四 始まり
「お疲れ様でした」
「ああ、お疲れ様」
新聞配達の仕事を終えた俺は、真っ直ぐアパートへと帰って行った。6月に入り、日の出が早くなった事で配達中ずっと朝日を浴びる事になった。普通なら気持ちのいいものだが、徹夜明けの俺にとっては苦痛でしかなかった。
「早く帰って寝よう」
欠伸を押し殺しながら俺は、いつも通っているシャッター商店街に行こうとした。何故なら、そこを抜けた方が近道だから。
だが今回は、いつもと何か様子が違っていた。
商店街の近くには複数の警官が配備していて、入り口にはKEEPOUTのテープが張られており、通行できないでいた。
「一体何が‥‥‥」
中を覗いてみると、奥の方の道にたくさんのガラスが散乱していて、更に警察の帽子と拳銃が転がっていた。だが、肝心の持ち主の警察官の姿が見られなかった。
「おぉい、姫崎君」
のそっと声の方を向くと、190センチくらいの長身に明るめの短い茶髪に整った顔立ち、細マッチョな体付きをした好青年風の男性が俺に声を掛けて来た。スーツがとても似合っていて、女性にもモテそうであった。
「ん?あぁ、孝仁さん。おはようございます」
「相変わらず眠そうだな。無理もないけど」
突然俺に声を掛けてきた警察官の名は、小鳥遊孝仁さん。小鳥遊向日葵さんの10歳年上のお兄さんで、小鳥遊家の長男であり俺の良き理解者でもある。
彼は俺に冤罪が掛かる前から妹さんから真相を聞いていて、周りが俺を蔑む中たった俺を励まし、無実の罪を晴らして柴山の嘘を暴こうとしてくれるたった1人の信用できる人であった。
孝仁さんは長男ではあるが、昔気質の父親のやり方が気に入らないと言って反発し、父親の意見を無視する形で警察学校に入って警察官になった人だ。会社は今、孝仁さんの6つ年下の弟さんに後を継がせようと父親が頑張っているそうだ。
「それで、何があったんですか?」
俺の質問に対し、孝仁さんは少し険しい表情を浮かべながら話してくれた。
「ああ。昨夜この辺りを巡回していた警察官5人が、突然行方が分からなくなったんだ」
「警察官が!?それも5人も!?」
確かにあの商店街は、ゴロツキや暴走族、泥酔した人がよく徘徊している所でいざこざが絶えないと事ではあるが、行方が分からなくなる様な事件が起こった事は一度もなかった。
「確かに、あの辺りを根城にしていた連中がここ最近次々と行方が分からなくなっていたが、警官までもいなくなった事でようやく本格的な調査に踏み切ったみたいだ」
「孝仁さんの前で申し訳ありませんが、ここの警察ってぼんくらばかりですね」
「返す言葉もないよ。行方不明事件は前からあったのに、警官が被害にあってからようやく動き出すんだもん。警察官としては3流レベルだよ」
何て言っているが、その表情は悔しそうにしていた。孝仁さんは、そんなぼんくら警察官の中でもかなり優秀で、若手のホープとしても期待されている刑事さんである。
「孝仁さんが動きにくいのは、俺のせいですよね。俺の事件を担当しているばかりに」
孝仁さんは今、仕事をこなしつつ俺にかけられている冤罪を晴らす為に2年前から捜査してくれている。
けれどそのせいで、昨夜の失踪事件の調査に乗り出すのが遅れてしまっているのだと思うと、かなり申し訳ない気持ちで一杯になる。
「姫崎君は気にしなくていいよ。それに、君にかけられている冤罪を晴らす事の方が最優先だからね。柴山も、家の力で証拠をもみ消しているみたいだから、なかなか尻尾を出さないんだよな」
「家の力?」
「姫崎君は知らないだろうけど、柴山の祖父はこの町でも有名な実業家でかなり厳格な性格をしているそうだ。尤も、息子が犯した不祥事については知らないみたいだけど」
「柴山の家の事と、あの爺さんの事は知っていますが、そういう事だったんですね」
柴山の爺さんは、この町では知らない人なんていない程の超ブラック企業の社長さんだ。高校の時は知らなかったが、卒業してしばらく経ってようやくそれを知ったのだ。
だがお陰で、柴山がエリートである事に固執する理由が分かった。
おそらく、厳格な祖父の英才教育のせいなのだろう。それ自体が悪いことではないが、柴山の場合はとにかく優秀である事を求められていて、柴山はそんな祖父に対して恐怖心を抱いているのだろう。あんな嘘をついたのは、自分が起こした不祥事が明るみになる事を恐れている。
「うちの向日葵にやたら執着するのは、おそらく親父に気に入られる事で関係を深めようとしているのだろう。互いの子供が結婚すれば、両家の友好の証になるからね」
「おじさんの会社って結構大きいから、その会社の社長と友好関係を結べたらこれ以上に無いくらいの成果ですから」
だからと言って、誰を陥れてまで成果を出そうとする柴山のやり方は間違っている。
「一度ついてしまった嘘が、引っ込みがつかなくなってどんどん大きくなってしまったのだろう。まったく、そんな事をしても自分が苦しいだけなのに」
「はい。俺もそう思います」
それでもやめられないのは、祖父への恐怖とプレッシャーがあるのだと思う。そう考えると、アイツも気の毒な奴だよな。
「っとぉ、すまない。そろそろ仕事に戻らないと」
「孝仁さんも気を付けてくださいね。事件の犯人が何を企んでいるのか分かりませんから」
お互いに頭を下げてから、孝仁さんはすぐに現場へと走って行った。
「そうそう、たまには向日葵にも会ってあげて。この前久しぶりに会えてすごく喜んでいたから、休みの日にはデートしてあげて」
「は、はい‥‥‥って、孝仁さん!」
条件反射で返事をしてしまったが、弁解する前に孝仁さんは仕事に戻って行った。
「孝仁さんだけだよ、俺と小鳥遊さんをくっ付けようとしているのは」
1人だけとはいえ、彼女の身内から彼女との交際を認められるとなんだかうれしい気持ちになる。おっといけない、俺と小鳥遊さんはもうそういう関係ではないのだった。自重しないと。
そんな事を考えながら、少し遠回りしながらアパートへと帰った。
その後は午後5時まで眠り、シャワーを浴びて夕食を取った後はコンビニの出勤時間までのんびりした。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
その日の深夜。
とある会社員の男が、千鳥足で真っ暗な歩道を歩いていた。相当お酒が入っているのか、呂律も回っていなかった。
「ぢぐじょう、あのわがぞう、おでがらでがだをよごどりじやがっで!はいっでまだ2年のがぎのぐぜに!」
酔った勢いで男は、自分の後輩にあたる男に自分の手柄を横取りされ、更に自分が仕事をさぼっていたと大法螺を吹かれ、怒りに任せてその男の愚痴を言った。更にそれを鵜呑みに信じ、こちらの意見に全く耳を貸そうとせずに一方的に糾弾した社長に失望もしていた。
「融通のぎがないじぶんがっでなやづだげど‥‥‥」
好きか嫌いかで聞かれれば嫌いだが、この男性だって家族を養わないといけない為それ以上何も言えず、ただただ一方的に攻め立てられる一方であった。
そんな時、突然後ろからペチペチと裸足で歩いている様な足音がこちらに向かって近づいている様に聞こえた。
「ん?」
振り返って見て見るが、時刻は深夜の1時。普段は人や車が行きかう大通り。誰がいる訳がなかった。
「気のぜい、か」
疲れているせいだと思い、男性は気にせず歩き続けた。だが、直後にまた例のペチペチという足音が聞こえてきた。しかもその足音は、さっきよりもさらに近くなっている様にも聞こえた。
「チッ!誰だよ!」
会社で起こった苛立ちもあり、男性は物凄く大きな声を上げながら振り返った。けれど、やはり誰もいなかった。もちろん、誰かが隠れられる場所もなかった。
「何なんだよ。せっかくの酔いが醒めちまうじゃねぇか」
やはり誰もいない事を確認してから、再び歩き出した。
だが、歩き出した直後にまたペチペチと足音を鳴らしながら近づいてくる何かの気配を感じた。
「チッ!冗談じゃねぇぞ!」
流石に気味が悪くなった男性は、すぐに走り出そうとした。その時、突然右手を誰かに強く掴まれ引っ張られた。
「うわあぁっ!?」
咄嗟に腕を引いて後ろを振り返ったが、やはり誰もいなかった。だけど、右手首を見ると手の跡がくっきりと残っていた。
「クソ!冗談じゃねぇぞ!」
すっかり怖くなった男性は、息が続く限り走り出した。ペチペチという足音も、男性を追いかける様に走り出したのが後ろから聞こえた。
男性は耳を塞ぎながら死に物狂いで走り、十字路の右に曲がってすぐに誰かの家の敷地内に入って塀の陰に隠れた。ペチペチという足音は、徐々に男性が隠れている塀へと近づいて来ていた。
男性は叫びたいのを抑える為に、両手で口を覆ってやり過ごそうとしていた。
そして、足音が男性の隠れている塀のすぐ傍まで来た所で一旦止まった。
数秒程度の沈黙であったが、男性にとっては途方もなく長い時間に感じた。
数秒の沈黙の直後、突然塀をガシッと闇色の手が勢いよく掴んできた。
「ん‥‥‥!?」
男性は悲鳴を上げたいのを必死に我慢して、手がスゥッと離れて足音が徐々に遠ざかっていくまでジッと耐えた。
「‥‥‥ふぅ‥‥‥‥‥‥」
ホッと一息を付いてから男性はゆっくり立ち上がり、他所様の敷地からゆっくり出て行き、十字路を右に曲がった。
【あああ】
身体を右に向けた直後、すぐ目の前に全体の輪郭が曖昧な闇色のおぞましい化け物が、犬歯を剥き出しにしてニヤリと笑って立っていた。
「あああああああああああああああああああああああああああ!」
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「お疲れ様でした」
新聞配達の仕事を終えて、俺はいつも通りアパートまで帰って行った。商店街はまだ通行止めになっている為、昨日通ったルートを通ろうとした。
だが、ここでもなんか事件が起こっていた。
「おいおい、またかよ」
昨日帰る時に通った十字路に差し掛かると、やけに多くの人が集まっていた為カーブミラーから現場の様子を窺った。
そこに映し出されていたのは、歩道と車道、更には塀にまで飛び散った物凄い量の血痕であった。昨日の行方不明事件よりも酷く、かなり惨い事になっていた。
うちの新聞社は、この辺りには新聞を配っていなかったから配達中に事件現場を目撃していなかった。この辺りの住民は、うちの新聞社の新聞を受け付けていなかったから。それはたぶん、俺のせいだろう。俺がいるってだけで。
「姫崎先輩!」
「え?」
現場を眺めていると、人ごみの中をかき分けて通学途中の小鳥遊さんが俺の所まで駆け寄ってきた。
「無事だったのですね」
「無事って、俺はついさっきまで新聞配達のバイトをしてたんだけど」
心配してくれるのはありがたいけど、夜はコンビニにいて、早朝は新聞配達をしてる俺が夜道に誰かに襲われる可能性はかなり低いぞ。
「おぉい!」
「孝にぃ?」
「孝仁さん?」
俺と小鳥遊さんを見つけた孝仁さんが、こっちに向かって早足で近づいてきた。
「おぉ姫崎君。お前は無事だったか?」
「妹さんにも聞かれましたが、俺なら大丈夫ですよ」
妙に心配性な所がそっくりだな、この兄妹。
「それで、今度は一体何があったんですか?」
「あぁ、実はこの地域に5ヶ所、大量の血が辺り一帯に広く飛び散る程の惨殺事件が起こったんだ」
「惨殺事件ですか」
まぁ、それはカーブミラーを通して見ていたから何となく分かっていたが、まさかあれと同じ現場があと7ヶ所もあったなんて驚きだ。
「しかも、妙な事に何処の現場も死体が全く転がっていなかったんだ」
「遺体を処理したとかではなくですか?」
「あそこまで派手に血をまき散らしてるんだ、移動させたんなら痕跡が必ず残る」
「そうですか」
痕跡が全くなかったという事は、犯人は遺体を移動させていなかったという事になる。だが、それなら肝心の遺体は何処に行ってしまったのだろうか?
「まったく、ここんところこんな事件ばっかりだ」
「お父様も、行きと帰りに迎えをよこそうという事になっているけど、流石にそれだと友達と遊ぶ時間が無くなるから裏口から出て見つからないように出たわ」
「おい」
父親の心遣いを跳ね除けるなんて、あの融通の利かない頑固親父の事だからこれは帰ったら大目玉を食らうぞ。何時間も。
「まぁ、その辺は俺の方から連絡を入れておく。送り迎えを頼める相手がいるから心配するなって」
「送り迎え?」
なんだか嫌な予感がするぞ。
「という訳だから姫崎君、向日葵の送り迎えを頼んでもらってもいいかな」
やっぱりそうですか!そしてそれを聞いた妹さんは、すごく期待の籠った眼差しで俺を見ているのだけど。
「頼むよ。今すごく物騒だから、向日葵のボディーガードも兼ねて送り迎えを頼むよ。親父に頼んだら、絶対に家に閉じ籠らせるに決まってる。姫崎君が一緒にいると、俺も安心するから」
いやいや、むしろ親なら普通そうすると思うけど。こんな事件を起こす犯人がこの町に潜伏しているのだから、大事な愛娘を一人で外に出す訳がないと思うぞ。
「私も、姫崎先輩が一緒にいてくれると安心します」
「え!?」
妹さんまで何を言っているんだ!?
「よし決まりだ。そんな訳で姫崎君、向日葵の送り迎えをお願いしてもいいかな」
「まったく、どうせ強引に俺に頼み込むつもりだったでしょ」
俺の事を信用してくれるのは嬉しいけど、世間体的にマズくないか?もちろん、俺自身は胸を張って無実と言えるけど。
「まぁ、こんな状況ですから心配するのは仕方ありません。分かりました」
「やったぁ!」
嬉しそうに小鳥遊さんは、俺に抱き着いてきたがそれは少し勘弁して欲しい。その、2年前よりいろいろと成長しちゃっているから、いろいろ当たっちゃっているのです、はい。
「その代り、寄り道は無しで」
「はぁい」
本当に分かっているのか、この子は?付き合った時も思ったけど、この子はどうも相手を自分のペースに巻き込んで振り回す所があるんだよな。小鳥遊さんの友達も、きっと苦労しているだろうな。
「そんじゃ、俺は仕事に戻る。姫崎君、向日葵の事任せたぞ」
「分かりました」
仕事に戻った孝仁さんを見送った後、俺は小鳥遊さんを学校まで一緒に歩いてあげた。その時、小鳥遊さんが手を繋いできたが気にしたら負け無きがしたから、とりあえずそのままにする事にした。
前作の「妖しの魔鏡」も是非読んでみてください。