天と地の狭間にて2
「魔界……? マントル?」
面高は状況が飲み込めていない。マントル層など、せいぜい教科書の中でしか使わない言葉だからだ。それが場所を意味する単語であると、すぐにピンとこなかった。
「ああそうだとも。我らはこうして一時的にマントル層を切り開き、地上に出入りするのだ。この足下を超えた地球の中心核内部に、我らは住んでいる」
頭部だけの監獄王が得意げに答える。
「えっと、つまりここどこですか? 地球儀でいうとどの辺に位置してるんですか?」
「地球儀で示すとなると、それに穴を開けなくてはいけないな」
「え?」
面高にとってはコロンブスの卵状態だ。地球上のあらゆる場所を表示できるはずの地球儀に、穴を開けるなど。
「混乱するのも無理はない。きみたちの単位で話そう。ここはおよそ地下2900キロメートルに位置する。今きみが踏みしめているのは、地球の中心核——いわゆる外核というやつだ」
「え……深さ2900……キロ? あれ? 地球で一番深い場所ってたしか11000メートルだから……」
面高は困惑していた。が、頭の中で単位を揃える。
今の深さが2900キロメートル。地球で最も深い場所と言われるマリアナ海溝最深部は11000メートルなので11キロメートル。
なんとも規格外の大深度だ。
「さて将軍、ここまでを見せた上でお願いがある」
監獄王は神妙な顔つきになった。
「——このままオレと共にこの下まで、魔界まで来てほしい。以前も説明した通り、きみは現生人類の中で最強と認定された最も貴重な人物だ。そんなきみが無謀な戦いで死んでしまう前に、角を授与して魔人として迎え入れたい。そして魔界で暮らし子孫共々繁栄してほしいと思っている」
「その角って後付けできたんですか?」
面高の興味は移住や子孫についてではなくそこにあった。
「ああ、かつて何人かの人類を眷属ではなく魔人として受け入れたことがある。きみもゆくゆくは貴族の位に就くだろう。仲間や眷属たちと共に将軍一門として繁栄するといい。それは栄光の未来だ」
変身願望はどんな人間にもある。特に、魔人という最強生物になれると言われれば心が揺れるのは当たり前だ。
史上最強の力を思うがままに振るい、腐った社会に鉄槌を下したい——多かれ少なかれ、現代社会に生きる者なら誰もが夢想したことがあるだろう。面高も漫画を読みながらぼんやりとそのようなことを思ったことはある。
「いや、でもなあ……」
「魔界には余計な法律などない。多くの魔人や眷属たちがきみを慕うだろう。我らのような人間型から、きみたちがモンスターと呼ぶような異形の存在もいる。いずれも人間の基準からすれば美貌の持ち主ばかりだ。きみが地上の家族や友人と共に暮らせるよう、その者たち全員を眷属として迎え入れよう。悪い話ではないはずだ」
しかし、東京の将軍は戦いを好まない。魔人への変身願望に心が揺らいだのはあくまで『変身』という格好良さそうな響きに対してであり、力にも名誉にも執着しない性格だった。
「でも、共に暮らすって——その中にセリさまとゼナ姫は含まれていないんでしょう?」
「どうかわかってほしい。きみは先ほどと同じような調子で将軍兵装を使い続けていたら、いずれ死んでしまう。あの子らは親の意思を受け継ぎ、それほど無茶なことをしようとしている」
「その『しようとしていること』ってなんなんですか?」
貴族の子女であるセリとゼナリッタが知らないという魔界の秘密。だが監獄王は人間である面高にそれを語り始めた。
「魔界の秘宝を破壊しようとしているのだ。きみの左腕に寄生しているカムヅミと同じカテゴリのモノだ。それらは武器や防具、観測機や生産施設……カムヅミのような侵略的外来種まで多岐にわたる。世界を滅ぼすような危険物なので我らの遠い先祖が厳重に封印した」
「魔界の宝物庫……」
その話はセリやゼナリッタから聞いたことがある。だが彼女たちには幼いころに親から聞いたという記憶しかなかったので、詳細は不明だ。魔界では貴族の当主しか知り得ない秘密が多くあるらしい。
監獄王は【王】という最高位の爵位を持っているので、あらゆる情報にアクセスできるのだろう。
「前回ふたりの選帝侯によって空間維持装置が破壊された。半壊してから自己修復に4万年もかかった。それだけの時間を要してようやく魔界と地上との繋ぎ目が再び開かれたのだ」
「……それが直ったから、また魔界の住人が地上に出て来るようになったってワケですか」
セリが今まで4万年も地上を放浪していたという話も、ゼナリッタが今まで4万年も監獄に入れられていたというのも、全てはこれが原因だったのだ。
「そうだ。その秘宝は天の柱。我らが使っている物は全てその装置が生み出した。拡張人体から一般の武具まで。天地の繋ぎ目の生成を含め、魔界という空間全てを管理しているといってもいい最重要の秘宝だ」
つまり、その天の柱さえ破壊してしまえば魔人はもう地上に出てこられないのだ。
魔人という生き物は今のところ人類に敵対してはいない。しかしそれがいつまでも続くと考えるのは甘いだろう。人類の守護者が、いつその役目を放棄しないとも限らないのだから。人類という生き物が多くの生物種を絶滅に追い込んできたように、魔人という生き物が人類を絶滅に追い込むという可能性はある。
「……それが何かヤバい物だから、壊そうとしてるんじゃないですかね」
セリとゼナリッタの親も、そう思ったので魔界の秘宝を破壊しようとしたのではないか。武力を司る者として何かを知ってしまったがゆえに。軍人がクーデターを起こすという話は世界中に例がある。
「きみたち人間にも過去の遺産を大切に思う気持ちはあるだろう。きみの使う正宗も、過去に作られた文化財ではないか」
「過去の遺産っていっても、それが不発弾みたいな危険物だったら、おれだってどうにかしようって思いますよ」
「ああ……どうかわかってくれ。きみも彼女たちも、カムヅミに騙されているんだ」
「え? これ?」
面高は腕時計でも見るかのように左腕を上げた。
監獄王の頭部は触手のような拡張人体によって少年の近くににじり寄ってきた。その表情は真剣そのものだ。
「そうだ。そいつは侵略的外来種。危険物として魔界の宝物庫に封印していたが、セリの父親が娘に持たせてしまった。そしてお前という宿主を得て成長した今、魔界へ報復しようとしているのだ」
「いやあ……それ無理がないですか? ヘビとか鳥とかがしゃべるならともかく、これ植物ですよ? あなたが未来から来たとかならまだギリ信じられても、植物が誰かに報復とかちょっと……」
「そいつは生命の倫理観に反している。死者蘇生などあってはならないと封印したのだが……実態はそれ以上だった。そいつの特性は物体の復元ではない! そいつは時間を戻すことで物体を復元しているように見せているのだ!」
魔界の王を名乗る大男が真顔で冗談を言うので、面高は吹きだしてしまった。
「……いや、ちょっと、それは……時間を戻すとか不可能じゃないですか?」
面高も実家の喫茶店で、復元されたコーヒーカップを見たことがある。完全に割れていたというそれは、ヒビすら見当たらず新品と見分けが付かない出来だった。カムヅミの復元は、それを魔界レベルで高精細にやった結果なのだろう。
しかし時間を戻すというのは、基本的な理論すらまったく存在しない。時間を逆行した人間なども今までに存在しない。技術うんぬんを持ち出すまでもなく不可能なのだ。
魔人の生首は、もはや途方に暮れているといってもいい表情だった。面高としてもあまり辛気くさい空間で冗談に付き合うつもりはなかった。
「——いろいろ聞いといてあれですが、おれはやっぱり帰ります」
人間とは欲深い生き物だ。誰であろうと財産を求め、そして年を取れば寿命を求める。それは古今東西変わらない。数々の神話や物語のテーマになっているのだから。
人類のことを原始時代から知っているであろう監獄王は、面高の無欲さがどうしても信じられないのだろう。多くの大人たちが、面高の手取り収入15万円を知ったら驚くのと同じように。
「なぜだ! あの子らも、家族も友人も、その者たちとの永久の平穏も、魔界に来れば全てが揃う! 地上との通信回線程度なら維持できるぞ。それを通じて地上の文化を享受しながら、平和に暮らせばいいではないか!」
しかし、ネット回線だけでは手に入らないものがある。それは面高にとってどうしても譲れない一線だった。
「……おれ、マンガは紙の雑誌で読みたいんですよ」




