永遠の約束
彼女は僕に、よく約束をしてくる。
例えば、
「明日、お祭り一緒に行く約束ね」
とか、
「明日、宿題見せてくれる約束ね」
など。
僕は約束を破ることは出来ない。なぜなら僕は彼女が好きだから。この世で一番愛しているから。
でも、一つだけ叶えられない約束があった。
「ねぇ、龍馬君」
彼女は薄い笑みを浮かべながら僕に言う。
「どうしたの、穂乃夏」
「……ううん。やっぱり何でもない」
そう言ったきり、穂乃夏は押し黙ってしまった。彼女の骨身から寂寥感が溢れていることを、僕は身に感じていた。
どうしょうか僕は迷った。気の利いたことが言えるならまだマシだが、そんなことを言えるほど聡明ではないし、かといってこのまま黙っているのも気が引けた。
「あ、あのさ」
僕は言葉を濁しながらも、何とか口にする。
「何よ」
彼女のその言葉は冷たかった。身にしみるほどの冷たさではなかったが、僕は身震いをした。
今まで穂乃夏が僕に対してこんな口の利き方をすることはなかった。いつもは僕に子犬のように付きまとってきて、何の混じりもない無垢な笑顔と言葉を発していた。
『龍馬君』
彼女から発するこの言葉を聞くだけで、僕の気持ちは高揚した。
だって、僕は穂乃夏のことが好きだから――。
夜だって彼女のことを考えて、夜眠れないときがある。時折、オナニーだってする。
でも僕はそれ程、彼女が好きなのだ。
だから穂乃夏からこんなにも冷たい言葉が出るなんて、思いも寄らなかった。
「……何でもない」
どうしたの? 悩みがあるなら僕に言ってよ。
僕はそんな言葉を彼女に言いたかった。でも、意に反して口から出た言葉は何とも弱々しい諦めの言葉だった。
情けなくて、泣きたくなった。
涙を出さないように、天を仰ぐ。そこにはあかね色の空が僕たちを見下ろしていた。
「……やっぱり、私たちって釣り合わないのかも」
穂乃夏が急に語り出したので、虚を突かれた。
「釣り合わないって、何が」
すると、穂乃夏は少し顔を赤らめて呟くように言う。
「……気持ち」
「――っ」
僕の情が高ぶる。そのせいで、自然と身体は熱を持った。
「私、今まで龍馬君が好きだった。でも……ここの所、龍馬君との間に仕切りみたいのがあって私たちを隔てていた気がするの」
穂乃夏の言葉には抑揚がなかった。でも、感情を溢れんばかりに含んでいた。
僕は思い切り拳を握りしめた。急速に空の色合いが群青色に染まっていく気がした。
僕たちを隔てているモノ。それが何なのかはわからない。
「……もしさ、私と龍馬君が付き合ったとして、その仕切りが消えると思う?」
「……」
言い返すことは出来ない。自分で思うほど、その仕切りは大きいのかもしれないからだ。
「だよね、何も言い返すことは出来ないよね……」
刹那、穂乃夏の澄んだ瞳から涙が流れる。それは彼女の頬を伝い、下に落ちる。
僕はハッとする。今まで僕と穂乃夏を隔てていたモノが分かったからだ。何でこんなにも簡単なモノに気付かなかったのだろう。
空の色合いがまたあかね色に染まってくる。
穂乃夏の顔は涙や鼻水で、すでに崩れていた。その顔にはあまりにも多くの悲しみと苦しみがあった。
「穂乃夏」
「……ひっく……何?」
「僕、わかった」
「えっ……」
僕は頷くと、彼女は崩れた顔を何度も拭い、じっと僕を見つめていた。でも、涙は現在進行形で流れていた。
「僕たちを隔てていたモノ、それがわかったんだ」
もう一度同じ言葉を言い直し、穂乃夏を見つめる。その瞳には僕と現実が映っていた。
「それはね、『約束』」
「えっ?」
「僕たちを隔てていたのは『約束』なんだ」
穂乃夏は嘘だ、といった風に身体を震わせていた。それもそうだろう、その仕切りが自分で創ったモノなのだから。
「穂乃夏が最初に僕に約束をしてきたのはあの踏切だったよね。確か、一緒に夏祭りに行く約束だっけ?」
穂乃夏は首を縦に振る。
「あの頃から僕と穂乃夏の間に仕切りが生まれたんだ」
約束された者は約束した者に背くことは出来ない。約束した者は約束された者を操ることが出来る。その上下関係が仕切りの出来た理由だ。
「約束された者――つまり、僕は穂乃夏を背くことが出来なかった。背くって事は約束を破るという最低な行為になってしまうから。だから、僕は穂乃夏に従うしかなかった。僕は穂乃夏が好きだ。でも、告白しようとしてもなかなか出来なかったのはそのためだったんだ」
穂乃夏は口を押さえて、驚いていた。しかも、視線の焦点が合っていない。よく見ると、段々顔が赤くなっている。僕がさっき婉曲な言い回しで使った『好き』という言葉に気が付いたのだろう。
「穂乃夏が釣り合わないと感じたのもそのことに気付いたからだよ」
強い風が僕らを包む。その時、何かを失った。
「……ごめんね」
「 謝らなくていいよ。僕だって悪いんだから」
次の瞬間、穂乃夏が僕に飛びついてきた。避けきれる事が出来なかった僕はただ佇む事しかできなかった。
「……」
「……」
何も喋れない。なぜなら、僕と穂乃夏の唇の差がほとんどなかったからだ。何かを口にしただけで唇同士が触れ合ってしまいそうだ。
彼女から香水のいいにおいがして、僕は少し目眩を覚えた。
穂乃夏は一度顔を離し、呼吸を整える。その後に、満面の笑みを浮かべた。
「ありがとう」
そう言い、僕の唇に自分の唇を重ねた。
穂乃夏の唇。冷たくて、少しだけミントの匂いがした。
唇を離した後、僕は何とも言えない虚脱感に襲われていた。それから数秒間、穂乃夏の顔が錯覚となって眼前に現れていた。
僥倖……だったのか、急にされたので区別が曖昧になる。
ほうけた顔で穂乃夏を見ると、清々しそうに天を仰いでいた。
「ねぇねぇ、龍馬君も空をみて」
その言葉にならって、僕も天を仰ぐ。そこには今まで見たことがない、綺麗なあかね色の空が出来上がっていた。
「すごい」
僕は感嘆の声を上げる。
「そうだね。まるで、今の私たちみたい」
確かに。この空は僕たちの恋の始まりを告げているみたいだった。少し面映ゆくなる。
「行こう、龍馬君」
僕に視線を戻した穂乃夏はこれまた今まで見たことのない、満面の笑みで僕を手招く。
「ああ」
それに従い、僕も歩き出す。
やがて踏切に差し掛かった。そこの周りにはたくさんの向日葵が咲いていて、夏なんだと実感させる。ここを通る電車は一時間に2本しか通らないローカル線が通っていて、僕と穂乃夏はいつもここで待ち合わせをして登校している。
僕と穂乃夏は幼なじみであり、昔は一緒に風呂にはいるほどの親密な仲だった。そして、今のこの状態は昔の僕たちの様だった。
「向日葵って綺麗だよね」
「そうかな」
「うん。絶対そう」
そう言う穂乃夏は真剣だった。よほど向日葵が好きなのだろう。
「あ、そうだ。僕、お婆さんの家に行くんだった」
「えっ? そうなの」
「うん。だから、穂乃夏とはここでお別れだね」
「そう……」
彼女は悲しそうな顔をした。
そういえば、まだ告白をしてなかった。さっきの出来事で少しは気楽になっただろうから、僕は何の躊躇いもなく言えるだろう。
「あのさ」
そう言ったのは穂乃夏だった。
「……キスしていい?」
「――っ!」
どういう意図があるのかはわからないが、いきなりそう言われるとグラッと来てしまう。さっきのキスで彼女に対する免疫力が強くなったのかと思ったがそうではなかったらしい。
「いい?」
「う、うん。いいよ」
間髪を入れずに、穂乃夏はキスをしてくる。そのキスはさっきとは違い、舌を絡ませるディープキスだった。
それは吐き気を催すかと思ったが、そうでもない。
存外悪くないものだと、少しだけ思った。
唇を離したとき、唾液の糸が舌と舌とを繋いでいた。それは僕たちが繋がっている証拠だと僕は思った。
「……好きだよ」
僕は言う。
「ええ、私も好きよ」
そう言って彼女が笑みを浮かべたとき、踏切の警告音が鳴り響いた。
「あ! 早く渡らないと。じゃね、龍馬君」
「ああ」
穂乃夏は踏切のバーをくぐり抜け、向こうの道に出た。その時、電車がやってきて僕と穂乃夏を遮断する。僕は不安に陥った。でも、また穂乃夏の姿が見えたとき、僕は安堵した。
「龍馬君!」
線路を隔てて、穂乃夏は叫ぶ。僕も対抗して叫ぶ。
「なに!」
「1つだけ最後の約束していい!」
「いいよ!」
「また、この場所で会おうね!」
「ああ! 当たり前だろ! 明日会えるよ!」
すると、穂乃夏は黙り込んでしまった。こっち側にいても雰囲気でわかる。
「どうしたの!」
「ううん! 何でもないよ! じゃあね!」
強制的に区切られ、僕もさよならをしようとしたら彼女は一目散に林の奥に駆け出して見えなくなった。
どうしたのだろう。
そのワケを知ったのは次の日。
穂乃夏は転校してしまった。誰にもそのことを言わず、1人で去って行ってしまった。
クラスのみんなは男女関係なく泣いていた。ただ1人、僕だけを除いて。
「また、この場所で会おうね」
その約束は、僕たちを本当に隔ててしまった。
☆
「また、この場所で会おうね」
この約束はもう永遠になってしまった。
僕が大学に進学するときに、穂乃夏は事故で亡くなってしまった。
葬式の時、僕は周りの目を気にせず泣き続けた。お母さんがそんな僕を慰めたが、少しも意に介さなかった。
なんで死んでしまったんだ。どうしてあの時僕に引っ越しのことを教えてくれなかったんだ。
どうして――。
葬式が終わったとき、『約束』というのは残酷だと悟った。
後で聞いた話によると、穂乃夏は僕と同じ大学に進学するはずだったらしい。そのことを聞いて僕は再び崩れ落ちた。
☆
初夏。
コンピュータ関係の仕事に就いた僕は、中学生の頃、穂乃夏と登校した道を歩いている。一面の田畑や、この道はあまり昔と変わりなく、所々に雑草が生い茂っていた。
「たしか、ここで穂乃夏とファーストキスをしたっけ」
そう、この場所で彼女とキスをした。何というか、ファーストキスなのにドラマチックではなかったのが不満のありどころなのだが。
そこで感傷に浸った僕は、最後にあの踏切に行くことにした。
その踏切はすでにボロボロになっていた。ローカル線も廃線になり、そこを彩っていた向日葵も全て色彩を失っていた。
僕は、踏切に近づき天を仰ぐ。
空の色は、青だった。
昔に見たあかね色の空はそこにはなかった。
……なあ、穂乃夏。俺はここにいるよ。
夏の日差しが照る中、僕は空の向こうにいる穂乃夏に問いかけた。
「あ、そうだ」
僕は手に持っていた薔薇の花を踏切のそばに置き、黙祷をした。今日は穂乃夏の6回忌だった。百合みたいな地味な花じゃ彼女は喜ばないと思い、僕と穂乃夏の大切な場所に薔薇を置くことにしていたのだ。
それから僕は、線路の向こう側を見た。なぜだかわからないが、何か予感がしたからだ。
もしかしたら、穂乃夏がやってくるかもしれない。
数分待ったが、来る気配を見せず、ただ蝉が鳴いていた。
……そうだよ、来るはずなんてないんだ。予感がしたのは、僕が穂乃夏の姿を見たい一心でそんなことを思ってしまっただけなんだ。
諦めて踵を返そうとしたとき、向こう側にどっかで見たことがある服を着ている少女がいた。
「穂乃夏……」
そう、少女は穂乃夏だった。
僕は一心不乱に彼女の所に行く。近づくごとに彼女の顔が鮮明になる。やはり、穂乃夏だった。
「穂乃夏!」
僕は飛びついた。彼女は笑っていた。自我を忘れた僕の意識にはこのまま抱きついて、キスをしたいという欲望があった。
でも、淡い夢はただの夢でしかなかった。
穂乃夏らしき少女は僕が触れた瞬間、泡雪のように消えた。その様子に僕は目を疑うことしかできなかった。
穂乃夏はちゃんと約束を守ってくれた。ちゃんとこの場所で僕に会いに来てくれた。
天をもう一度仰ぐ。
――穂乃夏、『約束』って本当は心と心を繋ぐモノなのかもしれないね。
心の中で呟いてみた。
帰りに薔薇を置いた所を見てみると、そこには薔薇と引き替えに向日葵が置いてあった。
どうも、丘です。
感想並びに指摘がありましたら宜しくお願いします。