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大学卒業後私はフリーターとなり、小説を書いたり書かなかったり、じたばたして結局一年半後に東京の会社に就職した。フリーター時代は、社会人になれなかった引け目があって伯父・伯母には会わず、会社員になってからは、仕事が忙しくて会う暇を見つけられなかった。
そして就職してから一年半ほどして過労で心身を壊し、退職して栃木の実家に舞い戻ったのである。
それが二〇一三年のことで、私はそれから会う人間を極力選別した。病気による対人緊張の症状が強く出るようになったし、また、病気を理解してくれる人としか、会いたくなかったのである。
そんなわけで立石の伯父・伯母とも長い間会わなかった。
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転機が訪れたのは一昨年のこと、祖母の十三回忌だった。
その法事には私は例のごとく親戚としゃべることへの疎ましさから出席せず、私の家族からは父と兄だけが出席した。
法事が終わって、栃木の実家に立ち寄った兄が「若島さんが正巳に会いたいって言ってたよ」と、私に伝えてくれたのである。
「正巳が病気してること話したら、『とにかく浅草まで出てくればいい、いつでもごちそうするから』って言ってた。『とにかく浅草まで……』って。一度会いに行ってみたら?」
兄はそう私に水を向けた。更に、
「会いに行っといたほうがいいと思うよ、なんていうかさ、おじさんおばさんたち、みんなもうだいぶお年で、いつまでも元気に会えるっていうわけじゃなさそうだから」
若干不謹慎なことを言って追い討ちをかけてきた。
私は迷った。迷った挙句、清水の舞台から飛び降りるほどの覚悟をして(心の病気を持つ人ならば、私のこの覚悟感を分かってもらえるかと思うが)、会いに行くことに決めた。大学時代あんなに世話になった伯父がそこまで言っているのであれば、会いに行く義理が、私には十分過ぎるほどあった。
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実際に立石の伯父・伯母に再会したのは、祖母の法事から二ヶ月後、二〇一九年七月のことである。
十七時に東武浅草駅で待ち合わせをしたが、伯母は三十分遅れてき、伯父は更にそれから一時間余り遅れてやってきた。伯父はなんだか、夕方に銭湯に入りたくなって立石の銭湯に寄り、それで遅れたらしい。
そのため先に伯母と二人で店に向かった。「焼肉がいいでしょ?」と伯母が言ってくれたので、大学四年生の時にも行った、あの高級焼肉店に入った。
伯母は私の説明した病状に驚き、また、心配してくれた。
「そう、働けないのね。何かお店とか……できればいいんだろうけどねえ。何かないかねえ?」
そんなことを言ってくれる。私は、小説を書いています、といちおう言ってみたが、それには伯母は芳しい反応をせず、私の創作活動が趣味程度のものだと理解したようだった。
伯父はなかなか来なかった。伯母と二人きりでいることに、私は若干気づまりを感じた。
「最近、あの人ちょっとぼけてるっていうか、怪しいのよね。糖尿になっちゃったし」
伯父のことが話題にのぼった時、伯母はふとそう言った。
「そうなんですか?」
私は意外だった。私の記憶の中の伯父は、第一に優しくて人懐っこく、第二に知識と経験が豊富で物に詳しく、バランスの良い思考をする良識家だった。いつまでもあのまま、はつらつと、かくしゃくとしているものだと、私は勝手に思い込んでいたのである。
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タン塩からカルビ、ロース、ハラミと、私と伯母が一通り食べ終えてしまったところで、伯父はやってきた。
「やあ、や!」
昔のドラマの役者のように顔の前に片手を立て、拝むようにしながら私に遅れてきたことを詫び、席についた。
(よかった、聞いていたほど)
ぼけては無さそうで元気そうだ、と私は思った。
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しかしそれからが大変だった。
伯父は、法事の際に兄から聞いていたはずの私の病気と、働けていない現状に対して事前知識が全く頭から飛んでおり、私は一から病名やら病状やらを話さなければならなかった。しかも実際に話してみるとやはり多少ぼけが入っているようで、短い間に何度も同じ話を聞いてくる。時々、
「あれ、確か満夫さん(私の父)の……」
と、隣に座る伯母に私のことを確認せねばならず、伯母がそれに対して、
「そう、二番目の正くん」
と毎回答えるのだった。
伯父は伯父ですっかりデブのおっさんと化した私の変貌ぶりに驚いたようで、
「なんだか変わったねえ」
と言ってくる。この後別れたら、きっと伯母に「ずいぶんあの子太ったんじゃないか」などと言うのだろうな、と私は思った。
伯父は私が精神病であることを、認めなかった。私が話している感じがまともに思えたらしく、
「本当に病気なの? 違うんじゃない? 誤診なんじゃないか?」
としきりに言う。そして、だから早く職を探して良い人を見つけなさい、と言う。しかもこのやり取りもすぐ忘れて、何度もループさせる。
私は――伯父に対して大変申し訳ないが、正直なところこの延々と繰り返されるやり取りに関しては、若干苦痛を覚えた。しかし一方で、何度もそんな話をしてくるのはそれだけ私のことを心配してくれているからなのだろうと、ありがたさも感じた。
たらふく焼肉を食べさせてもらって、結局伯父に食事代をご馳走になった。それから神谷バーに行き、三人で電気ブランを飲んだ。私は久々の家族以外との会話に疲れて、へとへとだった。
神谷バーでは伯父は終始機嫌が良く、もう私の現状についての説教など、しなかった。
私は、今でも小説家を目指していることを、それも大真面目で目指していることを、伯父に打ち明けたかった。しかし――結局言えなかった。十年前、あの焼肉店で伯父に話した時には輝いていたその夢は、十数度の新人賞落選を経て、すっかり擦り切れ、くすみ、光を放たなくなっていた。
私は結局、伯父に「痛い奴だ」と思われるのが嫌だった。それだけだった。
*
別れ際、さすがに伯母はもう、お小遣いはくれなかった。もちろん私だってもらいたくはない。ただ伯父のすすめで、神谷バーで持ち帰り用に売られている電気ブランを一本、お土産に買ってもらった。
電気ブランの入った紙袋を片手に提げた私は、夜の東武浅草駅へ行き、改札口で二人と別れた。改札の内側で、私は二人に深く頭を下げた。そのお辞儀に、これまで二人にしてもらったことへの感謝の気持ちを、全部込めたつもりだった。
「おい、いいんだよ、頭なんか下げなくって! ほら、電車出るぞ!」
伯父が笑い飛ばしながら言った。粋なところと、目尻に寄る笑い皺は、全く昔と変わっていなかった。