リスクとリターン——純潔の取り引き3
「姫、どうかお気を確かに」
枕元に立つフクロウの尊林は、他にかける言葉も思い浮かばなかった。
将軍庁居住区、ゼナリッタの個室。
ゼナリッタはベッドへうつ伏せに倒れ、枕に顔を押しつけている。やがて仰向けになった彼女は元気のない苦笑を浮かべていた。
「あーあ、人間なんて昔はわたしの言うこと何でも聞いてくれたのにな」
今まで落ち込み、泣きはらしていたにしてはそこまで悲観的ではなかったので、尊林は安堵した。
「世の中はあまりにも複雑になりすぎました。もし昔のように単純で、しがらみも少ない社会であったのならば、将軍の少年とて姫を助けるために立ち上がったことでしょう」
「そうね」
「昔の人は日の出るころに働きに出て、日の沈む前に仕事を終える——それだけでよかったのです。小難しい制度に頭を悩ませることもなく、日々お気楽に暮らしておったのです」
「ええ。石器時代の人間なんて獲物を獲ったらあとはみんな遊んでた。わたしが砂金とか綺麗な石をもらって喜んでたら、みんなは嬉しそうに笑ってた」
ただ【昔】といっても元人間の尊林と魔人であるゼナリッタではそのスケールが違う。そのおかしさにフクロウはホーホーと笑った。
「ほほほ、姫の笑顔は値千金なれば」
「みんなわたしに優しくて、女神のようだって褒め称えてくれた。わたしを喜ばせるためには何でもしてくれた。でも現代人は違う。わたしに賞賛を送るのは昔と同じだけど、ただそれだけ。遠くから眺めているだけで、わたしにはなにもしてくれない」
「社会が複雑になればなるほど、捨てられないものも増えていきます。生活の全てを投げ打って情熱のままに行動を起こそうという者は、もはや居ないのかもしれませんな」
「昔の人間には法律も金銭も無かった。契約は個人と個人の間で通用するものだった。でも今の人間たちは法律とか金銭とか、目に見えないものに縛られてる——まるで呪われてるみたい」
その言葉の調子こそ呪いが込められているようだった。
「姫……どうかお気を確かに」
眷属の慰めに、主人は柔らかく応じた。深呼吸により豊かな胸元が上下する。
「わたしはね、別に人間を恨んでるわけではないの。複雑になってしまった現代社会には、懐かしくて純朴だった人間たちはもう居ない。もうわたしのお願いは通じなくなっちゃった——ただそれが寂しくて泣いてたの」
やがてゼナリッタは起き上がる。弱気を捨て、決意の雰囲気をまとっていた。
「——尊林、状況を整理したい」
「なんなりと」
不穏ななにかを感じ取り、尊林の翼が震える。
ゼナリッタは、腕を組んで部屋中を歩き回ながら従者へ問う。
「どのような国も個人も、わたしを助けると申し出なかった。そうですね?」
「残念ながら……」
「そう……では次。地上へ出た他の選帝侯たちとは連絡が取れた?」
「それが……」
選帝侯という身内からの言葉を伝えるのはつらいものがある。尊林はくちばしを閉じた。
「かまいません、言いなさい」
ゼナリッタの表情に変化は見られない。それもそのはず、もう表情などとっくに消え去っていたのだから。
「はっ……それが、その。この程度の危機を乗り越えられないようでは、選帝侯になる資格無し。との仰せでして……」
「賢明な判断です。弱者が軍事力を司るなどあり得ない——政府の反応に何か変化は?」
「いえ、目立った変化はなにも。一部の若手議員たちが将軍を戦わせろと声を上げていますが、いかんせん権力がなければ……」
「将軍庁内部は?」
「総理との会談を終え、長官どの部長どの、ともに帰庁。成果は得られなかった様子。どうやら徹夜作業のようで、職員が帰宅する気配は見られません。現在は長官室にて緊急会議が行われております。セリさまもご同席なさっているようで」
「会議の内容は?」
「もうしわけありません。これはさすがに……」
フクロウの目から涙が流れる。
「察しはついています、言いなさい」
将軍庁の正式な対応はあまりにも無情だった。
「明日の引き渡しまでの間、姫が暴れて周囲に被害を出さないようにするにはどうするかの、安全会議を。仏の慈悲は死に絶えてしまったのだと思うと、拙僧はもう……」
フクロウは悲しみに身を震わせたが、主人は至って平静を保っている。
「当然の反応です。わたしが自暴自棄になった場合、止められるのはこの国では将軍とセリしかいない。人間たちは逃げるしかない。安全確保は最優先です——将軍庁周囲の一般人は?」
「は。昼間から避難作業は進み、現在公園の周囲はほぼ無人になった、とのことです」
「監獄王はまだ公園にいる?」
「昼から変わらず、芝生におります」
「将軍の様子は?」
「姫とのお食事のあと、何やら眠そうな様子で部屋に戻っていきました。彼も神経が張り詰めていたのでしょう」
「眠っているのは確認した?」
「……確認しました」
尊林は体中の羽根を小刻みに震わせた。
「りゅーりと唱空のふたりは?」
「ふたりともすでに自室へ戻っているようです。今日はもう建物から出ないよう、教育部から通達があったようで」
「そう……ではあなたは将軍庁の出入り口を見張ってなさい。誰かが間違って出てこないように」
今まで部屋中を歩き回っていた彼女は、ここでようやく足を止めた。
「姫、どうか思い直してはもらえませんか」
右肩に飛び乗ったフクロウを、姫は両手で優しく包み込んできた。
「少し散歩に行くだけです。帰ってきたら、また昔の話を聞かせてね」
◆ ◆ ◆
無人の新宿中央公園を街灯が照らす。
監獄王は芝生に仰向けで寝転んでいた。その彫りの深い顔をLEDの明かりが浮かび上がらせる。
その顔に影が差した。
街灯の故障ではない。その明かりを遮った者がいたからだ。
近辺の道路はすでに封鎖され、警察官が配備されている。住人の退去もすでに完了しているなかで、誰かが迷い込んでくる可能性は低い。
影は緩やかに近づいてきた。
真後ろから明かりを浴びて、まばゆく光をまとう緑金の髪。
逆光のさなかでも煌めきを失わない赤紫の瞳。
膨らみの目立つ胸、引き締まったウエスト、細く長く健康的な手足、それらが光に照らされたハレーション効果によってより神々しく映る。
なにより一段と赤黒く輝いているのは、先の尖った両耳だ。
この世で最も美しい生き物が立っていた。
「立ちなさい。倒れた相手を打つのは気分が悪い」
ゼナリッタは戦闘態勢に入っていた。
◆ ◆ ◆
3月下旬の某日、日没の18時。
こうして、のちに新宿怪獣大決戦と呼ばれる戦いが始まった。




