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月下の町で唄う  作者: 畔木鴎
一章『人外が見た夢と共に』
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一節『月の都で連なる』2

 ルーナン・コリス中心部に居を構える七月ななつきの神殿と、俗に言うスラム街とではあまりにも神性の差が激しいものである。それを感じたのはふとした拍子の、何でもないようなことだったのだろう。だから、その差がいったい何なのかを私はいつになっても知ることは無いのだろう。壁があるわけでもなければ、門があるわけでもない。世界が切り替わったと言う方が適切である気さえする。

 マザーシプトンから言われなければそうそう来ることはないスラム街ではあるが、私はここの空気が嫌いではなかった。


 勇者来訪まで幾ばくかある猶予のなか、私は彼女の指示でこの薄汚れたスラムまで歩を進めていた。特に用事もなく、ただ行けばいいとだけ言われたものの、この微妙な天気の中を元気に出歩いている者などそうそう居はしないだろう。


 ふと曇天を見上げれば、ツツドリの群れが神殿から放たれた一矢によって飛散していくのが見えた。空は月の女神の領域であり、マザーシプトンはその巫女である。そして彼女が住む神殿が心臓を担っているこの都市もまた、それらの信徒が多く住んでいた。

 我らがルーナン・コリスはどこの国も属していないと言うのに、束縛することができない筈の空には不可視の法があるように思えた。  

 この付近では夜を待たずとも月を見ることが出来るとはいえ、曇天なのだからたまには神も休みたいだろうに。


 頰に落ちて来た雨粒を避けるように視線を落とし、外套のポケットの中で弄ぶのはマザーから渡された一つのアイテムだ。これがどうやら探し人と私とを結んでくれるアイテムらしいのだが、私にはどうやっても生物の眼球にしか見えなかった。正直あまり触りたいものではない。


 勢いを増して来た雨にフードを被ると、周囲の音が一段と低くなって耳に入って来る。それでも市街地の方から歌が聞こえて来るのだから大した声量だ。


 それで、私の外套が雨音を弾くのは蛙の脂を塗ってあるからである。それは人を興奮させ、狂わせ、恐怖を無くすものだ。

「それを死刑囚に」と、そこで言葉を止めたマザーシプトンの思案の顔と、続けて見せた甘美な笑みを見てしまった私のちっぽけな探究心はそこで顔を引っ込めた。内心ではどうしてこんな危ない毒を外套に塗りこませたのか聞きたくてしょうがなかったものの、危険であることさえ分かっていればそれでよかった。

 馬皮で作られたブーツも同じように水を弾いていたが、手入れを怠ると泥でかぴかぴになることはすぐに想像できた。もっとも、私の知識にある馬とこの世界の馬とはだいぶ違うようだが。


 なんにせよ、私の身なりは雨の中で活動するのにそれなりに適した格好であるということだ。


 スラム街を歩いていれば嫌でも視線を向けられる。こんなところで上等な服を着ているのは奴隷商人か、暴力者、権力者に限られるからである。

 道中「ねぇ、お兄さん」そう言って声をかけてくる存在は多く居た。私が持つお金や地位が目的である人たちはスラム街で生きる女たちであり、売女である。彼女らは美しくなく、痩せすぎであり、全てにおいて粗悪であった。生きるとはそれほどまで執着を持って行うものなのか。疑問を持つほどに彼ら彼女らの目は全てに飢えていたのだ。


 ようやく得たその日の糧を奪われ、路傍の石として冷たくなったり、誰とも知らぬ肥溜めの男の子供を孕んでそのまま死ぬ事も珍しくはないだろう。


 先程私に声を掛けてきたその子はあまりにも幼く、身長は二倍以上の差が開いていた。

 髪を梳き、小綺麗に結ったそれは生活の知恵か、誰かの入れ知恵か。スラム街で長髪を揺らす者が少ないこともあり、余計に可憐見えたのだろう。彼女が持つ生の気に引かれるように、少女の小さな足跡に着いて行った。

 普段であれば絶対についていかない小さな背中ではあるが、私が預かった眼球が熱を持ち始めたことで疑惑は確信へと変わっていった。この先に私が求めている何かが居るのだろう。


 はたして、案内されたのは倒壊寸前の家屋であり、狭苦しく三人の女が過ごしているようであった。案内の少女を含めて四人だ。

 そのうち、修道服の様なローブで頭を隠すようにすっぽりと被った者が二人。スラムでよく見るような出で立ちの幼い者が二人であった。

「四人で相手してくれるのか?」とおどけた様子で尋ねてみれば、ローブ姿のうちの一人が身じろいだ。太ももの上に膝を立て、ゆっくりと指を組んだ女性の姿は苛立っている様にも見えたが、それにしては怒気というものが感じられない。何かを思案しているという方がしっくりと来るだろうか。


「してあげてもいいですけれど、行為中に死にたくはないでしょう?」


 私の問いにはさっきの女とは別のローブを着た女が答え、微笑んで天井を見上げた。今にも落ちてきそうな天井だ。そもそも寝る場所がないし、無理なのは彼女も分かっていることだろう。では一人と寝るために他の者が出ていくのかといえばそうでもなく、僅かばかり雨音が家屋に満ちた。

 私と彼女に挟まれて逡巡する少女に修道女は手招きをしてみせ、私の傍にいた彼女はそれに従った。傾いた扉を背に立つ私と、身を寄せ合う女が四人。この風景を額に捉えられたなら、一層の悪役として私は写ったことだろう。


「で、誰が相手をしてくれると?」


 彼女らに改めて問えば、少女を抱いていた修道女が立ち上がった。家屋の中でもフードを被った怪しげな女だったが、立ち上がり、目線が上がったことで初めてその容姿を拝むことが出来た。

 少し固めな髪質のクリーム色の毛と、銀と金の瞳。強気に見える表情が彼女の顔色を明るく彩っていた。その瞬間に、私は彼女が探し求めてた人物であると確信を得た。


「私が」


 短い返答で彼女は答えた。フリュー・フタリシズカと、そう名乗った眼前の女は掌を開けて私の背後の扉を示し、外に出るように促した。

 にっこりとほほ笑むことで細められた瞳の色に特別なものを感じつつ、フリューに先んじるようにして外に出る。「いいところがあるのですが」何とも怪しい言葉に誘われたものだと、彼女の背を追うようになれば自然と会話も発生し、かねてから心中で主張をしていた質問を口にすることが出来た。


「銀と金の瞳の噂は聞いたことがある。それは人種にはないものだな?」


 私の問いに足を止め彼女を抜き、すれ違いざまに深くかぶったフードの隙間から見えたそれを私が見逃すはずもなかった。

 銀と金の瞳。それは龍種の持つ力によって生まれる瞳だったからであり、それを持つ人間というものが複雑で関わりたくもない事情を抱えていることが大半だからである。

 さて、マザーは私に何をさせる気なのだろうか。雨は未だに続くばかりだ。

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