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 私の東京での一人暮らしは大学三年生いっぱいで終わった。少々滑稽なことに、暮らしていた築年数の古い学生アパートが、耐震基準を満たしていないことが判明して三月で取り壊されることになり、それならば残りの一年間は栃木の実家から大学へ通いなさい、と父に言われたからだった。


 棲家が立石から遠のいたため――祖母が亡くなったこともあって――私が伯父・伯母に会いに行く頻度は自然と低くなった。それでも大学四年時にも、少なくとも二回、浅草で二人と飲んだ。浅草は栃木の実家から割合近く、電車で一本、一時間二〇分ほどで着くのである。


 一度目は、浅草にあったバルのような店で飲んだ。その時奥のカウンター席では大相撲力士の元小結高見盛、現在の東関親方が偶然一人で食事をされていた。


 そのカウンター席は私たちの座ったテーブル席から近く、高見盛関の大きな後姿がよく見えたので、私たちは早い段階で彼のことに気づいた。私と伯母が、ねえあの人そうじゃない、お相撲さんの……、ええ、そうですね、高見盛ですよね、などとこそこそ言い合って、しかし握手や写真撮影などは迷惑だろうし三人ともそこまで相撲ファンというわけでもなく、あとは気にせず自分たちの食事と会話に興じていた。


 私は当時、ある空手道場が主催した小規模な空手大会の組手部門で優勝したばかりであり、伯父と伯母にそのことを自慢げに話した。空手に加えてキックボクシングも平行して習っていた私は、


「キックボクシングでは、ミドルキックを蹴る時、こう、相手が腕でガードしてくるんですけど、そのガードする腕の骨を折りにいくんです。僕も左の中段回し蹴り、つまりミドルキックが得意なんですが、大会では腕を折ってやるつもりで蹴りましたよ」


などと偉そうに、しかも割合大声でしゃべっていた。伯父・伯母はそんな私の他愛ない自慢話を、ひえーっ、などと良いリアクションをして聴いてくれるので、私はほとんど有頂天だった。


 すると高見盛関が食事を終えて席を立ち、店を出ようとした。と、出口とカウンター席の間に私たちの座る席があったのだが、その私たちの席の前を通り過ぎる時、高見盛関は私の顔をちらと見て、ぺこり、と会釈してきたのである。つられて私たちが会釈を返すと、関取はゆったり出口に向かって行ってしまった。


「……なんで挨拶されたんでしょう?」


 私が伯母に聞くと、


「それは、正くんが格闘技のことをしゃべっていたから、あなたのこと強い格闘家だと思ったからじゃない?」


と言う。伯父も、多分そうじゃないか、とこの意見に賛同した。


 私は顔から火が出るくらい恥ずかしくなった。アマチュアの、しがない空手大会で運よく優勝しただけの人間が、大相撲幕内の三役力士まで上がった人に、会釈をさせてしまったことになる。井の中の蛙。弱い犬ほど、よく吠える。


 本当に強い人というのは、自分の強さをむやみに誇示せず、誰に対しても謙虚であるものだと、私はこの時しみじみ学んだ。


   *


 大学四年時に伯父・伯母と二度目に会ったのは私が卒業を控えた冬で、確か卒業の前祝をしてもらったのだろうと記憶している。やはり浅草の、メニューを眺めた当時の私がびっくりするくらいの値段がする焼肉店でであった。


 私は色々理由があって(それをいちいち説明すると長くなるので割愛するが)、卒業後の就職先が決まっていなかった。伯父が、心配だったのだろう、これからどうするんだと、焼肉を食べながら聞いてきた。私は小説家になりたい、と打ち明けた。伯父はこれに対して良いとも悪いとも言わなかった。


 伯父はかなりの読書家らしく、立石のマンションの一室は、本で溢れかえっていた。小説についても一家言あったようで、多少の酔いもあったのだろう――、珍しく説教をはじめた。


「小説はね、エンタメを忘れちゃだめだよ。エンタメ。俺は宮部みゆきの○○(注:この時なんという小説の題を伯父があげたか、私はいま、失念してしまっている。『火車』だったかも知れない)っていう小説を読んで、そう思ったよ。一方でさ、西村……なんだっけ? あの人の、最近芥川賞獲った『苦役列車』? いや読んでない、読んでないけどさ、もうタイトルで分かるよ、本当良くないよねえ。良くない。いいかい、小説はエンタメを忘れちゃだめ!」


 この伯父の「エンタメを忘れるな」という忠告は――小説を書いたことなど、伯父は一生を通じて無かっただろうと思われるが――、月並みで特に目新しい言葉でも無いが、なぜだか私の心に強く焼き付いて、小説を書こうとする時、今でも私の胸に時々ふっと去来するのである。


 また伯父は、このエンタメうんぬんの話題から飛んでしばらく別の話をした後に、小説の話に戻って、遠い目をして言った。


「小説家なんかはね、みんな貧しい生活からはじめてるんだ。はじめのうちは大抵貧しい生活をしているんだな。それは覚悟しなきゃならないよ」

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