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 魔女に岩にされた、それからというもの、私は北陸の浜辺で長く海を見ている。

最初は「俺」だった。だが、岩になっても羞恥はあるようで、年が経ち気づけば「私」と思うようになった。思うのは、言おうにも口がないからだった。

 口があった時。

 いつの、ことだったか。

 確か友だちと浜辺を歩いていた。海を一目見たいと、親に内緒で遠出して、三人でやってきた。浜に、潮風に、波しぶきに、いちいち興奮して、引いていく波とともになくなっていく足元の砂がくすぐったくて、やたら笑ったものだ。

 水遊びも堪能し、疲れてもう帰ろうかと思った時。

 女がいた。

 桟橋の先で、黒い着物を着て、長い黒髪を手で押さえ、水平線を望んでいた。

「たれだろう」

 私は言って、友を連れて彼女のもとへ行った。

 近づくほど、彼女の顔や体が明らかになり興奮した。きれいで、切り取った絵が浮いているようにも思えた。同時に、そう思った自分を暗に戒めた。

「ごきげんよう」

 女はそう言って振り返った。

 瞬間。

 友達が消えた。

「あれ」

「ふたりは、おうちに帰ったよ」

「馬鹿を言うな。ここから家まで、いかほどあると思っている」

「坊や」

 足が震えた。女の雰囲気は、尋常のものではなかった。背筋が寒い。

「なんだ」 

「怖い?」

「戯言を」

 女は笑った。

「強がっちゃって」

「そんなことはない、むしろあなたを哀れに思う。誰も連れていないではないか」

 ……。

 そして。

 私は岩になった。

 最後の言葉が彼女の怒りを買ったのか、元から私を岩にするつもりだったのか。そもそも私を岩にした理由はなんなのか。

 夏に、魔女は桟橋にやってくる。あの時と変わらぬ、きれいな姿で。私の思いは通じるらしく、挨拶や世間話になら応じ、だが私を岩にした真意を訊くと、決まって口を噤む。

 あの魔女と出会った場所で、もう長く私は海を眺めている。

 水平線に蜃気楼が見える。

 夏だ。

 彼女がやってくる。




 岩に瞼はない。瞬きもしないのだが、魔女が現れる瞬間その時を見たことは、一度もない。気づけばそこにいる。今も桟橋の先で、海を眺めている。私のもとに来た。私の、緩やかな傾斜に腰かけて、いつの間に被り始めた麦わら帽子の紐を直していた。黒い着物も、いつからか、色はそのままドレスになっている。

「暑いね」

「そうなのか」

「三十五度くらいあるみたい」

「少しずつ、暑くなっているのか」

「そ」

 陽炎の向こう、船がいる。白い輸送船。長大な体が、私の視界を横切っていく。最近見る船は鋼鉄ばかりだ。

「今度は、どこに」

「東京」

「よく行くな」

「お店が多くて、一生かけても見回れなさそうなの」

 私は彼女の財布をそっと見た。

「手持ちはありそうだ」

「バイトのシフト、増やしてもらったから」

 魔女は大きく伸びをした。

「観光してたら、首が痛くなっちゃった」

「背の高い建物ばかりと訊くからな」

「見下ろしてたせいよ」

私の出っ張りに、魔女は首を押し当てた。

「ああ、効く」

 やや間をおいて、

「俺も連れて行ってはくれないか」

 魔女は笑った。

「無理。あなたは、そういう岩じゃないの。もっと、神秘的なもの」

「なら、どのような岩だ」

 それきり、彼女は黙った。

正午を過ぎた頃、東から少女の声が訊こえた。亜美だ。

「来たね。疋田一家」

「さあ、とっとと退いてくれ」

 言い終える前に、魔女は消えていた。

「お岩様」

 言って、亜美は犬の「まりあ」を連れ、家族を置き去りにやってきた。西日に熱せられた場所を避け、ひんやり冷たい傾斜に腰かけて、手にした藁づくりの弁当箱を開く。

 三人もようやく来て、私の影に入って昼食をとる。

 彼らの姓は、だいぶ前から知っている。

 疋田。

 疋田の一族は代々私を探している。もはや何度目かもわからぬが、それを思い出すたび惨めになる。

戦国末期より三百余年。疋田()は遺言を託し、子孫は、この浜でかつて別れた()を探し続けている。

 仙吉。

 なあ、仙吉。

 俺はここだ。




 昼食を終えた現代の疋田一家は、二手に分かれる。すなわち、私の影で休む大人組と、浜で遊ぶ子供と一匹組だ。私の視線は周囲に開けているので、全員を存分に見られる。

 亜美の顔には、よく見ると仙吉の面影があった。男とは思えぬ端正で細く柔らかい顔。かつて村の連中に女男と笑われた、美しい顔。亜美はまだ十にも届かぬ程度だが、いまに別嬪になる。弟の俊は、亜美と比べてかなり大人しい。肌も白く、顔の細い亜美と違って俊は体が細い。だが学はあるようだ。今、負けじと精いっぱい姉と海水をかけ合っている。ふたりの間を喧しく駆けずり回る「まりあ」とかいう畜生は、寸胴のくせにすばしっこい。足踏みのたびに砂に埋まる足を必死に抜いてはまた埋まる。今も、四つ足が付け根まで埋まってしまったのを姉弟総出で引き上げている。俊が尻もちをついた。俊の顔を舐めようとし、まりあはまた埋まった。もういい年だが馬鹿である。犬だというに。彼らを眺めている夫婦のうち、夫は誠一、妻は咲といった。中学高校の同級生で、成人式後の同窓会で再会し、交際から四年で結ばれた。誠一は、仙吉の孫の孫、ずっとさきの孫でもある。直系だが、農作業で鍛えられた仙吉の足腰ばかりが伝わって、後は子供に取られたらしい。角張った、濃い男だった。

「田中さん家の翔太君、お岩様のところに向かうウサギを見たんだって」

 咲が言った。

「行きたくないって言ってたのは、そういうことか」

 誠一は岩の周りをざっと見た。

「本当だ。ウサギの毛がある」

 咲も近づいてきた。

「あ、これだね」

 これまでの経験によれば、死の間際にいる生き物は私を正しく見ることができるらしかった。だから、野良の犬猫、ウサギが、体を引き摺りながらよくやってくる。人目を憚ってか、夜それも荒れた天気の日が多く、嵐になればまず当たる。だが私は海辺に近い場所にいるので、死骸のほとんどは満潮時にさらわれてしまう。

「よく来るよな」

「やっぱり、お岩様にはなにかあるね」

 誠一は笑った。

「ないない」

「あるよ」

「根拠は」

「勘」

 江戸の時はまだ多かった観光客も、私の失踪と、集まる死骸の噂を訊きつけてからは徐々に減り、明治、大正、昭和、平成を経て、令和になってからは、この浜は無人も同然だった。そういったこともあって、魔女や疋田家が来る夏は、今や時間の感覚も曖昧な私にとっての風物詩であり、孤独が埋まる、まれな機会だった。

 少しして、亜美たちが海から戻ってきた。

「もういいのか」

「まだまだ。でも、俊が疲れちゃって」

「じゃ、昼飯にしよう」

 私にもたれかかっておにぎりを頬張っていた亜美は、

「今日もいなかったね」

「ひょっとして、政伸様のことか」

「うん」

「前に言ったのは、お父さんのお爺ちゃんのお爺ちゃんのお爺ちゃんより前から我が家に伝わる思い出話だよ。政伸様はとっくに亡くなっているし、藤田家はもうない」

 江戸時代に入ってから、浜を訪れた親子連れが藤田家のその後を話していたのを、ちらと耳にした。最初は信じられなかったが、それからもしばらく、似たような噂を訊いた。

 藤田の家は、もう、ない。

「でも、政伸様は見つかってないって」

 俊が言った。

「話を訊く限りでは、な。でも三百年以上も経てばさすがになあ」

「お父さんは夢がないよねえ、政伸様は、どこかにいるよ」

 そういう咲に誠一は、

「へえ、骨になって?」

「立派な甲冑に身を包んで。武士の本懐を遂げるべく、さまよってるんだよ」

 やや間があったかと思うと、咲の首ががくんと落ちた。

「お母さん?」

「……首じゃ……とにかく首を、家康公に献上するのじゃ……」

「ひっ」

亜美と俊は互いに肩を支え、震えあがった。

「そこな子供、首よこせえ!」

「ぎゃあぁぁぁぁ」

 誠一は大声で笑った。まりあは吼え、辺りを駆けずり回る。

 息を整えた誠一は、

「もしいるなら訊いてみたいもんだ。今までどこに行ってたんですかって」




「いるわけないよな」

 誠一は、私の近くを小さなショベルで掘っていた。夜も更けている。帰った後、家族に黙ってこっそり戻ってきたのだった。まりあが辺りを嗅ぎ回り、吼えては誠一が穴を掘る。だが私はここにいるので、当たった試しはない。つまりまりあの嗅覚もでたらめで、あれは、ただ人気のない夜の浜を走り回るのが楽しいだけだった。

 土塗れの軍手で額を何度も拭い、誠一はやがて手帳を取り出すと、正方形で組まれた表の空白にひとつ斜線を加えた。四角く組まれた表は、この浜を表していた。

「なし、と」

 畳まれた手帳は輪っか状の留め具がひどく歪んでいて、紙がいつ散ってもおかしくなかった。誠一は腰をかがめ、別の場所を掘り始めた。

「三百年前の人間なんて、生きてる、わけない。けど、骨くらい、拾って、やらないと」

 もうすっかり、独り言が多くなった。

 父・隆正の遺言を守り、誠一は私を探すようになった。二十七歳の時だっただろうか。あれから十年経つ。ポケットに押し込んだ手帳は父の贈り物であり、誠一が子供の頃から使っているものだった。誠一は数時間かけて辺りを掘り返し、結果を手帳に記した後、私にもたれかかった。海は凪ぎ、誠一の息遣いと虫の鳴き声ばかり訊こえる。

「……そもそもこの浜にいるという前提がおかしい。ここから北海道か、沖縄に行ったかもしれない。それを、ここにいると決めつけて、無駄骨なんじゃないのかよ」

 誠一は起き上がり、砂をあらかた払い落とすと、

「帰ろう」

 まりあを抱きかかえ、遠くに停めてある車まで戻っていった。


 ●●


 二日後。

 浜に、三人の男が現れた。痩せぎすで背の高い長髪と、でっぷり肥えた小回りの坊主、中背中肉の短髪である。全員、灰色の作業服を着ている。「暑い」だの「めんどくさい」だの「帰りたい」だの口々に叫びながら、私のもとまでやってきた。

短髪の男は巻き尺の先端を痩せぎすの男に渡すと、私の周りを時計回りに歩いた。一周すると、

「五メートル十一センチ……」

 短髪の男は言い捨てた。

「変わってねえじゃねえか。おい、長谷川」

「ん?」

 太った男が言った。

「ん? じゃねえよ。風化による岩の撤去が向こう三年内に有効だって言ったの、てめえだろうが」

「いや、ふつうに考えて無理でしょ」

「無理な案を挙げたのか。社長の前で」

「つい」

「ぶっ殺すぞ」

「牧野君だって乗り気だったでしょ。そもそも社長は笑ってたし、無理なことくらいわかってるって」

「呆れられてるってことじゃないのか……」

 牧野は振り返ると、

「畑山、もういい」

 畑山から巻き尺を回収した。

「そうか。なら飯にしよう」

 三人は私を影に弁当を食い始めた。今にも倒れ込んで挽き肉にしてやりたかったが、私はしっかり根を張っているので、動きようもなかった。

 このでこぼこ三人組は、二年前から現れた。高橋商事の尖兵である。

 私がいる市を牛耳る一大商事で、数年前からここいら一帯に、「ふくごうしょうぎょうしせつ」を建設しようと躍起になっていたらしい。現代の疋田一家から訊いた話だ。商業というからには店を出すのだろう。

 昨今、この市は財政が芳しくなく、一刻も早い財源の確保が望まれている。

 そこに高橋商事が名乗りを上げ、この浜の開発に打って出た。

 だが。

 浜には私がいる。

 三百年前に忽然と現れ、現代にまで居座り、動物の死骸ばかりが集まって、疋田家など一部からは神だなんだのと祀られている。

 人が寄り付くはずもない。

 私の存在は、高橋商事と市の死活問題だった。言い出しっぺの高橋商事はしばらく手をあぐねていたが、ついに、今こうして目の前で飯を食っている三人組を派遣した。

 チェーンソーで三方から同時に切る。掘り下げて、重機によって根っこから持ち上げる。事故を装って巡航船を最大船速で衝突させ木っ端みじんにする。さまざまな案が出されては実行されたが、ことごとく失敗に終わった。

 つい六十年くらい前に魔女が言っていた「私でないと呪いは解けない」というのは本当のようで、チェーンソーの刃は岩肌に触れた一瞬で曲がったし、掘り下げてもそもそも岩の底辺は見つからず、衝突してきた巡航船は舳先から船腹まで木っ端みじんになった。船を用いた策は警察沙汰にまで発展し、社長からさすがに怒られたようで、以来、三人の破壊活動は下火になっている。

「長谷川」

牧野は水筒から口を離した。

「つぎの定例会議、お前が話してくれ」

 長谷川の顔が歪んだ。

「リーダーが話すべきでしょ」

「風化撤去案を主導したのはお前だ、だからお前が話せ。それが筋だ」

「畑山君はどう」

 畑山は首を横に振った。

「査定に響く」

 牧野は苦笑いして、

「もう手遅れだろ……」

「そういえば」

「なんだ」

「ここいらの土がまた掘り返されてる」

 牧野と長谷川は辺りを見回した。

「僕じゃないよ」

「俺でもない」

「私も違う」

牧野は首を傾げた。

「少なくとも二年前からだ。俺ら以外に、この岩を撤去しようとする奴がいるのか」

「他社かな」

 長谷川が言った。

「にしちゃ規模が小さいし、穴も多すぎる。見た感じ、岩じゃなくてその周囲を掘ってるんだろ」

「骨探しか」

 畑山が言った。

「かもな。犬猫の骨も多いし、どこぞの飼い主が遺骨探しに来たんだろ」

 話題も尽きると、三人は帰っていった。私はない指をつなげて「えんがちょ」と念じた。連中はこの浜の景観を壊そうとする敵に違いなかったが、疋田家や魔女のようにその代ごとの世相を伝えてくれる情報源でもあった。私が江戸以来持ちうる知識のすべては、市井の声によるものだ。訊くだけで目の当たりにしたわけではないが、そこを想像で補うのが、密かな楽しみでもあった。

 そして、三人組の動向を注視するのは、情報収集だけではない。まだ訳がある。

 高橋商事の十四代目社長、高橋方正は、あの日、私や仙吉とともに浜にいたもうひとり、高橋忠信の子孫だった。


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