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虎と花と天使たち (万象森羅ファン小説)

作者: 志稲 祐


 これは、天才医師・虎太郎を筆頭にした旅の医師団による異世界治療譚いせかいちりょうたんである。


 プロローグ


桂花(ケイファ)君、今日のお茶はなんだい?」

 白いティーカップを傾けた虎太郎(こたろう)が、対面に座る少年に聞いた。

 窓から光が差し込むダイニングルームにて、光沢豊かな木製の丸テーブルを挟んでのティータイム。 

桂花茶(けいかちゃ)といって、キンモクセイの花を乾燥させて煎じたものだよ」

 虎太郎からお茶のことを聞かれた少年――桂花が答えた。

「――お気に召してくれたかな? 先生」

今度は桂花から虎太郎へ問いが投げられ、

「うん。(きみ)がこのお茶を好きな理由がようやく理解できたよ。『なんでもっと早く飲ませてくれなかったのか』という不躾な質問はあえてしないでおいてあげよう」

 虎太郎は微笑を返した。

 先生と呼ばれた虎太郎は、白シャツに赤ネクタイを締めた上からブラウンのベストを着て、ブラウンのズボンと小振りの黒い革靴を履き、そこへさらにダボダボの白衣を羽織るという医者の装いなため、傍から見れば先生と呼ばれても違和感のない姿である。

 だが、椅子にちょこんと座る虎太郎はどう見ても小学生くらいの容姿をしており、初対面の人がこの場にいたなら、【先生】という呼称に間違いなく耳を疑うだろう。

「それは良かった。なら俺も、『散々じらしたらどんな顔をするのかちょっと見てみたくなった』なんて不躾な回答はしないでおこうかな」

 と、桂花はにっこりとした。

「やれやれ。漢方薬師とは思えないSっ気じみた君の笑い方を見るのはこれで何度目かな?」

「俺、そんなに狡猾な感じするかな?」

 わざとらしく首を傾げる桂花は、かつて漢民族が身に着けていた漢服の上衣下裳(じょういかしょう)を思わせる衣服に身を包んており、漢方薬師という肩書き通りの出で立ちである。

「狡猾って単語が出てくる時点で、深層心理の部分で君はそこはかとなく、自分のことを狡猾だと認めているんじゃないのかね?」

 虎太郎もにっこりとした。その目元には薄っすらと影が差している。

「なるほど? 相手の発言の中に攻め手を見出すとは、さすが先生。そうこなくちゃね」

「楽しめているかな?」

「ああ、最高に。だから俺はこの船(、、、)に乗った」

 虎太郎と桂花は同時にティーカップを持ち上げ、口へと運ぶ。まるで鏡のように。

「……あのぉ、今よろしいでしょうか?」

 そこで、水滴が落ちた水面のごとく微かな震えを孕む声がした。

 虎太郎と桂花が振り向いた先――部屋の入口に、ピンクの長髪をツイテールに結わえた少女がお盆を持って立っていた。青のチェック柄のナースウェアにフリル付きの白いケアガウンという、看護師の姿だ。

「どうしたんだい? リエル君」

 虎太郎が目元の影を払い、にぱぁ、と明るい笑顔を少女に向ける。

 リエルと呼ばれた少女は頬を微かに赤らめながら、

「お、遅ればせながら、お菓子を持ってきました。焼くのにちょっと時間が掛かってしまいまして……」

 と、お盆の皿に盛られたクッキーを丸テーブルまで運んできた。この際、リエルの非常に豊満な胸がたゆんたゆんと上下に揺れるが、男二人はお盆の上の品物に興味深々といった様子だ。

「これは美味しそうな香りだね」

「クッキー!」

 桂花に続いて、虎太郎が両手をぴんと伸ばして喜びを露わにした。

「遅くなってごめんなさい」

 透き通った声で、深々と頭を下げるリエル。

「そんなに畏まらなくていいよ、リエル君。遅くなったくらいで怒るわけないだろう?」

 伸ばしていた両手をぽんとテーブルに置いて、虎太郎が言った。

「――許して欲しいかい?」

 虎太郎の優しい声で顔を上げたリエルに、桂花が聞いた。

「は、はいぃ」

 うるうるとした目で、リエルが言う。身体まで震えているのか、襟元で結ばれたリボンが小刻みに揺れる。

「うーん、どうしようかなぁ?」

 桂花はにこやかな顔のまま顎に手を当て、首を傾げて考える仕草をする。

 眉を寄せた虎太郎は目を細めて桂花を見つめる。

「まったく、きみというやつは」

「冗談だよ先生、リエル。ちょっとからかってみたくなっただけさ」

 リエルに向かって爽やかに微笑んだ桂花は、「そうだ!」と手を叩く。

「ミカとラファも呼んでおいでよ。パオも一緒にね。みんなでお茶にしよう」

「わ、わかりました。呼んで来ます!」

 ほっとしたのか、表情を明るくしたリエルは頷き、ダイニングルームを出ていった。

「パオは象だぞ? 草とか木が主食じゃないのかね?」

 と、虎太郎。

「あの種は別名ミニマムエレファント。地球で知られる一般的な象とは違って身体はかなり小さいし、食事も二日に一回で少量だ。さらに好む食べ物は野菜やお菓子。だからペットに適している」

 そう説明し、お茶を味わう桂花。

「だからきみはパオも一緒に連れてきたんだね。小食なら食料に困るリスクも減るし」

「なによりあの見た目とサイズ感が好きなんだよね。先生とも相性がいいし」

 納得したように頷く虎太郎と、幸せそうな笑みを浮かべる桂花。

「目を棒線みたいに細めて微笑んでるけど、パオがそんなに面白いのかい?」

「いや、どちらかと言うと可愛いかな? まぁ、こっちの話さ」

「……君は掴みどころがないな。それが逆に僕の知的好奇心を煽るわけだが」

『うんしょ』と言って、椅子からゆっくりと降りた虎太郎は、テテテと小股で戸棚まで歩いていき、両手をぴんと頭上に伸ばしてガラス戸を開けようとするが、届かない。

「なぜ届かないとわかっていてやろうとするんだい?」

 虎太郎の背後に立った桂花が代わりにガラス戸を開ける。

「こうしてたくさん背伸びしていれば、早いペースで背が伸びると僕は考えているんだよ」

「科学的根拠がないし、いつまで経っても棚から必要なものを取れないじゃないか」

 と、桂花は示し合わせたかのように、虎太郎が望んでいたものを戸棚から取り出した。

 追加のティーカップと受け皿だ。桂花はそれを複数個お盆に載せて、テーブルへと運ぶ。

「ボクたちがこれから行く世界(、、、、、、、、)なんて、ボクたちの知る科学そのものが通用しないような世界だよ? ならいっそのこと、科学的根拠が必要ない、スピリチュアルな方向に思考をシフトしておくべきだと思わないかい?」

「なるほど? あえてスピリチュアルな思考回路になっておいて、いざ超常の世界を目の前にしたときに順応しやすいようにしておくってことか。一理あるね」

 ティーカップセットを丸テーブルに等間隔で並べながら、桂花。

「――なら、俺は先生の身長、ずっとそのままだと感じる(、、、)ね」

「そんなこと言えるのも今だけだよ? いずれきみよりも大きくなるんだから」

 ひょい、と桂花に抱えられ、椅子に座らせてもらいながら、虎太郎。


「ぱおー」


 そこへ、明るい灰色をした四本足の生き物がのそのそと歩いてきた。

 丸みを帯びた身体に、短い四本の足。小さな白い牙に、くるん、と丸まった長い鼻。黒のつぶらな(まなこ)で虎太郎たちを見つめるその姿は、ミニマムエレファント。名前は【パオ】といった。

「ぱおー」

 パオは丸テーブルの前まで歩いてくると、女の子が裏声を出せばそっくりな物真似ができそうな柔らかい鳴き声を出した。

「あれ、あの子たちよりも早く来たね。クッキーの匂いに誘われたかな?」

 桂花は言いながらパオの頭を撫でる。

「まだ食べるときじゃないよ、パオ。みんなが揃ってから一緒に食べよう」

「ぱお!」

 虎太郎が椅子から片手を伸ばすと、長い鼻を伸ばしてクッキーの香りを嗅いでいたパオは自ずから彼の傍へと身を寄せた。

「よしよし。いい子だね」

 虎太郎の白く小さな手に撫でられて、パオは気持ちよさそうに目を閉じる。


「あたし達もお茶していいんですか⁉」


 虎太郎がパオの頭を撫でていると、今度は明るく生一本な声がして、ブロンドの長髪を靡かせた少女が現れた。服装はリエルと同じナースウェアだ。

 そのあとから、ピンク髪のリエルが続く。

natürlich(ナテューアリヒ).(もちろん)、ラファ」

「え?」

 虎太郎がドイツ語で答えると、ラファと呼ばれたブロンド髪の少女はきょとんと首を傾げた。動く要素が不明だが、ラファの大きな胸も首を傾げるついでとばかりに上下に揺れる。胸のサイズはリエルより少しばかり小振りだが、それでも人目を引くには十分すぎる。

「――あ、ごめん。『もちろん』って言ったんだ」

虎太郎の説明で、ラファはエメラルドの瞳をきらきらと輝かせ、

「ありがとうございます!」

 と、桂花の手元に置かれていたティーポットを手に取る。

「あ、い、いいよお姉ちゃん。わたしが……」

「あんたは虎太郎先生のポットをお願い」

 姉の代わりに給仕を名乗り出たリエルに、ラファが指示を出した。

「いいよ二人とも。お茶くらい自分で()めるさ」

 虎太郎は二人の少女に席につくよう言いながら、『うんしょ』と椅子の上に立つ。

 そのときだ。唐突に部屋全体が揺れ動いた。

「わぁ!」

 椅子の上に立っていた虎太郎は揺れによってバランスを崩し、そのまま床へ――。

「――っと、危ない危ない」

 落ちることはなく、たった一足(ひとあし)で駆け付けた桂花によって片手で抱きかかえられた。

「い、今の揺れは……⁉」

 と、リエルが怯えた声を漏らした。

「――乱気流に巻き込まれたときの揺れ方じゃないね。まるで何か、大きな衝撃が内部で起こったような感じだ」

 虎太郎を椅子に戻した桂花が推測を述べた。

「あ、ありが、Danke(ダンケ).……」

 ほんのりと頬を赤く染めて、虎太郎は上目で桂花を見上げた。

「今度はなんて言ったんだい? せん、せー?」

「きみはわかるだろうに……」

 桂花に微笑みかけられ、口を尖らせた虎太郎は顔を逸らす。


「――先生! ごめんなさい!」


 そこへ、セミロングの銀髪を後ろで一つに結わえた少女が飛び込んできた。

 細く引き締まった身体の要所にしっかりとした筋肉がついた、スポーツウェア姿の健康的な美少女だ。筋肉質な故に脂肪が少ないのか、胸は三人の少女の中で一番小さい。しかしそれでも平均的なサイズではある。

「ミカ、どうしたんだい? そんなに慌てて。お茶はまだ淹れたばかりだから冷めたりしてないよ?」

 と、虎太郎。

「違うんです。私、リエルに呼ばれて、トレーニングルームから出ようとしたんですけど、使っていた1000キロのバーベルがラックにうまく掛かってなかったみたいで、下に落ちて、床がへこんじゃったんです……」

 胸の前で人差し指と人差し指を付け合わせ、上目で事情を話すミカ。

「筋トレ中だったのかい? 怪我はしてない?」

 という虎太郎の問いに、ミカは「はい」と頷いて、

「でも、床が……」

「へこんだだけで、穴が開いたわけじゃないんだろう? なら船内の気圧は保たれるから安心していい」

「この飛行船は、ボクたちの母国が例の【地の国】の技術を模倣して作ったもので、結構頑丈なんだよ。力持ちのミカ君が本気で暴れたとしても、墜落なんてしないさ」

 困り眉になったミカに、桂花と虎太郎が微笑んだ。

「すみませんでした。以後、気を付けます」

 肩に掛けていたスポーツタオルを降ろして、ミカはぺこりと頭を下げた。

「ミカ君に怪我が無かったんだ。不幸中の幸いとしようじゃないか。それよりもお茶だよ」

 虎太郎は言いながら、ミカを手招きする。

「――さてと。これで全員そろったね!」

 桂花が言って、素早く鮮やかな手捌きで少女たちのティーカップにお茶を注ぎ、同様の流れで、小皿にクッキーを均等に配る。そのテキパキとした動きは、申し訳なさげなリエルが手伝おうと動きだす前に配膳を終わらせた。

「「「ありがとうございます」」」

 少女三人が同時に言った。

「さすがは三姉妹。息ぴったりだね」

 虎太郎が微笑んで、

「それじゃあ、『いただきます』は全員で言ってみようか」

 桂花が提案した。

「ぱお!」

 パオが鼻をくるん、と曲げて肯定の意を示したのを合図に、虎太郎が取り仕切る。

「せーの」


「「「「「いただきます!」」」」」


 澄み渡る青空を優雅に飛ぶ一隻の飛行船の中で、彼らのささやかなお茶会が幕を開ける。



   第一話


「ボクたちがいつ知り合ったかって?」

 2枚目のクッキーを口へと運ぶ途中で、虎太郎は質問をしてきたラファを見遣った。

「具体的な日数までは覚えてないけど、きみたち三人とさほど変わらないよ?」

「俺が道端でぶっ倒れているところを、偶然通りかかった先生が介抱してくれてね。それが最初さ」

 お茶を味わっていた桂花が付け加えた。

「桂花君ったら、白目剝いてたよ」

 虎太郎が面白そうに言った。

「ど、どうして桂花さんが道端に?」

「ん? 通り魔に刺されて」

 桂花は他人事のように涼しい顔で答えた。

 ミカとラファは口に入れたお茶を一斉に吹き出した。

「ひぇ!」

 と、目を丸くして慌てふためくリエルの頭を、長女のミカが撫でる。

「お、落ち着いて、リエル。今の桂花さんは元気だから」

 しかしそんなミカも、吹き溢したお茶をナプキンで拭く手が微かに震えている。

「――桂花君の髪色が、薄い赤と茶色のツートーン、ツーブロックだったから強烈に目についてね。そうじゃなかったら見落としてたかも」

 当時は笑えない状況だったであろう。だが、今の虎太郎と桂花は共に楽し気だ。

「赤も茶色も好きな色でね。だから今も同じ髪色なわけ」

「カラフルな色は、山で遭難したときとかも見つけてもらいやすい。てっきりボクはそれを狙って二色の髪色にしているのかと思ったよ」

「なら赤じゃなくて明るい青色をチョイスするね。人の目には、暗くなると青色に敏感になるプルキニェ現象という性質があるから。よかったら、先生も遭難対策で、ツートーンのツーブロックにしてみる?」

「おい桂花くん。髪色の話の流れを利用して、ナチュラルに僕の髪型を変えさせる方向に運ぼうとしたね? 油断も隙もない」

「――桂花さん。刺された傷は、もう平気なの?」

〝通り魔に刺された〟という血なまぐさい発言で恐がらせてしまったリエルを気遣ってか、虎太郎と冗談を飛ばし合う桂花。そんな彼に、次女のラファが聞いた。

「ああ。まったく問題ないよ。先生が手当してくれたからね」

 凄惨な場面を想像してしまったか、涙ぐんでいた三女リエルは桂花の発言で深く息を吐いた。

「当時、ボクは治療道具一式をリュックに入れて移動していたから、タイミングは絶妙だった。そのまま桂花君を物陰まで引きずっていって、すぐさま傷の殺菌と縫合を施した。そうしたら桂花君が目覚めて、ホテルを予約してあるからとかって理由で、お金だけ置いて消えちゃったんだよね?」

 虎太郎の話を聞いて、血の気が引いたように青褪めた少女たちの視線が桂花に注がれる。

「ほ、本当ですか? 普通、刺されたらかなりの日数、まともに動けないですよ?」

「桂花さんって何者よ?」

「ば、ば、化けも……」

「はい、リエル! アウト! 化け物呼ばわりはさすがに傷ついちゃうな」

 人差し指をリエルに向ける桂花に、虎太郎が問う。

「ボクも、君があの場ですぐ動けて、後日元気な姿でまた現れた理由を聞きたいな。自分で病院にでも見せに行ったのかい?」

 ほんの僅かな間、虎太郎と桂花の間で無言の視線が交錯したが、

「……まぁ、俺にもいろいろあってね。ここはひとつ、先生の手当てが天才的に上手だったおかげってことで!」

 と、桂花は肩を竦めて笑った。

「警察には届けを出したんですか?」

 ミカは別の角度から話に着目したらしく、そう尋ねた。

「それがねぇ、桂花君ったら、それだけはできないと言って聞かなかったんだ」

「でも、先生がしゃべったんでしょ? 110番通報して、ぜんぶ」

「そりゃあそうさ。医者とはいえ、必要に迫られれば他のことだってやるよ。ボクの専門外のことだからといって投げたりせず、その道の専門家に任せればいいだけの話さ」

「……それで、犯人は見つかったんですか?」

 ようやく震えが治まったリエルが、恐る恐る聞いた。

「犯人がどうなったかまでは聞いてないな。警察から連絡が来る前に、この飛行船で旅に出ちゃったから……」

「犯人は俺と刺し違え――じゃなくて、きっと痛い目を見てるよ。うん、そうに違いない」

「え?」

「ん?」

 虎太郎が真顔で桂花を振り向き、桂花が満面の笑みを浮かべて首を傾げた。

「今、刺し違えって……」

 と、ミカも加わる。

「んー、そう聞こえた? なら聞き間違え。俺はただの漢方薬師だよ? 刃物持った相手とやり合うスキルはないよ。だから、アシスタント兼、護衛役も兼ねてミカちゃんたちが一緒なわけさ」

 そう言う桂花の笑顔は一ミリも動かない。

「――まったく。女の子たちの前で物騒な誤解を招く発言はやめたまえよ」

「悪かったよ、みんな。――話を変えよう」

 桂花は笑顔のまま(おもむろ)に立ち上がると、ティーポットを手に取り、また流れるような手捌きで全員のカップにお茶を注いだ。

「今度は、君たち三姉妹のことが聞きたいな」

 そうして、虎太郎の対面の椅子に戻った桂花はミカ、ラファ、リエルの三人に尋ねる。

「――俺は先生にスカウトされてこの飛行船に乗った。つまり、君たち三人と同じ雇われの立場にある。俺が先生のスカウトを快諾したのは、単純に楽しそうだったから。みんなの参加動機はなに?」

「私たちは元々、虎太郎先生のお父様のお手伝いをする看護師でした。なので、その……」

 答え始めたミカが、ちらりと虎太郎に視線を送る。

「ああ、構わないさ。彼もボクの父の話は知っているからね」

「――虎太郎先生のお父様が、経営していた医院の倒壊事故で亡くなられてから、虎太郎先生は一人ぼっちになってしまいました。お母さまはもっと前に他界されて……だから、私たちができることはなんでもお手伝いしようと思い、今に至ります」

「……へぇ、同情ってやつ?」

「違うわよ! あたしたち三人はとても貧しい家庭で育って、虎太郎先生のお父様はそんなあたしたちの経済事情に配慮して、お給料を相場よりたくさんくれていたの。そのおかげであたしたちは、パパとママの生活を支援してあげることができた」

 仮面のような笑顔を向けた桂花に、ラファが噛み付いた。

「そ、その恩もあって、わたしたち三人は、虎太郎先生にお供することにしたんです。こ、虎太郎先生はとてもしっかり者で強い人です。同情に甘えたりもしません」

 と、ラファに続いてリエルが言った。

「なるほど? 御恩と奉公ってわけだ。いい話じゃないか。俺がここにいる理由がチープに見えて仕方ないよ」

 言いながら額に片手を当て、困ったように笑う桂花。

「御恩と奉公を言うなら、きみもだろう?」

 桂花は額に当てた片手の指の間から、きらりと光る視線を虎太郎に向ける。

「先生、その話はべつに――」

「この話は、きみたち三姉妹にはまだしていなかったね」

 虎太郎は桂花の視線を完全に無視して切り出す。

「ボクはこの前まで、働かせてくれる病院を探し回ってたのは知ってのとおり。父が残してくれた遺産は全額、恵まれない子供たちの生活支援のために寄付してたから。その状況はつまり、働ける状態にならなければ食い扶持がないってこと。で、ボクは行き倒れた。刺されて血まみれで白目を剥いてた桂花君を助けてしばらく経ってのことだ」

「あたしたちも地方に散らばって、手分けして小さな男の子でも医者として置いてくれる病院を探してましたけど、まさか虎太郎先生、あたしたちが与り知らないところでそんなことになってたんですか⁉」

 と、ラファ。

「お恥ずかしながら、そうなんだよ。だけどあのときそれを君たちに話したら、大変な心配を掛けてしまうと思って、桂花君に頼んで口裏を合わせてもらってたんだ」

 虎太郎はここで顔を対面の桂花に向けた。

 ミカ、ラファ、リエルの三人も同様に、桂花を見る。

 全員の視線が集中し、額に片手を当てて天井を振り仰ぐポーズを取っていた桂花の顔を大粒の汗がタラタラタラタラタラタラタラタラと流れ始めた。

「――桂花君。あの時きみは、とても熱い言葉をボクにくれたよね? あの言葉、嘘だったとは言わせないよ?」

 今度は虎太郎が満面の笑みを浮かべた。

「なにを言ったんですか?」

「気になる!」

「教えてください」

 と、三姉妹。

 さすがに全員が黙して見つめてくる状況には耐えきれないか、桂花は、

「あーもう。わかったよ言うよ! 先生が偶然にも道端で気を失って倒れてたから、これも何かの縁だと思って、俺が潜伏――じゃなくてバカンスしてたホテルに担いでいって、ごはんを食べさせてあげたんだ。それだけさ」

「きみ、僕が目を覚ましたとき泣いて喜んでたよね? 『俺は受けた恩は必ず返す。君が生きててくれて、本当によかった!』って、僕の手を強く握りしめて――』

「先生アウト! それ以上はもうアウトですよ!」

 ピピピピ! と額の汗を散らしながら、桂花は虎太郎の発言を遮る。

「顔が赤くなってますよ、桂花さん。髪色と同じくらいに」

「照れちゃってまぁ」

「ど、どうして、わたしたちに誤解されるようなことばっかりするんですか?」

 という三姉妹の問いに、

「……いやその、なんていうかさ、ほら、よく言わない? チームには誰か一人、嫌われ者がいたほうがうまく回るって。俺がその役を引き受けようとしていたのに、先生といい君たちといい……」

 と、視線を明後日の方角に逸らす桂花。

「なんとなくわかってはいたけど、やっぱりか」

「連れないですよ」

「嫌われ役とか別にいらないでしょ」

「みんなもう仲良しですよ」

 虎太郎、ミカ、ラファ、リエルの四人から立て続けに思考の核心部分を突かれた桂花は、堪らずに立ち上がり、

「ク、クッキーおかわりしようかなー?」

 と、ダイニングルームを出ていった。

「クッキーならテーブルの上だよー?」

 という虎太郎の追撃が止めを刺したのは言うまでもない。


   ■


 桂花の顔色が真っ赤から平常に戻って間もなくティータイムが終わり、虎太郎一同はじゃんけんで公平に仕事を割り当て、後片付けに取り掛かる。

 虎太郎とリエルはダイニングルームでテーブル拭きに決まり、ミカとラファは食器を洗いにキッチンへ行き、じゃんけんで1番に勝ち抜けて「お休みの権利」を得た桂花はさきほどの恥ずかしさもあってか、一人で操縦室に向かった。ちなみにパオはじゃんけんには参加していないが、その長い鼻で器用に布巾を扱って、虎太郎とリエルのお手伝いをしている。

 虎太郎たちが元いた世界から持ち込んだ時計は午後3時半を指しているが、飛行船の窓から見える外はまだ明るい。といっても、見えるのは白い霧だけだが。

「――そういえば、外の景色、全然変わりませんね……」

 丸テーブルの上を拭きながら、ふとリエルが言った。

「不安かい?」

 リエルの対面で椅子の上に立って、両手で布巾を前後に動かしていた虎太郎が顔を上げた。

「ほんのちょっとだけ……」

「わかるよ。先に何が待ち受けているかわからない中を進むのって、なかなかに勇気が要るもんね」

 しゅん、と視線を落としたリエルに、虎太郎は微笑みかける。

「安心して? この飛行船には高性能なレーダーがついてるから、障害物があっても事前に感知して、あとは自動操縦装置が働いて回避してくれる。お茶会をする前、航行装置も正常だって桂花も言っていたし、何かあればコンピューターが警報で知らせてくれるよ」

「先生たちがそう仰るのでしたら……」

 と、虎太郎の(げん)にリエルが安心した次の瞬間。

『ビー! ビー!』という、不安感を煽るような濁音交じりの警報が鳴り響き、飛行船内のすべての照明が赤く明滅し始めた。

 きょとんとして顔を見合わせる虎太郎とリエル。

「……ちょっと待ってて?」

「わ、わたしも一緒に行きますぅう。ひとりにしないでくださいぃい」

 パオを手招きしてその背に跨る虎太郎に、リエルが泣きつく。

「わかった、一緒に行こう。だから泣かないで?」

 虎太郎はリエルを振り仰ぎ、その小さな手を差し伸べた。

「は、はいぃ」

 リエルは一回だけしゃくりあげたが、そのあとは涙を堪えて、虎太郎の手を握った。

「――操縦室まで頼むよ、パオ」

「ぱお!」

 虎太郎が空いている方の手でパオの背をぽんぽんと叩くと、パオは鼻を振り上げ、普段よりも早歩きで進み出した。

 操縦室は飛行船の先頭に位置し、前方の様子がよくわかるようになっている。

 ダイニングルームを出ると、幅の広い1本の通路が飛行船の進行方向に対して縦に伸び、この通路を飛行船の進行方向に進めば操縦室である。

 虎太郎たちが通路に出ると、ちょうど操縦室へと駆けていくミカとラファの後ろ姿が見えた。

 警報はまだなり続けており、明滅する赤い光が虎太郎たちの危機感を増幅させていくように感じられた。

「――何があったんだい? 桂花」

 操縦室の自動ドアを通って、虎太郎はすぐさま状況把握に移る。

「換気システムに異常があるみたいだ」

 と、桂花。

「異常箇所は?」

「通気口。共用通路だね」

「見に行こう」

「先生は待ってて? 俺が見てくるからさ」

 桂花が虎太郎の頭に手を置く。

「そうはいかない。ボクはこの飛行船の責任者でもあるんだ」

「――なるほど? わかった」

 桂花はちらりと、パオの背に跨る虎太郎の足を見てから、徐に彼に背を向けてしゃがんだ。

「ごめんよ」

 虎太郎は短く言って、桂花の背に跨る。

 虎太郎を背負った桂花はすっくと立ちあがり、足早に共用通路へと向かう。

「力仕事なら私に任せてください!」

「器用な作業ならあたしがやります!」

「わ、わわ私もなにか!」

 ミカ、ラファ、リエルの三人も、歩幅の大きい桂花に急ぎ足で続く。

 飛行船の内部は進行方向から縦向きに数えて、まず先頭に操縦室、2番目に診察室と治療室、3番目にシャワールームとお手洗い、4番目にミーティング兼ダイニングルーム、5番目に客室、6番目にトレーニングルームと娯楽室、7番目に貨物室が連なる。それら縦に並ぶすべての部屋には、飛行船の右横を縦に通る共用通路からアクセスできる構図である。

 通気口は共用通路後方の壁面上部に位置しており、そこから新鮮な空気を各部屋に流し込む役割を果たしている。

「おや、これは」

「予想外の事態だね」

 虎太郎と桂花がその通気口を見上げ声を溢した。というのも、通気口の蓋は開けられており、そこから白目を剥いた顔が突き出しているからだ。目につく明るいグレーの髪は、日に当たらない裏側(、、)が黄色という、不思議な色の分かれ方をしており、ポニーテールに結わえた部分が垂れ下がっている。各パーツが整った小顔は白目を剥いていても可愛らしい。顔立ちと髪型から見て、恐らくは少女だ。

「あら?」

「え、なにあれ⁉」

「ひぃ⁉」

 すぐあとから来た三姉妹も、通気口から突き出した少女の頭に驚愕の声を上げた。

「もしもし?」

 と、虎太郎が話しかけるが、少女は白目を剥いて気絶しているようである。

 桂花はここで虎太郎を肩車し、

「先生、手は届くかい?」

「いや、さすがに無理だ。天井スレスレのところにあるからね」

 桂花の問いに、ばんざいさせるように両手を伸ばしてみた虎太郎だが、首を横に振った。

「それじゃあ、ミカ。悪いけど頼めるかい?」

 虎太郎を降ろした桂花がミカを振り向いた。

「はい!」

 ミカは眉宇を引き締めて頷き、少し屈んで、水を掬い上げるような形で両手を揃え、自分の腰の前あたりに構えた。

「よっと」

 桂花はミカが差し出した両手の【足場】に片足を引っ掛け、軽くジャンプする。

 ひょい。

タイミングを合わせたミカが持ち前の腕力で、桂花の足を胸の辺りまで持ち上げ、楽々とキープする。

 虎太郎は徐に天井を見上げ、こう続けた。

「アダム起動。侵入者一名の汚染スキャンを要請する」

 すると、若い男性の平坦な声がどこからともなく聞こえてきた。


『了解。汚染スキャン開始――大気汚染ナシーー体表汚染ナシーー想定される危険因子ナシ』


 この飛行船に搭載されたサポートAIによる、細菌や有害物質といった汚染の有無を調べる機能だ。

「桂花、触ってもいいよ」

「わかった」

 通気口から突き出した少女の頭部に手が届いた桂花は、真剣な表情で少女の首に手を当てる。

「脈はあるけど、どうみても具合が悪そうだね」

「やはりそうか。診てみよう」

 虎太郎に「降ろせるかい?」と問われた桂花は、ミカに数歩下がるように指示。

 足場担当のミカが指示通り後退するのに合わせ、気絶中の少女の肩、脇、胴部へと順に腕を回し、通路内部へと引っ張り出す桂花。

 一同はこうして露わになった気絶少女の全身に目を丸くした。

 まず一番目立つのは腕である。肩までは人間のものと同じだが、二の腕辺りから白い羽毛が前腕にかけて生え広がっており、肘の辺りから白と黒、二色の大きな翼が伸びている。二の腕では銀の腕輪が光り、人間で言うところの手がありそうな位置の羽毛から、人間よりもやや太めの黄色い指が覗いている。

次に目立つのは足だ。頭部は人間の少女そのものだが、足は大きな鳥のそれ。くの字に屈折した踵に、前三つ、後ろ一つに分かれた指。指の先端には鋭い爪が備わる。

 足から上部へ目を移すと、袴に似た水色の履物、その上で覗く腹部(ここは人間のようだった)の胸に巻かれた白いサラシの上に赤い胸当てといった装いをしており、首にはピンクに縦縞のマフラーを巻いている。

 見た目を一言でまとめるならば、【鳥少女】といったところだろう。

 桂花はその異様な姿をした少女をそっと抱きかかえ、二人分の体重をビクともせずに支え続けるミカに降ろすよう指示。

 ミカが手を降ろすと、桂花はそこから軽やかに飛び降り、少女を抱きかかえたまま診察室へと向かう。

「どういう因果でこんなことになっているのかはわからないけど、具合の悪い人を放ってはおけない」

 言いながら、パオに跨る虎太郎。

「だ、大丈夫なんですか⁉ 未知の生き物ですよ? 目を覚ましたら襲ってくるんじゃ……?」

 ラファが心配の声を上げる。

「そのときは、ボクと桂花でなんとかするさ。ミカもいるしね」

 虎太郎がミカに目配せすると、

「私は看護師兼、みんなの護衛係ですから!」

 ミカは得意げにボクサーを思わせる格闘のポーズを取ってみせた。

 治療室のドアを開けた桂花は、鳥少女をベッドに寝かせた。

「先生、お願いします」

「うん。動物と人間が融合したような生き物だから、両方の知識を応用すれば対処できる可能性がある」

『よいしょ』と、パオの背中からベッド脇の小さな丸椅子に身体を移した虎太郎は、

「リエル君、聴診器をちょうだい」

「はい、先生」

 リエルから聴診器を受け取り、未だ白目を剥く鳥少女の腹部や腕のあたりにあてがう。

「この子、ここへ運ぶまでに何回か身体が痙攣してたよ……」

 虎太郎の隣で眉を寄せる桂花。

「痙攣か……」

 虎太郎は白衣のポケットからペンライトを取り出すと、目から口へと順に照らした。その間、桂花が言う通り、鳥少女の小柄な身体がびくんと動いた。

「……ラファ君、ピンセットをちょうだい」

「はい、先生」

 虎太郎の指示にラファが素早く動き、彼に銀のピンセットを手渡した。

「ミカ君。この子の頭の方へ回って、両肩を押さえておいて?」

「はい、先生」

 虎太郎の指示を受けたミカがベッドの先端に移動し、仰向けに横たわる鳥少女の頭側から覗き込むような姿勢で、鳥少女の両肩を押さえた。

 虎太郎はペンライトで依然、鳥少女の口内を照らしながら、その内部へそっとピンセットを入り込ませる。

「…………」

 数瞬の後、虎太郎は銀色に光るなにかの破片のような物体を取り出した。

 銀色のピンセットで摘ままれたその物体は――、

「――通気口のフタの一部かな? 桂花君、どう思う?」

 虎太郎に問われた桂花は、すぐさまゴム手袋を装着。ポケットからルーペを取り出すと、虎太郎から破片を受け取った。

「この色と金属っぽい見た目からして、確かに先生の言う通り、通気口の部品の一部かもしれないね」

 ルーペを通して破片を覗き込んだ桂花はそう答えた。

「金属が口内に混入していたのと、この痙攣と、意識不明の状態……鳥の病気でよくある、金属中毒と言われるやつの可能性が高い。リエル君はどう思う?」

「金属中毒……聞いたことあります。確か、鳥は【()のう】に硬いものを溜め込んで、食べ物の消化の助けにしてるんでしたよね?」

 というリエルの質問に、

「さすがリエル君。学力に秀でているだけのことはあるね。続きも、みんなに教えられるかい?」

 と、虎太郎は微笑みかけた。

「は、はい!」

 リエルは頬を赤らめて頷き、続ける。

「そ、そのため、小石や金属片などを摂食する習性が鳥にはあって、だから、金属アレルギーも発生しやすいんです」

「でも、金属ってめちゃくちゃ硬いじゃない。噛まずに丸のみにするっていうの?」

「あ、アルミホイルとかの柔らかい金属は、く、くちばしで嚙み切ってしまうみたいです」

 ラファの問いにリエルが答えた。

「100点だよ、リエル」

 虎太郎は言いながら、片膝をベッドに乗せ、四つん這いで鳥少女の足の横へ移動。そこで小さな手を伸ばし、鳥少女の足をつねった。

「先生⁉」

「そそ、そんなに刺激したら……」

 狼狽えるラファとリエル。

「――やっぱり、足も麻痺しているね。刺激を感じていない。これは重篤(じゅうとく)だ」

 虎太郎は言って、再び椅子へと戻る。

「この女の子に残された猶予は?」

 と、桂花。

「持っても48時間。けど厳しく見て、24時間とする。でも、時間に制限があるからといって焦っちゃいけない。軽く会話ができるくらいにはリラックスするよう意識して、ミスを減らそう」

 腕組みをして天井を振り仰ぎ、しばしの間目を閉じる虎太郎。

 場の空気がより一層引き締まったかのように、沈黙が流れる。

虎太郎は目を開き、天井へ向けていた顔を鳥少女に戻した。

「――神経系にも異常があるから、本来なら頭部CTやMRI検査をやりたいところだけど、生憎そこまでの規模の機械は無い。だからレントゲンで確定診断をする。桂花君、準備して」

「オーケイ、先生」

 と、桂花は振り返って診察室の角に置かれた機械に向かう。

「ミカ君はX線撮影装置と防御カーテンをここへ持って来て」

「はい、先生」

 ミカは足早に貨物室へと向かい、軽くとも数十キロはありそうな撮影装置を片手に、もう片方の手で分厚いロール状のカーテンを運んできた。

 コンパクト化され、運搬を容易にした移動式X線撮影装置の構造は、まず土台があり、そこから、左右に位置調整が可能な一本の支柱が真上へ伸びていて、そこに上下移動が可能なカメラが備わっている。

「昔これを初めて見たとき、随分と太くて大きな身長計だなと思った記憶があるよ」

ミカがX線撮影装置をベッドのすぐ横にドシンと降ろすのを見て、虎太郎が言った。

「虎太郎先生、同じ十代なのにそんな昔とか言わないでください」

 と、ロール状だったカーテンを広げながらミカが言った。

「先生、準備できたよ」

 桂花が言った。彼が立っているのはタッチパネルの前だ。このタッチパネルはX線撮影装置に限らず、様々な医療機器を遠隔で操作できる優れものである。

「よし。今からレントゲン撮影を行う。ベッドはX線防護カーテンで囲んであるけど、念のためにミカたちは外で待機して。パオもね」

「ぱお」

 三姉妹がパオと共に一度部屋を出ると、丸椅子に座る虎太郎は桂花に視線を送る。

 桂花はそれに頷き、パネルを操作した。

 こうして出来上がったレントゲン写真を事務机の前に張り出した虎太郎は、顎に指を当ててひとり頷く。

「けっこうな量の金属片を飲み込んでいるね。たぶん、通気口のフタのほとんどを食べちゃったんだと思う」

 レントゲン写真に写る鳥少女の骨格には、白い影が散見される。

「この白く映ってる影が、金属片ですよね?」

 ラファが聞いた。

「うん。この位置なら、腺胃(せんい)筋胃(きんい)のどちらか。それか両方にある。レントゲンの能力だとここまでが限界だから、あとは胃カメラで見てみるとしよう。それで見つかれば吸引して、薬を投与すれば大丈夫。必要なものを用意して」

 と、虎太郎は次の指示を三姉妹に伝えた。

「桂花はキレート剤の調合をお願い」

「それじゃあ、貨物室にある超純水精製装置と、pH(ペーハー)試験機、滅菌装置を借用するね」

 と言って、桂花は診察室を出た。

「――さてと」

 一人になった虎太郎は、改めて患者の鳥少女を見る。

「きみは一体、どこから来た、なんという種族なのかな?」


   ■


 一連の金属片除去処置が終わり、キレート剤の投与まで済んだのは、それから8時間後だった。キレート剤の作成にかなりの時間を要したのである。

「――これでひとまずは、処置完了だね」

 聴診器を耳から外して、虎太郎が言った。桂花が用意したキレート剤を、注射器で鳥少女の身体に投与したのだ。治療前と比べて、鳥少女はいくらか呼吸が落ち着き始めていた。

 彼の(げん)を聞いて、心配そうに見守っていたミカ、ラファ、リエルの三人が揃って胸を撫でおろした。

 パオは虎太郎が座る丸椅子の(そば)で、身体を横に倒して鼻を丸めて寝ている。

「きみ達は、今日のところはもう休んでいいよ」

「わかりました。何かあればいつでもお呼びください」

「無事に済んで良よかったー」

「先生たちも、無理なさらないでくださいね」

 虎太郎が丸椅子から振り返って言うと、三人はぺこりと一礼して診察室をあとにした。

「おーい。きみもだよ、桂花くん」

 丸椅子をくるりと回して、虎太郎は桂花に呼びかける。勢い余った椅子が余計に回転して、虎太郎は桂花の顔に焦点を合わせられない。

「……ッ⁉ どうした⁉」

 壁に背を預けて腕を組み、顔を下向けていた桂花はカッと目を見開いて言った。

「どうもしないよ。然るべき処置が終わっただけさ」

「……な、なんてね。全部聞いてたから、知ってるさ」

 ひとつ咳払いをして、桂花は言った。頬が僅かに赤らんでいる。

「気のせいかな? きみの顔、完全に寝ていたように見えたけど?」

「まさしく気のせいじゃないかな? 俺がうたた寝なんてするわけないだろう?」

 虎太郎が桂花を見上げてにっこりと笑い、目元に影を落とした桂花もニコリと笑い返す。

 虎太郎はふと、通路に設けられた窓に目を遣る。いつの間にか、窓の外は真っ暗だ。

 目を凝らすと、闇の中を流れていく雲がうっすらと見える。未だ、飛行船は雲の中を飛んでいるようだ。

「――どっちにせよ、今日のところはみんな休むんだ。地球時間で言うと、今は23時過ぎだからね」

「なら、先生も」

「そうはいかない。この飛行船で医者はボクひとり。夜中に何かあったとき、誰がこの女の子を診てやれるんだい?」

「なにも、番までひとりでやる必要はないと思うけど?」

 と、桂花は半弧を描くように笑んでいた目を開く。

「それに、鳥の女の子が友好的とは言い切れない。目を覚ましたら、俺たちを敵だと思って襲ってくるかもしれない。それで先生が大けがなんかしたら、誰も病気を治療できなくなる」

「――たしかに、それは同感だな」

 こくり、と頷く虎太郎。

「てなわけで、俺も残るよ。別にいいだろう? こうして壁に寄り掛かってると楽でいいんだ」

 並びの綺麗な白い歯を覗かせて、桂花は笑った。


   第二話


「彼女――って表現していいのかわからないけど、様子はどう? 先生」

 翌朝。桂花がコーヒーのお盆を持って診察室へとやってきた。

「今は大丈夫。呼吸も安定してぐっすり眠っているから、快方へ向かうだろう」

 昨夜はずっとベッドの傍で番をしていた虎太郎が、とろんとした目で桂花からコーヒーを受け取る。父親から受け継いだ白衣は、虎太郎の身体にはまだかなり大きく、小さな手は白衣の袖の中。それが幸いして、両手でコーヒーのカップを挟んで持っても熱くない。

「ふぅ、ふぅ」

 と、コーヒーに息を吹きかける虎太郎。

「先生が猫舌なのは知ってるから、少し温度が下がった頃合いで持って来た」

Danke(ダンケ)。きみが淹れてくれるコーヒーもお茶もいい香りだ」

 何口かコーヒーを味わってお盆に戻し、虎太郎は桂花にたずねる。

「他の子たちは?」

「みんなさっき起きて、これから朝ご飯の支度をしてくれるってさ」

「今日の朝ご飯はなに?」

「サラダと目玉焼きは見たけど、まだいろいろ作ってるみたいだよ。客人もいるしね」

「目玉焼きは半熟がいいな」

「それはミカ達もわかってるって」

「ならよかった」

 小さく笑って、虎太郎は『うににに』と唸りながら伸びをした。

「いやぁ、いろいろ安心したら眠くなってきちゃった」

「ごはんができるまでちょっとだけ時間あるから、休んでるといいよ。彼女は俺が見てるからさ」

「うーん……」

 と、虎太郎はベッドにことんと頭を乗せて眠りに落ちた。

「先生ったら、やっと休んでくれたよ……」

 と、桂花が虎太郎の頭を撫で、自分も伸びをしたときだ。


「う、うーん」


 昨日から意識を失っていた鳥少女が、見た目そのままの可愛らしい声を上げた。

「――っ⁉」

 桂花は眠気を押しやり、大股でベッドへ歩み寄ると、眠りに落ちたままの虎太郎をそっと抱きかかえ、彼を自分の身で庇うようにしてベッドから一歩離れた。

「……」

 桂花が黙して見つめる中、鳥少女の目が開いた。鮮やかな黄緑色の瞳が診察室の白い照明を受けて煌めく。

 また一歩、桂花は後退。

彼が履くブーツがコツっと音を立て、鳥少女が僅かに顔を動かして、桂花を見た。

 桂花は鳥少女の綺麗な瞳を見て、水色の光を湛える虎太郎の瞳を連想した。どちらの瞳も好きな色だった。

「……」

「……はっ⁉ こ、ここは一体⁉」

 お互いに目を合わせ、鳥少女が沈黙を破った。上体を起こし、なにやら慌てた様子で周囲を見回し始める。

「……ここは飛行船といって、俺たち人間の乗り物さ。わかる?」

 桂花は、鳥少女が自分たちと全く同じ言語を口にしたことに驚きつつもそう答えた。

「飛行船……? ということは、帝国(、、)の船ってこと⁉」

 どうやらしっかりと会話はできるようだが、鳥少女の表情は硬い。なにかを警戒するかのように、肩に力が入っている。

「まぁ、それに近い。正確には、帝国の飛行船技術を模して作られたんだけど、君から見れば、異世界(、、、)の飛行船だね」

「異世界の……ってことは、あなた達は異世界人?」

 鳥少女の問いに、桂花は頷く。

「いかにも。俺たちは世界から世界へと渡り歩く、【境界(きょうかい)なき医師団(いしだん)】なんだ。俺の名前は桂花(ケイファ)

 桂花は虎太郎を抱えたまま名乗り、一歩ベッドへ近づいた。

「異世界人の医者が、わたし達の世界に何しに来たの?」

 ベッドの端へと身を移動させ、鳥少女は上目で桂花を睨む。

「病気やケガで困っている人を助けに。だから俺たちは君に危害を加えるつもりはない。名前、なんていうの?」

 さらに一歩近づいて、桂花。

「……たづな。ハーピー族の……」

 と、鳥少女――たづなは頬を赤らめつつ答えた。

「たづなって言うんだ。可愛い名前だね」

 白い歯を覗かせ、桂花は率直な感想を述べつつ考える。(ハーピー族っていうのは、たぶんこの子のように羽を持った種族のことだろう。患者の情報として書類に記録する場合は、鳥人間(とりにんげん)と書いて鳥人間(ハーピー)という感じが適当かな?)

 じっと見つめてくる桂花に、たづなは顔全体をほんのりと赤らめる。

「――名前がかわいいって、初めて言われた……」

 過去の記憶を辿っているのか、揺らぐ視線を下げてたづなは言った。

「そうなの? ならきっと、これからもっとたくさん言ってもらえるよ」

 そう言って、桂花はさりげなく丸椅子に座り、たづなとの距離を数十センチまで縮めた。

「……っ⁉」

桂花の目をじっと見つめたまま言葉が出ないたづなの顔は、もはや首のマフラーよりも赤い。

「どうしたの? 顔赤いよ?」

「な、なんでもない! それ以上近づいたらひっかくよ⁉」

「それは困るな。みんなに心配を掛けちゃう」

「みんな?」

「この飛行船には、俺とこの虎太郎先生と、三人の看護師さんが乗ってるんだ」

「そう、なんだ。……それじゃ、気を失ったわたしを助けてくれたのも、あなた達?」

 自分がどうなっていたのかを思い出し、冷静さを取り戻したらしいたづなの顔から赤みが引いていく。

「俺はなにもしてないよ? ここで寝てる虎太郎先生と、看護師さんたちのおかげさ。もうしばらくしたら朝ごはんなんだけど、君も一緒にどう? そのときにお礼を言うと良い」

「朝、ごはん……」

 きゅるるるるん。

 と、可愛らしい音がたづなの腹部から発せられた。


「――どうやら、友好的な子みたいだね。安心したよ」


 ここで、桂花に片手で抱えられていた虎太郎が目を開けた。

「先生、起こしちゃったか」

「起こしちゃったか、じゃないよ。さっきから指でボクの脇腹を一定のリズムで叩いて、警戒するように合図をしていたじゃないか」

「さすが先生。寝たふりで俺たちの会話を聞いていたとはね」

「きみという男が一人きりの女の子に変なことをしないように見張っていたんだよ」

「ははは、冗談」

 目元に影を落としつつ微笑む虎太郎と、貼り付けたような笑みを見せる桂花。

「――おなか空いてる?」

 桂花の問いにこくりと頷くたづな。

「わたし、どこまで飛んでも雲だらけの領域に迷い込んで、お腹が空きすぎて、食べ物の匂いがする物体を見つけて、無我夢中で中に潜り込んだところで記憶が止まってるんだよね……」

「だから通気口から顔だけ突き出てたのか。入ってこようとしてたんだね」

 丸椅子に座る桂花の膝の上で、虎太郎は理解を示していることを伝えるべく何度か頷き、笑顔で片手を差し出した。

「――はじめまして。ボク、虎太郎っていいます。お医者さんをやっているんだ」

「わたし、たづな。……その手は?」

 差し出された小さな手を見て、首を傾げるたづな。

「握手といってね、ボクたちがいた世界では友好の証として、お互いに片手を差し出して握り合うんだ」

「あくしゅ」

 たづなはつぶやいて、翼を有する片方の手を前へ動かす。そして、その黄色い手で虎太郎の手をそっと握りしめた。

「よろしくね、たづな」

 と、虎太郎は握った手を上下にゆっくり動かす。

「あくしゅ、あったかい」

 またほんのりと頬を赤らめるたづな。

「ぱお」

 と、さきほどから目を覚まして会話の成り行きを見守っていたパオが、丸椅子の傍から起き上がり、丸めていた鼻をたづなへ向けて伸ばした。

「――え、なにこの子。かわいいんだけど」

 そう溢して、パオの鼻とも握手をするたづな。

 たづなは見た目からして雌だ。そんな雌の母性本能を刺激する可愛さを、パオは持っているのかもしれない。と、桂花は思った。

「――それじゃ、おなかもすいたことだし、ごはんにしますか!」

 桂花は言って、虎太郎をパオの背に降ろして立ち上がった。

「きみもおいでよ。みんなで空腹を満たそう」

パオの背中に跨って、虎太郎は片手を差し伸べる。

「よそ者なのに、いいの?」

 と、上目で聞くたづな。

「それを言うならボクたちがよそ者だよ。ここはきみたちの世界なんだからね」

「……わ、わたしにも食べられるかな?」

「もし食中毒みたいなことになったら、また診てあげるから」

 ジョークの意味を込めた優しい笑顔で言う虎太郎だが、たづなは引き攣った笑みを浮かべざるを得なかった。


   ■


 15分後、ダイニングルームでの朝食にて。

「――人生は一回きり。せっかく広い世界があるんだから、見に行かなくちゃ損だと思うんだよね」

 たづなはそう言って、桂花が淹れたお茶を飲む。看護師三姉妹が作った朝食はどれも美味しく、たづなの身体にも適していた。

「なるほどね。だからきみは旅に出たわけか」

 ミニトマトをもぐもぐ、ごくりとした虎太郎が言った。

「その矢先に、この雲海に迷い込んだと」

 と、桂花はたづなのカップにお茶をつぎ足す。

「まぁ、そのおかげというか、こうしてあなた達と出会えて、美味しいごはんを食べさせてもらえたから結果オーライってことで」

「前向きでいいね。たった一人で冒険の旅に出るのはとても勇気がいることなのに、きみは大きな一歩を踏み出した。すごいよ」

 たづなを褒めた虎太郎はダボダボの白衣で覆われた両手でお茶のカップを挟み、「おかわりー」と桂花に差し出す。

「どうにかしてこの雲海を抜け出せれば、あたし達は現在位置がわかるし、たづなちゃんも旅を続けられるんだけどね……」

 と、ラファが窓の外を眺めて言った。

 窓の外は相変わらず白い雲で包まれており、ずっと曇り空の中を飛んでいる感覚になる。

「たづなは、この永遠みたいに続く白い雲のこと、なにか知らない?」

 虎太郎にお茶を足したカップを渡して、桂花が聞いた。

 たづなは申し訳なさそうに「ごめん」と言って、

「――わたし、思い立ったらすぐ行動しちゃうタイプで、ロクに外の世界の情報を調べずに飛び出しちゃったんだよね……」

 と、気まずそうな苦笑を浮かべた。

「あなたの国はなんて名前? どんなところなの?」

 サラダを完食し、オムレツをつついていたミカがたづなに聞いた。

「ええと、名前らしい名前はわからないんだよね。みんな【緑の国】って呼んでる」

「自然がいっぱいありそうな感じがするわね。実際そうなの?」

「うん。首都は海沿いにあって、自然に囲まれた山と海の街が合わさった感じ」

 ラファの問いに首肯するたづな。

「あなたたちの国は?」

 というたづなの問いにはリエルが(ども)りつつも答える。

「わ、わたしたち三姉妹は、ち、地球という星の、イギリスという国から来ました……」

「俺は中国っていう国出身。で、こっちのちっこい虎太郎先生は、日本ていう国出身」

 と、桂花がにこにこ顔で虎太郎の頭を撫でる。

「こんなちっこいボクのために紹介してくれてありがとう桂花君」

 虎太郎は目元に影が差した笑みを浮かべる。

「――二人は仲がいいんだね」

 そんな虎太郎と桂花を見たたづなが微笑んだ。

「「まさか」」

 同時に言う虎太郎と桂花。

「緑の国には、あなたのような素敵な羽を持つ種族がたくさんいるの?」

「うーん、人口の割合で言うと、エルフとかヒューマンと同じくらいかな?」

 ミカの問いに、たづなはしばし考えて答えた。

「緑の国ね。……先生は聞いたことある?」

「ボクたちよりもしばらく前に、数十名規模の調査団がこの世界へ転移で来てたんだけど、彼らの報告書には地の国に関する情報しかなかったから、初耳だな」

 虎太郎は首を横に振り、思うところがあるのか、こう尋ねた。

「――その緑の国は、近いところにあるのかい?」

「うーん、わたしが国を出たのが二日くらい前だから、この飛行船なら一日ってところかな?」

 たづなが答えると、虎太郎の表情から笑顔が消え、きょとんと桂花に視線を移す。

「すごいですね! そんなに長い間飛んでいられる体力、尊敬します!」

 トレーニングが日課のミカが目を輝かせる。

「わたし達は【(わた)りびと】だから、一日二日は飛び続けられるの。それができないと、大陸から大陸へ渡れないから、みんな必死に練習するんだよ」

「そうなんですねぇ」

 と、女子たちがおしゃべりに花を咲かせ始める横で、虎太郎と桂花は無言で視線を交わす。二人の額にじわりと汗の玉が光る。

(ね、ねぇ、もしかしてボクたち、転移する座標間違えたんじゃない? だって地の国の近くに緑の国なんてなかったよ?)

(か、かか、かもしれない。まずは既に情報を得ている地の国に入って、そこを拠点に治療活動を初めるって話だったけど、これは予定変更かもね)

(まずこの雲から抜け出さないと、みんなにもはっきりとは伝えられないし、次の判断ができない)

(先生に同感)

(悠長にお茶なんてしてる場合じゃなかったよ)

(機械は正常だったんだから、俺たちには察知のしようがないさ。ワームホールから抜けた途端にこの雲の中だったんだし、仕方ないって!)

(もうこうなったらきみの薬学の知恵でこの雲、どうにかしてくれたまえよ!)

(ハハハ先生ウケる。ただの漢方薬師に雲取っ払えとか追い詰められててマジウケる)

(そんな口利いてるときみが寝ている間に顔にらくがきするよ)

(やめてください)

一連の会話――もといテレパシーは、どういう理屈かは不明だが、ジェスチャーを交え、確かに医者と漢方薬師の間で無言の間に行われた。

「――ところでたづな君。緑の国は、誰が治めているんだい? 一人の君主? それとも集団?」

 数瞬の思考の後、虎太郎はそう切り出した。もし本当に、地球からこちらの世界へ転移した座標に狂いがあって、地の国ではなく緑の国の近くに来てしまっていた場合、飛行船の燃料並びに食料の調達も兼ねて、活動拠点を緑の国に据える必要が出てくる。

 そうなると気をつけなければならないのは、活動拠点を置く国の情勢だ。それを把握するために、国家統治者の人物像と政治形態、生活文化に技術レベルなどの調査が必要になる。

 今の虎太郎の問いには、そういった調査の狙いがあった。

愛蓮華音(アイレンカノン)っていう女王様だよ? とっても綺麗な女のひと!」

「女王様……?」

「そ。しかも、世界樹から生まれた神霊種族(しんれいしゅぞく)だから、この世界でもトップクラスで格が高い種族だよ」

 たづなの(げん)に、虎太郎は微かに目を見開いた。その挙動の理由には、彼が抱えるとある情報が関与している。

 この世界に最初にやってきた調査団は、調査期間の都合上、地の国のみを訪れ、虎太郎たちが今乗っている飛行船を始め、いくつかの情報を持ち帰っていた。その情報の中には、地の国を始めとする異世界の医療レベルと、命の扱いについて言及した記述もあった。

 虎太郎は調査団が持ち帰ったその記述を偶然目にし、不条理な状況に苦しむ人々が異世界にいることを知った。

〝地の国で得た情報を見るに、この異世界は医療に関して、科学よりも魔法での治療が主流であり、病状の種類によっては地球文明の医療技術のほうが有効な場合がある〟

〝生ける者の命の扱いに関して。一人の女王のためにその従者が全員命を捧げる風習を持つ国が存在するとのこと。一人のために大勢が命を捧げることを是とする君主主義が未だに残るのは、【異世界】であるという理由を以ってすれば納得せざるを得ないが、現代の地球文明にとっては倫理的に受け入れ難い風習であることも念頭に置く必要があると筆者は考える。〟

 虎太郎はそうした記述を読んで、医者である自分に何かできないかと考えるようになった。地球には既に、優秀な医者が大勢いる。だが異世界は……?

 なぜ平等に生きるべき命が、一人のために失われなければならない? 一人を生かすために、

他の者から強引に臓器を移植するようなものではないか!

 権利を無視した暴挙を許すわけにはいかない。医者として。そしてそれ以前に、人間として。

 一連の情報に触れたことによって生じた虎太郎の感情がやがて仲間を集め、数奇な運命も相

まった結果、異世界に至ったという経緯がある。

 そうした事情を持つ虎太郎がたづなの口から【女王】という言葉を耳にしたなら、脳裏を一抹

の不安が過るのは当然であった。

「その、あいれんかのんって女王様が、一人で緑の国を統治してるの?」

「うん。でも、詳しくは知らないけど、複雑な事情で、女王様はお城の外へは出られないみたいだから、補佐をする側近がいる」

「側近と、女王が一人……」

 食べることも忘れるほどの問答のあとで、虎太郎は顎に指を当てる。

「深刻そうな顔して、どうしたの? 先生」

 対面に座る桂花がそう聞いて目を細めた。

 いつの間にか、三姉妹たちのおしゃべりも止み、ダイニングは静寂に包まれている。

「ぱお?」

 と、パオだけが無邪気なつぶらな眼で虎太郎を見上げ、首を傾げた。

「いや、なんでもない。パオ、もう食べちゃったのかい? よく噛まないと消化に悪いよ?」

 虎太郎はにっこりと微笑んでパオの頭を撫でると、湯気の消えたかぼちゃスープにスプーンを浸す。

「……」

 桂花は真剣な眼差しで虎太郎を見つめる。

「――今はまだね。でも、いずれみんなにも話さなくちゃならないときが来るかもしれない。そのときは、聞いてほしい」

 笑顔を作ったまま、虎太郎は言った。

「なら、今言ってください」

 そう言ったのはラファだ。

「――あたしたち、虎太郎先生の純粋な人助けの精神に共感して、この船に乗ったんです。今はもう、同じ志を持った仲間でしょう? なら、隠し事なんてしないで、共有すべきだと思います」

「ラファの言う通りですよ、虎太郎先生。一人で抱え込んじゃいけません」

「わ、わわ、わたしたちだけ仲間外れは嫌ですぅ」

 と、ミカとリエルも食の手を止め、虎太郎を見つめる。

「俺も、三姉妹と同感かな。先生」

 桂花の鋭い視線は虎太郎にそれ以上の作り笑いを許さなかった。

「えっと、その、ごめんなさい。わたし、何か変なこと言っちゃった?」

 おずおずと、たづなが口を挟んだ。

 全員の視線を受け、虎太郎は小さく、本物の笑みを溢す。

「――そうだよね。みんなの言う通りだ。独りよがりになってしまったよ」

 虎太郎はかぼちゃスープを一口啜り、

「ボクたちが活動しようとしている世界は、想像以上に重く残酷なことが蔓延っているかもしれない。たづな君の情報を聞いて、その可能性が高まったんだ」

 と、言い兼ねていたことを話した。だが、たづなの手前、多くの従者を犠牲にする女王のことは伏せた。

「……そういう重たいものを降ろす手伝いをするのも、俺たちの役目でしょ」

「物理的に重たいものなら任せてください!」

「今更ですよ」

「こ、恐いけど、でも、覚悟のうえで乗ったんです」

「ぱおぱお!」

 虎太郎の危惧を聞いても、仲間たちの眼差しには凛とした輝きがあった。

 ぺし。

 椅子に座る虎太郎の脇腹に、パオの鼻が軽くぶつけられた。

「なになに? 心配するなって?」

「ぱお!」

 パオの意図を察したか、虎太郎は小さく笑んだ。

Danke(ダンケ).みんなの勇気には脱帽だよ。頼もしい限りだ」

 そうして礼を言う虎太郎は、しかし、まだすべてを明かせない、明かすことを恐れる己に対する厭悪(えんお)を脳裏から拭い払うことができないでいた。

「ま、先生もいろいろと抱えてるものがあるんだろうけど、俺たちで分け合えるものは分け合っていこうよ。そのほうが合理的で楽だからさ」

 微笑む虎太郎の表情を見つめていた桂花がそう言ったとき、

「あなたたちを見てると、なんだかとても幸せな気分になれるな……」

 と、たづなが切り出した。

「――わたしもついてっていい?」

 たづなは一つに結わえた後ろ髪を、まるで犬の尻尾のようにふりふりと左右に動かした。

たづなの一連の動作は恐らく、共感や感動といった感情の表れだろう、と桂花は考える。

「君は世界を見る旅に出たんじゃないのかい?」

「それも、この飛行船に乗っていれば叶いそうな気がしてきたんだよね。もちろんタダでとは

言わない。ちゃんと働く。助けてもらった恩もあるしね!」

 桂花の質問に、たづなは瞳を輝かせて答えた。

「確かに、ボクたちはこの飛行船で各地を周るつもりだから、一緒に来れば必然的に、いろいろな世界を目にすることになるね」

 と、虎太郎。

「たづなが良いなら、俺は旅の仲間に迎え入れてもいいと思うけど、みんなはどう?」

「まぁ、たづなさんも仲間になってくれるんですか?」

「賑やかになりそうね」

「そ、空を飛べる人がいてくれると、何かと助かりそうです」

 桂花の問いに、ミカ、ラファ、リエルの三人は、たづなの仲間入りに賛成の様子だ。

「それじゃぁ、一緒に行っていいの⁉」

 たづなの後ろ髪がフリフリフリフリフリフリと、より早く揺れ動く。

「いいとも。幸い、客室も食料も余っているから」

「やった!」

 虎太郎が首肯すると、たづなは両の腕――もとい両の羽を広げて喜びを露わにした。

 そうしてたづなが仲間に加わり、虎太郎一同がこの日の活動方針を話し合おうとした、ちょうどそのとき。

 それは唐突に起こった。

「っ⁉」

「ッ!」

 異変を真っ先に察知したのは鳥類の特徴を有したたづなと、五感が人並外れて鋭い桂花だった。

 息を呑んだ二人が次のアクションを起こす前に、大きな揺れが起きた。

「――わ⁉」

「ぱおぉお⁉」

「「「きゃぁ⁉」」」

 虎太郎、パオ、三姉妹がそれぞれ悲鳴を上げると同時、桂花は立ち上がり、これまた人間離れした体幹で以って揺れの中を素早く移動。その身体能力でテーブルを軽々飛び越えると、揺れでバランスを崩してしまった虎太郎を片手に抱え、次いで滑り落ちる皿を手で押し戻し、続けて、驚いた拍子にリエルが頭上へ放ってしまった水が落下してくるのをコップで受け、――損なって、頭から被った。

 たづなはその翼を大きく広げ、椅子から転げ落ちそうになるラファを支える。さらに、咄嗟にテーブルの淵につかまるも、驚きのあまり加減を誤り、持ち前の握力でテーブルの淵を潰して千切ってしまい、支点を失って倒れ行くミカも支えた。

 そうして数秒間続いた揺れは収まり、全員が転倒を回避して事無きを得た。桂花以外。

「みんな無事か⁉」

「きみが無事か?」

 髪からポタポタと水を滴らせる桂花が言い、そんな桂花を心配して虎太郎が言った。

「ぁあわわわテーブルが!」

 恐る恐る開いた手のひら――握りつぶしてしまったテーブルの破片を見つめてわなわなと口を震わせるミカ。

「みんな無事なら結果オーライだ。テーブルは工作が得意なラファが直せる。それよりも――」

 と、虎太郎は窓の外を見遣る。

 揺れが来る前までは雲で覆われていたが、今はその雲が晴れていた。

 代わりに見えるのは青い空――そして、目玉。直径50センチほどもある、巨大な目玉だ。

「えー」

 桂花も目玉の存在に気付いたらしく、目元をひくひくとさせて青褪めた顔をする。

「ひぇ」

「なにあれ⁉」

 虎太郎と桂花の視線を辿って窓を見たリエルとラファが慄いた。

「あ、なにかと思ったら、ステルスドラゴンだ!」

 ここでたづなが驚きの声を上げた。

「なんだって?」

「ステルスドラゴン。緑の国の国境警備を務めているドラゴン族の一種だよ。身体の目玉以外の部分を透明にできるの。今の揺れは、たぶんあのドラゴンがこの船に取り付いたからだと思う……」

 と、桂花の問いに答えるたづな。

「マジか! 生き物なのに、レーダーが反応しないなんて……!」

「そこもまさにステルスってわけか……!」

 桂花と虎太郎が舌を巻いたときだ。

『飛行船内の者どもに告ぐ。この空域は緑の国の領空だ。ここまで来た目的を言え』

 と、どこからともなく、謎の低く唸るような声が聞こえてきた。

「あ、これはテレパシーね」

 たづなが小声で解説し、

「――わたしはハーピー族のたづな! ちょいと世界旅行にでも行こうかと思ったら雲に呑まれて、この親切な人たちに助けてもらったの。彼らは怪しい人じゃないよ! 帝国の人間でもない!」

 と、ステルスドラゴンに返答した。

『馬鹿なやつめ。お前が呑まれた雲は、緑の国を発見されにくくするために展開されているものだ。そんなことも知らずに国境を越えたのか?』

 たづなの説明に、ステルスドラゴンは呆れたような声を寄越した。

「だって、国境を越えるくらい遠くに出たの初めてだったんだもん!」

 たづなは膨れた。

「ボクたちが何日も彷徨い続けていた雲海は、意図的に作り出されたものだったの?」

 と、虎太郎。

『……お前たち、我が国の防御魔法を知らんと見える。船は帝国のものに似ているし、もしかすると、いや、もしかしなくても帝国の偵察部隊であろう?』

 ステルスドラゴンはそう言うと、飛行船から少し離れ、全長十メートルほどはありそうな灰色をした巨体を露わにした。

 あえて正体を晒し、その巨体で威圧感を与え、自分を優位に見せようというのだろう。

「でか!」

 と、桂花。

「お伽話のイメージ通りの見た目と大きさ……感服だね」

 と、虎太郎。

『そうであろう? さぁ、俺の質問に答えろ! お前たちは何者で、何をしにここまで来た⁉』

「別になんだっていいじゃん。悪い人たちじゃないんだってば! 帝国から来たんでもない!」

 たづながまた膨れた。

「あのドラゴン、思い込みが激しいタイプだね」

 虎太郎が肩を竦めた。

「はうぅ……」

 リエルが恐怖に耐え兼ねたか、白目を剥いて微動だにしなくなる。

「あぁあリエルぅう!」

 テーブルを壊してしまったこともまだ引きずっているのか、ミカが今にも泣きだしそうな声でリエルを揺する。ミシミシミシッ! ゴキゴキゴキッ! とリエルの肩と首の骨が鳴る。

「ちょっとミカ! リエルまで壊れちゃうじゃない!」

 と、妹の骨の音で恐怖から我に返ったラファが、姉の手を離そうと立ち上がるが、その拍子にテーブルの上にあった砂糖のカップをひっくり返してしまう。さらさらとした白い粉体が、茶色いテーブルの上にばら撒かれる。

『――なッ⁉ し、白い粉ァ‼』

 ステルスドラゴンは目をカッと見開き、その巨体と威厳を感じさせる低い声とは裏腹に、素っ頓狂な叫びを上げた。

「やれやれ、これは些か困ったことになりそうだね」

 と、虎太郎がにこりとした顔を桂花に向ける。

「ああ。もうなんていうか、笑うしかないね」

 と、桂花も白い歯を覗かせ、微笑み返す。

『お、お前たちを麻薬密輸の疑いで逮捕する!』

 ドラゴンはさきほどまでの凄みを失い、裏返った声で叫んだ。


   第三話


 虎太郎たちを乗せた飛行船は、続々と現れたステルスドラゴンたちに包囲され、高度を下げて壮大な大陸へとやってきた。

「なんか、予想外のかたちで帰ってきちゃった……」

 操縦室の大きな窓から前方に広がる故郷を見つめて、たづなが引き攣った笑みを溢す。

 今操縦室にいるのは虎太郎、桂花、たづなの三人のみ。

 ステルスドラゴンの迫力に気圧された三姉妹は揃ってダウンし、診察室のベッドに三人すし詰めで横になっている。パオはその傍で看病中である。

「あれはなんだい?」

 虎太郎は大陸の海沿いの山――その奥に聳え立つ規格外の大木を指差して、たづなに聞いた。大木まではかなりの距離があるため半ば霞んで見える状態だが、それでもその幅の太さと、

雲まで届く高さは一際目を引き、太い幹が雲へと隠れて見えなくなる辺りで、長大且つ逞しい

枝が分岐して四方へと広がり、まるで幾つもの分かれ道のような様相となって隠れている。

世界樹(せかいじゅ)だよ。緑の国のシンボルで、神様が宿る神聖なもの。女王様は世界樹の魔力を使って、国を治めてるの」

「北欧神話の中だけの話かと思ってたけど、まさか本当にあったなんてね……」

 と、桂花はもはや驚き過ぎて逆に冷静になったのか、さきほどから虚ろな目で遠くを見つめている。

「ボクたち、今からあの木まで連れていかれるのかな?」

「たぶん、わたしたちがこれから行くのは王宮だと思う。そこで側近たちに会って、処遇される……」

 虎太郎のつぶやきに、たづなが応じた。

「王宮か。むしろその方が都合がいいな」

「同感だね」

 桂花と虎太郎は窓の外に顔を向けたまま言葉を交わす。

「緑の国のトップに会って、ボクたちの目的を伝えつつ情報が得られる」

「どうにかして女王様と直に交渉することが叶えば、うまくいけば補給も受けられるかもしれないね」

「……」

 たづながそんな二人をしばし見つめる。

「――二人って、こんな状況でも冷静で、すごく前向きなんだね」

「前向きになる工夫をしてるだけさ」

「看護師三姉妹が恐がってたら、俺たちは恐がらない。それだけ」

虎太郎と桂花の穏やかな顔を見て、たづなは頬を赤らめた。


   ■


 大陸に近づくにつれ、それまでは世界樹の圧倒的なスケールと、霞んだ大陸の色合いに隠れて判然としなかったものが明確に見えるようになってきた。

 世界樹の根元には、恐らくは標高1000メートルを優に超える山々が連なり、その山の麓から海にかけて、巨大な城塞都市と思しき建造物群(ぐん)が広がっているのが確認できる。

六人と一匹を乗せた飛行船はドラゴンたちの誘導に従い、その城塞都市へと接近。高度を下げて着陸した。

 城塞都市の景観は、地球から来た虎太郎たちにとって衝撃の連続だった。山の斜面に沿う形で壇状に区画が分かれ、区画ごとに木製の分厚い城壁が築かれている。その城壁には石製と思しき門が設けられ、別の個所には巨大な水門が口を開け、山々より流れ落ちてきた広大な河を吐き出している。そうして上層区画からさらに下層区画へと降下するナイアガラの如き瀑布(ばくふ)は虹を呈するほどの迫力を有し、壮大の一言では言い足りない。

 城壁が囲って守る区画はどの階層もすべて河の水で満たされており、城の防御策で言うところの(ほり)の役割を果たしている。

虎太郎たちよりも以前に地の国を訪れた調査団たちの情報には、異世界は魔法技術が発達しているといった内容の記述が見られたが、この緑の国でもそれを裏付けるものが散見された。

 まず、城壁の内側に広がる堀の上に、黄色味(きいろみ)を帯びた光を放つ円が多数並び、その上に中国様式の木造建築を思わせる家屋が建てられている。木造の建物が魔法陣のようなものを下に敷く形で、水の上に浮いているのだ。

 それらの建物群を道として結ぶのは、魔法陣同様に黄色味の光を放つ橋であり、点在する建物群の間を器用にくねって広がる光景は光の葉脈のようだ。

 魔法陣によって浮遊する建物は城壁の内側だけに止まらず、城壁の上空や、城壁から少し離れた中空にも点在しているが、光の橋は余すことなくすべての建物を結んでいる。

 地球から来た虎太郎たちはこう憶測する。恐らく、これら光の橋は魔法によって展開されているものであり、敵が攻め込んで来た際はこれらを解除することで敵兵をどこへも移動できなくするといった対抗策が取られるのだろう、と。

 そうした様相の区画が幾重にも壇状に積み重なり、標高1000メートルに及ぶ超大な城塞都市を形成し得ているのは、高度な魔法技術の恩恵があってこそだろう。

この都市で暮らす生き物は人間を始め、地球に存在する動物に似た特徴を持った獣人が多数存在する。不思議なことに、彼らの会話に耳を傾けると、聞こえてくるのは虎太郎たちと同じ言語ばかりだった。

「……この城? っていうか街? いや、山? ……首が痛くなりそうな大きさだね」

「もう痛くなってるよ。肩車君(かたぐるまくん)

 桂花がつぶやくと、足元で首をほぼ直角に曲げて上を見ていた虎太郎が肩車をねだった。

「仰せのままに。あと肩車君ってなんだよ、俺は桂花でしょ?」

「わーい。サンキュー肩車君」

 桂花に肩車された虎太郎は、木製の(かせ)を嵌められた両手をピンと伸ばして喜ぶが、

「……きみ、もっと背伸びてくれない?」

 やや不安そうな顔になる。

「これでも170近くあるんだよ? 長身な方さ。……長身って思わせて?」

「長身な男は180センチ超えのことを言うんだよ」

「地味に傷つくなぁ。ミカに頼んで空までぶん投げてもらおうか?」

「僕を肩車したきみが投げられるのかい?」

「ははは、冗談」

「ワゥ! 黙って歩け。ここから先は王都の中で最も崇高な王宮区画だ。私語は慎んでもらう」

 しゃべり続ける二人に、犬の頭を持つ獣人の兵士が吠えた。その姿は、二本足で立つ犬というよりも、逞しい体つきをした人間が毛深くなり、手足、頭が犬のそれに変化し、その上に戦国時代を思わせる甲冑を身に着けたようなものだ。

 今、虎太郎一行は全員、両手に枷をはめられ、周囲を獣人の衛兵に囲まれた状態で光の道を移動している。

 ドラゴンたちは空の監視を担当しているらしく、身元が判然としない虎太郎たちの身柄を犬の獣人兵士に引き継いだのだった。

 虎太郎たちの飛行船は、城塞都市の、下から数えて全部で20階層まである区画の15階に位置する城壁から、やや離れた中空の魔法陣に着陸させられた。そこから光の道を辿って、また辿って、ようやく最上層の20階層へとやってきた次第だ。

「やっぱり、王宮に通されるんだね……」

 緊張した面持ちのたづなが小声で言った。

 高さ50メートルを超える巨大な城門を潜って先へと進んできた一同の前には、これもまた50メートル以上の高さを誇る紅色(くれないいろ)をした鳥居が規則正しく等間隔で連なり、霞むほどの遥か先にうっすらと見える壮大且つ荘厳な建造物へと続いている。

 そしてその王宮の如き建造物の背後から天高く聳えるのは、世界樹。もはや縦横ともに巨大であるあまり、空の一部が見えて広がっていると錯覚しそうになるほどの迫力だ。

「15階からここまでは獣人や人間が大勢いてにぎやかだったけど、最上層はしーんとしているね」

 と、虎太郎は桂花の肩に跨って周囲を見回すが、数百メートルもしくは1キロ以上あろうかという広大な敷地には人影が見当たらない。

 そう、生きた人影は。

「こ、ここは何なんでしょうか? 動物の骨みたいなものがたくさん落ちてます……」

 枷付きの両手を胸の前でぎゅっと握りしめたリエルが涙目で言う。

「人の骨っぽいのもあるんだけど……ほら、あそこにしゃれこうべが……」

 元は色白なはずの肌を真っ青にしたラファが一点を指差す。

「ま、まるで、ここで大勢の生き物が一斉に亡くなったように見えます……」

 警戒するように周囲を見回すミカ。

「ぱ、ぱぅ」

 パオも恐いのか、つぶらな瞳を潤ませている。

「ワゥ! お前たちも、静かにせんか!」

「「「ひぃい」」」

「ぱぅうぅ」

 虎太郎の脳裏を、調査団がもたらした情報が過る。

〝異世界には、一人の女王のために、多くの従者が命を捧げる風習を持つ国が存在する〟

 周囲には大量の骨。

「この王宮区画、なにかあるね」

虎太郎は小声で桂花に言った。

「だろうね。どう考えても普通じゃない」

 静寂が包む中、時折風に混じって聞こえてくる地鳴りのような強大さを孕む音は、まるで神々の唸り声のようで、聞く者に厳かさと微かな恐怖を感じさせる。

「すみません衛兵さん。一つ聞いていいですか?」

 桂花が申し訳なさそうにして、衛兵に声を掛ける。

「なんだ」

「時々聞こえてくる、地鳴りというか、唸り声みたいな重低音はなんですか?」

「世界樹の魔合成(まごうせい)の音だ。世界樹は光を浴びると、魔合成によって魔力を吐き出す。緑の国の民は、世界樹が吐き出した魔力を利用して生活しているのだ」

 おずおずとした態度で質問した桂花に、獣人の衛兵は普通に答えた。

 一同が歩き続けること10分。遠く前方に見えていた建造物が目の前に迫った。

「ここが、女王陛下がおわす王宮だ。お前たちはこれから女王とその側近に謁見し、処遇を言い渡される。少しでも刑を軽くしたいと思うなら、聞かれたことに素直に答えることだ」

 衛兵にそう言われ、緊張感が伴った虎太郎一行は(おもむろ)に王宮を見上げる。

(素直に話したのに、こういうことになってるのは何故だと思う?)

 と、衛兵に問いたい衝動を抑える虎太郎は、桂花に頼んでパオの背中に跨る。

 紅と茶色をベースに色分けがなされた王宮は、建物の壁が八角形に並んでおり、一同が潜ってきた鳥居にも引けを取らない大きさで、宝形造(ほうぎょうづくり)を思わせる八角形の屋根が備わっている。これもまた中国の木造建築を連想させるデザインだ。

 ここで、王宮の頑丈そうな門が観音開きに開け放たれた。

「――そこで止まれぃ」

 衛兵に促されて王宮内部へと足を踏み入れた虎太郎たちへ、谷に吹き荒ぶ風のように深く、凄みのある声が浴びせられた。

声がしたのは向かって真正面。そこに一人の獣人が立っていた。衛兵と同じ、犬の獣人だ。しかし衛兵たちよりも一回り逞しい体格をしており、まるで警察署の入り口で木刀を携え番

をする警官の如く、太く長い刀を身体の正面に突き立て、柄に両手を乗せて虎太郎たちを睨んでいる。彼が纏う皺ひとつ無い軍服は白と紫を基調とし、デザインは旧日本海軍の白い軍服を思わせ、腰には力士の化粧まわしのようなものが巻き付けられている。

「ガルフ将軍! 麻薬を密輸していたと思しき者どもを護送致しました! 帝国のものに酷似した飛行船は押収し、現在調査中です!」

 と、衛兵たちは敬礼し、広大な宮内の隅へと引き下がった。

「――さきほどステルスドラゴンから入った報告の通り、見た目は温厚そうだな」

 ガルフ将軍と呼ばれた逞しい体格の獣人は虎太郎たちの顔を順に睨み、そう切り出した。

「俺はガルフ・グロー。最高裁判所の裁判官と、女王直属洗礼機動軍(じょうおうちょくぞくせんれいきどうぐん)の将軍を兼任している。緑の国の規則に則り、今からお前たちに二三、質問をし、処遇を判断する。女王陛下も見ておられるから、嘘は通じぬと思え」

 ガルフは威嚇するかのように噛み締めた口から鋭い歯を覗かせた。

 彼の背後――30メートルほど進んだところに、レースカーテンを思わせる白い幕が張られており、そこから奥はよく見えない状況が構築されている。恐らく、女王はその幕の向こう側から会話を聞き、様子を見守っているのだろう。

 どうやらこの国では、麻薬密輸の疑いといった比較的小さな案件でも、組織のトップが応対して判断を下すらしい。

「はじめまして、ガルフ将軍。発言許可を頂けませんか?」

 一礼して、虎太郎が聞いた。

「まずは全員、名を名乗れ」

 ガルフは鋭い眼光を虎太郎へと向けた。

「虎太郎といいます。お医者さんをやっていて、ボクたち【境界なき医師団】のリーダーです」

「桂花。薬師です。【境界なき医師団】の副リーダーでもあります」

 一切の物怖じを見せずに答える虎太郎と桂花に続いて、

「わたしはたづな。海外旅行に行く途中でこの人たちと出会いました」

「ミカといいます。護衛、兼、看護師です」

「ラファです。工作担当で、それと看護師やってます。あ、工作って、怪しいことするんじゃくて、修理とかそういうのです」

 たづなとミカとラファも、緊張で表情を固めながらも答えた。

「か、かかか看護師ですぅ」

「――そこのピンク髪の女。名を聞いていないぞ」

「り、リエルです」

 小動物のようにぷるぷると縮こまって、リエルは言い損ねた名前を名乗った。

「……」

 ガルフは獲物を見つけた狼の如き視線をパオへと向ける。

「ぱ、ぱお……」

「食べてもおいしくないだと? 俺は名前を聞いているのだ。答えぃ!」

「ぱお」

「そうかパオというのか」

 全員が名乗ったところで、虎太郎が切り出す。

「あなたの質問に答える前に、ボクたちの話を聞いてください。そのほうが事は早く済みます」

「……いいだろう。発言を許す」

 虎太郎の目に嘘は無いと感じたか、ガルフは了承した。威圧的な態度だが、案外聞く耳を持っているようだ。

「ステルスドラゴンはボクらを麻薬密輸犯だと勘違いしていましたが、ボクらはそんな輩ではなく、病気やケガで苦しんでいる世界中の人たちを救うために活動している者なんです」

「虎太郎さんが言っていることは本当です。わたしは彼らに助けてもらいました」

 たづなが加わった。

「怪しい白い粉を見たという報告だが?」

 しかし依然、険しい顔で虎太郎を見つめるガルフ。

「あれは砂糖といって、ボクたちの故郷では重宝されている調味料の一種です。麻薬ではありませんよ」

 ここで虎太郎はラファに目配せする。

「あたしがステルスドラゴンにびっくりして、砂糖入りのカップをひっくり返しちゃったんですよ。それをステルスドラゴンが麻薬と勘違いして、いくら説明しても聞いてもらえませんでした。実物はあたしの腰のポケットに入れてあります」

 ラファが潔白を説明すると、周囲にいた衛兵たちが一斉にガルフに顔を向けた。

「将軍。この女のポケットを探りますか?」

「よし。調べろ」

 ガルフの短い指示で、剣の柄に手をやって警戒しつつの衛兵と、ポケットを探る役割を担った二人目の衛兵とがラファへ歩みより、「失礼する」と、ラファの左側の腰ポケットに手を突っ込んだ。

 そうして衛兵が取り出したのは、表面にピンクの花の絵柄が描かれた、陶器製の白いカップだった。

「砂糖はとても甘い調味料です。ボクが毒見をしますので、なんなら試しに舐めてみますか?」

 虎太郎の言で、衛兵はカップのフタを外して中身の匂いを嗅ぐと、ガルフへ振り向き頷いた。

「ふむ。では毒見してみろ。そのあとで俺が口にしてみるとしよう」

「わかりました」

 虎太郎は枷をはめられた両手で器用にカップを持ち上げ、ガルフにも見える角度で小さな口を大きく開けて、そこに少量の砂糖を落とし込んでみせた。

「――うん、甘い。ちょっと入れすぎちゃった……」

 恥ずかしそうに笑って、虎太郎は砂糖の入ったカップを両手でガルフに差し出した。

「うーむ」

 ガルフは犬を思わせる肉球を備えた大きな手で砂糖のカップをつまみ、もう一方の手のひらにさらさらと砂糖を落とすと、手のひらに微かに積もった砂糖を長い舌で舐め取った。

 そうして次の瞬間、ガルフは【カッ!】と目を見開いた。

「――な、なんだこれは⁉ 甘い! 甘すぎる!」

 手に積もるほどの量の砂糖を、犬の特徴を多く有する獣人が口にすれば、その甘さは恐らく人間の味覚が感じる刺激よりも格段に強いだろう、と、虎太郎は思った。

「こ、これほどに甘いものは、我が人生において一度も口にしたことがない! ま、まさかこれは、あまりの甘さで病み付きになる依存性を秘めた本物の麻薬かッ⁉」

「だーかーらーっ! 麻薬じゃないってばーっ!」

 たづなが風船の破裂音に匹敵する声量で叫んだ。


「ガルフ。私が話します」


 そのとき、レースカーテンを思わせる白い幕の向こう側――王宮の奥部から、年若い女性の声が聞こえてきた。

「へ、陛下! よろしいのですか? この者たちは単なる賊やも――」

「ガルフ」

「は、はっ!」

 ガルフは血相を変えて衛兵の一人に目で合図を送った。

 合図を受けた衛兵は建物の壁に向き直り、何かスイッチのようなものを操作。

 すると、空間を隔てていた白い幕が中心から左右二つに分かれて自動的に畳まれていき、奥部を見渡せるようになった。

 虎太郎たちは幕が取り払われたその先に、銀に淡く煌めく玉座を見た。

 磨き上げられた石段には大理石を思わせる模様が入り、それらが13段積み上げられ、その上に設置された玉座に、女性の声の主であろう、一人の美女が腰かけている。

「――もっとこちらへおいで下さい。私はあなた方の顔をよく見たいのです」

 と、片手を持ち上げて、手招く動作をする美女。上衣の隙間から、華奢な白い肩が覗いた。

「陛下の前では、今のような物言いは許さんぞ」

 ガルフがたづなに耳打ちし、その場を明け渡した。

 パオに跨る虎太郎を中央に、【境界なき医師団】の面々は王宮の奥へ。

 玉座に近付くにつれ、そこに身体を預ける女性の美しさがより鮮明になっていく。

 深い緑色をした髪は(あで)やかに腰元まで伸ばされ、青藍の瞳は時折ゆっくりと瞬きつつも虎太郎たちを見つめ続けている。その吸い込まれそうなほどに幻惑的な瞳から苦労して視線を下に逸らすと、ふくよかな胸をはじめ身体を覆い隠す漢服のような衣が目に入る。衣の下から覗くすらりとした足には膝上丈の長い足袋と草履を召し、さらにはとても心地のよい香りまで漂わせている。

見る者すべてを魅了する筆舌に尽くし難きオーラで頭が支配されそうだと、男のみならず女も思うであろう(みやび)な姿。

「――ようこそ、女王都(じょおうと)・イルミンスールへ。私は女王としてこの国を治める者。名を愛蓮華音(アイレンカノン)と申します」

 虎太郎たちが、玉座を支える厳格な石段の最下段手前まで来たところで、女王・愛蓮華音は名乗り、しばし長い時間目を瞑った。

 虎太郎は彼女の目を瞑る所作を、人間でいうところの一礼と捉えた。

「はじめまして、女王陛下。お目通りいただきありがとうございます」

「あなたが、【境界なき医師団】のリーダー、虎太郎ですね? まだ幼く見えますが、齢は?」

「10歳です」

「「「えぇえーッッ⁉」」」

 後方で、衛兵たちの驚愕の叫びが起こった。ガルフが宥めようとしているのか、「ワゥワゥ」という声も聞こえる。

 すると女王は眉の端を微かに吊り上げ、その目を細めて視線を飛ばし、無言且つ一瞬の内に家臣たちを沈黙させた。

「……家臣の非礼をお詫びします。頼もしき者、虎太郎。私はあなた方を信じます」

「ありがとうございます、陛下」

 虎太郎はそう言って片足を床につき、頭を垂れて敬意を表した。他の面々もそれに倣う。

「恐れながら、陛下」

「聞きます。暗躍者(あんやくしゃ)、桂花」

「……なぜ、俺たちを信じてくれたのですか?」

【暗躍者】という言葉に僅かな沈黙を取り、桂花が顔を上げて聞いた。

「私は、この地に太古の昔から根付く世界樹の、膨大な魔力の下で代々生きてきた、【アラウレナ】という神霊種族の末裔。【アラウレナ】は、嘘を見抜くことができるのです。あなた方の発言に嘘はありませんでした。私は、あなた方がここへ来た理由に興味があります。話してもらえますか?」

「もちろんです陛下。ボクたちは人助けを生業とする旅の医師団で、こことは違う世界から来ました。この国へ来たのは、まずこの世界全体に関する情報を集め、同時に、ケガや病気で困っている人を助けるためです」

 虎太郎も顔を上げ、改めて間近に女王を見た。そこで彼は、女王の頭にある大きなピンク色の花飾りに、どことない違和感を覚えた。

 女王のピンクの花飾りは、その半分ほどが色を失い、灰色に変色しているのだ。まるでカビが生え広がっているかのように。あるいは、腐食が呪いの如く侵食しているかのように。

 花飾りは、身に着けた者を華やかに飾って魅せるためのもの。これは地球での観念ではあるが、女性である女王が髪に花を飾る時点で、恐らく花を飾るという行為に込められた心理的な意味合いは地球での観念と同じはずだ。

 ならば、なぜ色合いや形までもが醜く変わってしまっている花飾りを着け続けているのか。

「人助けのため、ですか? なんの見返りも求めず、ただそのためだけに、別の世界からやってきたと?」

「はい。お医者さんとは本来、そういうものですから」

 女王の問いに、虎太郎が笑顔で返すと、

「まぁ、当分の食料と生活用品を分けて頂きたいところではありますけどね。欲を言うならその地方でしか食べられないごちそうとかも」

 と、桂花が付け加えた。

「ちょっと失礼」

 虎太郎はにこりとした顔を、そのまま隣の桂花に向ける。

「桂花君。きみは今のボクたちの立場をわかっているのかい? どうしてそんな(よこしま)なことを思い抱くんだい。欲は一度叶えてしまえば、どんどん深くなる一方だというのに」

「思っちゃったんだから仕方ないだろ。これを心に秘めておいたら、状況によっては嘘をつくことになる。女王様はきっと嘘がお嫌いなんだ。だったら素直に言っておいたほうがいいと思うけど?」

 桂花もにっこりと笑顔を向け返し、言い争いが続きそうな空気が漂い始めたが、

「あはは!」

 と、女王が発した少女のような可愛らしい笑い声で、すべての注意は女王の美貌へと引き戻された。

「正直者は好きです、桂花。純粋な者も好きです、虎太郎」

 そう言って、女王は玉座から立ち上がり、石段を一つずつ降りてきた。

「私はあなた方をとても好きになりました。可愛らしい彼女たちも、とても澄んだ心を持っているようですし――」

「ぱお?」

 女王は一人一人と目を合わせ、最後にパオを見た。

「――弱きを助けんとする勇者も好きです、パオ」

「ぱお!」

 女王に微笑み掛けられ、パオもにこりとしてその鼻を差し出した。

「それが、あなたの礼儀なのですね」

 女王は誰の説明も受けることなく、パオの鼻を優しく握り、握手を交わした。

 握手じゃなくて握鼻(あくはな)かな? と桂花は一瞬思ったが、その思考は女王が放つ平和的で雅な空気に圧倒されてすぐに消し飛んだ。

「――陛下のことは、なんとお呼びすれば?」

 気付けば桂花は、そんなことを聞いていた。

「では、華音(カノン)と」

「わかりました。華音」

 桂花は女王の名を口にし、彼女に微笑みかけた。

「「「――なっ⁉」」」

 今度はガルフも一緒になって、牙を剥き出しにして桂花たちの背中を睨み出した。

 その気配を背中で感じる虎太郎は、

(桂花君。きみってやつは、目上の人に対する遠慮というものをだね――)

(先生、察してよ。俺たちはこの国を活動の拠点にさせてもらいたいんだから、最初に一番エライ人と仲良くなるのは定石だろ?)

 虎太郎と桂花が謎の以心伝心を開始したところで、満面の笑顔を湛えたままの看護師たちが、リエル、ラファ、ミカの順でただならぬオーラを放ちつつこんなことを言った。

「度が過ぎると嫌われますよ?」

「このすけこましが」

「……」(メリメリメリ)

虎太郎と桂花の笑顔が凍り付いた。ミカに至っては言葉はなく、その両手首にはめられた枷を引き千切りそうな音を放つのみだ。

「名前で呼んで頂いて構いませんよ。私はわけあって、この王宮から外へは出ることができません。なのでこうして、楽しくお話をしてくれる友人を求めていたのです」

「そ、それはよかった! お友達は読んで字の如く、フレンドリーが一番ですよね」

 桂花はタラタラタラタラと額から汗を流しながら言った。

「では、陛下――じゃなくて、華音。きみはボクたちの話を聞いてくれた。だから今度は、ボクたちがきみの話を聞きたいな。いいかな?」

「まぁ。それはとても嬉しいことです、虎太郎。みなさんの都合が良ければ、このあと一緒に食事でもいかがかしら?」

「こんなに素敵な女王様とごはんが食べられるなんて、願ってもない話だよ。いいのかい?」

 と、桂花。

「もちろん」

華音の言に、【きゅるるる】と、パオのお腹が鳴った。

「私個人としては、食事だけでなく、この国でしばらくゆっくりしていってほしいところです。家臣が押収した飛行船はすぐに返しますが……」

「ボクたちも、一旦腰を落ち着ける場所が欲しかったんだ。お言葉に甘えさせてもらっていい?」

 虎太郎はそう聞いている間も、華音が頭に着けた花飾りが気掛かりだった。それが伝わってしまったか、

「……ええ。ところで、虎太郎。この花飾りが、なにか気になりますか?」

 華音は徐に、片手で頭の右側にある花飾りに触れた。

「その素敵な花飾りが、なんだか、悲しそうに見えてしまって……」

 と、虎太郎は切り出す。

 これは彼の憶測に過ぎなかったが、短期間ながらも磨いてきた医者としての勘が警鐘を鳴らすのだ。

 あの花飾りは、飾りではなく、華音の一部だと。

 そう推論する理由は、華音の発言にあった。彼女は世界樹の魔力の下で生きる神霊種族――【アラウレナ】の末裔と言っていた。魔力の下で生きるとはつまり、世界樹から何らかの密接な影響を受けながら生きていることだと解釈できる。

 話を聞く限り、世界樹は魔力を持った植物だ。でなければ、あれほどの大きさを保って生命活動を続けられるとは思えない。少なくとも、地球の常識で見れば。

 ここで虎太郎は仮設を立てた。

 一つ、世界樹という植物の影響下で生きる華音――【アラウレナ】は、いわゆる植物と人間が合わさったような生き物なのではないか? 獣と人が合わさった【獣人】がいるなら、【植物人(しょくぶつじん)】がいても不思議はない。

 二つ、植物にも病気は存在し、多くの植物が感染、発症する。もし世界樹が病気、あるいは【アラウレナ】たる華音自身が病気で、且つ頭の花飾りが身体の一部なのだとしたら、頭の花飾りの異変に説明がつけられるのではないか?

 虎太郎はそうした、現時点で判明している、あるいは高確率で的中するであろう憶測を基に分析を続け、先述の推論に至ったのだ。

「お医者さんのあなたには、そのように見えるのですね……」

 と、華音は視線を床に落とし、つぶやくように言った。

広闊(こうかつ)な母性で以ってすべての生けるものを慈しむようでいて、刻一刻と迫る別れの瞬間を想って陰りが差すかのような憂いを、虎太郎たちは華音の表情に見た。だが誰も、彼女がその胸の奥に抱えるものを明確に捉えて言語化することは叶わない。

「……なにか、病気を患ってるの?」

 虎太郎は華音が見せた憂いの表情をそれ以上見ていられず、核心に至る質問をした。万が一、体調に問題があるなら、いち早く原因を特定し対処しなければならないのだ。

 華音は驚いたように視線を上げ、それを虎太郎へと向ける。そして何か思うことがあるのか、再び視線を伏せてしまう。

「私が抱えるものを、【病気】と考えたことはありませんでした……でも、そうなのかもしれません」

「抱えるもの、というと?」

 今度は桂花が聞いた。

「【アラウレナ】には、抗うことも、逃げることもできない宿命があるのです。宿命の名は、【号哭(ごうこく)】。私は、【号哭】を背負っているがために、こうして宮殿から一歩も外へ出ず、時が来るのを待つしかない。花飾りは、――飾りと言っていますが、私の身体の一部。この花が、私に残された命の長さを示してくれているのです」

「ご、【号哭】っていうのは、つまるところ、病気――でしょうか?」

 おずおずと顔を上げ、リエルが聞いた。

「アラウレナが死ぬまさにそのとき、聞いた者全員の命を吸い取る【死の叫び】が放たれます。そのことを【号哭】と呼んでいるのです。ですが、病気という捉え方もできると考えます」

 と、華音は静かに頷いた。

「――世界樹の意思と、【アラウレナ】の意思は魔力で繋がっています。アラウレナは死期が迫ると、自らの考えとは無関係に世界樹に働きかけ、世界樹の子株の(つぼみ)から、女王の記憶を受け継ぐ次の女王を生まれさせるのです」

「なるほど? 生存本能というやつが自動的に働いて、世界樹から自分の記憶を引き継ぐ分身を創造するってわけだね?」

 桂花が確認すると、華音は小さく頷く。

「はい。そして、そこに大きな問題があります。それは、次の女王を生まれさせるためには膨大な魔力が必要で、その魔力は、【号哭】によって生きた者の命を吸い取って補充される仕組みだということです」

 女王の話を聞いて、虎太郎は自分の憶測が正しかったことに驚くと共に、解決すべき問題を明確にできたことに奮い立った。

 王宮に至るまでの広大な敷地に見られた屍の数々は恐らく、件の【号哭】によって生贄になった民のものだろう。

「――それを、きみは悲しんでいるんだね? 華音」

 虎太郎がそっと聞くと、

「……はい」

 華音は消え入りそうな声を返した。

 自分が統治する国で、自分を慕う民の命を、自分の生のために犠牲にしなければならず、しかもそれは自分の意思とは無関係で、機械的に実行される。その光景を目の当たりにし、しかし新たな身体を得て生き永らえ、再び死が訪れれば同じことを繰り返す。大勢の民の犠牲の上に自分が立っているのだと自覚し続けることに、華音は疲れ切っているのだろう。

「その【号哭】ってやつの仕組みに対して、民から何か意見は聞いていないの?」

「民は皆、【号哭】を当然のこととして受け入れており、むしろ自ら望んで名乗り出る者もいるほどに、この国の文化の奥底に根付いてしまっています」

 虎太郎の問いに答えつつ、華音は辛そうに瞼を閉じる。

「――いつしか私は心の中で、【号哭】がもたらす〝当然〟に違和感を抱くようになり、その違和感の正体を探り当てて認識したときには、もはや手の施しようがないほどに、この国の体制が【号哭】を中心に整えられてしまっていました。世界樹の魔力で、この国の街々は稼働しています。その魔力を世界樹から国へと中継できるのは、【アラウレナ】たる私ひとり。私の死は国の死を意味し、【号哭】を中止することはできない状況です」

「……中止はできないうえに、放っておいても自分の意思とは無関係に起こってしまうのだから、どうしようもない状況というわけか」

 虎太郎は腕を折り曲げ、枷で固定された両手で〝グー〟を作ると、自分の顎にあてがい、視線を床に落として唸った。これは虎太郎が時折見せる、思案する時の癖だ。

「お言葉ですが、陛下。見ず知らずの部外者に、陛下の秘密をそこまでお話されては……」

 と、ガルフが言うが、

「よいのです、ガルフ。私は虎太郎たちを信頼しました。彼らからは、純粋な心と強い信念を感じます。私はそんな者にこそ、この話を知って、理解してほしい」

「――はっ! 失礼致しました!」

 華音の言葉に、ガルフは僅かな間、まるで尊いものでも見るかのように眉宇を引き締め、その瞳に光を湛えたあとで、頭を下げた。

 虎太郎が華音に再び訊ねる。

「【号哭】が起きるたびに、民の命が失われてしまう、か。華音の頭の花は半分くらい変色しているけど、次の【号哭】まで猶予はどのくらいなのか、正確にわかるものなの?」

「正確性には欠けますが、おおよその判断はつきます。今の調子ですと、恐らくは数年後には……」

「なるほど。……これは、もしもの話なんだけどね?」

 虎太郎は顎に両手を当てたまま、視線を華音に戻す。

「もしも?」

 きょとんとしたように首を傾げる華音。

「うん。まだ確証はないけど、もしかすると、【号哭】の発動時期を遅らせることができるかもしれないんだ」

「……時期を⁉ い、いったい、どうすれば……⁉」

 華音は虎太郎の話に目を見開き、衝撃のあまりか、力無く膝を床に落とし、虎太郎の腕に取り(すが)った。

「きみは人間と植物、両方の性質を持っていると仮定して、ボクたちが元居た地球という惑星に生息する植物がよく患う病気と照らし合わせて、きみが何らかの病気に掛かっていないか調べる。それで何らかの病気と類似する症状が見つかった場合は、それを治療してみるんだ。そうすることで、もしも【号哭】の時期を遅らせることができたら、それはつまり、その症状の治療を続ければ、いつかは撲滅もあり得る。そういう話」

「先生も思い切ったことを言うね」

 と、桂花が薄く笑う。

「――もし失敗したら、華音ちゃんに怒られて、首をはねられちゃうかもよ?」

「なっ! わ、私はそんな野蛮なことなどしません!」

 桂花の言に、華音は顔をほんのりと赤くした。

「平気さ。だってそのときは、ボクの命を(、、、、、)あげるんだから」

「えっ⁉」

「うそでしょ⁉」

「せ、せせせんせぇえ‼」

 ミカ、ラファ、リエルが同時に顔を真っ青にする。

「人の死に向き合って、それを阻止する試みなんだ。こちらも命を懸ける覚悟で臨まないと、あっさり負ける。誰かの命を救うのって、それくらい厳しいことなんだよ」

 虎太郎は華音から目を逸らさずに言った。

「だから華音、お願いだ。ボクに、きみを診察させて?」

 華音は肩をびくりとさせ、その顔を更に赤く染めた。

「――はい……」

 そして彼女は、まるで舞い降りた神を見るような遠い眼差しで頷き、徐に片手をゆっくりと振った。

 すると、虎太郎一行を拘束していた枷が、――枷を形成していた木の板が急激に黒く変色し、灰となって崩れ落ちた。

「なら、俺もお供するよ。先生ひとりだと何かと大変だろうしね」

 桂花はそう言って両腕を伸ばす。

「助けてもらった恩もあるし、お手伝いするよ! お遣いなら任せて! なんたって飛べるからね!」

 たづながその翼を大きく広げ、

「私たちも!」

「先生を一人には!」

「しししませぇん!」

 と、看護師三姉妹も揃って両手を胸の前で握り締め、

「ぱおーん!」

 最後にパオがその鼻を高々と掲げ、決意を表明した。

「みんな、……頼もしい限り」

 虎太郎はわずかな間、驚いた様子で目を見開いたが、すぐに眉宇を引き締めると、旅の仲間たちに小さく微笑んだ。

「自由にしてくれてありがとう。これでちゃんときみを診れるよ」

 虎太郎は華音にそう言いながら、さっそく診察を始める。

 彼が着目するのは、やはり華音の頭にある花だ。半分が灰色に変色し、所々形が崩れている。

「よろしく頼みます。虎太郎」

 と、華音は虎太郎の前で膝立ちを維持する。

「じつはもう、ある程度見当はついてるんだよね」

「え? もう、わかったのですか?」

 虎太郎のあまりにも早い判断に、きょとんとして聞き返す華音。

「うん。ただ、ここから先の段階では、複数ある治療法を片っ端から試すしかない。そこは許してもらえるかな?」

「ええ。虎太郎が言うなら……」

 少し不安気な表情ではあるが、華音は頷いた。

「ありがと。それじゃ、桂花」

「はいよ」

「至急船に戻って、アミスターフロアブルと、重曹(じゅうそう)、お酢を用意してほしい。――あ、それと、お水も1リットル以上ほしいな。患者さんは、【灰色かび病】に掛かっている可能性がある」

「仰せのままに」

「ミカ、ラファ、リエル」

「「「はい、虎太郎先生」」」

「三人で協力して、診察室からベッドと治療機器を運んできて。重たいのはミカ一人で平気だろうから、ラファとリエルは付近の交通整備をお願い。そうすれば大きなものを持ったミカが通れるからね。華音はこの建物から外へは出られないから、ここで処置をするよ」

「「「はい!」」」

「たづな」

「なぁに?」

「三姉妹と一緒に行って、ミカが持ち上げた大荷物が傾かないように、上空から支えてあげて?」

「おっけい!」

 女王の承諾を得た虎太郎は、迅速な判断で仲間たちに指示を飛ばし、

「パオ、おいで」

「ぱお!」

「よいしょ」

 と、パオの背中に跨った。

「これでよし。――うん、やはり定位置は落ち着くよ、パオ」

「ぱお」

「――ふと気になったのですが、もしかして虎太郎は、足を悪くしているのですか?」

 一連の流れを見つめていた華音が、パオの背中を撫でる虎太郎に聞いた。

「まぁ、そうなんだよね。元々足が悪くて、歩けはするけど走れない。歩くペースも小股でゆっくりなんだ」

「そうなのですね。そうとは知らず、こんな場所まで来させてしまってごめんなさい」

「いいんだ。そのためにパオがいてくれるんだし」

 と、虎太郎は白い歯を覗かせて言った。

 謝って頭を垂れる華音の頭を、パオが鼻でそっと撫でる。

「足が悪ければ、思うようには進めない。これは生きる上で、大きなハンデだ。だけどボクは、そういうハンデがあろうと、諦めるつもりはないよ。少しでも進めるなら、一生懸命進むだけさ。目的地っていうのは、進めば辿り着くものだからね」

 虎太郎は言って身を乗り出し、華音の肩を優しく叩く。

「だから華音も諦めないで、一緒に進んでいこうよ」

 彼の言葉に、華音は顔を上げ、その瞳を滴で煌めかせた。

 ――だが、そのとき。

「――ッ⁉ 虎太郎! パオ! 危ない‼」

 何かを察知したか、華音が唐突に叫び、虎太郎をパオの背から抱きかかえ、身を横へ投げ出した。

 驚いたパオもトコトコとその場から立ち退いた次の瞬間。

 山が崩れるかのような轟音が響き渡り、王宮の建物――その北側の屋根と壁が崩壊。粉塵を巻き上げながら瓦礫の山を築き上げた。

 華音の玉座は北側を背にして南側を向いており、瓦礫はまるで狙いでもしたかのように、玉座に至る直前の位置までで止まった。

「――な、なにが⁉」

 虎太郎は華音の胸から顔を離し、詰まっていた呼吸を再開しつつ耳を澄ます。

「何事だ⁉」

 と、ガルフの吠え声。

 桂花を始め、指示を受けた面々もまだ建物内にいたらしく、声を上げて近づいてくる。

「ごめんなさい、虎太郎。まさかこんなこと(、、、、、)になるなんて、私も予想できませんでした……」

 華音は言って立ち上がり、虎太郎に背を向けると、彼を庇う形で北側を向く。

 同時に、北側に積もった瓦礫が、何か巨大で強大な力を持ったものによって建物の外から抉り出された。

 そうして瓦礫が取り払われ、白く濁った空と、世界樹の一部と、それ(、、)が露わになった。

「――あ、あれはなんだい⁉」

 それ(、、)の出現にはさすがの虎太郎も額に汗を浮かべ、華音に問う。

 全長30メートルはあろうかという灰色の巨体は横幅も大きく、タコを思わせる無数の触手を有し、その触手の根元より数メートル上方に、凶暴且つ威圧的な形状の顔を有する醜い姿のそれ(、、)は、一言で表せば【怪物】。

樹界魔(じゅかいま)……世界樹に仇なす者を排除する魔物……」

 華音が心ここにあらずといった声色で述べた。

「先生! 華音! 無事か⁉」

 そこへ桂花たちが駆け付け、揃って樹界魔を見上げると、

「えーっ」

 桂花は見たくないものを見てしまったかのような青褪めた表情を浮かべ、

「「「きゃああああああ‼」」」

 三姉妹は阿鼻叫喚。

「うそ……あれって確か、伝説の魔物……樹界魔だよね?」

 たづなはあまりの衝撃にぽかんと口を開ける有様で、その場から動けなくなってしまう。

「ぱ、ぱぉお!」

 だがそこで、パオが立ち上がり、虎太郎と華音を庇うかのように前へと進み出た。

「ぱおぱお!」

 そうして振り返り、鳴き声を上げる。

「――うむ! お前の言う通りだ、パオ! 今こそ勇気を出す時だ!」

 虎太郎一同の背後から、ガルフを始めとする衛兵たちが剣を片手に参じた。

「陛下、ご無事ですか?」

 と、ガルフは虎太郎の上に覆いかぶさっていた華音に手を差し伸べる。

「ええ。ありがとう、ガルフ……」

「――どうして今、その樹界魔ってやつがここへ来たのか、理由に心当たりはある?」

 ガルフに助け起こされた華音に、虎太郎が問う。

「断言はできませんが、心に感じるものはあります」

 パオと共に虎太郎を助け起こしながら、華音は続ける。

「――【号哭】は、私の意思とは無関係。……でもそれは見方を変えれば、世界樹の意思とは関係があるとも考えられます。こうして樹界魔が襲ってきたのは、世界樹の意思に反することをやろうとしているからかも……」

「つまり、きみを治療しようとしているボクたちを敵と見做したってわけか」

 ここで虎太郎は、薄く笑った。見るからに強大な魔物を前にした彼が笑うなどと、誰が予想できただろうか。

「ということはだよ? ボクがそうじゃなかろうかと疑った【灰色かび病】が実は図星で、それを治されたら困るってことなんじゃないかな?」

「なるほど? 病気を治されたら、【号哭】を起こす時期が大幅にズレ込むからね。時期のズレがどうして都合悪いのかは知らないけど、邪魔をしたがってるのは明白だな」

 桂花も納得した様子で腕を組み、頷いた。

「――お前たちは陛下と共に下がっていろ! 陛下は決して、崩壊した場所から外へは出られませぬよう! 出た途端に【号哭】が発動するとも限りませぬ!」

 ガルフはそう言うと、兵士たちを率いて樹界魔へと突撃を掛ける。

 衛兵たちは鬨の声を上げて樹界魔の巨体へ斬りかかるが、タコの如き無数の触手が凄まじい膂力で彼らを捉え、次から次へと投げ飛ばしてしまった。

「ワォオオオオオッ!」

 雄叫びを上げたガルフが触手の一本を鋭い斬撃で叩き斬るが、次の瞬間、背後から迫っていた触手の打撃を喰らい、半壊した王宮内へと吹き飛ばされ、建物の南側の壁に激突――沈黙してしまう。

「ガルフ!」

 華音が悲痛の叫びを上げ、

「ひぃいいいい!」

リエルが涙目で慌てふためく。

「――いけません! みんな退避を!」

 と、華音が叫ぶが、樹界魔は一同の退避を待つことなく動き続け、その触手を桂花たち目掛け叩きつける。

「くッ⁉」

「「「きゃぁああああ‼」」」

 桂花、三姉妹、たづなはそれぞれ別の方向へと回避。ギリギリのところで躱すが、そう何度も続けられそうにはない。

「ちくしょォ!」

 中空へと飛び上がったたづなは勢いに乗じて力強く羽を動かし、攻勢へと転じる。

 樹界魔の触手を次々に躱し、その醜い顔目掛け、手に備わる鋭い爪を構えるが、

「――なっ⁉」

 あと少しのところで触手に阻まれ、そのままカウンター攻撃を喰らってしまう。

「ぎゃん!」

 と、これまた王宮まで吹き飛ばされたたづなは床へと墜落。短い悲鳴を上げて気を失った。

「――やめて! 彼らは敵じゃないの! 襲わないで!」

 ここで華音が竦んでいた足に鞭打って進み()、両腕を広げて虎太郎たちと樹界魔との間に立ちはだかった。

「華音。きみは建物の南側へ逃げるんだ。あいつの狙いはこのボクさ」

「いいえ。私はこの国を統べる者。樹界魔が敵に回ろうと、友人を見捨てたりしません!」

 華音は意を決した眼差しで怪物を見上げ、その場から一歩も動かない。

「――きみの勇気に元気をもらったよ、華音。ありがとう。ボクとしたことが、あの魔物をちょっとだけ恐いと思っちゃった……」

 虎太郎はそう言うと、白衣の懐から一本のアンプル瓶を取り出した。

「有事の際は、これで敵対者を眠らせようと思ってたんだけど、まさか本当に使うことになるとはね……」

 華音を庇うようにして前へと、その小さな足で、少しずつ進む虎太郎。

「虎太郎? なにを――⁉」

 と、虎太郎の肩を掴む華音。

「魔物に眠ってもらうだけさ。言ったろう? ボクはハンデがあっても、進むことを諦めたりしないって。きみを【号哭】から救い出す未来が、ボクの最初の目的地なんだよ」

 虎太郎は彼女に笑顔を向け、そっと彼女の手を降ろす。

 次の瞬間、狙いすましたかのような触手の一撃が虎太郎の頭上から迫り――。

「――っ⁉」

 引き起こされるであろう惨劇に、華音と三姉妹がぎゅっと目を瞑るが、しかしそれは起こらなかった。

 虎太郎は迫りくる触手を前にしても慄くことなく、たった今起きた出来事を見届け、小さな笑みを溢した。

「――桂花君。そういうこと(、、、、、、)ができるなら、もっと早く教えてくれたまえよ」

 桂花が、華音を背に庇う虎太郎の前に立ちはだかり、その両腕をクロスさせて構えることで、頭上から振り下ろされた触手を受け止めたのだ。

「悪い、先生。これ(、、)を見せるか否か、ちょっと躊躇しちゃった俺を許してくれ」

 桂花は樹界魔を()め上げたまま言った。

「許すよ。ボクもちょっとだけ恐がっちゃったし、お互い様ってことで」

「りょーかい」

 虎太郎にお許しをもらい、桂花はクロスさせた両腕を振り払う。そうして抑えていた触手を跳ね返すと、樹界魔が狼狽えたかのように低く呻いた。

「やれやれ。あんまり見られたくなかったんだけどな」

 桂花はそう言って、普段身に纏っている衣服を脱ぎ払った。

そうして彼は、極限まで引き絞られ、鍛え上げられた肉体を露わにした。体格とは裏腹にせり出した胸板の下では、くっきりと浮き出た腹筋の割れ目が縦横に走り、丸く盛り上がった肩の先では細くも発達した上腕二頭・三頭筋がその存在感をシルエットで訴えている。

 細くも逞しい桂花は、両手首になにやら黒い手甲のようなものを装着しており、

「おい、そこのデカブツ。まぁ、なんというかその、お前にも立場があるのは理解できるよ。でもさ――」

 と、両手の指を左右の手甲に挿し入れ、抜き放つ。

 桂花が左右に振り抜いた両手の間――身体の正面に煌めくのは、計10本の細い線。

 ワイヤーだ。

「先生やみんなに酷いことしたのは、いただけないな」

 桂花は、虎太郎でさえ初めて聞く、怒りのこもった低い声で言った刹那――。

 その場から掻き消えた。

 いや。あまりの素早さで、消えたように見えたのだ。

 次の瞬間、桂花目掛け襲い掛からんとしていた数本の触手が一斉に細切れになった。

 まるでかまいたちの如く、瞬くよりも早い斬撃が乱れ舞い、鮮やかさすら感じさせるワイヤーの煌めきで以って、樹界魔の腕の半分が解体された。

 魔物のおぞましい断末魔が一帯に響き渡ると同時。姿を消したかに見えた桂花が、元の立ち位置に出現した。

「――てなわけで、ちょいとキツめのおしおきだ。これに懲りたら、もう襲わないこと! おわかり?」

 さきほどまで厳めしい表情を見せていた樹界魔だが、今や完全にしょんぼりとして、震えながら桂花を見ている。

「タコっぽい吸盤の足してるから、俺が斬った部分は放って置けば再生するだろ? あえて半分は残してやったから、さっさと巣に帰りな」

 桂花にそう言われ、樹界魔は涙目になりながら背を向け、世界樹の方へと帰っていった。

「――桂花って、薬師でしょ? 薬師って、あんなに強いものなの?」

 と、目を覚ましていたたづなが、頭のタンコブを赤く光らせながらやってきた。

「いやまぁ、そこはいろいろと事情があってね」

 桂花は後頭を掻きつつ、話題を逸らすべく華音に向き直る。

「つい怒りに我を忘れて切り刻んじゃったけど、ほんとに再生する? あいつの足」

「……たぶん」

 桂花が見せた手際のよすぎる戦闘にすっかり魅入っていた華音が、小さな声でつぶやいた。

「いっときはどうなることかと思ったけど、これでとりあえずは本題に戻れるね」

 父親から受け継いだ白衣の煤を払って、虎太郎が言った。

「それじゃ、俺たちはさっき言われたものを取ってくればいい?」

「ああ。頼むよ」

 桂花の問いに、虎太郎は片手を掲げて頷く。

「はいよ、先生」

 桂花は彼の手に自分の手を軽く打ち付けた。地球ではこの行為をハイタッチと呼ぶ。

「みんな平気だった? 怪我してなければ手伝ってくれない?」

 桂花は南側に位置する出入口へ向かいながら呼び掛ける。

「桂花さんもやるときはやる人だったんですね!」

「少し見直した」

「す、すごかったですぅ」

 と、三姉妹は粉塵で汚れてはいるが無傷らしく、桂花のあとに続く。

「それじゃ、ボクらはガルフたちを助け出そう、パオ。あの様子ならみんな生きてるけど、自力じゃ起き上がれなさそうだ」

「ぱお!」

 虎太郎は再びパオに跨り、その頭を撫でる。そこで思い出したように振り返って、

「華音も、どこも怪我してないよね? ちょっと手伝ってくれない? そのあとでちゃんときみも診るからさ」

 と、その小さな手を華音に差し伸べた。

「――不本意とはいえ、私はあなた達にひどい思いをさせてしまいました。それなのに、あなたはこの私を、診てくれるというのですか?」

 虎太郎は小さく笑って、差し出しあぐねている華音の美しい手についた煤を払い、優しく握ってこう言った。

「それがボクたち、【境界(きょうかい)なき医師団(いしだん)】の務めだからね」


 FIN


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