二節『それは醜い魔女の愛』5
マザーシプトンは階下へと流れていく輝く水を横目にダンジョンを登って行った。ルーナン・コリスでの戦いでも現れたツァオネや、他の魔物たちを相手に彼女は苦戦することもなく、時折見かける冒険者から身を隠しながらの移動ではあったものの、ついに彼女はダンジョンを抜け出してプレイテリア王国へと踏み込んだ。
姿隠しの魔術を使ってダンジョン入口の雑踏から抜け出し、見上げた空はとても広いものだった。この国の聖性が自身を変えてしまうのではないかという、ありえない考えが浮かんでくるほどに、彼女から見てこの世界は澄んでいたのだ。
離れた場所から聞こえてくる聖歌隊らしき歌声に合わせてハミングする子供。
花売りの少女の良く響く声に引かれた、愛する者のために働く若者。
数人がかりで山のように荷物の積まれた荷車を押す商隊と、いち早く買い求めようと集まる婦人たち。
この国では当たり前にあるのだろう幸せの光景が、彼女の涙腺を刺激する。
自分でもどうしてこのようなことで涙が溢れてくるのかは分からない。前に居た世界でも当たり前にあったはずの光景なのに……。
「嗚呼……、聖性のせいよ。ええ、きっとそうだわ」
街道から二つほどそれて、座り込んで泣くマザーシプトンの姿は魔術を極めた存在として映ることはない。少しだけ疲れてしまった少女の、新たな生を実感するほんの僅かな時間を祝福するようにそれは現れた。
シプトンの時間を邪魔しないように。シプトンの涙を見ないように。たまたま通りがかったかのような気軽さで、それは声をかけたのである。
「やあお嬢さん。今日はいい天気だ、そんなところで蹲っているのは勿体ない。お茶でもどうだろう」
声をかけた男は薄紫のベールで顔を半ばまで隠していたものの、シプトンにはそれが異質な存在であるというのがすぐに理解できた。それはもう見るからに怪しい出で立ちであるし、来ている服も一般的な市民と比べると三つも四つも違う。更には彼女に気が付かれることもなく近づいたというのもあった。
シプトンは自身に掛けてある魔術がきちんと働いていることを確認してから声を返した。ただしその場から立ち上がることはなく、あくまでも普通に返事をするていで。
「……それならもっと良い子が居るはずよ。ここはいいところだもの」
「それはありがたいね。私の国をそう見てくれると、私としても鼻が高いよ」
「貴方の国、ね」
「ああ。私自身は異国の使者を歓迎するが、周りはそういうわけにもいかなくてね。それに、残念ながら王都に入るには金がかかる」
「それは残念。お金は持ち合わせないの」
「ここが真に神の国であればよかったが、いやすまないね」
「まぁ私が黙っていればいいだけだけどね」と、男は続けて笑った。会話の内容は笑っていられるようなものではないが、その男の余裕は一向に崩れることが無く、しっかりとした足取りで二人の距離を詰めていく。
座り込んでいるシプトンからベールの中が見えるぐらいまで近づく頃、男はゆっくりとしゃがみ込んで彼女と視線を合わせてほほ笑んだ。
男の持つ赤い瞳と、シプトンの銀と金の瞳の交錯がどのような意味を持つのか。声をかけてきて何もしない以上、一先ずの安心は確保できているはずだ。シプトンはそう考えたが、保険はいくつあっても構わない。
人を操る魔術に心得のあった彼女の瞳の輝きは、たしかに男を捉えたかに思えた。しかしそれはシプトンの思い違いであったらしい。
「君の魔術は私には効かないよ」
両の目を赤く光らせて彼はシプトンへと手を差し伸べた。
「ようこそ、プレイテリアへ」
ここまで来てはどうしようもない。マザーシプトンは戦など知らなそうな掌をした男の手に自らのそれを合わせて立ち上がった。誰かの手を握るなどいつぶりだろうか。彼女は少しばかり考え込んで過去を振り返ってみるものの、終ぞ、その答えを出すことが出来なかった。
王城までの道は几帳面に整備されていて、二人の足取りを遮るものなど何もない。王国の産物は何が有名で、どこで何が採れるのか。熱心に語る男の姿は魅力的に映ったが、シプトンの脳裏にあったのは、彼の手の温もりだけである。おそらくは生まれて初めて誰かの手を握ったというのに、何故か安心感を覚えてしまう。誰かの手を握るというのも、案外悪くないものだった。
王城前の検問も、王城勤めの人間たちの視線の一切をも受け付けず二人がやって来たのは、僅かに埃の匂いが漂う書庫だ。人気が無いのは人払いがされているというより、普通には入れない場所であることを彼女に予感させた。
彼女がぱっと城内を見た限りでも、苦戦は必須だろう魔術師が何人か居たのを覚えている。そういった者が勤勉でない試しはなく、書庫に誰も居ない訳がないと考えたのである。
「どうしてここに?私を断罪するための、滑稽さを誘う台座はないし、罪を問うてくる禿げた神官だってこの場には居ないというのに」
「それは私が未来を見たからさ。君は将来、我が国を滅ぼし、世界を恐慌へと導くだろう」
「だけどそれで構わない」男の笑みがそこで初めて消え、シプトンは背筋を伸ばす。
「ただ、その時に知っておいて欲しいのさ。本来の世界の姿を。主が創りたもうたこの世の美しさを」
「………………私には貴方が分からないわ」
「これから知ればいい。全ての最後の瞬間に、君の中で私が僅かにでも在ったのなら、私が歴代プレイテリア王の一人ではなく、ただ一人の人間として在れたことの証明になる」
「……」
「世界は主と三神の意向によって変わり、移ろっていく。次代を育てるのが王の瞳を持つ者の責務なら、私の全てを君にかける」
まるで宝石のように美しい瞳を持つ一人の王と、銀と金の瞳を持って世界を渡った魔王との逢瀬は、この日から始まった。
はるか先が見えている男とは違い、今の彼女の瞳が未来を映すことはなかった。




