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小犬のワルツ

作者: 高橋なつみ

童話なんですが、このサイトで読んでいただく年齢層を考慮して、漢字使い放題にしています。

ご了承くださいませ。

 ボクの名前は、マッシュ。ゴールデン・リトリバーって種類の「犬」で、4匹兄弟の最後に生まれたんだ。


「ボク、もうおかあさんのおっぱい、いらないよ」


 ある日、ご飯をペロリと平らげ、鼻をツンとあげたら、お母さんはうれしそうに、でもちょっぴりの寂しさが混ざっているような目でボクを見た。

 

 それがどうしてかは、朝と夜が何度か過ぎた、春の終わりのある日にわかった。


 さよならが、突然おとずれたから。


     ※


 新しい家での、初めての夜――トクトクと優しい音がして、とても心地よかったお母さんの胸も、ボクとおそろいのコロコロ毛玉のような兄弟も、もうここにはいない。

 

 なんだか背中がスースーする。

 

 心の中にぽっかりと穴が開いて、寒いよ。

 

 ひとりぼっちのねどこで、ボクはずっと泣いていた。


 何かが近づいてくる。犬の犬たるアンテナが、頭の中でピンと立ち上がる。

 

 黒い影が、こちらへ伸びてきた。このにおいは――と記憶をゴソゴソとさぐっていたら、ボクのそばに、男の子がペタンと座った。


「さびしいの? そうだよね、お母さんがいないとさびしいよね。兄弟とお別れして、さびしいよね」


 そう言って、ボクの顔をのぞきこんでくる。


 あぁ――思い出した。この家に来た時、女の人と一緒に出迎えてくれた男の子だ。


「ボク、シュン。8歳で小学3年生。よろしく、マッシュ」


 キラキラした瞳でそう言って、女の人に、「あらあら、リッパな自己紹介だけど、マッシュにはわからないわよ」と笑われていたっけ。


 あの時、ボクは全然笑い返せなかった。心が半分、さびしんぼう色にそまっていたから。

 

「ボクもね、お兄ちゃんが遠くへ行ってしまった時、とってもさびしかったよ」


 そう言いながら、シュンちゃんは、ボクの背中をゆっくりと何回もなでた。さっきまで、冷たい風が吹きぬけていたところから、あったかい気持ちがしみこんでくる。


「リョウ兄ちゃんは、『ほっかいどう』の大学に行ったんだ。アキラ兄ちゃんはね、『あめりか』の学校。飛行機に何時間も乗らないと、会えないんだ」


 シュンちゃんの声が、雨雲のように湿っている。


「タケル兄ちゃんは、高校生だからここにいるけどね……」

 

 雨は――降りそうで降らなかった。


「ボクがずっと一緒にいてあげるからね。だいじょうぶだよ」


 そう言ったシュンちゃんの声は、雲の間からのぞくお日さまのように明るかった。


 そっか、シュンちゃんも4人兄弟のすえっ子なんだ。人間って、兄弟どうし、あんなに大きさが違うんだね。

 

 ふぁー、眠たい――


     ※


 新たな2種類のにおいと気配で、ボクは再び目を覚ました。いつの間にか、眠っていたみたい。


「あらら、部屋にいないと思ったら、こんなところで……」


 シュンちゃんのお母さんの、あきれ声。うす目を開けると、目の前にシュンちゃんの黒い髪があった。

 

「しょうがないな」と言いながら、シュンちゃんのお父さんが、シュンちゃんを抱き上げる。


「よっと。こいつ、重くなったなぁ」と、その寝顔を見つめるシュンちゃんのお父さんは、ご飯をはじめて平らげた時にボクを見ていた、お母さんの目と同じだった。


 それから毎晩、シュンちゃんは、ボクが眠るまでそばにいてくれた。ぽっかりとした穴が、だんだん小さくなっていった。


 春が終わり、雨がお日さまのジャマをして、何だかジメジメしていた毎日も、過ぎ去っていった。


 濃い水色の空に、モクモクと入道雲がわきあがる頃になると、ボクは、お母さんや兄弟がいなくても、さびしいって思わなくなっていた。


 シュンちゃんがいなくても、ひとりで眠れるようになったんだよ。

                    

     ※


 そんなある日――シュンちゃんに抱っこされて「それ」を見た瞬間、ボクは思わず目をむいて、うなり声をあげた。


 黒光りしたカイジュウが、白と黒の歯をむき出しにして、今にもシュンちゃんにおそいかかろうとしているじゃないか!


 シュンちゃん、危ない! そこ、どいて!


 ボクは、せいいっぱいの大声で、何回もほえてやった。なのに、シュンちゃんは笑っている。しかも、ボクの頭をなでると、カイジュウの前にあるイスにすわった。


 わーん、だめ! シュンちゃん、かまれるよ! 


 かまれたら、痛いんだよ!


 あぁ……こうなったら、ボクがシュンちゃんを守らなきゃ!


 ボクは、シュンちゃんの腕から飛びおりると、カイジュウの前に立ちはだかった。足がガクガクしているのは、怖いからじゃないやい!


 身がまえるボクの目の前で、シュンちゃんは何と、指でそいつの歯を次々と叩きはじめた。


 シュンちゃん、勇かんというより、ムリ、ムチャ、ムボウ――と、ハラハラするボクの前で、とっても不思議なことが起こった。


 シュンちゃんのかわいい指がおどると、音のシャボン玉がいっぱい飛び出してきた。

   

 はじけて、キラキラとしたかけらが、部屋いっぱいに広がる。それが風のように流れだすと、ウキウキしたり、ちょっぴり切なくなったり――ボクの耳からしっぽの先まで、あやつり人形みたいに動き出した。


 心も一緒におどっちゃうよ。

 

 シュンちゃんの指は、魔法の指。でもまだ、見習い魔法使いの指。


 時々、変な音がして急ブレーキ。そのたび、ボクはずっこけそうになる。楽しくて、シュンちゃんの足にじゃれつくと、「もう、ペダルふめないから……あっち!」って、つま先でポンとはじかれる。でも、またじゃれついちゃうんだ!


 シュンちゃんが、そのカイジュウをすっかり飼いならしていることがわかって、ボクは安心した。


 ちなみに、そのカイジュウの名は「ピアノ」というそうだ。


      ※


 ある日、シュンちゃんがひき始めた曲は、いつもより、ボクのしっぽをムズムズさせた。


 タリラーン♪ タラリラリラリラリラリラリラ……シュンちゃんの指が、コロコロと動いている。


 小さなボールが、突き飛ばされて、ぶつかって、あちこち転がっているみたい。左手が、ズンチャッチャ、ズンチャッチャッて、飛びはねてる。


 何だか、クルクル、クルクル――回りたい気分!


 ボクは、ピアノのそばで、ひたすら飛びはね回った。とちゅうで、ちょっと休けいしたけれど、またクルクル――もう止まらないよぉ!


「マッシュ! おまえ、この曲わかるんだぁ」


 ピアノをひき終わったシュンちゃんが、止まりきれずにフラフラのボクを抱きあげた。のぞきこんだその顔は、びっくりした目と笑い出す寸前の口で出来ている。


「これさ、<小犬のワルツ>って曲なんだよ。ショパンって人がね、小犬が自分のしっぽをおいかけて遊ぶのを見て作った曲なんだって。気に入った?」


「ワンッ!(気に入った!)」


「じゃ、これはマッシュのテーマ曲に決定!」


 それ以来、シュンちゃんは、よくこの曲をひいてくれるようになった。


 シュンちゃんは、どんどん上手になる。ボクのダンスにも、みがきがかかっていった。


     ※


 あれほど脱ぎたかった毛皮が、ちょっと気持ちよく思える季節になった。

 

 その日、ピアノのおけいこから帰ったシュンちゃんは、小鳥のくちばしのようなくちびるで、ふくれっつらをしていた。シュンちゃんのお母さんが、ため息をつく。


「ねぇシュン、もう来週が発表会なのよ。家でも上手にひけてるし、先生だって大丈夫ですって言ってくれてるじゃない」


 シュンちゃんは、プイッと目をそらした。そのままうつむいたので、ボクと目が合う。瞳がウルウルしている。


「ほんっとに、発表会直前になると、どうしてこう、ごねるのかしらねぇ」シュンちゃんのお母さんは、腰に両手を当てて胸をそらした。


「ホントに困った子ねぇ。まぁ、確かに、発表会は緊張するものだけど」


 シュンちゃんのお母さんは、もう一度ため息を吐き出すと、スリッパの音をたてて台所へ行ってしまった。


 シュンちゃんはピアノの前で、まだふくらみ足りない風船のような顔をしている。ボクは、シュンちゃんの足元にすわった。

 

「だれにも……わかんない」


 シュンちゃんがつぶやく。ボクは首をかしげた。


「あの大きな舞台には……魔物がいるんだよ」


 マモノ?


「ボクに魔法をかけるんだよ。かたまってしまえって……指、動くなって……そしたら、胸がバクバクして、息が苦しくなって……指がふるえるんだよ……」


 シュンちゃんは、投げやりにピアノのイスに座ると、口を開けさせ、白黒の歯に向かった。


「去年は、リョウ兄ちゃんが一緒にすわって、魔物をやっつけてくれた。でも、今度は……」


 そう言ってスラスラと弾きだした曲は、花びらが舞う中、みんなで楽しく踊って、お祝いするように華やかな曲。なのに今日は、飛び出す音全部に、おもりのようなシュンちゃんの心が、ぶら下がっていた。


     ※


 発表会当日――シュンちゃんは、いつもと違うかっこいい服を着せられていた。首に、黒くて小さな蝶々が止まっている。


 タケルお兄ちゃんが、「よっ、オトコ前じゃん」とシュンちゃんの肩を叩く。なのに、シュンちゃんの顔は、ブーッとふくれあがったままだ。


「シュン、昨日、リョウお兄ちゃんが電話くれたでしょ?」


「電話やメールくれても、兄ちゃんたち、来てくれないもん」


「しょうがないでしょう。リョウもアキラも、簡単には帰ってこられないのよ」


「……タケル兄ちゃんは?」


 シュンちゃんのお父さんとお母さんは、ソファで雑誌をながめるタケルお兄ちゃんに、視線を投げた。


「オレは行かねぇぞ。何がうれしくて、貴重な日曜日をつぶさなきゃならねぇんだよっ!」


 シュンちゃんの目に、みるみるうちに涙が盛り上がってきた。シュンちゃんのお母さんが、鬼のような顔でタケルお兄ちゃんをにらみつけている。


「わかったよ、泣くなっ! おまえの出番だけのぞいてやるから、ったく!」


 そっか、シュンちゃん、タケルお兄ちゃんに、一緒に戦ってほしいんだ。


 でも、この様子じゃ、タケルお兄ちゃんはアテにならない。よく、長い竹の棒を振り回してるけど……どんなに強くても、やる気がないってのは一番ダメだよ。


 ここはやっぱり、ボクが助けるべきだよね!


      ※


 シュンちゃんは、お父さんとお母さんに引きずられて出かけていった。


 ボクは、タケルお兄ちゃんに、発表会の会場まで連れていってもらうことに決めた。


 タケルお兄ちゃんが、ケータイでしゃべりながら階段を降りてくる。ボクには目もくれず、勢いよく玄関のドアを開けた。ボクは、そのすき間をスルリと抜けると、玄関の表においてある傘立ての陰に、すばやく隠れた。

 

 タケルお兄ちゃんは、ボクが抜け出したことに気付かないで、玄関の鍵をかける。ケータイなんか眺めてよそ見をしてるから、門の外に出て、その陰に身をひそめたボクにも気付かないんだよ!

 

 門を閉めたタケルお兄ちゃんが、自転車にまたがった。ボクは、タケルお兄ちゃんに視線の先を突き刺すようにして、タイミングを計る。


 タケルお兄ちゃんの足がペダルを踏み出す瞬間、ボクは、後ろの車輪カバーめがけて飛び出し、無事に着地した。


      ※


 自転車が走り出す。どんどん加速がついて、坂を下っていく。


 すごーい! 周りの景色が、線のように流れていくよ。

 スリル満点! 


 調子に乗っていたら……あわわ! 足元に気をつけて、バランスをとっていないと落っこちちゃうよ!

 

 ボクは、狭い車輪カバーの上で、4本の足を踏ん張った。


 あ、トイプードルのチコちゃんだ。歩道から「どこいくのー?」と呼びかけてきた。返事をする間もなく、チコちゃんは遠ざかってゆく。というより、返事をしたらバレちゃうよ。


 自転車は、駅前の大きな建物の入り口に突っ込んでいった。たくさんの自転車が、びっしりと並んでいる。


 止まる寸前で飛び降りたボクは、近くの自転車のすき間に体をねじこみ、タケルお兄ちゃんから隠れた。

 

 タケルお兄ちゃん、まだ気付いてないよ。もしかして、ニブいの?

 

 人間の感性についてちょっと心配しながら、ボクはタケルお兄ちゃんの後を、足音をたてないように、小走りでついていった。


 タケルお兄ちゃんは、土のような色をした大きな建物の前に立つ。そこで、ボクはとうとう見つけた! 

 

 地面から、シュンちゃんのにおいがするよ!

 

 入り口は開いている。ボクは、飛び込もうと地をけった足を、あわてて止めた。

 

 これは「自動ドア」というワナだ! 


 「ガラス」という透明の壁が立ちふさがっているのだ。前に、鼻をぶつけてえらい目にあったことを思い出した。

 

 タケルお兄ちゃんが、自動ドアの前に立ち止まる。ガラスが開く。ボクは、シュンちゃんのにおいを追いかけ、今度は思いきり駆け出した。


 やっとボクに気付いたらしいタケルお兄ちゃんが、「こら、マッシュ!」と追いかけてくる。


 二ブチンの人間なんかに追いつかれるもんか、べーっ!


 あ、シュンちゃん発見!


 シュンちゃんは、舞台の横の、黒いカーテンがいっぱいぶら下がっているその陰で、ふくれっつらのままイスにすわっていた。


「プログラム17番、カツラギシュンさんの演奏で、グリーグ作曲<トロルドハウゲンの婚礼の日>です」


 アナウンスの声が、舞台の天井から流れてきた。


 若いお姉さんが、シュンちゃんの手を取って立たせると、シュンちゃんの口が、「へ」の字のようにゆがんだ。お姉さんは優しく微笑んだまま、シュンちゃんの背中を押す。


 シュンちゃんの体が、舞台のライトを浴びた。その向こうに――いた! 


 あれがマモノ――真っ黒な四本足のマモノだ。

 

 シュンちゃんちにいるのと同じ、白黒の歯。前足が3本で、後ろ足が1本。前足の真ん中には、丸い牙がみっつ。ぺたんこの頭が、ガバッと大きく開いて……


 あ、本物の口は、あっちなんだ!

 

 シュンちゃんちのピアノカイジュウとはレベルが違う、あれは親玉だ! 


 あの巨大な口で、シュンちゃんを丸飲みしようとしてるんだ!

 

 ボクは、覚悟を決めた。


 これから、あのマモノと戦うんだ。シュンちゃんを守るんだ!

 

 ボクは、お腹の底に力をこめて、「ワン!」と叫ぶと、全速力でシュンちゃんに駆けよった。


「マッシュ!」


 シュンちゃんの半べそ顔が、びっくり顔からすぐ、晴れわたっていくような笑顔に変わる。そして、ボクに両手を差し出す。


 ボクは勢いはそのまま、シュンちゃんの腕の中に駆け上がった。


     ※


 シュンちゃんは、マモノをにらみつけるボクを抱いて、その前にすわった。


 このままだと、シュンちゃんはマモノの歯を叩く魔法を使えない。


 ボクは、シュンちゃんの腕からすり抜けると、足元にお行儀よくすわった。だけど、気は抜けない。いつシュンちゃんにおそいかかるか、わからない。


 ボクの目線は、マモノに突き立てたままにしておく。

 

 シュンちゃんは、マモノの歯に手を置きながら、ボクを見てニッコリと笑った。


 タリラーン。

 

 マモノから流れてきた音は、ボクのテーマ曲だった。


 シュンちゃんは広い舞台に、音のシャボン玉を次々と放つ。こうなったらもう、家のピアノカイジュウはシュンちゃんの言いなりだった。


 マモノもきっと一緒。

 

 シュンちゃんは、マモノに勝ったんだ!

 

 安心したとたん、いつものようにおどりたくなった。しっぽを振りながら、クルクルと回る。


 舞台の下では、「え、曲が違う」「なんで?」と、風に乱される木の葉のようなざわめきがしている。

 

 でも、そんなの関係ない。

 

 そのうちに、ザワザワがクスクスに変わってきた。

 

 ボクの身も心も、ボールのようにポンポンと跳ねた。

 

 シュンちゃんは、楽しそうにマモノをたたいている。お客さんも、笑いながらボクたちを見ている。

 

 戦い終わったシュンちゃんとボクに、拍手の嵐がふりそそいだ。


      ※


 ロビーという所で、シュンちゃんのお父さんやお母さん、タケルお兄ちゃんが待っていた。


 シュンちゃんのお母さんは、シュンちゃんをギューッと抱きしめてから、さっきまでふくれあがっていたほっぺたを、両手ではさんだ。


「上手だったよ、マッシュのおかげね」と言いながら、シュンちゃんのほっぺたを、手のひらでクリクリする。


 ボクも、シュンちゃんのお父さんに抱っこされて、ごほうびのように撫でてもらった。えっへん。

 

「先生、申しわけありません、勝手に違う曲を弾いてしまって」


 シュンちゃんお母さんが、さっきシュンちゃんを舞台に押し出した若いお姉さんに、ペコリと頭を下げる。


「いえ、シュンちゃん、おけいこの時と同じように楽しそうで、よかったですよ。これなら、最初から<小犬のワルツ>にしておけばよかったわね」


 そうそう、シュンちゃんは、ボクのテーマ曲が1番上手なんだぞ。もっと早く気が付いてくれなきゃ――と思いながら、シュンちゃんのほこらしげな表情を見上げた。


 ボクたち、一緒にいれば、何にだって勝てるんだからね。ずっと一緒なんだからね!


      ※


 冬が過ぎ、生まれて2回目の春が来た。

 

 桜の花びらが、あちこちの地面をピンク色にそめたその日、シュンちゃんは変だった。


 朝から元気がない。学校はお休みみたい。ずっとピアノの前にすわって、がっくりと肩を落としている。


 やっとピアノのふたを開いたと思ったら、今度は、ジッと白黒の歯を見つめている。


 シュンちゃんの足元にすわり直して見上げると、シュンちゃんは、くちびるをキュッとかんでから言った。


「今日で最後だから……<小犬のワルツ>をひいてあげるのは、これが最後だから」


 シュンちゃんの指が動き、いつもの音色が流れ出した。でも、何だか音の雰囲気が違う。音がはじけないまま、床にポロポロと落ちていく。


 時々、ジュルルと変な音がまじっている。


 ボクは、いつものようにかけ回れなかった。


 ピアノの音が止まった。


 もう一度見上げたシュンちゃんの顔は、まつ毛もほっぺたも、大雨の後のようにぬれていた。


 ボクは、知らなかったんだ。


 その日、シュンちゃんとお別れすること、全然知らなかった――


     ※


「うちはね、パピーウォーカーとしてこの子を預かったの。1年たったら、盲導犬の訓練所にこの子を返さないといけないって言ってたでしょう?」


 シュンちゃんの家の前で、シュンちゃんのお母さんが語りかけている。門の向こうには、車が止まっている。

 

 んで、「もうどうけん」って、なに?


「盲導犬になる犬はね、小さい時にたくさんかわいがってもらわないと、りっぱな盲導犬になれないの。だって、これから目の見えない人間のお手伝いをするのよ。シュン、きらいな人を助けてあげたいって思う? 犬も一緒よ。人間が好きでないと、人間を助けるお仕事はできないの。そのためには、先にいっぱい愛してあげないと、ね」


「……マッシュ、盲導犬になんかならなくてもいい。ずっとボクのそばにいてくれたら、それでいいもん」


 シュンちゃんのお母さんは、シュンちゃんの髪をそっとなでた。


「シュンがこれだけ一生懸命かわいがって、仲良しになったんだから、マッシュはきっと最高の盲導犬になれるわよ。シュンが発表会の舞台でピアノをひけるよう、マッシュが応援してくれたんだから、今度はシュンが応援してあげなきゃ」


「……みんな、マッシュのこと大事にしてくれる?」


「もちろんよ」


 シュンちゃんは、手の甲でほっぺたをふくと、ボクの前にかがんだ。


「マッシュ、ボクのこと、忘れないで。ボクはずっと忘れない、毎日思い出すよ。ずっと仲良しだよ」


 シュンちゃんの細い腕が、ボクを抱きしめる。あとはもう、シュンちゃんの泣き声しか聞こえなかった。

 

 ボクも忘れないよ。


 シュンちゃんの笑顔。泣きべそ顔。ふくれっつら。シュンちゃんちのピアノカイジュウ。それから、<小犬のワルツ>――


 シュンちゃんとの思い出は全部、ボクの宝物だから。


     ※


 いくつもの季節が流れ、僕は盲導犬になった。そして、パートナーと過ごした春が8回巡ってきた時、盲導犬の仕事から引退した。

 

 これから僕と暮らしてくれる人が、すぐに見つかった。さっそく、車に乗って新しい家へ向かう。どんな人か、楽しみだ。


 車が止まって、ドアが開いた。車から降りた僕は――目の前の景色を、すぐには信じられなかった。次の瞬間、なつかしさが、ずっと奥からこみあげてきた。


 そこは、シュンちゃんの家だった。


 門の前に立っていた若い男の人が、僕の名前を叫びながら駆け寄ってくる。


 シュンちゃんだ!


 面影はあるけど、もう、「小さな男の子」だったシュンちゃんじゃない。背もずっと伸びて、声も低くなって、穏やかなそよ風のよう。でも、変わらないものを見つけた。それは、シュンちゃんのにおい――


「会いたかった……ずっと待ってたんだぞ。オレのこと、覚えてるか?」


 シュンちゃんは、あの頃より大きくなった腕で僕を抱きしめ、顔をのぞきこんでくる。僕の心は、あっという間に、子犬の頃に戻ってしまった。


 僕もだよ、シュンちゃん。ずっと、忘れたことなかったよ。


     ※


「この子が、マッシュが引退した後は、自分が世話をすると言い続けていたものですから。しばらく、パピーウォーカーはお休みです」


 これまた懐かしいピアノのある部屋で、シュンちゃんのお母さんが、僕を連れてきた協会の人にそう言った。


「そうだ、マッシュ。これ」


 シュンちゃんが僕に笑いかけて、ピアノの前に座った。上の壁には、あの頃にはなかった四角い額ぶちが、ずらりと並んでいる。


「すごいですね……こんなにたくさんのピアノコンクールで優勝されてるなんて」と言われ、シュンちゃんは、照れくさそうな笑顔で頷きながら、僕を見る。


「あの時、マッシュが一緒に舞台に上がってくれたおかげで、もうすっかり平気になってさ、今は大学でピアニストになる勉強してるんだよ」


 そう言って、シュンちゃんは、小犬の頃は「カイジュウの歯」だと思っていた、鍵盤に向かった。


「マッシュ、覚えてるかな」と、シュンちゃんの指が、軽やかに鍵盤の上を踊り出す。


 もちろん覚えてるよ、シュンちゃん。これは……<小犬のワルツ>だ。ほら、しっぽがムズムズしてくる。クルクルと走り回りたくなる。 


 もう、僕は駆け回れない。年をとったから。でも、しっぽだけはまだ振れるよ。


 僕は、しっぽをパタパタさせながら、目を閉じた。


 まぶたの向こうに、10年前の僕とシュンちゃんの姿が見えた。     


<了>


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― 新着の感想 ―
[一言] 素敵なお話でした。 またこういうの書いて下さいね。
2008/12/23 11:17 退会済み
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