四
吸ってはみたがどうということもない。潮風は変わらなかった。
空が白んでいる。差していた刀を砂に隠し、麦わら帽子を被せると、私は走った。足取りは軽かった。行くとこ向かうところ、追い風だった。亜美に会うべく病院を目指した。施設の名を訊いたわけではないが、頭を傷めた女子が担ぎ込まれるのは大きな場所に違いない、そう見切りをつけて、往来の激しい通りを選んで走った。耳にしただけで初めて目にする現代は、形容の術もなかった。鉄の街だった。今日、洋服が日本人の馴染みとはいえ、和服が排斥されたわけではなく、私の身なりを怪しむ者はさしていなかった。精神は三百年を経ているが、体は十四、五なのもあった。むしろ髷をよく見られた。“病院”という文字を手掛かりに方々をあたり、訪ねるたびに「亜美の見舞いに」と言い、私はようやく彼女を見つけた。
口に機械を付けている。口から伝う管は、さらに大きな機械につながっていた。硝子越しの面会ゆえ遠目からでしか見えなかったが、息は確かだった。医者曰く、安静にさえすれば今日にも退院できるとのことだった。意識の淵で、彼女はなにを考えているのだろうか。
「すまぬ」
牧野の狼藉を、見ているだけだった。
「……すまぬ」
「こんにちは」
誠一が歩いてきた。私は会釈した。
「こんにちは」
「亜美のお友だちかな」
「顔見知り程度です」
「それでも、来てくれてありがとう」
誠一は頭を下げた。
「亜美さん、大事には至らぬようでよかったです」
「本当に」
「ずっとこちらにいたのですか」
「うん。昨日……いや、今日か。ずっとこっちにいる」
誠一は笑った。
「お弁当があるんだけど、よかったらいっしょにどうかな? 多めに買ってきたんだけど、あまっちゃって」
「いえ、じつは急用がありまして」
「そうか……」
「誠一さん」
「え」
「もう少しだけ、時間をください」
浜に戻ると、連中がいた。
長谷川と畑山。療養しているのだろう、牧野はいない。ふたりは工事現場の入口から周囲を見たり、その場を往復していた。
岩だった頃の場所に戻ろうとすると、ふたりが寄ってきた。
「君、危ないよ」
そう言う長谷川は、
「見ての通り、ここは工事現場だから」
にこにこしている。
ぬけぬけと……。
だが、今や刀は凶器で、どのような理由があっても振るえば罪に問われる。そう言い聞かせ、踏みとどまった。一日にしか命が保たぬならなおのこと、一秒も無駄にできない。
私はふたりを見据えた。
「事件現場の間違いではないのか」
ふたりの顔が強張った。
「物騒なことは言うもんじゃないよ、君」
「いや、そのはずだよ、長谷川君、畑山君」
顔がみるみる青ざめていく。
「今日の深夜、頭を打って病院に担ぎ込まれた女子がいた。知らないとは言わせぬ。この目で見ていたのだ。牧野が亜美に手をあげる瞬間、貴様たちは、傍観していたな」
長谷川たちを連れて、私はかつていた場所へ向かった。麦わら帽子とともに、刀と脇差がある。私は振り返った。
「申し開きはあるか」
「あれは牧野君が言ったんだ。だから」
抜いた脇差を長谷川に突き付けた。
「ひっ」
「男子が、言い訳するな」
「訴える気か」
深刻な顔つきをしていた畑山は、小さく言った。
私は刃を収めた。
「いや。代わりに、貴様たちには、ひとつ頼みたいことがある。紙と筆を」
刀を布で包んで持ち直し、再び街に出た。
浜を守るには、まず金が要る。明日の明朝に刻限が迫っている以上は仕事など探している余裕もなく、とすればある物を売るしかない。
目抜き通りと思しき場所は、早朝ということもあり閑散としている。発光する看板を掲げた店が軒を連ね、洋服を着た男女が時折私の傍を過ぎていく。病院を探していた時は観察する間もなかったが、改めて見ると、自分が過ごした元亀の頃のほうがむしろ浮世離れしていたのではないかとさえ思えた。現代にむしろ親近感を抱くのは、岩になって過ごした三百年のあいだに日本の変遷をつぶさに見てきたからではなく、道半ばにして途絶えた藤田の家もろとも、かつての家々がことごとく消え失せたことに対する充足なのかもしれなかった。
それは個人の腹いせでもある。
俺も、すっかり変わってしまった……。
通りを外れてしばらく歩いていくと、質の字を掲げた二階建ての店を見つけた。引き戸に瓦屋根、色褪せたのれんはいかにも古い家だった。日が出てそう時間も経っていないが、開いているのだろう。
店の前に立ち、
「ごめんください」
とは言ったが、少し待っても物音ひとつ聞こえない。もっと声を張るべきか考えていると、
「はい」
まぶたを擦りながら青年が出てきた。立ち襟の黒い制服を着ていた。学生だろう。
「早朝に申し訳ない。父上に取り次いでいただけぬか。金を借りたい」
青年は間違いなく私の髷を凝視しすると、ややおいて「父さん」と言って戻っていった。
入れ替わりで来た大男は、寝癖だらけの頭を掻きながら、
「まだうちはやってませんよ」
「いや、のれんがかかっているぞ」
「忘れてた」
店主は決まりが悪そうに咳をした。
「お客さん、品は」
私はふた振りの刀を差し出した。
「いくらになる」
店主は布を解いて刀を検めた。彼の顔は徐々に険しくなり、鯉口を切ると目を見開いた。
「真剣だ」
「無論」
「これをどこで」
「家に伝わる品だ」
丹念に刀を調べ上げると、店主は、
「お客さん、おいくつですか」
「十六じゃ」
「じゃあ駄目ですよ」
「なに」
「未成年ですから。ご両親の委任状などはお持ちですか」
「元服は済ませている」
店主は笑った。
「冗談がうまいんですから」
「冗談ではない」
「とにかく、子供と取引はできません。委任状をお持ちになるか、親御さんを連れてきてくださいね」
刀を突き返され、半ば締め出されるように店を後にした。明朝に私は死ぬ。一刻すら、無駄にできぬというに。
空を仰いでいると、膝に激痛が走った。刺すような痛みは熱をともない、やがてじわじわと効いてきた。しばらく膝をさすっていると、少しずつだが、痛みは和らいできた。三百年越しに動いたことで関節を傷めたのかと思ったが、今では痛みも熱もすっかり消え去ったので、傷ではないようだった。立ち上がると、
これは……。
視線がやや高い。
背が伸びているのだ。
自然は、私という存在を許さない。そう言う魔女の言葉が思い起こされた。数十年をかけて変わるべき身体が刻一刻と変化していくことを実感し、寒気がした。身体が自分のものではないように思えた。あまりに長い時間を過ごしたせいなのか、成熟しきった精神と、十六の肉体が、意識との乖離を生んでいるのか。
気づけば走っていた。道行く人の視線が怖い。格好でなく、心と体が歪な自分の芯を見透かされているような気がした。草履がほつれ、足は乱れ、それでも走り続けた方角に山が見える。昇った朝日が顔を出していた……道場帰り、ここのすぐ左隣に流れていた水路に沿って、高橋忠信とよく競争した。妹や小姓の嘉平が、出迎えがてらよく見物していたっけ……。私は、いつの間にか生家を目指していた。
止まって息を整えると、通りの先に背の高い建物が見えた。水路はもうなかったが、ここから見える景色は、確かに元亀の頃のものだった。
生家は老人の養護施設になっていた。老人ホーム。ほーむなら、半世紀くらいに浜を訪れた観光客から訊いた。家だ。かつて訊いた話の通り、生家は跡形もない。灰色の角形が建立している。手がかりを得られるとも思えないが、今は少しでも藤田家のつながりを確かめたかった。
自動で開閉する扉を抜けて、受付まで行く。細い通路が奥まで続き、途中で左に開けた空間があった。そこから、年老いた男女の声が漏れている。
私の身なりに驚いた女は、やや間を置いて、
「ご用件はなんでしょうか」
「とくに用があるというわけではない。ただ、この土地に縁があってな」
「土地、ですか」
「ここは昔、藤田家があった。三百年以上前の話だ」
「はあ」
「きみ、藤田についてなにか存じているか」
「名前だけしか……」
「そうか」
「存じていますよ」
背後から声がして振り返ると、老人が目と鼻の先にいた。あまりに近いので、尻もちをつきそうになった。背の小さな痩せぎすで、しみがついた禿げ頭にわずかに残った白髪がかすかに揺れている。
ただの老人。だが……気配がなかった。
「遠藤です……驚かせてしまったようですな」
老人は頭を下げた。
「武道でも嗜んでおられるので?」
「といいますと」
「気配を感じませんでした」
遠藤は笑った。
「お迎えが近いせいですな。近頃、生気をあの世に吸われているもので」
「頑健にお見受けしますが」
「そんなことは。なにぶん、矮小な身でありますから」
彼は咳払いし、
「……藤田の話でしたな」
「はい、申し遅れました、私、泰成の子、藤田政伸と言い」
「え」
しまった。
「いや、個人的な趣味で、藤田家のことを調べていまして」
政伸、政伸……とうわ言をくり返していた吉見は、私の羽織を見ると目を見開いた。
「……吉見さん」
「藤田です」
遠藤は猛烈な速さで奥に走り去っていった。吉見を呼ぶ声がここまではっきり訊こえる。私の名前を間違えたわけではなかったようだ。
待っていると、さきほど男女の声が漏れ訊こえていた場所から、遠藤が車椅子に座った者を連れてきた。男は遠藤よりもさらに痩せていて、目は落ちくぼみ、頬は垂れさがり、頭は剃られていた。
「吉見さん、藤田政伸さんですよ」
吉見はしばらくうとうとしていて、首をゆっくり回していた。自分で動かしているのか、筋肉が頭の自重にすら耐えられないのか、判然としない。う、う、と唸ったかと思うと視線が逡巡し、私と合った。吉見の細腕に力がこもり、上体は崩れ車椅子から滑り落ちた。吉見は、ひれ伏していた。駆け寄ってきた受付や遠藤の手を払いのけ、ひとこと、
「かみさま」
と言った。掠れた、消え入りそうな声だった。
「吉見さん、彼は人ですよ」
「かみさま」
まさか……。
嘉平は老齢で細身ながら力が強く、父に剣を教わった。守護代が小姓を訓練するなど論外だったので、父はこっそり教えた。あまのじゃくな父を尊敬し、嘉平は事あるごとに讃えていた。その決まり文句が「かみさま」である。
「たんぽぽの家紋に、優しく朗らかなご尊顔……伝わる通りにございます。少し、大人になられたようですが」
私は布から脇差を出した。
「これが、なにかわかるか」
吉見は顔を上げ、
「夜。藤田家当主、泰成様の命名と聞いております」
「そなたは、元亀生まれの人間が令和にいると聞いて、信じるか」
「私は明治に生まれました。当時を思えば、現代は夢のようにございます。白寿を控えた身で、常識とは思い込みに過ぎぬとようやくわかったのです」
微笑む吉見は、百歳を迎えようとする老人とは思えない、少年の、瑞々しい顔だった。あるいは天井の照明によるものだったのかもしれないが、落ちくぼんだ眼はきらめいて、一心に私を見ているのがわかった。呆けているのか正気なのか、それもわからない。だが今の自分を認めてくれる人がいることが、今はただうれしかった。
「この腰抜けは、なにをするべきか」
「家名が負った雪辱を、そそぐべきでございましょう」
「藤田家はもうない。それでもか」
「しかし、若様は戻られた。紛れもないかみさまにございます。藤田中総守政伸様」