリッタがニュースで見かけてからずっと行きたがっていた、都会に開けた大庭園。閉園時間が近づいているにもかかわらず、メインゲートである新宿門へ向かう人は多い。
入園後、少女の目を奪ったのは様々な種類の緑色。そして舞い散る儚い桜花。園内に多く植えられているソメイヨシノは、まだ五分から八分咲きの時期だった。
少女はヒラヒラと散り落ちる花びらを両手で受け止めるため、いつになく真剣な表情を見せた。春の陽光を浴びながら芝生の上を駆け回った末、見事それを手中に収める。
満面の得意顔となった彼女は、正面に立つ面高と、己の右肩に止まった尊林へ、手のひらの上の桜花を見せつけてくる。
その様子を見ていたとある児童が、指をさして笑った。
「あのお姉ちゃん子供みたい!」
その率直な意見は、少女に驚きと羞恥を与えたようだ。周囲の芝生広場を見渡すと、少女と同じようなことをしているのは未就学児がほとんどだった。
少女は取り澄ました顔を作ると、その場を足早に歩み去る。置き去りにされた面高は苦笑しつつ、すぐにその後を追った。少年が追いつくと、少女は素直な照れ笑いで迎えた。
そうして再び苑内の散策を楽しんだ。 その道中、種々様々な花が少女の好奇心を満たす。ハナモクレン、ヒマラヤヒザクラ、オオシマザクラ、チョウシュウヒザクラと、面高は木の幹に着けられたネームプレートを目で追っていく。しかしサクラそのものにはあまり興味がなかった。少年としては花よりも興味深い存在がすぐ目の前に居るのだから。
しゃがみ込んだゼナリッタが何を見ているのかと思えば、アスファルトの隙間から顔を出すタンポポだった。15歳前後の見た目をしているのに、その中身は幼児性が強い。ひょっとして『4万年の生涯のほとんどを眠って過ごしてきた』というのは冗談ではないのかもしれない、と面高は思った。
やがて池が見えてくると、ゼナリッタは小走りで近づき、柵の前で足を止めた。
その柵は当然池への進入禁止のためにあるのだが、彼女は知らなかったのだろう。ただ見て楽しむだけに水を溜めておくなど、常識の範囲外だったのだろう。
ゼナリッタは面高へ質問してくるも、その表情は未知への遭遇で少しぎこちない。
「これが池……なにか理由があって水を溜めてあるの?」
「いや……ただなんか良さそうだから池にしてるんじゃないかな……」
池がある理由を聞かれるなど、まさに禅問答だ。
「ふーん……」
そう言うと、彼女はそれがごく当たり前であるかのように柵を乗り越え、池に歩を進める。
「——あー!!」
そして悲鳴を上げながら水中に沈んでいった。
一瞬だった。
ドレスを身にまとった女子がなんの躊躇もなく真っ先に池へダイブするなどまったくの想定外だったので、面高は反応もできなかった。
ただ、今までにない彼女のパニック顔と、腋からアンダーバストにかけての白さが目に焼き付いた。
池は大して深くないのだが、判断力を失っているのか、ゼナリッタは上半身を水面に出しもがいている。尊林は主が水中に没する瞬間に離陸していたので難を逃れたようだ。
「あああ、何やってんだよ!」
将軍は柵を乗り越え、姫を引っ張り上げた。もう二度と過ちを犯さぬよう、池から距離をとり、少女のずぶ濡れになった緑金の髪から木の葉を取ってやる。
「前は水の中に入って遊んだのに! なんでこんなに深いの!?」
ゼナリッタは全身から水を滴らせながらむくれていた。
「あれはただの砂金取りだよ! ここは池だから入っちゃいけないの!」
「そんなの知りません!」
尊林は上空を旋回しながら、ふたりのやりとりを見下ろしてただホーホーと鳴いている。
「とりあえず拭かないと……どっかでタオル借りられるかな」
面高のそんな言葉に、ゼナリッタは疑問の表情を浮かべる。
「拭くって、水を?」
そう言うと彼女は全身を震わせた。それは濡れた猫が体から水を飛ばす仕草に似ている。ただ猫と違うところは、彼女の脱水があまりに完璧だったことだ。水分を含んで重くなった髪も、白い肌を伝う無数の水滴も、まるで時間を戻したかのように乾いていた。
「……なんか猫みてえだな……」
面高の驚いた顔を見て、ゼナリッタは少しだけ得意になったようだ。
「この服は拡張人体でできてるの。わたしにとって不快な物がついた場合は、こうやって勝手に蠕動して排出してくれる」
尊林が面高の肩に着陸し、小さな声で補足してくる。
「ちなみに水に濡れた程度では透けないので、期待せんように」
「えっ!」
面高の驚きを見咎めるように、ゼナリッタは指を突きつけてきた。
「だから! 本来ならあなたが風呂上がりのセリの体を拭いてあげる必要なんてないの!」
「いや、あれはさ……」
ただの助平野郎と思われては将軍としての威信に関わる。面高は弁明の言葉を必死に探した。少年のそんな慌てぶりを見てか、少女は小さく笑った。
「それについてはセリから聞いています。『誰かになにかをしてもらうのは存外に幸せを感じるものじゃ』ってね。わたしもここで体を拭いてもらえばよかったかしら」
「ここで……? それはちょっと絵面がまずいっていうか……」
少女が少年をからかい、保護者の雰囲気をまとったフクロウは好々爺のようにホーホーと鳴く。そうして平和な時間が流れていった。




