1
夜のはじめごろ立石の伯母から父に電話があり、電話に出て用件を伺った私は、取り次いだ後で眠れなくなった。
電話を取り次いだ時、既に部屋で眠っていた老父は、電話を終えると子機を戻すために私がいるリビングへ降りてきた。子機を台に置くとキッチンへ行き、コーラをコップに注いでごくごく飲んで、再び部屋へ寝に行ってしまった。
よく眠れるものだ、と私は半ば感心し、半ば呆れた。
私はどうも気が立って眠れる気がせず、ウィスキーをロックで飲みはじめた。先ほど夕食時に酒は十分飲んでいて、これ以上飲むのは健康にも良くないだろうし、明日の執筆にも差し支える。ただでさえここのところ私は夜更けに独り飲むクセがつきつつあり、後になって考えてみたらこれがアルコール依存症のはじまりでした、なんてことになるかも知れない。しかしそれでもかまわず今日は飲んでしまおうと私は決め、ノルマをこなすようにウィスキーを四杯飲んで、そうしたら小腹が空いたのでキッチンにあったカップヌードル(シーフード味)までずるずる食べてしまった。
好きなだけ飲み、食べても、まだ気は晴れず、なんだかますます眠れない気がしてきたのでもう明日の午前中の執筆は諦めて、それを前倒しして今から書いてしまおうと思い、自分の部屋へ向かった。そうしてパソコンを立ち上げ、書きためている長編小説の草稿を開き、キーボードに両手を置いたのだが――、気が散って、とても書けなかったのである。
伯父が死んだそうだ。
電話で伺った伯母の話によれば、死因は新型コロナウイルス感染症の可能性もあるそうで、それはこれから鑑定されるのだそうだが、もしそうであればこのご時勢、葬儀もできないことになる。どうなるかはまだ決まっていないが、とにかくその場合でも兄弟に献花だけでも出して欲しいという、いつも快活な伯母からは考えられない悲痛な用件に、私は慌てて父を叩き起こし、電話を取り次いだのだった。
こうしてWordを開いてもまるで小説の続きを書けそうになく、私はいっそ、と思い、伯父のことを書くことに決めた。私は書いた小説は基本的に全て新人賞に投稿することに決めていて、それを考えるとこの稿は私のその方針から外れてしまう。いや、そもそも事実を思い出すままに書いていくつもりだから、これは小説とも呼べないものになるかも知れない。それでも――伯父のことは、書き残しておくべき義理が、私にはある気がするのである。
*
十五年ほど前に遡って、そこから話をはじめなければならない。
現在、精神障害持ちで働いておらず、毎日十六時半から晩酌をはじめるような生活を送って、体型は崩れに崩れ、無精ひげも伸ばし放題の汚い中年男とは同一人物に思えないくらい、十五年前の私は若く、引き締まった肉体を持っていた。
「いやあ、紅顔の美少年って、本当にいるんだねえ」
私がはじめて伯父の住む立石のマンションに遊びに行ったとき、伯父は飲みながらあながち社交辞令でも無さそうにそう褒めてくれた。まるで礼儀のなっていなかった私は、「いえいえ」と否定するわけでも、「ありがとうございます」と感謝の言葉を述べるわけでもなく、まだ飲み慣れていないビールをあおり、「はあ」と生返事をした。生返事をした後でどうやら褒められたらしいと分かり、まんざらでもなかった。
私が一浪してから東京の大学に入り、都内に一人暮らしすることになって、私の両親が親戚中にその報告をしたところ、この立石の伯父が「そういうことなら一度うちに遊びに来させなさい」と言ってくれたのだった。十九歳だった世間知らずの私は、手土産も持たず、一人暮らしをはじめた上北沢から伯父のマンションへのこのこ遊びに行ったのである。
この立石の伯父・伯母には子供が無かった。子供のいない夫婦らしく、若者を扱いなれていないところがあって、伯父は珍しい愛玩動物に遭遇したかのように、しきりに私を猫かわいがった。そして初めて私がおじゃましたその日、夜も更けて私がおいとましようとすると、
「またいつでも来てね」
と、両の目尻を下げ、笑い皺をいっぱい浮かべて言ったのである。
*
私はすっかりこれに味をしめてしまった。私は大学在籍時、実によく伯父・伯母に食事をごちそうしてもらった。貧しい一人暮らしの中、立石まで行けばただで美味い料理が腹いっぱい食べられ、飽きるほど酒が飲めるのである。しかもこの、どこまでも人の良い伯父・伯母は、毎回私にお小遣いまでくれていた。
私が伯父・伯母と立石のどこかの店で飲んだとする。飲み終わって、二人が私を京成立石駅前まで見送ってくれる。そこで別れる寸前、決まって伯母が、にこにこしながら私のそばへやってきて、四つに折られた一万円札をそっと渡してきて、私の手に握らせてくれるのである。
毎回、である。
時には食事の最後の段階になって、既に一万円札の授受が済んだ後で伯父が、
「おい、あれ、やったか?」
と伯母に聞くこともあった。伯母が、
「あげましたよ」
と返すと、伯父は納得して、
「ああ、ならいい」
と言う。そしてそのやり取りを見ながらまごまごしている私に、
「いやいや、いいんだよ! 気にしない、気にしない」
と、いつものように目尻を下げながら言うのである。爽やかなものだった。
私は大学時代太宰治に憧れるあまり、彼の真似をして悪い薬に手を出してはまって、その支払いに困った時期があった。そのころ一度だけ、薬代の支払いのために、伯母からもらえるこの一万円札を目当てに彼女を食事に誘ってしまったことがある。
その時は神保町の有名な洋食店で食事をした。この日、伯父はついてこず、伯母一人であった。伯母一人でも私にはどうでもよく、関係無かった。とにかくいつものように、一万円がもらえればそれでいいのである。
――そうして食事が終わると、伯母は例のごとく肥った顔をにこにこほころばせて私のそばへやってきて、この密かに不良青年と化している甥に、一万円札を渡してくれた。私はさすがに自分への恥ずかしさで胸が一杯になり、ただうつむいてそれを受け取った。
この時の一万円をどう使ったのか、今私の記憶は定かではない。やはり、悪い薬のために消費してしまったのだろうか。思い出したくない出来事というのは、けっこうその当人に都合よく忘れ去られてしまうものらしい。