十 鬼の血
今回は主人公以外の視点で語られます。というか、今回主人公は出番がありません。
2人にこれ以上関わるなと言い、公園を後にし、杏はポケットからスマホを取り出して電話を掛けた。
「彼が鬼になったら、私は彼を殺さないといけないからな」
先程も言ったが、完全に鬼になってしまうともう二度と人間に戻れなくなってしまう。理性は残るかもしれないが、人間の世界には戻れなくなってしまう。
更に、鬼になる時間が長ければ長い程人間の意志は鬼の意志に飲み込まれてしまう。人間の意志は貧弱だから、1日と経たずに飲み込まれるのは確実。そうなる前に杏は、陰陽師として彼を殺さなければいけなくなってしまう。
そんな事態になれば誰も喜ばないし、誰も幸せにならない。特にあの娘。彼が死ねばあの娘が不幸になる。
そんな時、電話が繋がった。
『おぉ、杏ちゃんじゃないか!久しぶりじゃのう!10年ぶりかのう』
「8年だ。何て言っているが、お盆と正月休みにはそっちに戻ってるだろ。貴様だって図々しく家に来てただろ」
「酒呑童子」
電話の相手は、姫崎亮一の遠い昔の先祖に当たる鬼、酒呑童子であった。
千年前は誰もが恐れた鬼の頭領で、鬼の中でも最も強いと言われた凶悪な妖怪。
千年前に討伐された事になっているが、酒呑童子ほどの鬼がただの人間ごときに討伐される筈もなく、人間によって都合よく改ざんされていたのであって、酒呑童子は今もこうして生きていた。
しかし、それはもう昔の話。
杏からしたら、ただただ明るくて鬱陶しいだけのジジイで、時に優しくもしてくれた好々爺でもある。が、杏にとっては鬱陶しさが圧倒的に勝っていた。
『わしにとっては8年も10年もそんなに変わらない』
「でしょうね。御年千二百もするんだもんな」
『正確には、千二百と24歳じゃがのう』
「嘘つけ。千二百と40歳だろ。サバ読むな」
酒呑童子にとってはたった16の差でも、人間にとっては大きな16は大きな差なのでやめて欲しい。
『ハハハハ。で、杏ちゃんからわしに電話するなんて珍しいじゃないか。というか初めてじゃな。お爺ちゃんは嬉しいぞ』
「何時から貴様が私の爺さんになった!」
『わしにとって杏ちゃんは可愛い孫も同然じゃ。杏ちゃんが生まれた時は、わしも抱かせてもらったもんじゃ』
「げ‥‥‥」
この時杏は、生まれて初めて心の底から両親を恨んだ。いくらもう悪い鬼ではなくなっていても、普通生まれたばかりの自分の娘を鬼に抱かせるか。
「まったく。これが千年前までは人々から恐れられた大妖怪だなんて」
『もう昔の話じゃ。今の世の中、わしの様な妖怪が闊歩して良い時代ではないからのう。こうして、人目の着かない所でのんびり楽隠居するのも悪くなくなっておる。ガハハハハハハハ!』
「その割には、うちとは結構仲良くしているみたいだな」
『昨日の敵は今日の友。あの頃から鬼熊家とは仲良くしてもらっとるのじゃ』
「はぁ‥‥‥」
もはや極悪妖怪としての面影が欠片も残っていなかった。陰陽師として、鬼と仲良くするというのもどうかと思うところがあるが、杏の家はそのへんはあまり気にしないところがある。
『それよりも、杏ちゃんがわしに電話を掛けるとは、鬼嶋町に何か予想外な事でも起こったのか?あの小物の鬼が相手なら、杏ちゃんが苦戦する事は無いと思うが』
「あぁ、実はちょっと気になる事があったから、酒呑童子からも意見が聞きたくてな」
『ふむ。話してみな』
ようやく本題に入れた杏は、姫崎亮一の事を酒呑童子に全て話した。彼が酒呑童子の血を引いている事も、山姥と対峙した時鬼化しかけて角が生えてしまった事も。
酒呑童子は最初は「うんうん」と反応していたが、次第に言葉を発する事が無くなっていった。
「そんな訳だから、私は彼にこれ以上関わるなと警告したんだ」
『そうか。まさかまだいたなんて、正直言ってわしの血を引く人間は皆鬼になって、他の陰陽師に討伐されてしまったもんじゃと思った。まさか、まだ生き残りがいて今も人間として過ごしていただなんて』
酒呑童子の力はかなり強力で、その血を引く人間は例外なく異常な破壊衝動に抗う事が出来ず、その全てが凶悪な鬼へと変貌を遂げてしまい、陰陽師達の手によって討伐されていっている。
酒呑童子もそれを分かっているみたいで、自分の血を引く人間は絶えてしまったものだと思っていた。なので、姫崎亮一が人間として今も生きている事は、酒呑童子にとっても驚きであった。
『じゃが、わしの血を引くと言ってももう千年以上昔の事じゃ。流石に血も薄れているじゃろうし、何より自分で制御できるほど破壊衝動が弱くなっておる。普通に生活をしていれば、その子が鬼になる事は無い筈じゃ。普通の人よりも若干好戦的で、身体能力が高いくらいでそれ以外は』
「そうか」
という事は、彼が鬼の思想に飲み込まれる心配はないという事だ。それを聞いて杏は、ちょっとだけ安堵した。
けど、現に鬼化が進んでいる以上楽観も出来ない。
「そうなんだけど、山姥と対峙してしまった事で鬼化が進んでしまっていないかどうか不安で、一応関わるなとは言ってあるけど」
『おそらくそれは出来ないと思う』
それまでのおチャラけた雰囲気から、張り詰めた感じの雰囲気で酒呑童子は話を続けた。
『わしの血は、杏ちゃんが思っている程軟ではない。事件やトラブルに惹き付けられるのは、本人の意志でどうにか出来る事でもないし、ましてやただの女の子に彼を止める事なんて出来ない』
「やっぱり難しいか?」
『ああ。それに、わしの血が流れている人間がいるという情報は、おそらくあの鬼の耳にも届いておるじゃろうし、奴にとっても彼という存在は邪魔になる筈じゃ。事件やトラブルに惹き付けられる性質を悪用して、彼の鬼化を促進させてくる可能性だってある』
「自分の側に引き込むために?」
『いや、むしろ逆。彼を精神的に追い詰めて、町から追い出そうとするじゃろうな。奴にとってわしの血を引く人間の存在は邪魔でしかないからな。人間と呼んでも差し障りがないくらいに薄まっていても、わしの血を引いている事には変わりないから』
「あの鬼が暴れ回ったのは八百年前だから、その頃あんたは山奥で隠居してたんだったっけ」
『ああ。わしがいないのをいいことに、調子に乗って悪さをしていた小鬼どもがのさばっていた時代から横行しておったからな』
「だからこそ、今更あんたに出しゃばられては困るって事か?」
『そう考えて間違いないじゃろう。破壊衝動を自力で抑え込めるくらいにわしの血が薄まっているから、鬼化しても自我を保つ事が出来る。そんな状態で完全な鬼になったら、彼は一体何を思うじゃろうか』
「卑劣な」
そこまで言われて杏は、酒呑童子が懸念している事が理解できた。あの鬼は、姫崎亮一を鬼にさせる事で彼の心を抉り、帰る場所と愛する人、全てを奪ったうえでこの町から追い出そうと考えている。
人としての感情が残っているのなら、そういう卑劣な策略に心を乱し、一生癒える事のない心の傷を付けて二度と自分の邪魔が出来ないようするに違いない。人間というのは、弱くて脆い生き物だから追い詰めるのは簡単である。
そして、完全に鬼になってしまったら杏は討伐しなければならなくなってしまう。酒呑童子とは交友関係を持っているが、陰陽師なら鬼は討伐しなければならない。
仮にこの町から離れようとしなくても、杏が鬼になった彼を殺せば全てが解決する。そこから先は、あの鬼の思う壺となる。
『あの子鬼も、次からは彼を追い詰める為の策略に切り替えるじゃろうな。わしの血を引く人の子は、奴にとっては邪魔でしかないからな』
「あのヤロウ!小鬼の分際で!」
それが分かった瞬間、杏は怒りでどうにかなりそうになった。
そんな杏に、酒呑童子は優しい声で言ってくれた。
『少し落ち着きなさい。陰陽師のお前が怒りで我を失っては、益々あの子鬼の思う壺じゃ。こういう状況でこそ、杏ちゃんが冷静に対処しないと。今町にいる陰陽師は、杏ちゃんだけなんじゃから』
「そうだな。すまない」
気持ちを落ちつける為に杏は、一旦深呼吸をした。
『とはいえ、わしの血を引く最後の子孫が不幸になるのはわしも望まない。わしも鬼嶋町に行く』
「あんたも?」
『ああ。このまま黙って彼が鬼化するのを見ているなんて出来ない。それに彼には、人間として幸せに過ごして欲しいから。それと、万が一鬼になってしまったら元に戻せるのはわしだけじゃからな』
「出来るのか?」
『わしを誰だと思っとる。自分の力の暴走は自分で制御できる。それが例え、赤の他人と言っていい程の子孫の力であっても』
「そうか。それは助かる」
やはり酒呑童子も、姫崎亮一には人間としてこの先も過ごして欲しいと願っているみたいであった。その為に酒呑童子も、この町に急ぎ来て鬼から人間に戻してあげようとしてくれる。
もし鬼になってしまっても、元に戻せるというのは杏にとっても願ってもない事であった。断る道理はなかった。
だが、やはり鬼化しないで欲しいと思っている
「で、どのくらいでこっちに着く?」
『そうじゃな、こっちもいろいろ準備が必要じゃから4日、いや、2日でそっちに着ける様にする』
「2日で?大丈夫なのか?いくらあんたでも、京都からここまで走ってくるには十何日かかるか」
『走る訳ないじゃろ。今のこの時代、新幹線や電車という便利なものがあるじゃろ。後はタクシーでも捕まえれば』
「ちょっと待て!新幹線に乗るのか!?」
予想外の交通手段に、杏は思わず絶句してしまった。杏にとって酒呑童子は、山奥でのんびりと過ごしているだけで新幹線に乗るだけのお金があるようには思えなかった。
『なに、問題ない。株や仮想通貨、ネット販売などで金を稼いできたから、金ならたくさんあるぞ』
「そんな方法で金を稼いでいたなんて初めて知ったぞ」
『杏ちゃんのお父さんとお爺さんは、この事を知っておるがのう。というか、この方法を教えてくれたのは杏ちゃんのお父さんじゃぞ』
「父さん‥‥‥!」
意外過ぎる話に、杏は言葉を失ってしまった。というより、どうして父がそんな方法を知っているのか、杏はそっちの方が不思議でならなかった。
「てかお前、山奥に住んでいて金が必要なのか?」
『何を言っておるんじゃ。月々のアイフォンの代金を払うのに必要じゃし、わしとてたまに山を下りて町で美味しい食事を食べておるぞ。それに、流行りのスイーツがあれば食べに行かない訳にはいかんじゃろ。もちろん、人間に化けてじゃ』
「そう‥‥‥」
鬼のくせにアイフォンを持っていたり、美味しいスイーツを食べる為にお金を稼いでいたり、稼ぐ手段としてネットを利用していたりと、鬼とは思えない行動に杏は唖然としてしまった。
(人間に化けるという事は、服も定期的に買っているだろうな)
とは言え、身長が280センチもある酒呑童子が人間に化けるとなると、かなり大柄な人間になるだろうなと思った。物凄く目立つだろうし。
「まぁいい。何時頃着けそう?」
『そうじゃな。何とか夜の8時くらいにはそっちに着ける様にする』
「分かった。じゃあ、明後日待ってるから」
『なるべく早く着けるようにする。それじゃ』
その後杏は電話を切り、周りに鬼がいない事を確かめてから借りているアパートへと帰って行った。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
『そんな事が、姫崎君の身体に起こっていたのか』
「うん」
家に帰った後、向日葵は一番上の兄の孝仁に杏から聞いたことを話した。亮一の身体に鬼の血が流れている事を、このまま侵攻が進めば亮一が元に戻れなくなってしまう事も。
「鬼熊さんはこれ以上関わるなって言っているけど、あの鬼の方が姫崎先輩に何かしてこないとも限らない」
『姫崎君を味方につけるか、もしくはこの町から追い出すか。いずれにせよ、彼を完全な鬼に変えようと画策してくるだろうな』
「うん、出来れば孝にぃにも力になって欲しいの」
『ああ。俺も出来る限り力になる。お前も無茶するなよ』
そう言って孝仁は電話を切った。
一応孝仁も力になってあげると言ってくれたが、それでも向日葵の不安は拭えないでいた。理由は分からないが、あの鬼は亮一に何か良くない事を仕掛けてくるように思えて仕方がなかった。
そして、亮一が完全に鬼になったら二度と元に戻れなくなってしまう。
そうなったら亮一は、向日葵の前からいなくなってしまう事も。
「嫌だ。もう、姫崎先輩と引き離されるのは」
向日葵にとって、亮一と会えなかったこの2年間は苦痛の日々であった。
向日葵にとって姫崎亮一は、僅か15年の人生で初めて本気で誰かを好きになった相手で、この人と結ばれれば絶対に幸せになれると確信が持てる相手でもあった。
理由は定かではないが、向日葵にはこの先自分に起こる幸せ直感で感じ取る事が出来るのであった。しかもそれは今まで外れたことがなく、向日葵自身も完全に信じ切っていた。
本気で好きになった相手が、結ばれると幸せになれる相手だと直感で感じた時にはかなり舞い上がった。そう思うともういても立ってもいられず、衝動に任せて昼休みに亮一に告白をした。
でも、告白をした日。
亮一に嫉妬した男子達が絡んできて、感情的になっていた柴山によって車に撥ねられそうになった。柴山本人はわざとではないかもしれないが、そのせいで向日葵は危ない目に遭った事には変わりなかった。
そんな向日葵に、亮一は素早く向日葵の手を引いて助けてくれたが、代わりに彼が車に轢かれて重傷を負った。
向日葵はすぐに長男の孝仁と、今は家にいない母親に事の顛末を話した。だけど、自己の保身の為についた柴山の嘘があっという間に拡散していき、全校生徒に留まらず町民全員がその嘘を何の疑いも持たずに鵜呑みに信じ、向日葵の父親も柴山の方を信じた。
そのせいで亮一はずっと肩身の狭い思いを強いられ、向日葵や孝仁、向日葵の母親を除く全員が彼を虐げてきた。父に関しては、娘に近づいたら殺すと包丁を突き付けて脅迫したくらいであった。
それを見た母は、「これは殺人未遂だ」と言って父を糾弾したが父は全く聞き耳を持たず、自分のやっている事こそがすべて正しい事なのだと言って母に暴力を振るった。
嫌気を差した母は家を出て、実家へと帰って行ってしまった。
人の意見を全く聞こうとしない父に腹を立てた孝仁は、あれ以来父とは連絡も取っておらず、顔も合わせなくなってしまった。
自身の愚かな行為のせいで家庭崩壊を招いたにも拘らず、父は未だに自分が行っている事は何一つ間違っていないと言い張っている。
家庭も顧みず、家にも帰る事もなく人生の全てを仕事に費やし、自分の言う事こそが常に正しいと思い込み人の意見に耳を傾けない父。
そんな父に愛想を尽かし、家族を捨てて出て行ってしまった母。
父と口喧嘩が絶えず、長男としての役目を放棄した孝仁。
父の方針に嫌気がさし、逃げるように東京の大学に進学して、一人暮らしを始めた次男の義仁。
告白をしたその次の日に、大好きな亮一とも引き離されてしまい、以来顔を見る事も電話を掛ける事も出来なくなってしまった。
向日葵にとっては、まさにこの世の地獄であった。広い屋敷に独りぼっちで過ごす事が多く、学校でも下心と色眼鏡で接してくる生徒ばかりで、更に父の会社に就職した柴山からは勝手に婚約者気取りで接してきて、もう生きている事自体が苦しくなってきていた。
そんな日々を2年も過ごしていた時、向日葵は亮一と再会を果たした。その時向日葵は本当に嬉しく、会えなかった2年間を埋める様に毎日会いに行った。些細な事でも、向日葵にとっては本当に幸せな時であった。
そんな幸せを、今度は鬼が邪魔をしようとしているというのだ。
「幸せな未来がどうとかもうどうでも良い。私はただ、姫崎先輩と一緒にいたい」
2年前は助けてもらっておきながら何も返さず、それどころか大好きな彼を不幸のどん底に落としてしまった。
そんな事が起こらないように、完全な鬼にさせないようにする為に、今度は自分が亮一を助けてあげないといけない。
その時向日葵は、そう決心した。
「鬼嶋の鬼」も是非読んでみて下さい。