8 星降る夜
――『星がきれいだ』
そんな声に誘われるように澄んだ冬空を見上げたのはいつだったか――
星が降る空の下、ニラは下を向き足早に歩いていた。
朝起きて朝食の準備をし、薬草の世話を済ませて城に行き、落し物を川に運び、川沿いに植えた作物の苗や薬草の種の様子を記録し、いったん城に戻って湯浴みをし、モーリスの仕事場に寄って……
長い一日がようやく終わり、心地よい疲労感に包まれている。仕事を終えた後の城での湯浴みは冷えた体を芯まで温めてくれ、思わず湯の中で眠り込んでしまいそうになるほど気持ち良かった。
それに、今日はいいことがあった。
沈みがちなニラの心を照らしてくれたのは、意外にもあの若者、ダミアンだった。
城での仕事の最中、いつも通り木桶いっぱいに落し物を汲み上げ、それを天秤棒の両端に釣るして担ぎ上げようとしていたときだった。「あー」という声が聞こえてふと見上げると、何やら気まずそうな表情を張り付けたダミアンが立っていた。
先日初めて会ったときにはニラを疑うような言動を繰り返し、ニラに対して敵意すら抱いているようだったが、今日はそういったものは感じられなかった。
「これ、やる」
ぶっきらぼうにそう言ったダミアンが目の前に押し出してきたのは、手押し車だった。状況がわからずにニラが目を白黒させていると、ダミアンはニラの肩から天秤棒を取り上げ、その先から木桶を外して手押し車にどさりと乗せた。
「これなら、いっぺんにたくさん運べるだろう。そうしたら一度で済むし、肩に担がなくていいから体への負担も小さい」
どうやらニラの仕事を楽にするために押し車を持って来てくれたらしいとわかって、ニラは素直に礼を言った。
それに答えたダミアンの表情はなおさら険しいもので、「こないだだいぶ疑っちまったからな。グレンにも絞られたし。借りは作らないタチなんだ。それに、お前の代わりにこれからもちょくちょくこの仕事をやらされそうだからさ。俺のためでもあるんだ」と早口で言った。
案外悪い人ではないのかもしれない。
ニラはそう思って、もう一度頭を下げ丁寧に礼を言った。
「ありがとうございます、ダミアン様」
ダミアンは途端に挙動不審になった。
「あんた、歳いくつだ」
「もうすぐ十七です」
「なんだ。俺より年上か。俺は十五になったばっかだ。ダミアンでいい。様なんてつけられるような身分じゃない。飢えて木の根っこをかじってるところをグレンに拾われたんだ。運が良かっただけだ」
つっけんどんな口調が照れ隠しだとわかってしまえば、この少年が可愛くも見えてくる。年下だとわかったせいもあるのだろうか。
「運だけで皇子の近衛にはなれないでしょう?」
皇子というだけではない。列国最強と名高いオード帝国の将軍。そんな男の側近なのだ。只者ではないのは確かだろう。
「まぁな。木の根っこを掘り出すのは誰より早かったし、足も速かった」
「それを人は、天賦の才と呼ぶのでは?」
「そうかもな」
「どうして……近衛になろうと?」
それは本当に軽い気持ちで発した言葉だった。
だがダミアンは少しも考えることなく、滔々(とうとう)と言った。
「ただ皇子を守りたかったからだ。見ての通りグレンは常に皇子の傍にいたから、グレンに拾われて以降俺も皇子と接する機会が多かった。それで、国を守っている皇子を、俺は守りたいと思った」
それは少しも意外な答えではないはずなのに、ニラには新鮮な驚きだった。
守りたいから近衛に。
何とシンプルで、何とまっすぐな。
「だがまぁ俺は本能的に自分を守っちまう癖があってな。大変だった」
「自分を……?」
「そうだ。近衛は、自分を守る能力よりも皇子を守る能力を身につけなくちゃならないからな。それでやっと最近なれたんだ。この砦に同行する奴を選ぶ直前だったから、本当にぎりぎりだった」
なるほど、それで。
妙に力の入った護衛ぶりは、そのせいもあるのだろうか。
素直でまっすぐな少年なのだと、ニラは少し明るい気持ちになった。
そんなダミアンとのやり取りを思い出しながら星空の下を歩き、モーリスの家にたどり着いたニラは、玄関先で腰に手を当てて立ち尽くすセリアの姿を見つけた。
「セリア様?」
碧い双眸がニラの姿をとらえ、そして穏やかに細められた。
「ニラ、おかえりなさい。今日も寒いわね。早く中に入って暖炉に」
「ありがとうございます」
湯浴みをし、暖炉の火にあたるなんて。
捕虜としては破格の扱いだろうし、それ以前にこの城砦で暮らす多くの人びとよりも恵まれている気がして、申し訳ない気持ちになるほどだ。
そんなことを考えながら、ニラはセリアの視線の先にあるものに目をやった。
家に入ってすぐの小さなホールにこれでもかというほど大量の木箱が積み上げられている。それは下手をすると階段の上にまで達しそうなほどの高さで、家に入るのに邪魔になるほどだった。
「……あの……これは?」
「兄上から、ニラに」
セリアはため息とともに言った。
「皇子から……?」
「そう。ニラと、ニラのお父さんに」
「あ、もしかして食糧……でしょうか」
指輪を拾った礼、という。
「そう。二人とも小食だから、こんなにはいらないと思うのだけれど」
置かれていたのは十人家族で一か月でも食べきれないほどの食糧だった。
ニラの父は病のせいかめっきり食事の量が減り、ニラもまた、この一年で随分と小食になっている。
セリアは小さくため息をついた。
「メモがくっついてたのよ。『余ったらかわいい妹とその子供たちに』ですって。余る分の方が多いわよ」
とセリアは鼻で笑った。
「それにあの人はいつからそんなに妹想いになったのかしらね。かわいい妹だなんて、一度も言われたことないわ」
ニラはその木箱を見上げ、そして言った。
「あの……この木箱一つ分、いただいても?」
「あら、全部ニラのなのよ? ここに置いておけばいいわよ。量が多すぎて少し邪魔だけど」
「そうではなくて……長屋の人たちに、おすそわけを」
そう言うと、セリアはにっこりとほほ笑んだ。
「さっきのメモの続き。『長屋にも同量の食糧を届けてある。有事のために備蓄している食糧の入れ替えに伴って出た余剰だから気にせず受け取れ』ですって」
長屋にも。
「ニラはきっとそう言うだろうって、わかってたみたいね」
「皇子は……優しい方なのですね」
――そなたはもう少し太った方がいい
あの言葉を思い出して、これはきっと皇子の気遣いなのだろうと思った。
皮肉なものだ。自分からすべてを奪ったはずの人に、今は生きるために何よりも必要な食料を与えられている。
その事実はニラを複雑な気持ちにさせた。
頭と、心と、体と。
つながっているようでいて、バラバラで。
頭ではわかっている。
ナヴィニアが元に戻ることはないし、失われた命が蘇ることはない。
一方で、生きている人の傷はいずれ癒える。血を流していた傷口はやがてふさがり、時とともに薄れていく。それは心に刻まれた傷でも同じで、胸に灯した怒りや悲しみの炎もきっと少しずつ癒えていくのだろう。
だから、その傷と向き合って、そして前に進まなければと。
しかし、心は言う。
忘れてしまえ。そうすれば心はずっと、軽くなる。諦めてしまえ。そうすれば心はずっと、楽になる。希望を持つから裏切られ、何かを得るから失うのだと。
そうして、体が軋むのだ。
向き合うか、忘れるか。希望を抱くか抱かぬか。頭と心が体を引っ張りあうから、それはまるで引き裂かれるような。
頭と、心と、体と。
いずれまた、それらがひとつになる日は来るのだろうか。
山積みの食糧を見上げていたら、なぜだかそんな日が来るような予感がした。そしてそれは一筋の光となって、ニラの心に差し込んだ。
――それなのに。
「……あとたった、三月……ですか……」
顔を上げたら泣いてしまうと思った。
「すまない。私としてもできる限りのことは……」
「いいえ、モーリス様にはお世話になって……そんな、すまないだなんて……」
帰宅したモーリスから珍しく深刻な表情で話があると告げられ、もたらされた情報はニラにとって何よりも残酷なものだった。
父の余命が、あとわずかだという事実。
不治の病に侵されていることも、もうそれほど長くない命だということも知っていたが、それでもどこかで死を遠いものだと思っていたのだ。
「もちろん断定はできない。もっと長く生きられる可能性もあるだろう。だが、すでにかなり痛みを感じているようだし、衰弱もひどい。私の経験からいえば、あと三月ほどだろうと思う」
「そう……ですか……」
父はニラの前では決して痛みを顔に出そうとしなかった。
いつも平然とした表情で笑って見せる。だからわかりにくいけれど、それでもふいに漏れ出すうめき声や、寝ている間の唸り声などで、その痛みが尋常でないことには気づいていた。
「これからは痛みをなるべく抑える治療が中心になると思う。だが、もちろん根治の道もあきらめたわけじゃない。手は尽くすよ。約束する」
モーリスの暖かい言葉に胸が震えるが、どう返事をしてよいかわからなかった。
立ち上がり前を向いても、その度に必ず何かが自分の行く手を阻む。
そうして何より大切なものを失うのだ。
一つ、また一つと。
「……父には……?」
ニラの問いに、モーリスはゆっくりと首を振った。
「まだ何も。君に話してから決めるべきだと思ったからね。君から伝えるのが辛いなら私から伝えてもいいけれど」
しばらく唇を噛んでから、ニラはゆっくりと顔を上げた。
「私が伝えます。きっと父はそれを望むから」
長く戦いの中に身を置き、命の危険にも何度も遭遇してきたあの人のことだ。自身の今の病状だっておそらく薄々わかっている。きっとニラの口から、聞きたいはずだ。
ニラはモーリスに礼を言って部屋を辞し、父と自分の部屋へとつながる階段をゆっくりと登った。足取りは重く、階段を上りきるのにいつもの倍以上の時間を要した。
ドアを開ける前に一度深呼吸をしてからゆっくりとドアノブに手を掛けた。金属のそれが今夜に限ってひどく冷たく感じられて、ニラは背をぞくりと震わせながらドアノブを回し、ドアを内側に押した。
廊下の灯りが薄く開いたドアの隙間から暗い部屋の中に一筋の光となって忍び込み、父の寝顔を浮かび上がらせた。
青白く、痩せこけた頬。
勇猛な師だったころの面影は、もうどこにもない。
『ベルナ……』
口をついて出たのは昔の呼び名だった。
掠れた声は自分の耳にも聞こえるか聞こえないかくらいのかすかな音しか放たなかったのに、彼はゆっくりと目を開いた。
『小さなお姫さま。おいで』
彼も懐かしい呼び名で答え、視線で自分の脇に来るようにと促した。
あの頃に戻ったみたい。
ニラはそう思った。
まだすべてが輝いて見えた頃。
ニラの世界は光に満ちていた。
『部屋の前で入るのを躊躇していただろう? 話しにくいことでも?』
そばに寄ったニラの頭をゆっくりと撫でながら、彼は優しく問いかけた。
そうだった。
この人に隠し事なんて、できっこないのだ。
ニラの気持ちも行動も、何だって知られてしまう。
その並はずれた聴覚も嗅覚も観察眼も、この歳で、この病状でなお衰えてはいないのだ。
ニラは言葉を紡ぐことができずにじっと唇を噛んだ。
『私の体のことかな? それならわかっている。だから気に病む必要はない。残して行く君のことが気がかりではあるが……私は君を知っているし、信じている』
『私は一人ぼっちでも大丈夫ってことを?』
ちっとも大丈夫なんかじゃないのに。
そう叫びたかった。
置いていかないで。
あなたまで私を。
どうかここに残って。
せめて、あなたくらいは。
『違うよ。君は一人ぼっちにはならない』
頭からゆっくりと頬に下ろされた手がニラの小さな顔を包み込む。その手が昔より随分と骨ばっていることに気づいてしまう自分が、ひどく悲しかった。
『ならない……の?』
『ならないよ。空を見てごらん。そこに、君の大切な人が皆いるんだ。みんな君を見守っている』
『そう……かしら』
亡くなった人は星になるというけれど、それは本当なのだろうか。
迷信じみたその話を手放しで信じるには、きっとニラは大人になりすぎた。
『私が一度だって君に嘘をついたことがあったかい?』
『いいえ』
たしかに、この人がニラに嘘をついたことはない。
『だろう? だから大丈夫だ。君は一人ぼっちじゃない。いいね。絶対に忘れるな』
大きな手がニラの頬をゆっくりと撫でる。
『それに私にはまだ残された時間が少しある。その間に、たくさん話をしよう。思い出話は尽きないからね』
ニラはその夜、彼の胸にすがりつくようにして眠った。
師であり、友でもあり、父でもあった人。
どうかこの人の命が安らかに、そして一日でも長く続きますようにと祈ったその言葉は、星空に吸い上げられるようにして消えて行った。