三節『勇血たちはかつてを夢見る』3
ルーナン・コリスの小高い丘に構えられた七月の神殿。天へと続くように丸みを帯びた出入口を抜ければ、まず目に入ってくるのは大きな空。大きな建物もなく見晴らしが良いそれらは、酷く青かった。
私がよく知る青空とは違う海の青は酷く澄んで、暗い魔力の輝きが、雲間から刺すように光の帯となってゆらゆらと揺れる。
「あぁ……ついに」
「いよいよ始まるのですか。これが……フルムーン」
思わず漏れ出た言葉は極めて小さく、始めて見る光景に鳥肌が止まらなかった。
衣服の下に潜り込んでくるような寒気と、何もかもを吹き飛ばすように覚醒を促す、魔力を多量に含んだ空気。二日前とは空気から景色から、何もかもが違う。日常とは、私がいままで見てきた世界とは……こうも簡単に覆ってしまうものだったのか。
……なんて恐ろしい事だろう。なんて、美しい景色だろう。
あの海の空に泳ぐ黒い影は雲だろうか。
大空の下で満ちようとしている月たちが輝いているのは、喜んでいるからか。
体の外では冷えた何かが漂っているのに、内側では燃えたぎる様に興奮している。
これが神代の常だと言うのなら、今まで見てきた世界は抜け殻か何かだったのだろう。マザーとカストラートが千年をかけて再現したプレイテリアでこれだと言うのなら、マザーがその目で見た神話大国プレイテリアとは、いったいどのような場所だったのだろう。当のマザーは空へと昇ってしまっているために話を聞くことは出来ないものの、きっと言葉だけでは理解できない、この世界での純粋な在り方だったに違いない。
これは景色を見て肌で感じることでしか、真に理解したとは言えないものだ。
この身に覆う、加護としか形容出来ない魔力の鎧の暖かさを、太陽の無くとも明るい海の空の輝きを、言葉にしてまとめてしまうのは勿体ない。燃えるようでいて静かに広がる町並みの空気と、人々の営みとが織りなすこそばゆい光景を、ピンポイントだけ切り取ってしまうのは勿体なく思えた。
ちゃんと見えているはずの全てを言葉にするのは不可能だけれど、この場に揃っているものの何か一つでも欠けてしまえば、この町は終わってしまうのではないだろうか。それこそ、夢のように消えてしまいそうである。
人の命など、それこそ儚い夢の様に消えてしまう。このフルムーンでどれだけの人間が死ぬことになるのか。私が知る彼女であれば人死を多く出すということはしないはずであるが、彼女が他人の死を軽く見ていることも知っている。だが、私は本当にマザーを知っていると言えるのだろうか。
復活した後の事。フルムーンが始まった時の事。私は何も聞かされてはいないのだ。
「マザーが復活して…………、その後の事をトウカは聞いたことが?」
「いいえ。私は何も。ステラは……その様子だと知らないのですか」
「まぁ、それも聞きにいけばいいだけだ」
フルムーンが始まってから何をすればいいのか、私はマザーから知らされていない。だが、それも僅かな時間だけだ。マザーはあの青い空の下で復活の瞬間を待ちわびているのだから、私は、私に出来る事をしなければならない。
……プレイテリアが滅んだ一因。マザーシプトンが最も警戒した人物。伝説にまで残り、千年の長い時をたった一つの使命のために待っていた男。
そうだろう──
「なぁ勇者」
なんて言葉にしたところで、私の呼びかけは彼には届いていないに違いない。声が聞こえる範囲に彼は居ないし、姿だって私の瞳に届いていない。だが、言葉が力を持つのなら、彼はきっと私の前に現れるはずだ。
神殿から中心街まで続く、大きな、長い道にはフルムーンを祝うために人々が出店を開き、酒と祝詞を交わして笑い合う。その行きつく先にある広場を囲う建物の屋根から頭を出すのは瑠璃の門であり、勇者の宿泊先である。
「来い」
届くはずの無い言葉……などではない。トウカが神弓を出現させ、彼女から伝わってきた警戒の色が、そのまま私に入ってきた。それでも動かない私を庇う様に前に進み出た彼女が口を開く。
「来ていますよ、ステラ。勇者と名の無い戦士が一人」
「……いまさら。マザーの復活は止められないさ」
「それではマザーのためにつゆ払いを少々。冒険者たちは暗部の人たちが上手くやるでしょうから、後は自らの務めを果たすとしましょう」
トウカが引き絞った神弓アルメッサが放たれるのと、強い魔力の輝きが町中を駆け巡るのは殆ど同時だった。光の矢が走った通りには一陣の風が抜け、勇者が立っていただろう場所には煙が立ち込める。しかして、私にはその霧が自然界の物ではないとはっきりと分かった。彼の記憶を追体験した私が持つ聖剣が現れたように、勇者フォウ・リーフの扱う霧は彼の想像を具現する力がある。
ダンジョンマスターとして彼の能力は魔物を創るためにあったが、星海の神の下で守護者として在る今の彼の霧は、多少の無茶が効くらしい。
まるで呼吸するかのように動いた霧が形づくり、弾けて消えるまでの一瞬で、私はそれを見た。勇者の身長の何倍もある、彼を護るように現れていた肌黒の両腕。……巨人?まさか。この世界にそんな種族は存在していない。あれは彼と共に戦った太陽神の腕だ。
「困りましたね」
感情の起伏を感じられないトウカの背と、逃げ惑う民たちの姿を視界に収め、勇者との戦いが静かに始まった。口上だなんて、互いに目的がはっきりしている私たちには不要だった。
作者注
この後書きは読まなくても問題ありませんが、トウカの心情を書くことが無さそうなので、少しばかり書こうと思います。
トウカは複雑な気持ちであった。フリューとノーザに対して口に出した言葉が自身の中に戻ってくれるのなら、迷うことなく引き戻すほどのものだ。困惑、と言葉にしてしまえば簡単であるが、それはとても簡単に割り切っていいものなのかと、自分で答えが出せるのではないかと考えてしまう。
太陽神は勇者の死を看ることが出来なかった。だから、トウカは半龍の双子に言ったのだ。私は彼を救う事は出来ないでしょう、と。
だが、今目の前で、己が放った光矢を防いだのは霧で創られた太陽神の一部だ。
伝説通りであればトウカはステラの死を看ることがないはずで、それは彼女からすれば好ましいことであった。死に際の彼を見たくなどなかったし、その時は共鳴によって反応の消失が起こる事を失念していたからである。
それも、七月の神の巫女──カコの死でいくらか意識が変わった。
死を目にするという事だけが悲しいのではないのだと。
共鳴という人外の技の繋がりの深さを知らなかったのだと。
せめて、マザーの復活が無事に終わるまでは──
深く息を吐いて、共鳴でステラに想いが届かぬように、平常心で。
トウカ・フデリンドウはもう一度、光の矢を番えた。




