一節『月の都で連なる』1
『月下の町で唄う』の表紙絵をtarbo様(TwitterID @extarbo)に描いていただきました。
ありがとうございました。
七つの月が空に浮かぶ町では、もうすぐ大きな祭りが行われようとしていた。
フルムーンと呼ばれる、空に有る月の全てが満月になる日。それはこの町で大きな意味を持つことになる。
四年に一度のフルムーンに合わせて活性化し始める魔物の討伐から帰ってきた私は、今日も観光客に向けてこの町についての説明を始めるのだった。
「ここルーナン・コリス、月の都へようこそ。フルムーンの祭りも今回で二百五十回目だ。盛大にお祝いするから、当日は楽しんでいってくれたら嬉しい」
努めて明るい声を出す私に観光客たちは微笑んで町の中を進んで行く。その背中を見送り、私も町の中へと歩いて行った。
冒険者ギルドの役割も兼ねた『瑠璃の門』と呼ばれる複合施設を抜けると、聞こえてくるのは人々の喧騒と、中性的な大きな歌声だった。その歌声は拡声の魔術でルーナン・コリスにいる誰の耳にも入っているというのに日常生活を阻害することもなく、環境音かのように人々の生活に溶け込んでいる。
そんな中私が帰ってきたのは、町の中心部。七月の神殿と呼ばれる大きな白亜の神殿であった。
神殿の入り口から場所は変わり、神殿内部に用意された個人的な食堂。落ち着いた装飾が施された長机と椅子に腰を下ろしている私の上には四肢を落とし、両目を抉り抜かれた少女が座っていた。彼女が神殿の主人、マザーシプトンとして降臨しているなんて、初見で分かる人がはたしているのだろうか。
最初の一言、「お疲れの様ですね」とはマザーシプトンが私に語り掛ける取っ掛かりのようなものであった。
「私が疲れている?まさか。夜は始まったばかりですよ」
「えぇそう、まだ眠るには早いものね。私が貴方を心配するのがそれほど不思議だったのかしら?」
「まさか」私は笑い飛ばすように声を上げ、マザーシプトンにフォークの先を向けた。三又の穂先に黄金色のソースを絡ませ、子羊の柔肉を突き刺したそれは、誘蛾灯の様な魅力を持ったマザーシプトンの舌の上に乗って僅かに踊り、整然とした歯に甘噛みされながら彼女の舌の根の方に消えていった。
「私は貴女の騎士ですから」
「そう?嬉しいわ、ステラ」
二度と光を宿さぬ視線を上に向け、眼瞼を歪ませながらゆっくりと肉塊を咀嚼する様は淫魔か上等な淫女であり、綺麗にくり抜かれた眼光の奥で光る、血の結晶の星空のような輝きは深い叡智を蓄えているように窺えた。
マザーシプトンは私の膝の上で身をよじらせてこちらへと微笑んだ。それが彼女の催促であることを察して、また一つ子羊の肉を差し出せば、小さく開かれる愛玩の口。
私は部屋に満ちた香油の香りの残滓を肺に詰めて彼女の口蓋へと柔肉を押し込んだ。数度の咀嚼の後に開かれたマザーの口内は唾液で満ち、無残な肉の欠片が残るばかり。彼女は眼瞼を狂おしく歪め、接吻と共に私にそれを押し付けたのだった。
彼女と過ごしていると感じる、脳内に満ちていく謎の感覚に、私は毎回戸惑う事しかできない。血液を大量に失ったかの様に力が抜けるかと思えば、海が賢者を避けるように思考はクリアになっていくのだ。これらを繋ぎとめるのが私と彼女の口蓋から伸びた透明な糸だと言うのなら、その先が三途の川に繋がっていようと渡るのに戸惑いは無い。
「それじゃあ話を聞かせてくれるかしら」と、耳元で囁くマザーは切除された四肢の付け根を器用に擦って私に体の全てを預けた。
新たに運ばれてきた皿に乗った一輪の黒薔薇をナイフとフォークで解体しつつ、私は魔物の討伐の様子を伝説でも語るかのように伝彼女えていく。それは毎日の終わりの日課のようなものであり、子供を寝かしつけるための御伽噺にも似たものである。
「そういえばもう少しすれば勇者がこの町に来るみたいなの」
「勇者と言うと……あの?」
マザーが勇者の話を始めたのは、私が出かけていた用事の話を終わらせた頃合いだった。
勇者とは魔を討つ者であり、魔王を倒した者である。この世から魔王が消えて久しく、勇者の名は世に轟くばかりであった。
「何の用事かは分かりませんが、案内は貴方に任せようかなと」
「それはよろしいのですか?」
「まともに戦って勝てるのなら追い払っても構わないのですよ?」
「お人が悪い……」
勇者に勝てる人間なんている筈がない。クスクスと笑う彼女の背中に軽く体重をかけ、私はマザーシプトンの耳元呟いた。
「人は規格外の怪物には勝てませんよ」
「でも人は人でしょう?友情や感情が……、あるいはもっと大きなものが力を貸してくれるかも」
「貴女が持つ人への期待値には底が見えないですね……」
「人は何にだってなれるわ」
七月の神殿の主人にして巫女である彼女が言うその言葉に寒気を覚えてしまったのは何故だろうか。神の依り代として文字通り体を削った彼女だからこそ分かるものがあるのか、それとも私自身に身に覚えがあったからか。
なんにせよ、私は勇者来訪に向けて一つの用向きを預かるのだった。