三節『風波の瞳たち』3
勇者フォウ・リーフがこの町に来ているのは知っているから、別に驚くことではない。勇者のお供として、勇者の血を引く者たちがやってくるだろう事は考えれば分かることだから。
ステラに外に出るなと言われていたのに、こんな間抜けをさらしていたのではたまったものではない。あまり得意ではない彼に頼るというのは、苦虫を噛み潰すのよりも嫌だった。
魔術師の女──ナズナ・ナンテンショウに背を向け、雑踏の中に消えようとしたその時、彼女の背に一人の男がぶつかった。
「おっと、失礼した」
「っ…………」
男の名はヨシ・ヒイノコズチ。ルーナン・コリスに着く直前から魔力酔いになり、聖性溢れるこの町をさっそく散策していた、来賓の一人である。
はたしてノーザの不幸はナズナとヨシに出会ったことだけではなく、二人がグアルディアン出身の魔術師であることだろう。魔術に精通するもので龍の力を知らない者は無く、また、半龍がもたらす富と、その使い方についても熟知している。そしてなにより、ノーザが纏う修道女のような白い装束を、グアルディアンが半龍のために用意したものであることを知っていることだ。
ここはルーナン・コリスであり、グアルディアンの縛りは意味をなさないが、ルーナン・コリスは無法の町である。人々の心に宿る宗教だけで平安が保たれている町である。
マザーシプトンというバックが居ようとも、彼女がノーザを切れば何をされても問題にはならず、この町の人間が助けてくれるという可能性も潰えてしまう。
胸の中に流れ出した熱い感情の奔流はあっという間に喉を通り抜け、脳裏まで満たしてノーザの体を反射的に突き動かした。
──焦燥による逃走。
酸素が肺深くまで届いていないのか、少し走る度に視界の端が順にブラックアウトしていくような感覚だった。身を震わせ、無意識のうちに動かす、過去の記憶群。それらはすぐさま共鳴によって繋がっているフリューの元まで届いたろう。そして、フリューの目の前に居るであろうステラが彼女の現状を知るのも遠い未来の事ではなかった。
魔力酔いをしているとはいえ、そこは本物の魔術師であるヨシは、今さっき自らの横を駆けて行った存在が半龍であると見抜いて声をあげた。人と半龍とでは魔力の質が異なる。龍という存在を知っていて、遺体から取れる素材を知っていれば尚更に見抜くのは容易い。
喧騒を裂くように張り上げられた彼の声は通りに良く響いた。
「ナズナ!!半龍だ!聖性が高いと半龍まで居るのか!!?」
「っ……ばっかね!あれうちの半龍じゃない!!魔力酔いでも服装ぐらい分かるでしょ?!」
「おおなんて事だ、すぐに追いかけるとしよう!」
人々の視線を気にせず魔力酔いの勢いのままに外に飛び出していったヨシを追いかけて外に出ていたナズナもまた、彼の声に反応してノーザを視界に留めた。一度見てしまえばそうそう見逃すこともない。半龍を従えるのは力の象徴だ。それが自国から逃げ出したものだと分かれば、みすみす逃すわけにはいかなかった。人の形をしていようと、彼女らからすれば半龍とは自国産業の一端であり、家畜に近しい何かでしかない。
魔術で瞬く間に強化された脚は雑踏の隙間を縫い、風を切ってノーザを追い詰めていく。元より大通りに近い区画だ。地理にいくらか明るかろうと、ノーザが追い詰められるのは時間の問題だった。
ノーザが僅かに振り返ればほら、先に走り出したナズナは十歩程後ろに迫り、今にも追いつかれてしまいそうだ。狭まった視野で市街地であることを考慮する余裕なんてあるはずもなく、彼女は魔術を唱えた。
「──彼の地は雨の都、豪雷の丘。避雷の守護者は光を放ち、地平を白に染め上げる。あぁ、大いなる我が父の使い、その輝きを我が手に!」
詠唱に合わせて紫電を発し始めたノーザを見やれば、ナズナも間髪入れずに防御の魔術を唱え始める。
「──紫の軍衣、白亜の城壁。先を見据える二つの眼。魔を退けるは唯一の大国。地下を統べ、我らここに在らん!!」
雷と結界との衝突とは激しく、飛び火した家屋を破壊して空気に溶けて消える。
耳に届く悲鳴や怒号が自分のものなのか、それとも近隣住民のものなのか。その判断すらも怪しいほどにノーザの精神はすり減り、思っていたよりも激しく体力は削られていた。
実験と称した性的嗜好を受け続けるだけの、従順な裸婦に戻るつもりはなかった。その焦りが、経験が、本来持ち合わせてしかるべきの半龍の力を抑制していたのである。
雷を放つためにナズナへと振り返っていたノーザは更に逃れようと転身するものの、そのような精神状況で広い視野を持てるわけもなく、ほんの小さな段差に足先を詰まらせて失速してしまう。
……から回る脚よ、脳内で必死に地を蹴る脚よ、どうか。
さぁ、祈りが神無きこの時代に意味をなすのか。遅れてやって来たヨシの鋭い蹴りが、絶望を瞳に称えたノーザの横腹に突き刺さってしまう。受け身を取ることなど出来なかった。
荒い石畳たちが彼女の頬を削り、体表に突き出た血の鉱石を巻き込んでより大きく傷を生んでいく。白と黒だけの視界。ひたすらに回り続ける肉体の感覚を味わうのは……、哀れな死の定めを背負った半龍の娘だった。
彼女は祈る。
どうか、……ああどうか、私に平凡な日常を見せてくれないだろうか。
多少の荒事なら受け入れよう。この目に日々の幸せを、幸福を見せてくれるというのなら、神が居ないと言うのなら、なんだっていい。
…………これが彼女のささやかな願い。ようやく見ることが出来た、儚い未来の夢。
ノーザへ迫る足音の近さなんてもう彼女に分かりはしない。今はただ、両の目から滴を流すだけでいっぱいいっぱいだった。
この町は祈りで溢れた町だ。七月の神殿には毎日多くの参拝者がやってくる。だがその祈りの先に本物の神は無く、あるのは人から人への純粋な想いの継承である。
マザーシプトンが紡いできたものが、ルーナン・コリスに暮らす人々の心に宿っているのである。だが、その願いたちは空にある七月、魔女と呼ばれたこの町の主に間違いなく届くのだ。この町で一度祈れば、それを大空に佇む彼女が見逃すはずもない。
ノーザの祈りは月に届き、夢は波紋となって大きく広がっていく。
地に伏し、惨めに衣服を擦りながら震える彼女はその時、どこからともなく聞こえてくる歌声を聞いたのだ。
普段聞こえてくる歌とは異なる声色のそれは、どの神話にも当てはまらない、彼女の聞いたことの無いものだった。




