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この道の先に  作者: 奏多悠香


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9 子鹿の瞳

 早朝、皇子はニラがやって来る頃合いを見計らって「落し物集積所」の前に立っていた。

 思えば誰かを待つ、という経験はあまりない。

 皇子という立場ゆえか、人を待たせることはあっても待つことはなかった。


「皇子」


 横から声を掛けられた遠慮がちで小さな声に、皇子はそちらを向いた。

 その小さな姿を視界にとらえ、心臓が奇妙に揺れる。


「時間ができたので、そなたが現れるんじゃないかと思って待っていた」


 現れるんじゃないかと思って、というのは控えめな言い方だ。ここでの仕事のためにニラが必ず現れるとわかっていた。だがそう言うといかにも待ち伏せていたという感じが出てしまいそうで、つい妙な言葉を選んでしまった。

 だがニラは言葉を気にした様子はなく、そうでしたか、と言いながら木桶を地面に置き、次の言葉を待っている。仮にも皇子に向かって「何の用だ」とは聞けないのだろう。

 王子は小脇に抱えていた紙袋を押し付けるように差し出した。ニラは目の動きで戸惑いを示しながらも、おずおずと手を出して受け取った。そして、窺うような視線を投げてくる。中身は何か、と問うているのだ。


「薬草の種をいくつか手に入れた。私が名前を聞いても何の草だかさっぱりわからなかったが、モーリスなら知っているだろう。それから、この本を」


 そう言って差し出したのは革表紙の分厚い本だ。

 種も本も、オード帝国の本城にわざわざ使いをやって取り寄せたものだった。

 ニラは服の裾で丁寧に手を拭ってから本を受け取ると、頭を下げ膝を軽く曲げて礼をとった。


「ありがとうございます」

「いや、薬草の栽培がうまくいけば我々としても助かるからな。戦で傷ついた兵が癒えるなら喜んで協力しよう」


 そう言うと、ニラの顔に翳りがさした。

 眉毛を少し寄せ、不安そうな顔で「……また新たな戦が……?」と問うてくる。


「いや、そういうわけではないが。先の戦で傷ついた兵が今でも苦しんでいるからな」

「そうでしたか」


 あからさまにホッとしたような表情に、思わず問いかけた。


「そなたは戦が嫌いか」


 ニラは答えず、ただまっすぐにこちらを見つめている。


「嫌いか」


 もう一度問うと、今度はゆっくりと口を開いた。何度見ても小さな口だ。こんな小さな口でよく物が食べられるものだ。それとも、この口だからこんなにも痩せているのだろうか。


「わかりません」


 返答は肯定でも否定でもなかった。

 が、戦の先鋒を走る自分にとっては愉快な答えではない。


「ただ……家族を失うのは誰にとってもつらいことですから」


 小さな口からははっきりとした言葉が紡がれたのに、それと対照的に大きな瞳は不安定に揺れて見えた。


 ――誰にとっても?


「そなた、戦で家族を失ったのか」


 尋ねると、ニラは一瞬目を逸らしたあと、こくりと頷いた。

 それなのに城砦で働いているのかと、皇子は意外に思った。

 城砦は戦のために築かれたものだから、むろん戦場に近い。戦で家族を失った人間の多くは戦場には決して近づきたがらない。若く、聡明そうなこの娘ならば本国でも仕事を見つけるのは容易いだろうに。なぜこの場所で働くことにしたのだ。


「……ウラジム侵攻の際に二人の兄を。双子でした」


 ウラジム侵攻というのはつい一年前、この砦を拠点に東側に位置したウラジムとの間で起こった戦だ。数や戦法で圧倒的にオード帝国の優勢だったためにあっという間にカタが付き、オード帝国側の犠牲は小さかった。

 犠牲者の名簿を作らせて目を通したが、その中に兄弟で亡くなった人はいなかったように思う。それに、兄は双子だという。帝国では双子は忌み子とされ、幼い内に養子に出されるのが通例だ。だから、双子の兵となれば記憶に残っていないとおかしい。

 皇子ははっとした。

 オード帝国側にいないとすれば。


「そなた……もしかしてウラジムの出身か」


 鋭く問うと、ニラは一瞬怯えたように目を泳がせた。


「いいえ……ナヴィニアです。ウラジム侵攻の際にナヴィニアでとらえられ、モーリス様に拾っていただいて今の仕事に……」


 ナヴィニア。

 その名を聞くなり、皇子は目を閉じた。

 ナヴィニアはウラジムの隣国で、ウラジム侵攻の際にウラジムに与してオード帝国に刃向ったため、攻め落とした。


「それなら、そなたはなぜオード語を話せるのだ」


 ナヴィニアとウラジムの母語はウル語という言語で、オード語とは全く異なる言語だ。それなのに、この娘は随分と流暢にオード語を操る。何の違和感を抱くこともなくニラをオード帝国の人間だと思い込んだのは、おそらくそのせいだ。


「幼いころに父が教えてくれましたので……ただ、やはり母語ではないせいで、あまりうまく話せないことも。あの……申し訳ありません。ご存知だとばかり……」

「いや。かまわない。別にそなたを責めているわけではない。ただ……」


 心に浮かんだ言葉があった。


 ――私が憎くないのか?


 それをこの娘に聞いてしまうのが怖くて、言葉が出てこなかった。

 複雑な思いを抱えたままニラと別れて部屋に戻ると、モーリスが待っていた。悪びれもせず皇子の椅子に腰かけ、挨拶代わり手を上げて見せる幼馴染の姿になぜか苛立ちが募る。


「モーリス、なぜニラがナヴィニア出身だということを黙っていた」


 自分で思っていたよりもはるかに強い口調になった。だが、モーリスが怯む様子はない。


「聞かれなかったからだ」


 モーリスはひょいと肩をすくめた。時折この男が見せる妹にそっくりのしぐさが腹立たしい。


「くそっ」


 拳で自分の額の真ん中を軽く叩きながら、思わず言葉が漏れた。


「ご機嫌ななめはそのせいか。最初から知っていたら何か変わったとでもいうのか」


 モーリスの言葉に顔を上げた。

 相も変わらず、妹にそっくりの顔つきでこちらを見つめている。


「少なくとも後から知って驚くことは無かった」

「それで? 驚いたから何だと言うんだ。ニラはニラだろう。何か違うのか」


 モーリスの言葉には遠慮がない。主従の関係を超えた友情がそうさせているとわかっているし、普段はむしろそうあることを望んでいる。だが今日は、無性に腹が立った。


「ニラの話すオード語は驚くほど綺麗だから気付かないのも無理はない。私も初めて話したときは驚いたよ。それで? 知った今、何か変わるのか。あの子が捕虜としてこの国に来たって知ってたら、もっとぞんざいに扱ったか。軽んじたか」

「そんなことは言っていない」

「それなら、何が不満なんだ」

「不満なわけではない。違う。ただ……」

「知っておきたかった、か。目の前にいる少女の故郷を滅ぼしたのは自分だという事実を。知っていたらもっと同情したのに? もっと食料をたくさんやったのに?」

「何が言いたい。お前は私を非難しているのか」


 痛いところを突かれ、腹にくすぶっていた何かにぼっと火がついた。凄みを利かせてうなり声を上げると、幼馴染みは両手を上げて首を振った。


「そうじゃない」

「それなら何だ」

「むごい」

「何がだ」

「すべてが」

「すべて……?」


 戦のむごたらしさなど、この男の口から聞くまでもなく、よく知っている。

 だが、戦はオード帝国にも犠牲をもたらした。家族を失ったのはあの娘だけではない。こちらだって大切な兵を失ったのだ。


「戦の犠牲は何も……」

「あの子の父親はもう、長くないんだっ」


 モーリスはわずかに声を詰まらせた。

 何と言葉を返せばいいかわからなかった。

 褒美をと言った時、彼女は一番最初に父親のことを願っていた。父親のことがよほど大切なのだろうと思った。


「父親が最後の家族だと言っていた。戦ですべてを失なって、唯一残ったのが父親だと。それなのに……」


 恐れていた言葉がモーリスの口から零れ、ぐっと奥歯を噛みしめた。

 モーリスはそんな皇子をじっと見つめ、ひとつ小さなため息を吐き出した。


「すまない。どうしてやることもできない自分の無力さに苛立っていただけだ。ただの八つ当たりだ」


 そう言ってからモーリスはゆっくりと語り始めた。


「私がニラに初めて出会ったのはナヴィニアの城が陥落した日だった。混乱の中、私は後方で負傷兵の治療をしていた。そこに捕虜が大勢連れて来られていて、ニラはそのうちの一人だったんだ。人手が足りなくてね。走り回っていたとき、あの子が黙って、近くにいた負傷兵の手当てを始めたんだ。捕虜に負傷兵の治療を手伝わせるなんて聞いたことがなかったから驚いたが、フードの下の瞳を見て本気だと思った。手際もよかったし、すぐに彼女に続いて彼女の父親も手伝ってくれた。二人のおかげでずいぶん助かったよ。そしてそこに……英雄が運ばれてきた」

「英雄?」

「ナヴィニア城を陥落させ、敵の副将を討ち取った英雄だよ」

「つまり……」

「ハミルトンだ」


 ウラジム侵攻の折に皇子は将軍としてウラジムへの軍勢を率いており、時を同じくして別の隊がナヴィニアに攻め込んでいた。

 その別隊にいたのがハミルトンだった。後に聞いたところによると、交戦の状況はそれほどオード帝国の部隊にとって易しいものではなかったらしい。殊にナヴィニアの城を守る騎士団は強豪揃いで、激しい死闘が繰り広げられたという。そんな中、ハミルトンが敵の副将であるナヴィニアの王子を討ち取ったおかげで戦闘は終結した。


「彼が運ばれてきた瞬間、負傷兵からは拍手と歓声が沸き起こった」


 その様子は容易に想像できる。

 兵にとってみれば、命の恩人ともいうべき英雄なのだ。

 その功績を誰もが称えたことだろう。


「ハミルトンもかなりの深手を負っていてね。すぐに手当てをしてやりたかったが、包帯も薬も足りていない。いくら英雄とはいえより重傷な兵を差し置いて彼だけを特別に扱うわけにはいかないから、私は傷の酷い者から順に手当てを続けていたんだ」


 そう言ってモーリスは何かを思い出すように目を細めた。


「そしてふと顔を上げた時、ニラがハミルトンの手当てをしているのが見えた。自分がかぶっていたフードの布を引き裂いてそれを結び合わせ、包帯にしたらしかった」


 言葉が出なかった。

 オード帝国の英雄……つまり、ニラにとっては、自国の仇。

 

「まさか……」


 ――そんなことが、できるものなのか。


 モーリスに尋ねても仕方がないとわかりつつ、ささやきのような力ない言葉が漏れた。


「憎しみの感情を持っていないわけではないはずだ。ただそれ以上に、血を流している人をほおっておけない、苦しんでいる人をそのままにできないのだと思う。あの時の姿をみて、あれはきっと本能のようなものなのだろうと思った。だから私の下で働いてみないかと声を掛けた」

「危険だとは思わなかったのか」

「とりあえず危害を加えられることはないだろう。そう思ったから雇ったし、彼女の父に城での仕事を与え、長屋を用意した」

「いつの間に……」

「君が戦後処理に駆けずり回っている間、私はあの子を助手にするために駆け回ってたんだよ。逸材だと思ったからね。実際、本当にすばらしい助手を得て大満足だ。吸収も早いし、器用で頭もいい。いずれ私の知識なんか軽く超えてしまうだろう。きっと親から受け継いだ才能なのだろう」

「親?」

「ニラの父親はかつてナヴィニアの参謀だった人物だよ」

「何だと?」

「ナヴィニア王家の側近だ。もう引退して久しいけどね。たぶんニラが子供の頃にはすでに現役を退いていたと思う」

「何故そんなことを……」

「知っているかって? よもや私の本業を忘れたわけじゃないだろう?」


 モーリスはもともとオード帝国屈指の諜報員だった。勢力を東に拡大するに当たって、誰よりも活躍したのはこの男だと言っても過言ではない。

 セリアとの結婚を機に裏の仕事を減らし、今は医者として活躍しているが、その薬草の知識なども元をたどれば諜報活動のために身につけたもの。そのモーリスなら、他国の権力者の情報を握っていても不思議はない。


「現役を退いているとはいえ、そんな人物をよくこの城で働かせたな。それも私に黙って」

「危険な行動には出ないだろうという確信があったからな」


 事も無げに言ってみせたのがこの男でなければ、叱りつけているところだ。


「なぜ確信できる」

「ニラのためだよ」

「どういうことだ」

「あの親子は本当にお互いを本当に大切に想い合っている。父親が何かしでかせばニラにも咎が及ぶことをちゃんとわかっているから、絶対に何もしないと確信があった。ある意味、ニラを人質にしたようなものだ」

「父娘関係が偽りの可能性は?」

「もちろん考えたさ。だからあの父娘が長屋に住んでいたころから様子を窺っていた。彼ら父子を私の家に住ませることにしたのも、親切心だけが理由ではない。だが、一緒に暮らしているとよくわかる。彼ら常に互いのことを気にかけているし、幼いころの思い出話などをしているのも耳にする。偽りの関係とは思えないよ。それに、何かをたくらんでいるような気配もない」

「……お前は相変わらず恐ろしい男だな」


 絶対に敵に回したくはない。


「まぁ、ニラの父親は私の魂胆に気づいていたと思うけど、ニラのために従っているんだ。あれも相当に恐ろしい男だと思うよ」

「しかし、城での仕事などよく見つけられたな」

「ああ、無理やりねじ込んだ」

「どうやってそんなことを……」

「これでも皇子の義弟だからね。恩を売っといて損はないと思ったんだろ。割と簡単だった。まぁ、あんなに怖い嫁さんもらったんだからそれくらいは良いことがないと」

「お前、セリアに聞かれたら殺されるぞ」


 妹が怖いのは全くその通りだが、兄としては、この男の言い草は気に障る。


「まさか。大丈夫だよ。私たちの愛の深さは疑いようがないだろう? 第三子まで誕生してしまったくらいだし」

「義兄に向かってよくそんなことを口にできるな」

「義兄である前に、幼馴染だからね」


 そう平然と言ったモーリスは、何の用で部屋に来ていたのかを尋ねる前に姿を消していた。

 その夜、ベッドに寝そべって天井を見つめながら王子はぼんやりと故郷の森でのできごとを思い出していた。

 いつか狩りで鹿を射たことがあった。確かに仕留めたと思ったのに、深手を負ったはずの鹿は驚くほどの距離を逃げ続けた。犬と共に後を追い、岩場にたどり着いたところでようやく気づいた。その鹿は自分の子に会うためにそれほどの距離を走ったのだと。

 子鹿の前で倒れ込んでからほどなくして、親鹿は動かなくなった。子鹿はしばらく親鹿の周りを歩き回った後、寄り添うように座り込んだ。

 仕留めたはずの親鹿を連れて帰る気がどうしても起きなくて、皇子は結局その場に亡骸を残して立ち去った。子鹿のそれからの運命を思うと、山から下りる足取りは鉛のように重たくなったのをよく覚えている。

 ただただ、どうか生き延びてほしいという思いが込み上げてきて、親鹿を仕留めたのが自分だということも忘れて子鹿のために祈った。

 ふいに、あのときと同じ、えもいわれぬ感情がこみあげてきた。

 罪悪感でもなく憐憫でもない。

 ああ、そうだ。

 初めて会った日にニラを動物に似ていると思ったのはこれだったのだ。

 倒れ込んだ親鹿に寄り添うように立ち尽くしていた子鹿の瞳には憎しみや悲しみはなくて、ただただまっすぐに生きようとする意志だけが宿っているように見えた。

 それと同じ意志を、あの目に見出したのだ。


「私は何をやっているんだ」


 子鹿がその後どうなったのか、結局知らないままだ。

 もしかすると、生き延びただろうか。

 どうか生き延びていて欲しい。

 皇子は故郷の森を思いながら、窓から流れ込んできた隙間風に背を震わせた。




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