一節『龍の血脈』2
「マザーシプトン……」勇者の声は震えていた。彼の内にあるのが怒りか、それとも歓喜であるのか。私には分からない。フォウ・リーフを地に縫い留めている存在を目の前にした彼の魔力の流れは、まるで嵐のようであった。
「名前だってなんだっていいと言っているでしょう?でも改めて名乗るとするのなら、……七月の神なのかしらね」
「月神はお前なんかには似合わない!」
「さすが、月神に襲われた事があるだけはあるわね、勇者様」
クスクスと笑うマザーは誰がどう見ても上機嫌であり、一歩一歩を噛みしめるように、瓦礫を避けながらこちらへと歩いて来ていた。少女を少し過ぎた程度の見た目であれど、その本性とでも言うべきものをあの外面に収められているのが信じられないほどに、彼女は醜悪に笑うのだ。
容姿はお世辞にも整っているとは言えない。衣服ではなく歪んだ空間を纏った裸体は肉付きのいいものではない。だが彼女が神となり、その身に宿した神気が、聖性が、マザーシプトンという存在の格を押し上げ、この世のものとは思えないほどの美しさを醸し出している。
この世に降り立った七月の神はついに勇者と対峙した。
トウカが私を助けようと手を貸すが、そんなことは些事だと言わんばかりに、彼はその手に聖剣を出して切っ先をマザーに向ける。
「それで……過去の貴方は月神に勝てたのかしら?」
「…………月神は星海に還った」
「貴方は自らが作った守護者に庇われ、見ていることしかできなかった。止めをさしたのは本来の太陽神をその身に下ろした剣王だった。一人の貴方なんて何も怖くはないわ」
「確かに。いかな聖剣、いかな剣豪とて神に抗うことは不可能だろう。それでも私は勇者だ、世界の敵を前にしてやることは一つだろう」
「世界の敵?ここに居る過半数は外の世界からの来訪者なのよ?誰が魔王になってもおかしくはなかったってことが分からないのかしら。千年も生きると脳内も腐るんでしょうね」
私が瓦礫の中から助けられる最中にも両者の魔力は高まっていく。勇者と神。それぞれに人という枠を飛び出してしまった存在同士がぶつかればどうなってしまうのか。結果がどうであれ、余波だけで私は死んでしまうだろう。彼女がどこまで私に望んでいるのかは分からないものの、マザー復活までの時間は稼いだのだ。
「今は素直に引きましょう。命があるだけ儲かりものです」と、トウカに連れられて戦場から引いた私を出迎えたのは、ノーザとフリューだった。場所でいうと七月の神殿前の広場まで下がってきただろうか。そうこうしているうちにマザーと勇者との戦いは始まったようで、何を打ち合えばそんな音がするのか、空気が破裂するような音が鳴り響いている。真っ先に声をかけてきたのはノーザだ。
「……大丈夫なの、骨、折れてるでしょう」
「……っ……」
「ステラ、無理はしないように。正直、意識を保っていられるのが不思議なくらいですよ」
「私、私になにか出来ることはないの」
「今この中で歩いていくつもりですか?ルーナン・コリスで戦っている誰一人として状況を理解している人は居ないでしょう。町の半分近くは勇者の霧に呑まれてしまっていますし、住民の殆どは避難しているはずです。神殿は上よりも下に広いですから、貴女たちはその姿を見てはいないのでしょうが」
私を広場に寝かせるトウカの視線の動きは忙しいものだった。マザーの戦闘を気にしなければならないし、ノーザとの会話にも思考を回さなければならない。ノーザの声を無視して気を張り続けるには、神代の空気は重過ぎる。
神殿を背に静かに町を見おす二人には何が見えているのだろう。私が見て感じているような神代への感情の高揚ではないことは確かだ。彼女たちの表情は晴れたものではない。深い悲しみの中に心を浸からせ、既に関われる場ではないという諦観を浮かべた相貌を見てしまえば、安易な楽観視など出来なかった。
ノーザよりも遅れて神殿を出てきたフリューは最初に外の様子に気が付き、その次に横たわっている私に気が付いたようだった。ツカツカと足音を立ててこちらへと歩いてくる彼女の表情は幾ばくかの安堵を持ったものだったが、共鳴で感じる彼女の本心はまた別のものだ。
……怒り、ではない。なんだろう、不思議な気持ちだ。彼女は私を見下ろすように隣に立ち、少ししてから顔を間近へと寄せた。
「死んでしまうのですか?」
声はとても小さなものだった。私にしか聞こえないような声量のそれが、どうしてか心をくすぐって痛みを和らげるような気がする。それでもまだ、私の喉は素直に音を出してはくれない。
「……や、……そ''く」
「……貴方という人は。まだ抗おうと言うのですか。私たちなんて捨ててしまおうと思わないのですか」
「…………」
「まだ、死んだ目をしないのですね。それなら、聞いておきたい事があるのです。……ステラ、貴方の中に巣食っているモノは何なのでしょう」
フリューが何を言っているのか私には理解する事ができなかった。だが、彼女が魔術を唱え始めるとどうだろう。私の胸は激しく動悸し、何かが喉をせり上がってくるのを感じる。これは……一体何なんだ。




