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第二章【想う】



春は出逢い変化を呼び、夏で盛れば熱の引きと共に全てを奪っていく。秋は燻る熱をもてあまし、冬はそれすら凍らせる。


どうせすぐに失うのならば、端からそんな幻に身を焦がしたくなどないのに。


只生きていくことの、何と難儀な事か。


それでも夢を見ずにはいられぬのは、人の欲深き業なのか、それとも気高き志か。いっそ心などなければ、失うことなど怖くはなかろうに。


望まぬ感情に引き込まれて、蝕まれてはやがて消えていくのか。



未だ見ぬこの【想い】の先は、私を何処へ導くのだろう。



第二章【想う】


拾弐『雪と熱』


正に師走の名の通り、慌ただしく年を越し、正月の挨拶廻りも漸く終えた頃。


昼見世を終えて一息ついた伊吹は、火鉢の前で暇をもてあましていた浜木綿を半ば強引に連れて昼間の仲ノ町通りを歩いていた。今日も今日とて朝から降り止まぬ雪が、足場を悪くしている。どうせ一緒に行動するのに嵩張るからと、二人で一本の傘を差して歩く姿は本当の姉妹の様で、寒いと文句ばかりの妹分に「あんたの故郷は雪国だろうに」と苦笑する。


「じっとしてると余計に寒くなるんだよ。だったら汁粉でも食べた方がずっと暖まるし美味いし良いだろう」


実際行きは隣で始終膨れて震えていた浜木綿は、甘味屋からの帰りである今の方がずっと顔色が良い。数日前から少し咳をしていた浜木綿を見て伊吹なりに考えついたのが、『ぐずぐす寝ているより胃袋に何か暖かいものを入れた方がいい。ゆうの場合は甘味に限る』だった。


「まぁ、汁粉は美味かったし、伊吹姉さんの奢りだから悪くない…あんやと」


珍しくあっさりと礼を言った浜木綿に、やっぱり熱でも出てきたのかと冗談半分に額に手を当ててやれば、浜木綿は往来で子供扱いされるのを厭がった。その思った通りの反応に気を良くした伊吹は、更に浜木綿をからかってやろうと躍起になった。


二人の楽しそうな笑い声は、寒さと天気のせいでいつもより少し疎らだった往来に良く響く。そこへ、何を感じたのかふと顔を上げた伊吹の目に、人込みからこちらをじっと見ていた男がやけに鮮明に映った。一瞬伊吹と眼が合うと、男は直ぐさま踵を返して人込みに消えてしまったが、何故か伊吹はその男の視線が焼き付いて離れなかった。


「……」


「?…どうかしたん、姉さん」


「…え、あぁ…なんでもないよ」



その晩。伊吹はいつものように狭い自室で、よく知りもしない馴染み客に喰われようとしている最中、その目を閉じた。


見映えの良い優男や体つきの良い男が相手の場合は別だが、大低の客に抱かれている時、伊吹は始終こうして目を閉じてやり過ごす。


目を閉じてしまえばどんな男を受け入れてたって差して変わらない。とうに麻痺した感情のまま、うつらうつらと他所事を瞼の裏の闇に映しては暗闇に沈む。


何も感じない。何処までいっても不快で嫌悪しかないと解りきってるのだから、一々そんな逃れられない苦痛を自ら感じる事をやめた。


そういえば何時だったか、自分の妹女郎の浜木綿に『伊吹ねぇさんは黙って抱かれてる時、何考えとるん』と尋ねられたことがあった。唐突で不躾な質問に、何と答えたものか正直困ったものだ。



あたしは何を考えて過ごしているのか。特別何かを考えているわけではないが、暇を持て余して何かで思考を埋めようとしているとも言える。


ふと、昼間一瞬だけ目が合った男の顔が浮かんだ。


背が高く、歳の頃は自分と差ほど変わらないくらいだったか。役者の様とまではいかないが、なかなか見目の良い男だった。


只の勘だが、気に入った女を見ているというより、自分を透して誰か別の人間を思いだしているような顔つきだった。熱っぽいとでも言えばいいのか、余程思い入れのある女でも見ているかのような視線だったのが印象的だった。


どうせ好いてもない男に抱かれるのなら、まだあんな優男の方がマシだ。


そこまで考えたところで、若くもない目の前の客の疲れ具合からそろそろ寝てくれるだろうと当たりをつけ、寝たふりをすることにして漸く客が眠ればそのまま自身も眠りに堕ちた。


吉原の女達は昼見世を終えると、夜の張見世までは各々自由気ままに過ごす。いつもは浜木綿を誘い散歩にでも出かけることが多い伊吹だが、今日はふらりと一人その足で暫く散歩に出掛けることにした。


生まれも育ちも江戸の伊吹は、雪国の吹雪やら豪雪を味わったことがない。その性だろうか、浜木綿が嫌がる雪も、伊吹はむしろ好きだった。


雪が降ったからといって、何か特別良いことがあるわけでもない。それでも月並みな理由だが、真っ白い雪が世界をちらつき空間を埋めていく様をただぼんやりと眺めていると、不思議と心が落ち着き飽きがこない。何かと飽きっぽい伊吹にとっては、何処か特別なものだった。


傘の下から手を差し出して雪を受けては、名残が零れて少し寂しいような心持ちになる。


それでも、伊吹は雪が好きなのだ。冷たさも暖かさも、寂しさも癒しも、すべてが平等だから。


暫く仲ノ町通りを何の気なしにぶらついていると、雪も大分小降りになってきた。これならば少し濡れる程度で済むからと、遊び心から傘を仕舞うことにした。


こうして何時もと同じ道を歩き、白い息を吐き出していても、雪の世界にいる今だけは夢心地でいられる。


端から見たら、小降りになったとはいえ傘を持っているのに挿さずに歩く酔狂な女、と映っているのだろう。時折すれ違う人間の怪訝そうな視線を感じるが、それもまた楽しいと感じる。


そんな奇妙な散歩をしていると、「よお、今日は連れはいないのか。そんなに濡れたら風邪引くぞ」と馴染みのない男から声をかけられた。


「あんた…昨日見た」


「あぁ、喋ってもいないのにあの一瞬で覚えてくれてるとは。凄いな」


昨日の真っ直ぐな視線とは違い、飄々とした男の態度に、それなりに吉原通いが板についている類いの人間かと皮肉のひとつでも言ってやる。


「昨日今日とこんな時間から昼見世にまで通ってるなんて、熱心な客だね。通うのはいいが、精々横根が腫れるまで入れ込まないように気を付けなよ色男」


そこまで行ったら吉原じゃ只の馬鹿だよ、と笑っていると自棄に自分を見ている男の視線が気になった。


「何だい、矢鱈人をじろじろ見て。悪いがあたしはどっかの馴染み客を横取りして恨まれる趣味はないよ」


「今は馴染みなんてないさ。あんたの声、気に入った。見世は何処だ」


「は」


この短時間ほんの少し話ただけでも何やら変な男だとは思っていたが、こんな意味のわからない気に入られ方をしたのは初めてで、部屋持ち女郎になる程には色んな男を見てきた伊吹も流石に呆けた。


「褒められたって喜びゃいいのかさっぱりわかんないけど……あんたも物好きだねぇ」


女郎相手だってこんな口説き方をする男いないよ普通。そう苦笑しながら、面白い男は嫌いじゃない。こんな風変わりな馴染み客が増えるのなら楽しめるかと、見世と名を教えて、「夜になってもあたしが忘れられなかったら、話相手くらいしてやるから来なよ」とその場は別れ、すっかり冷えた身体を抱いて伊吹は見世に帰った。



拾参『変化』


謎の男と別れた伊吹が見世へ戻った頃には、すっかりその白い肌は全身冷えきっていた。伊吹自身は大して寒さは感じていなかったが、着物の肩を雪の露で濡らした姿を見た浜木綿に無理やり大火鉢の前へ連れられて麻痺した痛みにそれほど冷えていたのかと実感した。


「傘持っとって何でそんな濡れるげんて。伊吹姉さん、いくら雪好きやって言っても、そんなんしとったらいつか絶対風邪引くよ。風呂行く時間もないし、早く着替えてこんか」


折角火鉢の前に座ったと思ったら、さぁ早くと意外にも心配性な妹女郎に急かされて自室へ促される。


「大体散歩って、こんな寒いんに長いこと何処いっとったん」


浜木綿の説教じみた暖かいやり取りに、ふと、伊吹は先程出会った面白い男の言葉を思い出す。


声が気に入った、なんて随分巫山戯た口説き文句だったが、あの男は本当に自分に会いに来るのだろうか。


「秘密だよ」


冗談目かして怪訝そうな浜木綿にそう返し、伊吹は大人しく言われた通り着替えをする為に自室へと続く大階段を軽い足取りで上がる。


あんな戯れに過ぎないやり取りをした名も知らない男に、何故かもう一度会ってみたいと内心では期待している自分がいる。その事に疑問を感じながら、自分が客に興味を持つなんて珍しいこともあったもんだと、まだ冷えたままの頬が少し綻んだ。



その晩の引付座敷、早速と言わんばかりのしたり顔で下座の自分の向かいに座すあの昼間の男・竜臣(たつおみ)の姿に、伊吹は最早素直に感心した。


「気が向いたら来ればいいとは言ったが、まさか言ったその日に来るとはね。あんたやっぱり暇人だろう」


「気に入ったって言っただろ。これからきっちり通うから宜しくな」


こうしてこの座敷で相対して盃を交わす男の態度は、大体大まかに分けても決まっているものだ。廓通い自体初めてで滑稽な程酷く緊張しきりな者、見るからに慣れきっていて早く床を共にしようという目を隠しもしない者、そして何故か矢鱈嬉しそうにこんな夕べから意気揚々としている者。


この男は何だろう。上記の種類で分けると後者に近いが、それでも何かが違う気がする。


「声が気に入ったってことは…差し詰め啼く声が聴きたいってか?どうせそんなとこだろう」


何を考えてるのか知ったことじゃないが、所詮吉原で男が考えてることなんて最終的にはそれしかない。


「さあなぁ」


この座敷で、初回の客とこんな掴み処のない会話をしたのは初めてだ。どうやら自分とこの男は、何か気質が似ているらしい。のらりくらりとしながらそのやり取りを愉しみ、腹を探る癖してその実本人は何を考えているのか掴めない。しかし、こんな人間を客に迎える事がなかった伊吹は、このやり取りを純粋に楽しいと思えた。


「あんた、博打好きだろ」


大方この飄々とした態度で儲けた博打の金を吉原の遊び代に宛てているのだろう。そう当たりを付けての問いにはあっさり「いいや、一切やらねぇよ」と返される。


「なんだ、向いてると思ったのに」


「褒めてんのか、反応に困るな」


「あんただって似たような口説き文句だったじゃないか」


まぁな、と二人で笑い合う様はまるで古くからの友人の様に和やかで、普段この場では口をきかない女郎の代わりに場を盛り立てる太鼓持ちやら女芸者らは、初回らしからぬ空気に不思議に思ったのだった。



拾肆『伊吹』


伊吹という女は、面倒見もよく客を飽きさせない愛想もある。しかし、明るいといってもいつも何処か冷めた目をしていた。妹女郎を持つまでは、何か一つの事に興味を抱く事もなく、まるで全ての出来事を死ぬまでの暇潰しをしているとでもいった様な様子だった。


浜木綿が伊吹を変えた部分は大きく、遊廓で彼女の姉代わりになってからは、随分と心から楽しそうに笑うようになった。それでも伊吹もまた、他の遊女同様、生きるには何かが足りなかった。



伊吹はよく、占いをしては自力で吉原から出てやるんだと話す。しかし、それを実際に為すのは如何に難しく奇跡に近い事なのか、彼女は厭という程よく解っている。


また、吉原には恋なんて存在しない事も、水揚げを迎えて間もなく自分の姉女郎をあっという間に喪ったあの日からよく理解していた。


伊吹もまた、多くの遊女の生き様、死に様を、その目に焼き付けて生きていた。



拾伍『また、』


結局あれから毎晩、二日目は裏を返しに、本日三日目は馴染み金をきっちり払いに通った竜臣は晴れて伊吹の馴染み客となった。


酒宴の後、通常通り床入りとなったが、帯をほどく伊吹の白く細い手を竜臣は止めて「それより話をしようや」と言った。


これには伊吹も拍子抜けし、「やっぱりあんたは随分変わってるよ」と布団の上で胡座をかくと愛用の煙管をくわえた。


「あんた本当に金まで払って話相手をしに来たのかい」


「たまにはいいだろう。こんな客相手も」


手前の買った遊女の隣で、何故か手酌で酒を飲み始めた竜臣が言うところでは、さっさとヤって寝ちまうのは勿体ないのでもっと声を聞く為に話をしたい、らしい。


「それにしても、何でこの三日間立て続けに夕刻の開店と同時に来るんだ」


「そんなの、早く来なけりゃあんたを他所の旦那に取られちまうだろ」


決まってる、とやけに自信満々に即答した竜臣に、呆れて大きな煙を一つ吐き出した伊吹も、遊女は誰のモンでもないだろう寧ろ見世のモンだよと声を上げて笑った。


結局話し疲れて二人揃って眠りこけるまで、他愛ない話をして初の夜を過ごした。


翌朝の所謂後朝の別れの時などは、いつもとは違う別の意味で二人とも眠気と声枯れを抱え、竜臣は「じゃあ、またな。お休み」となんとも間抜けな台詞をはいて大門を潜っていったのだった。


「全く、こんな馬鹿な床入りなんざ初めてだ。据え膳に手も出さないなんて本物の馬鹿男だな」


溜め息混じりに踵を返した伊吹の少し疲れの覗く横顔は、言葉とは裏腹に何処か楽しそうだった。



拾陸『新しい日常』


それからは月に何度か、竜臣は伊吹のもとへ通うようになった。しかし、冬を終え春が過ぎて何度夜を共にしても、伊吹の『女』に竜臣が触れることは一向になかった。


初めのうちはいつ自分を抱くのかと何度か竜臣に問うていた伊吹だが、その度に「そんなに俺に抱かれたいのか」と茶化される為、次第に深く追及することはやめにした。


あっという間に自分の日常の一部に居着いた男のその目を見る度に、消化されないその疑問は顔を覗かせる。それでも伊吹は代わり映えのしない日常の一つに、竜臣と他愛ない話をする夜が当たり前になっていくのを感じることに不思議と心地よさを覚えていた。



長く鬱陶しい梅雨もそろそろ抜けようかという頃。夕べも相も変わらず竜臣と話だけで夜を明かした伊吹は何時もの刻限に浜木綿を伴って湯屋に来ていた。白くて細いその背中を流す隣の姉女郎に、浜木綿がずっと黙っていた違和感の理由を尋ねてみることにした。


「最近の姉さん、なんか機嫌良くないけ。良いことでもあったん」


「ん?そんなもんないよ。いつもこんなもんだろ、あたしは」


変な事聞く娘だね、とけらけら笑って答える伊吹の横顔を見ていると、彼女の傍によく居る浜木綿はつくづく実感する。


何時からとははっきりわからないが、確かに伊吹は何かが変わった。それは外見ではなく内面的なもの。つい半年程前までは見せる事もなかった楽し気な目。特にこうして時折声を若干掠れさせて寝不足だと苦笑する時、伊吹は今まで浜木綿でも見たことがないような嬉しそうな柔らかい笑みを浮かべる。まるで別人のように、吉原には似つかわしくない顔だった。


そんな伊吹の表情を見る度に、悪い兆候というわけでもないのに浜木綿は自分の姉女郎が遠くなっていくような漠然とした言い知れぬ不安を覚えるのだった。


拾漆『待ち人』


日々新しい娘が連れて来られるように、女郎が死ぬことも自然の成り行きとなっている吉原において、いつまでも死んだ女の事を覚えている者はいない。忘れてはおらずとも、仲間内でもあってもその名を出す事は滅多とない。


芙蓉もまた、あの夏以来すっかり暖かな火が消えたような日々を過ごしながらも、今でも変わらず自身の心に留まったままの彼の女の名を紡ぐ事は一度もなかった。もう直梅雨が明けて夏が来れば、自分の姉女郎が死んでから早一年が経つ。人の巡り程、時の流れというものを痛感することはない。


姉女郎が死んでからは、独りで過ごす事が多くなった。誰とも連れだたない風呂をさっさと済ませ、自室の鏡の前に座る。


昼見世前の何時もと同じ時間、こうして変わらず同じように、油が取れて少し乱れた髪をそのままに自室で静かにその男を待つ。この僅かな静寂の時間が、芙蓉には心地よかった。


「橘姉さん、」


待ち人の顔と共に思い出すのは、何時も死んだ姉女郎の事だった。もう禿でも新造でもないので、仕事前にみっともなく泣いたりはしない。寧ろ例え泣けと言われても、今の芙蓉には涙が出ないだろう。姉を見送ったあの晩はあんなに泣いたのに。あの男が、芙蓉の涙を全て持っていってしまったようだから。



拾㭭『指先』


芙蓉の髪に櫛を入れるその手つきはやはり手慣れたもので、この男が一人前になってこうして吉原で女の髪を結うようになってから一年も経つのかと納得する。


この髪結いの男は名を直五郎(なおごろう)といった。元々この妓楼で髪結いをしていた先代の親方・菊次郎が連れてきた青年で、見習いとして修業していた頃から面識はあった。


「考え事ですか」


直五郎の低くも柔らかい声が静かな部屋に響く。話かけながらもその仕事振りは確かで、芙蓉の好みに合わせて控えめながらも優美に結い上げていく。


「直さんにこうやって結って貰ってる時が、一番落ち着くわ」


目線を下げてほっと息を吐くと、胸に溜まっていた息苦しさも和らいでいくのが分かる。鏡越しに見た芙蓉は、伏せられた長い睫毛とほんのり赤い唇が白い肌によく映えていて、まだ紅をはたいていないのにとても綺麗だった。


「俺も芙蓉さんの髪を結っている時が一番好きです。芙蓉さんに初めて会った時は、こんなに綺麗な人の髪を本当に結えるようになれるのか不安でしたよ」


「でも大分慣れたでしょう。勝山(かつやま)さんも褒めてたよ」

勝山とはこの妓楼一の花魁で、その華やかさを売りに道中も踏んだ女郎だ。何をするのも花魁が優先の吉原において、この妓楼でも二番人気に当たる芙蓉の髪を結うのは、必ず勝山の髪結いを終えてからだった。


「勝山さんは華やかで結い方もいつも派手なものを注文してくるけど、俺は芙蓉さんみたいに落ち着いた結い方の方が好きですよ」


「あら、勝山さんと何時も新しい流行りを広めようとしてる人がそんなこと言ってもいいの」


「仕事と好みは別ですよ」


二人してくすくすと笑みを溢す。その合間も直五郎の指は優しく芙蓉の髪を撫でていき、丁寧にその艶やかな黒に簪を通して止まった。


「さぁ、出来ましたよ。綺麗です」


見上げた鏡越しに芙蓉の揺れる目が、真っ直ぐな直五郎の視線と絡まる。


そっと離された男らしく暖かな指先は、先程まで自分の項を髪を撫でていたもの。


髪結いとして吉原を訪れている直五郎とっては、女の肌に触れることなど大したことではないだろう。そして遊女として生きる自分にとっても、男に触れられることなど慣れきっている筈なのに。それでも直五郎の指先だけは何故か特別で、こうして鏡越しに離れていく手を見る度に、何故胸が痛むのか芙蓉には未だ解らなかった。



拾玖『温もり』


再び独りきりになった自室。妹女郎達の髪を結いに行った直五郎を見送り、芙蓉はもう一度鏡の中の自分を見つめる。直五郎の結って行った髪型は、華やかではないが穏やかな芙蓉の印象によく合っていて繊細な美しさがあった。最初の頃は手つきも未だ覚束なかったのに、すっかり腕を上げたものだ。


彼が綺麗だと言った自分に、そっと微笑んでみる。色んな女郎を見ている彼が言う程美しいとは思えないが、お世辞でも直五郎がくれた言葉なら嬉しくなるし背筋が伸びる。


白く細い指で、少し線の細くなった頬に触れる。首筋を撫でてやがて項に辿り着く。


鏡を使っても自分では余りきちんとは見えない部分。髪を結っている直五郎には自分がどう映っているのだろう。疑うわけではないが、本当に美しく見えているのだろうか。自分より若干年下の彼の髪結い男の事を思うと、髪を結われている距離ですら物足りないと思っている自分がいる。


何時からだろう。彼の指先が心地好いと気づいたのは。彼の視線が、仕草が気になってしまうようになったのは。


浜木綿や伊吹、橘達を思う時とは違うこの暖かな焦燥感。こんな息苦しさを覚えたのは初めてだった。


直五郎。

師弟とは人格まで似るものなのだろうか。


彼の先代・親方の菊次郎は優しい人だった。長年この妓楼で髪結いをしていたので、此処に来たばかりの頃や水揚げを迎えて不安に泣く強がりな芙蓉を慰めてくれたのは何時も橘と菊次郎だった。


髪結いの時間、自分は一番素に近くなるのかもしれないと芙蓉は思う。


新造出しの時、泣くのを我慢していた芙蓉を菊次郎が父のように優しく接してくれたように、去年の秋もそうだった。


橘が死んで間もない頃、こんな薄暗い部屋で直五郎を待っている時。決して口には出さないが、慣れない寂しさに姉女郎に思いを馳せて静かに声を殺して泣いた。そうしている内に、気がつけば静かに直五郎が部屋に入ってきていた。それに気づいた時は恥ずかしさでまともに目を合わせられなかったものだ。


泣いた性で目も赤く酷い顔をしていた自分の髪を、何時通り直五郎は黙ってとかし始めたのだが、


「橘さん、今頃どうしてますかね」


彼女が病で死んだ事を知っている筈の彼が呟いた言葉は、今でもよく耳に残っている。


「こんなに自分を慕ってくれる妹がいて、橘さんも幸せものですね」


優しく髪を撫でるその指で、目尻に溜まった涙を壊れ物を扱うように控えめに拭ってくれた。


以来、同じく面識のあった橘の思い出話を二人きりの時はよくするようになった。もうその人はいないのだと実感する度に胸は痛むが、あんなこともこんなこともあったと話す度に橘に出逢えてよかったと心が温かくなる。忘れなければいけないのだと言い聞かせているよりも、ずっと楽になれた気がした。


あの日から、涙を堪える時間が、直五郎を待つ時間になった。元来の気性から余り他人に弱味を見せられない芙蓉は、実の妹の前でも心配をかけてはいけないと気張っていた。その芙蓉にとって直五郎は、唯一弱さであっても素顔でいることを赦せる場所になっていた。



弐拾『夢物語』


時は天和ニ年、江戸本郷の八百屋太郎兵衛にお七という娘がいた。年の瀬の大火事で寺へと避難したお七は、その寺の小姓・吉三と出会い恋仲になってしまう。しかし本来なら生涯出会うこともないはずの立場の二人。平時ならば逢瀬も叶わず、翌年お七は恋慕の末に「火事になれば吉三にもう一度会えるだろう」と唆され江戸の町に火を放ってしまう。

これで吉三に会える。そう思ったお七だが、次々と広がっていく火の勢いに理性を取り戻し、自ら櫓の半鐘を鳴らして火事を知らせた。


放火は死刑の大罪に当たる。十六になったばかりのお七を哀れんだ町奉行は死罪は免れるようにと評定で「お前の歳は十五であろう」と問うたが、お七は正直に十六だと答えた。彼女が自分の意図に気づいていないと思い、「いや、十五にちがいない」と重ねて問いただしたが彼女は再度正直に年齢を述べ、証拠のお宮参りの記録まで提出した。


結局、お七は火炙りの刑に処され死刑になった。



もう直本格的に夏の暑さを迎える時節。夜とはいえお世辞にも過ごし易いとは言い難い熱気が伊吹の狭い部屋を包む。


今夜も登楼していた竜臣は、今江戸で話題になっている芝居『八百屋お七』の粗筋を語り聞かせていた。噂は耳にしていた伊吹が、好奇心から内容を知りたいと言ったのだ。


先日知り合いの付き添いでその芝居を観に行った竜臣は一通りの顛末を話し終えると、苦虫を噛み潰したように歪んだ口元を誤魔化す為に手元で弄んでいた盃を口に運ぶ。


「この江戸で実際にあった悲恋話だとかで、随分人気が出て芝居小屋は繁盛してるようだな」


大方吉三役の役者が男前だから、女が騒いでいるだけだろうが。他人の悲恋話なんて何が面白いのか俺にはさっぱりわかんねぇよ。詰まらなかったという顔を隠しもせずに、また一口酒を煽る。


何時ものように隣で煙管を銜える伊吹は、自分は行けるものなら観に行ってみたいと笑った。


「意外だな、お前はこの手の話は好まないと思ってたが」


「恋ってやつはよく解んないけど、芝居としてなら面白いじゃないか。まるで夢物語みたいでさ」


竜臣は伊吹が自分と話しているとき、出会った頃に比べ最近はよく笑ったり色んな表情を見せる事が増えたような気がしていたが、それに役者が男前なら尚更一目拝んでみたいのが女ってものだろう、と笑う今の伊吹は純粋にお伽噺に憧れている一人の娘のように映った。



弐拾壱『幻の面影』


江戸の初夏の温い風が寂しげな寺の境内を弛く抜ける。仕事の合間、自身の店の者には少し長く昼休みを取ると留守を任せ、どうにも落ち着かぬ心持ちを鎮めようとする竜臣の姿があった。


境内の脇の井戸で手桶に水を汲み入れ、墓の主が好きだった花を一輪持って静かな足取りで目的の場所へ向かう。


夏の暑さを労るように墓に水をかけ、墓前に花を添え手を合わせる。


「なつ…」


お夏。彼女が死んでから、もう二年になる。彼女はその名の通り夏が似合うよく笑う活発な女で、竜臣のたった一人と愛した恋人だった。父親から今の店を継ぎ、落ち着いたら祝言を挙げようと約束まで交わした女だった。しかし竜臣が店を継いで間もなく、流行り病にかかったお夏は彼女の笑顔のように爽やかによく晴れた夏の日、養生の甲斐もなくあっという間に息を引き取った。



ふと目を開けると、寒空の吉原で出会った女の顔が過る。お夏によく似た、少し掠れた女にしては低めな声だった。まぁ伊吹の場合は煙管をよく吸う為にあのような声になったのだろうが。悲恋という芝居見物に友人に強引に連れていかれ、先日伊吹にその内容を語ってから、竜臣は自身の叶えられなかった想いの焔が蘇りその行き処に弱っていた。


お夏を喪ってからの竜臣は、脱け殻のように日々を過ごし、全てを忘れようと商売に励んだ。お陰で店は大店とはいかずとも繁盛したが、寒い季節も終わりを告げ暖かな春を迎えても、竜臣はまるで一年前とは別人のようだった。そんな息子を思い、隠居した父が息抜きにでもと吉原に遊びに連れ出した。だが、どんな女に会っても気分が晴れる事はなく、何時も一度会っただけでどの女も馴染み客にはならなかった。


そんな折、お夏の夢を見た翌日、彼女との思い出が焼き付いている江戸の町を避けるように吉原の仲ノ町通りをぶらついていた竜臣は、そこで不意に耳にした誰よりも恋人に近い声色に、思わず息を呑んだ。既に死んだ彼女がこんなところにいる筈もないと解ってはいても、もう一度会えたならという気持ちは拭えなかった。声の持ち主を探して目を向けると、鮮やかな緋色の着物を着て艶やかな黒髪を妖艶に纏めた女が居たのだ。伊吹はそこまでお夏に似ていたわけでもない。声だってよく聞けばやはり違うし、伊吹のほうが色気はあるし色も白い。しかし勝ち気な目や気風の良さ、楽しそうに笑った時の笑顔が記憶の中の恋人と重なるのだ。


そこまで思考を巡らせたところで、彼女の前で別の女の事を考えるなんて、死んだ恋人に怒られやしないかと思考を中断する。


「また、来るな」


そう一言残して、竜臣は墓前を後にした。



弐拾弐『憧れと世界』


江戸の夏はやはり暑い。それは此処吉原も当然の如くで、毎年眠るのも一苦労する程だ。上客等は皆口々に、京よりは随分ましなものだと言っているが、行ったこともなければどれ程のものか見当もつかない。


今年も気がつけば着物を着ることすら煩わしい時節が来た。冬は少しでも着込もうとする女郎達も、少しでも風の通りをよくしようと袷を弛め可能な範囲まで襟を抜いて着ている。


早速夏の暑さに体調が優れないという浜木綿を置いて、昼見世を終えた伊吹は同じく暇をもて余す伊織と初雪と共に心太でも食べて涼を取ろうと馴染みの甘味処に来ていた。本当は寝床に伏したままの浜木綿の面倒をみようと提案した伊吹だったが、寝てれば治るし静かに寝かせてくれ、と浜木綿本人に追い払われたので、こうして珍しい二人と出掛けることにしたのだ。


吉原にも、からりと晴れた夏の空が広がっている。店の軒先に吊るされた小さな風鈴が、僅かながら暑さを和らげている。


「やっぱり夏は心太が一番だね」


注文した品が運ばれてくるなり、嬉しそうに食べ始める伊織の姿は、まるで浜木綿と同じだと伊吹は苦笑する。


「初雪姉さんも食べればいいのに。美味しいよ」


「あたしはあんまり甘いものはね。これで十分なんだよ」


ここまでついてきたのに甘味は好き好んでは食べないという初雪は、冷えた茶を美味しそうに飲んでいる。大方初雪にしてみれば、自分は食べずとも妹分の伊織が喜んでいる様を見ていれば満足なのだろう。やはり何処の姉妹も変わらないな、と伊吹も嬉しくなった。


「そういえば、山吹の姉さんが間夫を作っちまったらしいよ。ばれなきゃいいけど」


突如綺麗に器の中を平らげた伊織が、声を潜めて二人の姉に告げた。他の見世に身を置く女郎仲間の姉が客に入れあげてしまったと心配していて、それを聞いた伊織自身も仲の良い女郎の姉の身を少なからず案じているらしい。


「此処じゃよく聞く話だけど、やっぱり知ってる人間が関わってると心配になるんだね」


吉原に来て未だ一年と経たない伊織でも、流石に半年以上この世界〈吉原〉にいればその末路はよくわかっている。それでも、必死に姉女郎を止めたいと吐露する友人の姿に、彼女が哀しむ結果を免れればよいのにと祈っていた。


山吹(やまぶき)には可哀想だけど、きっと松尾(まつお)さんは棄てられないんだろうね」


同じく当事者の女郎、松尾と面識のある初雪は、寂しそうに溢した。きっと彼女は近いうちに同じ世界から居なくなる。


「何で皆、狂っちまうんだろう。この中で少しでも長く生きてりゃ多少はいいことだってある筈なのに」


伊織の無邪気な清んだ声がぽつりと静寂におちる。伊織の言う通りだと、伊吹も初雪も思う。此処の世界を棄てたら、女郎は生きてはいけないのに。


沈黙が続く中、伊吹は前回の登楼の時に竜臣から聞いた夢物語を思い出していた。


あれから時々暇をもて余した時に考えを巡らせているが、雲を掴むようなその『何か』はやはり女郎の自分には解る筈もない。


「一体、……何に狂うんだろうね」


その呟きには伊織はおろか、同じく部屋持ち女郎の初雪ですら答えを持ってはいなかった。



弐拾参『道を』


昼見世を終えた女達が暇をもて余す頃合い。夏空を見上げて未だに高い陽射しを眺めほうと一つ息をついた芙蓉の耳に、幼い娘子の悲痛な声が届いた。


この吉原で暮らす者にとっては珍しいことではない為、大方の予想はつくものの何事かと声の出所へと足を運ぶことにした。


大階段を降りれば、その泣き声がより一層廓内に響いている。騒がしい声を聞き付けて自分と同じように様子を見に来た女達の視線を追いお内所を覗くと、女衒の男に連れてこられたのだろう幼い娘子が楼主とその奥方を前に小さな手で涙を拭いながら必死に泣いている。


その姿に己の幼い頃の事を思い出したのだろうか、先にこの場にきていた女郎達は皆苦い顔をして只娘が泣き止むのを見守っていた。


「これから此処がアンタの家なんだよ。何、此処にはアンタを可愛がってくれる姉さん達だって沢山いる。すぐに慣れるさ」


同じく遊女上がりの遣手婆である梅が、娘に泣き止む様に促す。普段は厳しい事を言う遣手婆も、やはり鬼には成りきれぬものでこんな場面では彼女本来の優しい心根が伺える。


漸く顔を上げた幼い娘の容姿は、この大見世に連れて来られただけあって涙で多少は崩れたといっても可愛らしく整っていた。これから禿としてしっかりと手をかけて育ててやれば、きっと美しく良い娘になるだろう。


勝山が呼ばれ、花魁付きの禿にとの話に移るが、それを黙って聞いていた勝山本人が、漸く口を開いて発した言葉はその場にいた全員が驚くものだった。


「この娘の姉には、あたしよりも芙蓉の方がいいと思うよ」


突然出てきた自分の名に、普段は穏やかな目が驚きで見開かれる。そんな芙蓉に一度「ね」と小さく頷いて見せると、「あんたがこの娘を守ってあげな」とすれ違いざま芙蓉に告げて勝山はその場を後にした。



勝山が去った後、彼女がいうならと未だに妹女郎の居なかった芙蓉が娘の姉になることが決まり、幼い娘の今後の仕事やら身の所仕方を教えるとその場は御開きになった。


芙蓉の妹分となった娘の新しい名は、鶴巻(つるまき)に決まり、北国から来たという鶴巻は旅疲れを癒す為今夜は早めに休ませることになった。



事が漸く落ち着き、格子窓から外を伺えば、煌々と大地を焼いていた陽射しは鳴りを潜めもう直夜の張見世が始まる刻限になっていた。


客を待つ為部屋に戻ろうと二階の廊下を歩く芙蓉は、向かいからその美しい笑みを浮かべてこちらに歩いてくる女を捉えた。


「あの娘…鶴巻だったか、眠ったのかい」


「ええ、色々あったから疲れたんでしょうね、あっという間に。

…勝山さん、どうして鶴巻を私に」


不安に借られる鶴巻を慰めながらずっと不思議だった事を口にした芙蓉に、勝山はその微笑みを更に深くした。


「橘さんが大事に育てたアンタなら適任だと思った、それだけだよ」


不意に勝山が口にした名に、胸が熱くなり言葉が詰まる。


「アンタ程の器量良しが部屋持ちなのに妹女郎も持とうとしない。橘姉さんが亡くなってもう直一年だ」


知らぬ内に握り締めていた胸の前に置かれていた芙蓉の手を見ていた勝山が、再び芙蓉の小さく揺れる目を真っ直ぐに見詰める。


「姉さんを忘れなくていい。そろそろ鶴巻と一緒に前へ進みな。歩かなきゃいけない道は未だ残ってるだろ」


アンタを必要としてるのは橘さんだけじゃないだろう。


優しく細められた勝山の目が、本当に美しいと芙蓉は思った。



弐拾肆『束の間の』


「妹が出来たんだって」


今日も女達の崩れてきた髪を結いにきていた直五郎が、芙蓉の髪に手を伸ばすなり問うてきた。


「随分と早いね。勝山さんか」


「ああ、芙蓉さんに任せておけば心配ないって笑ってたよ。早く慣れてくれるといいな」


優しそうな声その儘に、鏡越しにちらりと覗いた直五郎は随分嬉しそうだった。


「そんなに嬉しいの」


「妹が出来ればきっと芙蓉さんも、今よりもっと楽しくなるよ」


直五郎のその言葉に、鶴巻が来てから未だ日の浅い芙蓉は、今一実感が湧かないが、此処暫く顔を見ていない実の妹・浜木綿の事が過り「そうかもね、楽しみだよ」と目を細めた。



外は日に日に夏を主張する熱を強めているのに、この部屋の二人の間は春のような優しい心地良さが包んでいた。



弐拾伍『穏やかな日に』


今日は女達が皆楽しみにしている特別な日だ。特にこの文月の十三ともなれば、元旦以来の休みでもある為に前日の湯を沸かす薪のはぜる音を耳にもする傍から皆が心を躍らせていた。


今月から吉原で寝起きするようになった幼い禿の鶴巻は、何故こんなに大量の湯を沸かすのか当然分からない為、近頃漸く馴染んできた姉の芙蓉に尋ねてみることにした。


「今日は姉さん達は何かあるの」


その質問に、盛大に湯炊きしている昨日ではなく、今日訊くのかと苦笑を溢しながらも小さな頭を撫でてやる。


「今日は月に一度の髪洗いなんだよ。特に今月は正月以来の休日だからね、皆浮かれてるんだよ」


へぇ、と理解したようなしきれていないような返事を返した鶴巻に、アンタも大きくなればわかるよ、と笑う。


「洗った髪が乾いたら、甘味でも食べに行こうか」


どうせ暇になるのだし、毎日頑張って仕事をしている褒美に連れていってやろうと約束すれば、鶴巻は一際年相応の笑顔を浮かべた。その姿に図らずも自身にも笑みがうつる。自分は鶴巻程表情豊かに笑わないにしても、橘も自分と接している時はこんな気持ちだったのかと芙蓉は哀しみ以外で亡き姉に小さく思いを馳せた。



遊女が浮かれているのは何処の妓楼も同じ。それは浜木綿達の見世でも例外ではない。


伊吹と浜木綿の二人も、自身の髪を洗い終えた他の女達と共に大部屋で脚を崩して座り、長い髪をその儘に団扇片手に談笑していた。


皆が話題にしているのはこの見世で働く男衆のこと。余所の見世に比べて歳若い者が多く、どんな男がいい男に当たるのかといった内容だった。


伊吹はこの手の話は嫌いではないのでちょくちょく混ざるが、浜木綿はとことん苦手なので始終黙っている。


台回しの喜助は気はいい奴だが無骨。中郎は皆似たり寄ったりで地味。番頭の八兵衛は堅物。飯炊きの竹吉は詰まらない。見世番の長次郎は顔だけだ、と続いた。


「二階回しの銀次郎は客に叱られるのは巧いよね」


夕べも白梅さんに振られた客に派手に当たり散らされてたよ、と思い出し笑いをこらえながら吾妻(あずま)が繋ぐ。


「銀次郎といやぁ、ありゃあ絶対、浜木綿に惚れてるよね」


「は」


見ていれば分かると皆が口々に盛り上がる中、いきなり自分の名が出た浜木綿はあからさまに眉を顰める。


「なんでよ」


不機嫌に問う浜木綿に、一層皆の笑い声が高まった。


「だって何時もちらちら見てるよ。気づいてないのはゆうだけさ」


何時から銀次郎の片恋は始まったのか、きっかけは何なのかは知れないが、かれこれ半年以上前には周囲に知られていたと皆口を揃えて言う。


「まぁ、浜木綿は素直じゃないところがまた可愛らしいからね」


「そうそう」


普段は皆の談笑を眺めるにとどめているこの妓楼の花魁・藤袴までがにこにこと頷いている様に、益々理解出来ないと不機嫌になった浜木綿は煙管に手を伸ばす。


「恥ずかしいんだよね、ゆうは」


未だこの話を続けようとする我が姉・伊吹に、睨みを返すも全く威力がないらしく「ほらね」と頭を撫でられて終わった浜木綿であった。


そんな何時にも増して賑やかな昼下がりも、一頻り喋り倒して疲れたところで御開きとなった。毎度の如く暇をもて余している伊吹の提案に浜木綿も従い、前回は夏バテしていたからその快気祝いに奢りだとのことで二人は甘味屋を目指した。



仲之町通りは人混みが常だが、今日は休日ということもあってすれ違うのは皆、吉原の女ばかりである。


早く日陰へ入ろうと脚を速めては玉のような汗を浮かべ暑い暑いと唸る妹に、伊吹は夏なんだから仕方ないだろうと宥める。


「本当にゆうは、寒いのも暑いのも苦手だね」


「なんで姉さんは平気なん。信じれんわ」


行き着けの店の暖簾が目に入る。もうすぐだから我慢しな、と話していると、伊吹と浜木綿は向かい側からくる人物に驚いた。



「お姉、どしたん」


その声に二人の存在に気づいた芙蓉は、実の妹の言い草に苦笑する。


「どしたんて、甘味食べるのはアンタ達だけじゃないよ。今日は休日だしたまにはね」


「芙蓉姉さんに会うのも、久しぶりだよね。ところでその娘は誰だい」


先程からずっとこちらを不安そうに見上げて芙蓉の袖口を掴んでいる幼い娘に、伊吹は興味深げに視線を向ける。


「この娘は鶴巻。この間うちに来たばかりでアタシの妹分になった娘だよ」


芙蓉に紹介された浜木綿と伊吹が、宜しく、と告げれば、若干おどおどしながらも宜しくお願いしますと鶴巻も微笑んだ。



立ち話も何だし、何より浜木綿が限界だということで、同じ店を目指していた芙蓉と鶴巻と共に伊吹と浜木綿も目的の甘味屋へと入り皆で心太を注文する。冷たくて甘いものを口にしてあっさりご機嫌になった二人の妹分を前に、単純な娘達だと顔を見合せて笑う姉達であった。



弐拾陸『故に』


呼吸が荒いのは走っているから、それだけなのだろうか。早く自身が勤める妓楼に着かなければと、妙は少し乱れる裾にも構わずなるべく人目につかない路地を選びながら足を急いだ。着物の袷に仕舞い込んだ小さな異物に、着物越しに押さえる指先の震えが治まらない。


この粉を使えば、自分の望みを阻むものはなくなる。胸を痛めつけられてきた苦しみから漸く救われる。


殺しは死罪。

この吉原で遊女一人を殺めることも罰せられるのだろうか。

この囲いの世界に於て、病や掟破りの果てに死ぬ女郎は掃いて棄てるほどいる。此処で身体を売り生活している女で、死ぬ前に年季明けを迎えたり、身請けされて外界に出られる女の方が稀だろう。何れ早死にするのなら、生き地獄が終わるのが少し早まるだけだ。


そう言い聞かせる妙の脳裏に、直五郎の優しく男らしい笑みが過る。


自分にはもう憧れ見ているだけでは堪えられない。正しい行いだとは思っていない。歪んだ感情でも構うものか。

これしかないと思い至った時、この恋の為ならば例え地獄に堕ちてもこの激しく自分を突き動かす衝動に身を委ねると決めた。


漸く自分にも訪れた少し遅咲きの初恋。この幸福を掴む為に、妙にはもう迷いはなかった。



いざこの薬を手に入れようと思うと、吉原では実に簡単だった。水銀は堕胎を促す毒薬である為、避妊に失敗した女郎や見世の人間が裏の店で手に入れるのは珍しくない。だから常備用を遣いで頼まれたのだという顔をすれば、少しくらい多目に買っても詮索されることもなかった。


いつも優しい直五郎が、一際目をかけているあの穏やかに微笑む美しい女。


髪結いの直五郎が仕事の為に大階段を上がり、あの女郎の部屋で彼女の髪を結い艶かしい白い項に触れる姿を想像する度に、何度自分がもっと器量良しで美しい遊女でないことを悔いただろう。密室の二人が気になって、襖越しにそっと様子を伺った事がある。その時の二人は、只の遊女と髪結いという間柄以上に、親密で楽しそうに笑っていた。


互いに気づいてはいなくとも、きっと彼女・芙蓉も直五郎に惚れていて、直五郎もまた芙蓉に気があるのだろう。


例え芙蓉という存在がいなくても、きっと直五郎は自分を好いてはくれない。そう心の隅で悟っている自分がいる。


それでも、妙にはこうするより道はなかった。


不器用で女としてはまだ幼い彼女が、叶わぬ恋を知ってしまったが故に。



弐拾漆『焦がれた女』


明け方眠り、昼前に起きる。それが女郎だけではなく、吉原の妓楼で生活する人間の日常だ。


二階廻しを仕事にする銀次郎も例外ではなく、粗末な煎餅蒲団から未だ疲れの抜けない身を気怠いげに起こして難なく想像出来る一日に早くも憂鬱になる。


今夜も好きな女郎に振られた客に怒鳴られ、愚痴を聞かなければならないのかと思うと、溜め息しかでないのも無理はない。それでも銀次郎が長年この仕事を続けているのは、すぐ傍に毎晩違う男の相手をする好いた女がいるからだ。彼女は他の女郎に比べれば愛想もない女だ。それでも何度夢の中で恋焦がれた彼女を抱いたことだろう。彼女は楽しみも碌に持たない銀次郎にとって、唯一欲し続けている女だった。


郭で雑用仕事を生業にしている銀次郎には、彼女を身請けする処か旦那になって一晩買うような金も無い。どれだけ情けなくても、たった一人の好いた女の顔を見るには冴えない仕事をしてこうしてこの郭に居続けることしか出来ない彼は惨めだった。


銀次郎は身支度をさっさと整えながら、昨夜みた夢を思い返した。

何時もの夢では好いた彼女を半ば強引に抱いて想いをぶつけている内容なのだが、昨夜は浜木綿と心を通わせ笑顔の彼女と閨の中で一生を添い遂げることを誓い合うという夢とはいえなんとも幸福な気持ちに浸れた一時だった。

そんな夢から冴えない現実に引き戻されたのだから、爽やかな朝の起き抜けにまたひとつ情けない溜め息が出るのも当然といえた。


銀次郎が浜木綿と出会ったのは、今からもう何年前になるだろうか。彼が十五でこの廓で奉公を始めて早二年近く経った頃だった。

元は江戸で手習指南所に通い役人を志しながら細々と暮らしていた銀次郎は、流行り病で両親ともあっという間に亡くし、日々を食い繋ぐ為に学問を辞めて働かなければならなくなった。そんな折り、父親の知り合いのつてで吉原の仕事を紹介され、選り好みする余裕もない銀次郎は流されるままにこの妓楼で働くことになった。

生活の為とはいえ本心では学問を諦めきれなかった銀次郎は、始めこそどんなにきつい仕事をしていても、仕事が終わって眠るまでの僅かな合間を縫っては本を広げていたが、忙しさに追われていつしか日々を終えることに精一杯になっていった。そうするうちに友人知人とも疎遠になり、まだ年若い身空で銀次郎には客の愚痴やら文句に付き合い、毎晩違う男の為に嘘で固められた女の声と何も残りはしない浮き世の夢に浸る男の憐れな姿を見続ける世界だけが残った。


唯一の情熱も失い、楽しみも忘れた虚しい生活にも何も感じなくなったある日、歳の頃は恐らく十五にも満たないであろう小さくて華奢な少女が妓楼に来た。夜見世の準備で忙しい仕事の最中、遠目に見た少女は何時も女衒に連れられてくる少女達とは違い、自分のこれからの身のふりを教えられても泣きも拒みもしていなかった。


あとで女将に聞いたところによると、少女の名は佐奈といい、加賀という雪国から姉とともに姉妹二人で来たらしい。姉は容姿に加え気立ての良さを買われてこの吉原でも指折りの大見世に行き、妹の佐奈は容姿は悪くないものの今一つ愛想がない為この見世に来たのだという。


女というにはまだ幼い彼女が涙を見せなかったことを珍しいと洩らした銀次郎に、女衒の男の話では、道中吉原に行くんだと告げられても平気な顔をしていた佐奈は、姉と離される間際に初めて不安も露に大声を上げて泣き姉と離れることを嫌がっていたという。


それから佐奈は浜木綿という名を貰い、慣れるまでと就いた禿もそこそこに新造出しを済ませ、吉原に来てから一年も経たぬうちに伊吹の妹女郎として客をとるようになった。


そんな浜木綿に銀次郎が好意を抱くようになったきっかけは、ある夜の座敷での彼女を垣間見た時。


その日も銀次郎はいつものように仕事をこなし、女郎につれなくあしらわれた憐れな客に当たり散らされてうんざりしていた。


夜も大分深まり、何処の部屋の客たちも酒が随分回り始めて上機嫌に女郎に酌をさせている。あと暫くすれば泊まり客は床入りを始める時刻だ。皆さっさと眠ってしまえば自分も後片付けもそこそこに漸く床に就けると思うと、今日もやっと終わるんだなとほっと安堵する。


二階の廊下を順路通りに巡回し、特に問題がないか様子を見て廻る。

座敷を終えると部屋持ちではない張り見世で客をとる妹女郎たちの遣う狭い小部屋へと足を向けた。


そのうちのひとつの部屋には何時ものように廓内の誰にもにこりともしない浜木綿が、これまた客の前でも変わらず何を考えているかわからない冷めた目で客の相手をしていた。他にも女は山程いるというのに、相変わらずのその態度でも馴染み客はそこそこついているのだというから、結構な物好きも居たものだ。普通ならばもっと上手く出来ないのかと遣り手婆に叱られるであろうが、浜木綿の場合は最初は何度か説教したものの全く効果はなく、それが変わり者で面白いと客も気に入っているようだから今では何も言わなくなったらしい。まだ幼さが残るものの、器量は悪くないし多少不器用者でも美人は得だと思う。


彼女の部屋も特に問題はなさそうなのでさっさと次の部屋へと向かう。更にふたつの部屋を見て回った所で、盛大に何かが倒れる鈍い音と陶器の鋭い音がした。何処の客が暴れているのかと音のした部屋へ様子を見に行くと、着ていた着物をやや乱れさせた浜木綿が、心底不快だという感情も露に彼女に突き飛ばされるなり叩かれるなりしたのであろう床に倒れた客の男に盛大に怒鳴り散らしていた。


恐いもの知らずの彼女の姉女郎伊吹あたりならいざ知らず、あのいつも何処か冷めている浜木綿があれほど怒った顔をみたのは始めてのことだったので、仲裁役に入るべき銀次郎は茫然と立ち尽くし暫く無言で傍観していた程だった。


程なくして直ぐに部屋に駆けつけてきた遣り手婆や楼主が慌てて謝罪をし、浜木綿にも謝罪するよう促したが結局彼女は黙りを決め込み、客を帰らせた後彼女は遣り手婆に楼主と女将の部屋へ、姉女郎の伊吹と共に連れていかれた。


当然のことながら、銀次郎を含めた手の空いた人間や泊まり客のいない女郎たちが見守る中、開口一番に楼主は何故あんなことをしたのかと、浜木綿を問い詰めた。


何も言わない浜木綿に、伊吹が優しく「言ってみな、言わなきゃ分からないだろう」と促すと、浜木綿は「腹が立ったから」だと応えた。


「あの客と寝るのがそんなに厭だったのかい」との伊吹の問いに、以前一度顔見せをして相手にしてもらえなかった伊吹のことを随分下品な言葉で悪く言ったのだと言う。


「自分のことなら我慢も出来るけど、自分の大事な姉さんを貶されて黙ってられる程、あたしは器用じゃないよ。あんな男の相手をするくらいなら、仕置きされたほうがましや」


そうはっきり告げた浜木綿の声は凛と静かな部屋に響いて、その浜木綿の目は自分は間違っていないと揺らぎがなかった。


それを聞いて呆れた伊吹は「あたしの為に怒るなんてあんたは馬鹿な娘だ、もう二度と手はあげるんじゃないよ」と浜木綿の頭を軽く叩きながらも、続けて妹の頭を撫でたその手つきのように優しい顔で笑っていた。また、伊吹の前でのみ僅かに表情を和らげるようになっていた浜木綿も、照れくさそうに「子供扱いせんでよ」と言いながら誇らしそうに口許を緩ませていた。


結局浜木綿は形だけ一日仕置き部屋に入れられ、不自由を強いて我慢させたこと以外は特にきつい折檻も受けなかったようで、楼主をはじめ女将や遣り手婆に他の女郎たちも皆、浜木綿が随分伊吹になついていたようで安心したと、怒りや呆れよりも家族に向けるような安堵と喜びの表情を浮かべていた。この妓楼は存外お人好しが集まる所だと銀次郎が改めて実感した夜であった。


あれから時が経った今でも、仕置き覚悟で他人の為に怒りを露にした浜木綿の真剣な顔、そして自分の姉女郎の悪口だけは我慢出来ないから仕置きでもなんでも構わないとはっきり言った透き通った声は、未だに銀次郎の心に鮮明に残っている。その姿を見てから、彼は彼女が次第に心を許した人間だけに時折見せるようになった柔らかい表情をみるのが楽しみになっていた。そして最初は妹の成長をみる兄のような視線だったものは、自分の意志を曲げず何にも染まらない白い花のように日増しに気高く美しくなっていく彼女の姿に憧れを抱くにつれてひとりの女として自分だけの存在になって欲しいという焦燥にも似た感情に変わっていった。


記憶の中の気高い彼女、そして夕べみた夢の中の愛らしい彼女へ想いを馳せるのもそこそこに、今日はどんな彼女を見られるのだろうかとそれだけを愉しみに変えた銀次郎は、外の世界に踏み出すと名残惜しい自分の狭い世界の薄い襖を静かに閉めた。




弐拾㭭『浮き世の夢』


「縁日は好きか」

文月の終り、すっかり伊吹の馴染み客となっていた竜臣は、相も変わらず他愛ない話し相手のみの関係を保つ女に唐突に尋ねた。

いつもの事ながら脈絡のない問いかけに、伊吹は酌をしていた手を思わず止めて「は」と間の抜けた声を出した。


「いきなりなんだい。そんなこと聞いてどうするんだ」


拍子抜けしたような伊吹の反応に笑いだす竜臣をみて、「失礼な男だ」と伊吹もまた呆れた顔を隠しもしない。


「いや、夏といえば祭だろ。吉原の女は九郎助稲荷の縁日に行くって聞いたからよ」


「お前も誰かと行くのか」随分耳に馴染んだ竜臣の優しい声色に、おおよそ只の女郎に向けるものではない真っ直ぐな眼差しに、伊吹は近頃竜臣と接している時に感じるようになった息苦しさを覚えた。

竜臣が客となってからこの半年、全くこの男は伊吹を女郎扱いしたことがない。同じ蓐で夜を明かすくせに、いつも只共に過ごせれば良いという風な男に、何故だと問うことをやめた伊吹は未だに男の真意が解らずじまいでいる。それでも伊吹にとって竜臣との時間はどこか特別で、いつしかこのままこの関係が永く続けば良いと思い始めていた。


直ぐに言葉を返せなかった伊吹は、やや間があって伏せ目がちで「特に決めてないよ」と応えた声はいつもより掠れていた。


「なら、俺と出掛けよう」


いつもながら強引なやつだと思う傍ら、暇だから付き合ってやると笑った伊吹はもう縁日の日を心待にしている自分がいることに気づかないふりをした。



葉月の青空の下、いつもは可愛い妹女郎の浜木綿や見世の女達と気晴らしにくる九郎助稲荷の縁日は、今日も変わらず賑わいどこの出店も人でごった返している。


竜臣と約束している伊吹は、訝しがる浜木綿や女達に先約があると告げて追及される前にと足早に竜臣と待ち合わせている引手茶屋に足を向ける。


仲の町通りも今日はいつにも増した人混みで、こうして吉原で男を探す自分を浜木綿当たりが見たら誤解してなんというだろうと考えて伊吹はひとつ笑みが溢れた。


もうじき目的の見世だという頃、他所の引手茶屋の軒下から出てきた男女客の中に見知った顔を見つけた。女郎だと判らぬよう化粧も目立たぬようにしてはいるが、女は伊織と仲の良い他楼の山吹の姉女郎・松尾だった。仲睦まじく腕を絡めている男は只の客という風ではないところから、伊織が言っていた間夫であろう。松尾がどこまで入れ揚げ、また男がどれほど本気なのか解らぬが、この束の間の夢を謳歌している二人の背中を黙って見送る伊吹は、この逢い引きを邪魔するのは野暮だと見てはいないことにしたその先には、伊吹に「よぉ」と片手を挙げて歩いてくる竜臣の姿があった。



弐拾玖『望み』


九郎助稲荷の前、人混みを理由にその無骨な手で自然と白い女の手を引いた竜臣に、伊吹は誰かに見られたらという心配が過ったものの、厭ではなく寧ろ平静を装うのに必至だった。


一先ず参って来ようと小さな社を目指し、順番がくると並んで手を合わせる。


境内に出たところで早速「何を願ったんだ」との竜臣の問いかけに一瞬どきりとしたが「仲間の幸せに決まってる」と笑った伊吹に、「やっぱりお前はいい女だな」と竜臣は眩しそうに目を細めた。


顔に熱を感じまた甦った息苦しさに、伊吹は慌てて「そういうあんたは何をお願いしたのさ」と話題を振った。


「俺は…、俺も似たようなもんだ」

竜臣の返答する声色は、苦笑いの表情とは裏腹にどこか切なさを含んでいるように伊吹は感じたが、自分の為にもそれ以上は追及するのはやめようと「あ、そう」と軽く流すに止めた。



参拾『後戻り』


参詣というほど大層なものではないが御参りを終えた竜臣は、また伊吹の手を引いて屋台店を見て回る人の波に乗った。


練り物屋の前ではあとで覗きにくるであろう浜木綿と伊織の二人の顔を思い浮かべて笑う伊吹に、伊吹が欲しがっていると誤解した竜臣は「買ってやる」と言ったが、「甘味に目がないのは妹達で、私は煙草と酒のほうがいい」と断った。


植木屋などを通りすぎ、小間物屋の前に差し掛かると、竜臣は足を止めてやや迷った後、隣りで小間物を眺める伊吹を見て女に出会って間もなくの後朝の朝に二人でみた梅と同じ花装飾の入ったなかなか上等な鼈甲の櫛を買って「迷惑じゃなかったら使ってくれ」と伊吹の手に握らせた。

妻か恋人かどこか他所の女にやるもんだと思っていた伊吹は、まさか自分にと戸惑ったが「折角くれるんなら使う」と礼を言って言葉の割りに大事そうに懐に仕舞う伊吹の頭を、嬉しそうな竜臣の大きな手が髪を崩さぬよう軽く撫でた。


更に賑わう境内をぶらりと二人巡る中、伊吹はいよいよ自分の手を握るこの温かい手の男に、後戻り出来ぬ特別な情を抱いてしまっている自分に嘘をつけなくなったのだと、男には決して告げぬ想いを認めて生きる覚悟を決めた。

また同時に、とっくに受け入れ諦めていたとはいえ、いつか男が語り聞かせた物語の主・お七のようにこの身を恋の焔に捧げることが出来るほどもう美しくはない女郎の身を、吉原に来て初めて恨めしく思った。



参拾壱『姉の背中』


夕べは葉月の十五ということで、いつにも増して上機嫌な客達の相手を何人もさせられてうんざりした浜木綿は、気だるさの残る身体にやってられるかと二度寝明けの翌日の昼見世でも相変わらず不機嫌だった。


何故無愛想なのに客がそれなりについているのか、浜木綿自身とんと理解できない。売れたくもない浜木綿にしてみれば、傍迷惑な噺である。

吉原では仲秋の名月の月見に登楼した客に、女郎は片月見は縁起が悪いと言い菊月の後月見も来るようにねだるものだが、浜木綿の場合は頼みもしないのに勝手に約束して言った客ばかりで、一月後またあいつらの相手をせねばならぬのかと今から憂鬱になる。


浜木綿は煙管盆に灰をひとつ落とし、張見世中でも楽しそうに双六遊びに興じている女達をいっそ気楽で羨ましく眺めていた。とはいっても混ざる気分でもなければどちらかといえば呆れているほうなので己があの輪に参加する気は毛頭ないので、懲りもせず律儀に誘われる度「やるもんか」と断っているのは毎度のこと。


ふといつも姉女郎が座っている場所に目を移せば、自分と同じように煙管を吹かすこともあれば遊び事に揚々と交ざることも多い伊吹がじっと手元を眺めていた。

珍しいとはいえ、ここ最近このような姉の姿をよく目にするようになった。今年に入った頃からか、少しずつ伊吹の雰囲気が変わってきたのは、浜木綿を初め近頃は他の女達も気づき始めていた。

以前の伊吹はよく笑っていてもどこか冷めた色の目をしていたのが、円くなったというのか本当に楽しそうに笑い、時折どこか遠くを物憂げな顔をして眺めている。先日の縁日を過ぎた頃からか、誰かから貰ったのであろう新品の櫛を大事そうに手に取っては、まるでお守りのように触れている姿を度々見かけるようになった。


「伊吹」

客がついたのだろう姉女郎の名が呼ばれると、いつもと変わらぬ馴れた仕草で煙管を盆に置き大階段にばたりばたりと上草履の音を響かせて見慣れた小さな背中で二階へ上がっていく。その背を見送る浜木綿の脳裡に、何かあったのかとあの縁日のあと問うた己に「何もないよ」と出掛けとは違う表情ではぐらかした姉の様子が浮かぶ。

いつもと変わらぬ姉の後ろ姿なのに、日に日に何処か手の届かない遠くにあっという間に行ってしまいそうな焦燥感を拭えない浜木綿に、「どうしたんだろうね、最近の伊吹さん」と双六に興じていた筈の伊織や初雪、吾妻達が声をかけた。

「さぁ、知らない」と応えることしかできなかった浜木綿は、この郭の中では一番近くにいる筈の慕う姉のことを何も知らない自分に、何故か胸の痛みを覚えた。



参拾弐『拠り所』


四ツ刻(午前10時頃)から九ツ(正午頃)までの僅かな時間、明け六ツ(朝6時)に客を送り出した女郎達が二度寝から起きて身仕度や朝飯などを済ませている風景はどこの見世も変わらない。


そろそろ髪結いの直五郎が来る頃かと、大部屋に降りてきた芙蓉を、「姉さん、見て」と妹女郎の鶴巻が弾んだ声で呼んだ。


見世の女達の殆どが集まって何やら賑わっているようで、何事かと芙蓉も鶴巻の指差す方を覗いてみると、沢山の反物がところ狭しと並べられている。そろそろ冬の着物を誂える頃と呉服屋が商売に来たようで、やっと蝉の声が鎮まったと思ったらもうそんな時分なのかと気づく。吉原でも指折りの大見世ともなれば、さすがにどの反物も値がはるであろう豪華なものが色とりどり広げられている。

「綺麗だ綺麗だ」と無邪気にはしゃぐ鶴巻の姿に、随分此処の生活に馴染んできたと安堵する。未だ歳も幼く吉原に来て日も浅い鶴巻は、芙蓉を姉女郎として面倒を見てはいるが立場は禿である。しかし何れこの娘も身体が育てば正式な女郎となり自分達と同じ道を歩むだろう。そしてまた傷付くことになるのは避けられぬのだと思うと、無力は承知でも出来る限りこの笑顔を守ってやりたいと未だ何も知らない妹の頭を芙蓉はそっと撫でた。


「芙蓉姉さんはきっと深緑も似合うよ」と勧められ、傍で見ていた勝山にも「鶴巻は見立て上手だ」と後押しされた。

「ならお返しに、鶴巻の新造出しの時は私がとっておきの着物を選んであげるからね」と芙蓉が言えば、鶴巻は「約束ね」と指切りげんまんをした。


其処へ、いつの間に来たのか直五郎の「楽しそうですね」との声が響き、直五郎になついている鶴巻が嬉しそうに駆け寄った姿に、女達は皆まるで親子だと笑った。


勝山の髪を結っている間に早速件の着物の誂えを頼み終えた芙蓉は、自室で直五郎にいつものように髪を結わえ直して貰っている。


「鶴巻がすっかり明るくなって、芙蓉さんに任せて良かったと勝山さんが言ってましたよ」


直五郎の言葉に、皆買い被りだと目尻を下げながらも、妹の笑い声が聞けるようになって芙蓉も嬉しかった。


「橘さんもこんな気持ちだったのかしらね」

「きっとそうですよ」


直五郎との会話では、亡き姉女郎・橘の話題を遠慮せずすることが出来る。橘を喪った一年前、一時はまるで脱け殻のようだった自分は勝山や鶴巻達、そして直五郎に随分救われたと改めて芙蓉は思う。


「直さんの言った通りだったわね」


「妹女郎が出きればきっと楽しくなる、まだまだこれからですよ」と直五郎は鏡越しに微笑む美しい女に柔らかな声を返した。



参拾参『秘め事』


所詮お針の身の上である己が、生涯纏う機会なぞ在りはしないであろう深緑色に金糸の模様が控え目なれど艶やかな反物。勤めている郭の女郎が着る着物を仕立てるのが仕事である妙は、先日冬用にと芙蓉が選んだ反物に針を通していた。


仕立てを待つ他の女の着物も数多あればお針の娘も幾人もいるというのに、何故よりにもよって己が一番憎んでいる女の着物を任されねばならぬのか。お針衆の長に渡されたのは偶然であれば、己の裡に秘めている髪結い男への想いを知る者なぞ誰も居ない故に、仕事を厭だとは云えぬとは重々承知している。この深緑を纏い雪の白を背、絹の黒髪と紅を引いた件の女は殊更に美しいであろう。しかもこの女は、看板の勝山に次ぐ人気というのに奢ることもなく郭の女は勿論のこと己ら下働きの者にも目をかけ柔らかい物腰で言葉をかけてくる器量よしで当然女を嫌う人間なぞ居るわけもなし。

惚れた腫れたの野暮がなければ妙も素直に慕っていたものを、先日手に入れ懐に忍ばせ続けてあるこの小さな包みの中身をいつ着物の持ち主に含ませようかと迷っているとは誰ぞ夢にも思わぬであろう。


年頃の女が裡に秘めたる甘美な男への恋慕、その相反する醜く穢れた嫉妬とは、抱え続けるには何と重苦しいものよ。この秘め事を口にする機会も聞かす相手も持たぬ女であれば、これをとめる者など居ないことこそ不幸であった。



参拾肆『胸の裡』


ずっと前から女郎という名の女ではあれど、あの男に出会ってからというもの本当の女としての喜びともどかしさを知った自分に、伊吹はつくづく男女の機敏とは難しく難儀なものだと溜め息が出る。


先頃そそくさと帰って行った客を見送り、登楼する折は夜見世の始まる暮六ツ(日没)より間もなく顔を見せ朝までひとりの女を傍に置く男であれば、もうじき引け四ツ(九ツ、零時)を回る刻なれば今日は待ち人は来ないのかと沈む心を隠せずに男の寄越した櫛を恨みがましくひと撫でする。


何時からあの男を心待にし、男に名を呼ばれたいとまで願うようになったのか。女の変化になど、通い形ばかりは床を共にしていてもおそらく男は気づいては居るまい。この商売には邪魔でしかない想いを告げようなどとは努々女も考えてはいないが、好いてしまった男には未だ触れられず望まぬ男達にばかり喰われ続けることに今更ながら苦痛を覚えては、彼の男に抱いて欲しいと願えど易く乞えぬ己はすっかり男に溺れてしまっているのだと知る。


もう今日は客も来ぬであろうと格子をついと眺めれば、「伊吹」と己を呼ぶ声にもしやと胸が震えた。



参拾伍『駆け引き』


吉原とは男女が仮初めの恋の駆け引きに興じる場なれば、一に顔、ニに床、三に手と仕組まれた術を以て女達は男に呑まれぬよう上手く立ち回り都合の良い女を演ずる。床惚れさせこそすれ、感じるなど惚れるなどあってはならぬと教えられ、こうして部屋持ちとなるまで数多の男に金を出させてきた伊吹という女もまた、こいの遊びという駆け引きには負け知らずといえる。


しかし夜見世も終いという頃合いで漸く顔を見せた待ち人は、女に割り当てられている何時もの部屋の床の上で、また常と変わらぬ風体で「待たせて悪いな」と悪びれもせず冗談目かして笑った。

本当に女が男を待っていたとは、男は思いもせぬのであろうとは伊吹の胸の裡。


酒と煙草を枕下に寄せてまた他愛ない話しに興じれば、あの縁日の逢い引き以来枕下に同じく置くようになった梅の櫛に「気に入ってくれたか」と嬉しそうに呟いた。


お前に貰ったものならば直のこと、などと愛い町娘のような本音などは告げられぬ伊吹は、「使わないとバチが当たるだろう」と愛用の煙管をくわえて誤魔化した。


今夜も裾を乱すこともなくふたり収まった蓐の中でする竜臣との脈絡もない会話、「そろそろ冬支度だろう」と隣の男はまた唐突に話題を振る。


「そういやもうそんな時期か」と返せば、以前冬から夏の衣替えの折りには呉服屋から着物を買い新調することを知らなかった男は、次こそは床花(とこばな、祝儀)を弾んでやるから自分好みの色を誂えろと本気か冗談かという声で囁いた。


耳を擽る男の吐息に負けてなるかと伊吹は素知らぬ風を装い、「三両が相場なんだからあんたはいくら出してくれる」と笑い、「粋を気取るなら惣花(そうばな、郭全員への祝儀)くらい出してみろ」と男を見上げれば、「お前以外には貢がない」と竜臣の温かな手が伊吹の白い頬を撫で、言葉や仕草ばかり気前のいい狡く性質の悪い男に引っ掛かったものだと伊吹は内心白旗を挙げた。



参拾陸『獸の手』


姉に吊られ誂えたばかりの朱色に白い花柄がやけに可憐な着物は、冬物とあって暖かくもやはり夏物よりかははるかに重い。


その裾を引き摺る浜木綿は、漸く帰った客の名残をさっさと流し頃は引け四ツを過ぎていればやっと眠れると床を目指して仄暗い闇の廊下を歩いていた。


大部屋からはあちらこちらで、薄い屏風越しに泊まり客が競うように幾つかの組の声が響いている。聞きなれうんざりする声に馬鹿みたいと溢して、きっと泊まり相手ではない女達は早々に粗方寝たのであろう浜木綿の周りの闇の中で動く人影はない。


と、向かう先の暗闇からいつの間に現れたのか、格子から差し込む月明かりを頼りに浜木綿の目が一人の男の姿を映した。同じ郭の若い衆ならば顔は知っているが、話したことは記憶にない程の男で自分に懸想しているなどと傍迷惑極まりない噂の二階回しの銀次郎であった。


関わらぬが最善と心なしか足を早めて目を合わさぬように遣り過ごそうとした刹那、男の無遠慮な手が浜木綿の細い腕を掴み物置部屋へ連れ込むかのように逃げようとする痩躯を男の身体が壁へと力付くで押さえつけてきた。


粗い呼吸で無理矢理合わせてきた男の目は、床に引きずり込む客にも劣らぬ程にぎらついた獸のような光で浜木綿を捕らえんとしていた。


「離せ、しれものが」と罵りもがいても、本気で事に及ぼうとしている男の前では何の差し障りにもならない。


いよいよ以てなす術のない浜木綿の首筋に、「浜木綿」と愛しそうに男は鼻を寄せ始めた。


馴れた行為とはいえ、何故仕事でもないところでこんな変な男の欲に付き合わなければならぬと浜木綿には我慢ならぬ。


其処へ、神か佛か信じてはいないが浜木綿の為に寄越したのかとおぼしき頃合いで女の怒鳴る声がこの場を壊した。


「何をしてるの、女郎に手を出すなんて」と歩み寄って来たのは、この郭の花魁・藤袴(ふじばかま)であった。


助かったと男の手から逸早く抜け出し、少し乱された袷を直す浜木綿を見た藤袴は、「大丈夫かい」と浜木綿を気遣う。


人心地着いた浜木綿は、この騒ぎの被害者というのに、売れっ子の藤袴が来るとは泊まり客はいないのか珍しい、と暢気な事を考えた。


「銀次郎、あんた郭の掟を知らぬ筈もあるまいに。女郎に手を出すとは何事か。遊びたいのなら、コツ(小塚原町の遊里)にでも行きな」といつもの穏やかさからは想像出来ぬような剣幕で男を叱りつける。


「今回は未遂で見逃してやるが、次はないよ」と藤袴は銀次郎に捨て置くと、浜木綿の背をそっと押して男をその場に二人は廊下の置くに消え、残された男は愛する女を逃した悔しさに握り拳で壁を殴り付けた。



参拾漆『ふゆのあしおと』


神無月。吉原は冬を迎え、冷える冷えると騒ぐ女達の為に大火鉢が出された。


浜木綿があの夜の事は伊吹にも言わなくていいからと藤袴に告げていた為、女達はいつも通り変わらぬ日々を送っている。


藤袴が言っていた郭の掟とは、郭で働く若い衆は秩序を守る為同じ郭の女郎に手を出すことは禁じられているということである。とはいえ、やはり男女の仲とは縛れぬもので、間夫のように裏茶屋などで女郎と密会したり、人目を忍んで行灯部屋や物置で情交に耽るものは後をたたない。その末路はというと酷い仕置きはもとより、男は吉原を追い出され、女は他の郭に鞍替えされる。同意の上ではない浜木綿の場合の女の処遇は解らぬが、とりあえず難を逃れて助かったとは浜木綿の胸の裡。終わった事で変な心配をかけたくないので、姉女郎にも報せることはしないが、伊吹が知ろうものならばとことん後悔させられた上できっと銀次郎はとっくに郭にはいないだろう。


火鉢の前でぼんやり暖をとる浜木綿に、伊吹は「早くしないとゆうの好きなぼた餅なくなるよ」と女達の輪の中からおいでおいでと手招いた。


今日は月のはじめの亥の子の祝い(収穫祭)なれば、浜木綿のように甘味に目がない女達にもさぁ食えとぼた餅が振る舞われる。


伊織や初雪などにまで「浜木綿は相変わらずだね」と笑われながらも、憂さ晴らしには食うに限るとの思考の浜木綿はいつもは重い腰を持ち上げ皆の輪に入っていった。



弐拾㭭『陰り』


芙蓉の身を置く郭でもぼた餅が振る舞われ、甘味に喜ぶ幼い鶴巻の横顔に、近頃顔を見ていない実の妹・浜木綿も今頃幸せそうに餅を食っているだろうなと笑みが溢れる。


「芙蓉姉さん、そのお着物似合うね」、先月仕立てた深緑の艶やかな羽織を纏っている芙蓉に、鶴巻が「私のいった通りだ」と胸を張って見上げてきた。


その様子に、勝山や他の女達も冗談目かして「じゃあ今度は私達のも見立てて貰おうか」と賑わう。


其処へ通りかかった妙を呼び止めた芙蓉が、「綺麗に仕立ててくれてありがとう」と微笑んで礼を述べれば、「いえ、」と妙はひとつ会釈してその場を立ち去った。


美しい女達の楽しそうな笑い声を背に、妙は己の着物の裾を皺が出来るほど握りしめた。


何故私の好い人を奪っていく女はああも美しく綺麗なのか。

目を閉じれば、先日も二人が仲睦まじそうに話していた姿が脳裏に映る。日に日に近くなっているように映る男と女に耐えられなくなっている妙は、これから好かぬ男との逢い引きに裏茶屋へと赴くところであった。



弐拾玖『矜持』


事を終え望みを叶えた相手の男は、喜色満面の笑みを浮かべて寝乱れた女を置いて仕事に遅れてはと妓楼に帰って行った。


残された女・妙も生々しく残る身体中の穢れに吐き気を覚えるも、時間の猶予も無ければ水を含ませた手拭いで拭うのみで男の後を追うように自分も妓楼へと戻るべく裏茶屋の暖簾を人目につかぬように潜り抜けた。


逢い引きした男は、かねてより自分に言い寄っていた同じ妓楼で働く料理番(賄い専門の飯炊き)の太兵衛という男である。直五郎への恋の焔に身を焼かれ、芙蓉を亡きものにしようと毒盛を企てた妙は思案の末、太兵衛に薬を渡し芙蓉の飯に毎日少しずつ混入させようと考えた。抱かせてやる変わりに、自分の望みを叶えよと持ちかけて。この苦痛を耐えれば女を消せる、直五郎の為だと思えば、好かぬ男に破爪の血を流すことも出来た。笑わば笑え、これが己の矜持なのだと。


頬を見苦しく伝う滴を隠す為か、男の穢れを流す為か、何時から降りだしていたのか秋の冷たく強い雨が重い足取りの妙の身体を濡らす。


これで良いのだ、後悔などあろう筈もない。あとは男が約束を守れば万事上手く行くのだ、己に言い聞かせる妙の目にはもう光など宿ってはいなかった。


遅い足取りでようやっと辿り着いた妓楼の張見世前では、夜見世が始まっていることを知らせる清掻(すががき、三味線やお囃子)の当番であろう振袖新造の娘が二人、道具を渡した、渡さないの問答をする声が響いている。

またやっているのかと呆れる妙は、口を挟むほど人も良くないのでさっさと素通りして暖簾を潜った。


何処に行っていたの、風邪なんて引くんじゃないよ、と声をかけてきたのは内証から出てきた楼主の女房だった。


はい、と殊勝に遣り過ごし、何か言われる前にお針部屋へと向かう。


暖簾の先では、表に出ていった女房が「また無くしたのかい」と、清掻当番の喧嘩する二人を叱りつける威勢のいい声が聞こえた。



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