一節『伝説、あるいは伝承の続き』6
マザーが私に唱えた、最後の一手のために必要な魔術とやらは、驚くほどに何の変化も感じる事は出来なかった。魔術詠唱は聞き覚えがあるものでなく、詠唱が不定の魔術となれば精霊魔術しか思い当たる節がない。ならば、これはきっとそういうものなのだろう。
どういう効果の魔術なのかと疑問に思っているうちに、その答えは出てきた。膝まで水に満たされた部屋に入った私を見下ろすように、高くなっている入口から話す彼女の言葉が文字となって視界に踊るのだ。
「貴方にはこの部屋でしばらくの間籠ってもらうけれど、ここで何があったとしても助ける事は出来ないわ」
目の前、視界に踊る文字たちが何のために現れているのか、私には全く分からなかった。だが、この部屋のことだけはよく知っている。ここは死出の門と呼ばれる、ダンジョンの最奥にあるとされる場所を模した部屋で、私が眼前の彼女に呼ばれた部屋だからだ。
「何かが見えても気にしないほうがいいわ。……全て幻覚だから」
最後にそう笑って部屋を出て行った彼女を追おうにも、既に重たく扉は閉められている。下手をすれば七月の神殿で一番頑丈な扉の可能性すらあるあの鉄の板を、今更手で押してみるなんて行動を試す気はない。
マザーシプトンの言の音が消えても文字は視界に残り続け、首を動かせばついてくるそれを消すように目を瞑り、私は少し昔を思い出していた。
死出の門に相応しい、私自身の死の記憶を。
それはただ、なんて事の無い帰省のための船旅だった。そこで何かが爆発し、船ごと海の底へと沈んだのである。事が起こればそれはもう一瞬で、悲鳴と怒号と金切り声とがあっという間に船内を埋め、皆を海水へと引きずり込んだ。
何もすることが出来なかったというより、何かをする前に沈んだと言うのが正しいのだろう。それこそ、クラーケンや海坊主にでも襲われたかのように。
「はぁ」と、息を吐いたところで誰も反応してくれるわけでもなし。水を搔き分けながら神殿風の部屋の隅、柱の一本に背を預ける。
もはや私が死んでいたのか生きていたのかすら分からない。本当は死んでいて、魔術で動いているのかもしれないし、どこかの病院のベットで意識不明のまま寝かされているのかもしれない。悪い夢を見ていて、それが覚めないだけなのだ、と。
……そうなればよかったのだが、実際にはそう上手くはいかない。
この部屋に呼び出され、気が付けば間近で私のこと観察していた少女と交わした約束が、ここまで私を縛り付けているのだから。その当時の彼女の名前は、カコ。マザーシプトンの依り代となった、七月の神殿の巫女であった。
その時既にくり抜かれていた瞳に私は映っておらず、どこへ行けばいいのか分からない迷子の声が静かに耳に届く。
「運が良かったみたいね、私も……そして貴方も」
さっきまで死にかけていたはずの私の意識は不思議としっかりとあって、彼女の言葉も正しく理解することが出来ていた。水に浸かったままの肉体は酷く重たかったものの、精神は正常に働いていたのである。
確かに私は運が良かった。死の感覚は自身が今まで考えていたものよりもはるかに恐ろしいもので、全てがブラックアウトしていくような苦しさは、もう二度と味わいたいとは思わないものだ。そう考えるのなら、よく身をていしてノーザを庇ったと自身を褒めるべきだろう。確かに私は騎士であるが、死の感覚を味わいたいわけではない。
私が騎士をしているのはカコと約束をしたからであり、彼女の肉体で動くマザーシプトンとの契約であるからだ。命を救ったのだから、この町を、私を救え。……そういったやり取りがあったのである。
状況についていけない私の声は、水の冷たさからか酷く震えていた。この部屋の水と違って、私が溺れていた海の水は死の気配しか伝えてこなかった。
「……ここは」
「ここは生者の門。水にのって流離う、異界人が辿り着く場所……を模した部屋ね。本当はもっと深い場所にあるの。それこそ神剣でも持ってこなきゃ一人では地上に上がってこれないような、門番たちが護る、ね。まぁ、とりあえず…………──」
「──よく召喚に応じていただけました、私たちの勇者様」と、彼女はその時ようやく真っすぐに私を見て、口角を大きく釣り上げて笑った。酷く儚い笑みで、それが彼女の最後の笑みになるなんて、当時の私は思いもしなかった。
私を召喚するために多大な量の魔力を使ったマザーシプトンが一時的に眠ったために、肉体の主導権が彼女に戻ってきたなんて誰が分かるだろう。日に日に短くなっていくカコとの会話と半比例するかのように、日々の鍛錬に時間を使う私は焦っていたのである。私を呼んだのはマザーシプトンで、私を必要としているのも彼女であっても、私が最初に会話をした相手はマザーではないのだ。日増しに感じる喪失感と、いつ関係を切られるのかという不安が、必死に私の体を突き動かしていた。
一度落ち着いてしまえば、マザーと親しい関係になるのは難しいことではなかった。そこに本来の彼女が居なくとも、彼女の肉体であることに違いはない。七月の巫女であるというなら、彼女がこの町を愛していたのなら、私はそれに従おう。彼女が信じる七月の神を私も信じよう。
視界で踊る精霊魔術による文字を口ずさんで、一人、服を胸に抱き寄せる。
水は……あの日以来どうしても苦手だ。
「ここに世界はある。私の世界だ。さぁ、姿を見せてくれ」
あぁこの魔術の意味は何だろう。
何かを思いついたところで言葉にすることは許されていないが、これは何か伝説を追っているような、ストーリーめいたようなものである気がした。
この世界に来てから四年。これが騎士として最後の仕事になるはずだ。
文字を追い続ければ、水面には霧が立ち始めていた。全てを覆って隠してしまうように、それはとても深いものだった。




