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7 湯浴み

 皇子は馬に乗っていた。

 頬を切る風は冷たく、すこし走らせただけで鼻や耳がキンと痛むが、その感覚が嫌いではない。

 馬に乗っていると、戦場にいるときの昂揚感がよみがえってくる。

 吹き鳴らされる角笛の音、地を駆ける蹄の音、砂塵の舞う中先陣を切って馬を走らせ、敵とぶつかる時の緊張感。体の内側から沸き起こる気勢。鐙に乗せた足に伝わる規則的な揺れが、前へ前へという思いを強くする。

 戦の時と違うのは、今の自分が鎧を身に着けていないことだ。護身用の短剣以外に自分を守るものはない。だがそのことが却って心を軽くした。そしてその身軽さは愛馬のヴァンにとっても心地よいものであるらしく、先ほどから機嫌よく駆けている。

 川沿いの草原を進んでいくと、前方で細い煙が上がっているのが見えた。


 ――何だ?


 目を凝らし、小さな炎が燃えているのを確認する。


 ――たき火、か?


 近づいてヴァンを止め、辺りを見回すが、人の気配はない。

 火をそのままにしておいては危ないと思い、すぐにヴァンから下り、土をかけて火を消した。

 ゆらり、白い煙が立ちのぼる。

 この辺りは草が随分と生い茂っているんだな。

 そう思って辺りを見渡して、記憶にある不愉快な臭いが鼻先を掠めて初めて、ここがあの娘の言っていた「落し物を捨てに行く場所」なのだと気づいた。

 あのニラとかいう娘は確かダミアンに川沿いに十キロほど行ったところだと言っていた。ヴァンで十分ほど駆けてきたから、ちょうどそれくらいの距離だろう。

 そう気づいてみると、もはやたき火の主はニラ以外に考えられないような気がしてくる。

 しかし、辺りにそれらしき姿はない。

 不意に背後から水音が聞こえ、皇子は鋭く振り返った。反射的に、右手が護身用の短剣を掴む。


「……で、殿下っ」


 川の中に人影があった。

 こちらを見て、驚きに目を見張っている。


 ――岩陰にいたせいで見えなかったのか。


 瞬時にそう判断した皇子はその右手を短剣から離したものの、ニラから目を離すことが出来なかった。

 ニラは髪の毛までびっしょりと濡れていて、ほとんど何も身に着けていない。


「あっ」


 凝視されるまでそのことを忘れていたらしく、ニラは自分の姿に気づいて慌てて体を隠そうと身をよじる。しかし細い腕では隠すこともできず、あろうことか冷たい水に体を沈めて視線を逃れようとする。

 皇子はあわててニラを川から引っ張り出して、自分の上着を掛けてやった。つかんだ腕の細さに、折りはしないかと心配になりながら。

 小さな体を覆い隠すには皇子の上着だけで十分だった。

 ニラは上着の前をしっかりと合わせてぎゅっと握りしめ、「申し訳ありません」と言ってこれでもかというほど頭を下げた。

 濡れた髪から水滴が落ち、丸い跡を残して地面に吸い込まれていく。

 何が申し訳ないというのだ。


「ここには誰も近寄らないと思っていたので……まさか殿下がいらっしゃるとは思わず……」

「いや、私のほうこそ済まない」


 皇子は努めて川の方を見ながらそう口にした。


「あの……父のことを、ありがとうございました」


 ニラおずおずと言った。

 あれからすぐに、モーリスの家にニラの父親の世話をする人を派遣した。ニラがそばに居られる夜の間以外は、ニラの父のそばにいてくれるはずだ。


「ああ。礼には及ばない」


 そもそもあれは指輪を拾ってくれた礼なのだ。礼に礼を返されるというのもおかしな気分だ。


「……ところで、そなたはここで何を?」

「あの……」


 視界の端にとらえたニラが俯くのが分かった。


「いや、無理に話せとは言わないが……こんな真冬に川で水浴びなんて、ずいぶん酔狂だと思ってな」


 そう言って少し待ってみたが、ニラから返事はない。

 皇子はふとニラに視線を投げて異常に気付いた。ニラの唇は真紫で、顔はすっかり血の気を失ってがたがたと震えている。

 それもそうだ。こんなに寒空の下に、濡れたまま上着一枚羽織って突っ立っているのだ。

 そのことに気づいてやっと、さっき自分が消したたき火は、ニラが川から上がって体を温めるためのものだったに違いないと思い至った皇子は、自分の愚かさに苛立ちを覚えながら、慌てて「すまない。急いで体を拭いて服を着るといい。私は向こうにいるから」と言った。

 ニラは顎を震わせ、歯をかたかたと鳴らしながらうなずく。何か言おうとしているようだったが、声が出てこない。

 皇子が踵を返すと、すぐに背後で衣擦れの音がする。

 ニラが体を拭いて服を着るのを待つ間、皇子は必死で自分の心を鎮めようと格闘していた。戦場で敵に囲まれてもピクリともしない心臓が、何故かいつもより早く鼓動を刻むのだ。

 皇子はすでに三十を超えている。

 女の裸を見たのはむろん初めてではない。

 だがどうしてか、頭に焼き付いたニラの姿が離れてくれないのだ。

 皇子はそれを消そうと幾度となく目をしばたいた。

 痩せこけたニラの姿に欲情したわけではない。

 そういうことではなく、川の中からこちらを見つめた一瞬の、射抜くような視線に背筋がぞくりとしたのだ。

 背後からニラがしずしずと近寄ってくる気配があるが、すぐには振り返らなかった。振り返れなかった、と言ったほうが正しいかもしれない。


「あの……」


 少し離れたところから声を掛けられてようやく振り向くと、ニラが上着をこちらに差し出していた。


「ありがとうございました」


 体を拭いて幾分寒さはましになったのだろうが、それでも顔は蒼白だった。

 上着を受け取る時に一瞬触れた指先が凍るほどに冷めたくて、思わず身震いする。


「……寒くはないか」

「街まで走って戻りますから、すぐに温まります」


 この娘は何を言っているのだ。


「……街まで走る?」

「はい。いつもそうしていますので」


 ニラは不思議そうにこちらを見ている。

 馬で十分かかるのだ。少女の足で走っても一時間ほどはかかるだろうか。歩けばその倍はかかるだろう。

 皇子は無言でニラを抱えると、馬の上に担ぎ上げた。

 女を一人抱き上げているとは思えないほどの軽さだ。

 そして自分はその後ろに跨った。

 突然の行動に驚いたらしいニラは、抵抗という抵抗をすることなく鞍の上におさまっている。


「あの……でも、木桶を持って帰りませんと……」

「後で取りに来させる」


 ダミアンの顔を浮かべ、また文句を言われそうだなと思った。

 それなら自分で取りに来てもいい。

 ニラの後ろに乗ると、さきほど受け取った上着をもう一度小さな肩にかけてやる。それから体に腕を回すようにして手綱を握った。

 ニラは馬の背の高さに怯える様子も見せず、おとなしく腕の間に収まっている。

 愛馬は一つ嘶くと、主人と軽い荷物を載せて走り出した。

 街を駆け抜けて城に着くと、まだ何か言いたげなニラの様子を無視して抱え上げ、内殿へと駆け込んだ。


「アナベラ! アナベラ!」


 野太い声で叫ぶと、すぐに侍女が駆けてくる。

 戦に必要なもの以外を徹底的にそぎ落とした城砦には、使用人と呼べるものが数えるほどしかいない。このアナベラは、そんな中でも特に気心の知れた女だった。


「はい、殿下」

「すまないがこの娘を湯に入れてやってくれ」

「は、はい」


 そこではじめて皇子はニラを地面に下ろした。

 ニラはおろおろとしているが、アナベラがそっと肩に手を回して「こちらに」と言うと、こくりとうなずいてついて行った。



***********************



「体が冷え切っていましたので、薬湯にしておきました。今は湯殿の侍女たちが世話を焼いています」


 アナベラはそう言いながらてきぱきと皇子の着替えを手伝ってくれる。


「ああ、ご苦労」

「あの女の子の着替えはどうしましょう?」


 本国の城には山ほど女性用のドレスがあるのだろうが、この城にはそう言ったものはほとんどなかった。戦のための拠点として築かれたこの城は、騎士の訓練や食事のための大きな広間や訓練場は備えていても、女性が暮らすための設備は決して整ってはいない。


「ああ……本人がたぶん、今のままでいいと言うだろう。その代わり暖かい上着か何か羽織るものを一枚用意してやってくれ。私のでは大きすぎるだろうから」

「はい」


 アナベラは暖炉に火を入れてからまた湯殿の方へと足早に戻って行った。

 頬をほんのりと紅潮させたニラが部屋にやって来たのは、それからほどなくしてのことだった。


「顔色がよくなったようだな。よかった」

「ありがとうございます……あの、アダン様の家に戻らなくては……」

「モーリスには使いを出して、ニラがここにいることを伝えてある。心配しなくていい」

「あの……」

「そんなに怯えるな」


 ニラはその言葉にぴくりと肩を揺らした。


「君はいつも震えているな」


 そう言って笑う。

 初めて会ったときはたぶん、自分に対する恐怖から震えていた。

 今日は寒さから。

 そして寒さが収まった今も、自分への恐怖が彼女を怯えさせていることだろう。

 この瞳が人に与える影響は、嫌というほど知っている。

 崇める者、(おのの)く者、その根底にあるものはどちらも同じ。

 初めて目にするものへの畏れだ。


「それで?」

 皇子は暖炉の前の椅子を少し引いて、ニラに座るよう促した。

 ニラは浅く腰掛け、背筋を伸ばしている。


「なぜ真冬の川に?」

「あの……体を洗おうと……」

「体を?」

「はい。あの、匂いますので……」

「何がだ」

「私が」


 ニラが何を言っているのかわからず、皇子は眉根をぐっと寄せた。


「仕事をすると、汚れて体が匂いますので……モーリス様にも奥さまにも、小さな子供たちにとっても、よくないと思って……」

「もしかして、毎日あの川で体を洗っていたのか」


 ニラは逡巡するように視線を泳がせてから、誤魔化せないと思って諦めたのかゆっくりと頷いた。


「はい」


 毎日。

 水温は徐々に下がり、今が一年で一番寒い季節だ。

 馬を走らせているだけでも顔が凍りそうになるというのに、こんな時期に毎日水に浸かって体を冷やしていたら病気になってしまう。

 ただでさえ、体力と気力のいる仕事だろうに。

 帰りは走ると言っていたが、行きは歩いているはずだ。木桶いっぱいの「落し物」を天秤棒に括り付け、肩に担いで歩いているのだ。

 一往復で足りるのだろうか。

 臭いだけじゃない。汚いだけじゃない。さらにそれを、運ぶと言うキツイ作業が待っている。

 そして最後に、水浴び。

 戦場で敵を相手に戦うのと、どちらが過酷だろうか。


「……モーリスはそのことを知っているのか」


 思いの外、低い声が出た。


「……あ! いいえ! ご存じありません! あの、水浴びは私が勝手に……!」


 ニラは椅子から弾かれたように立ち上がり、あわてたようにそう言った。


「モーリスを叱ったりしないから安心しろ」


 そう言うと、ニラはほっとしたように肩を落とした。


 ――不思議な娘だ。


 きつい仕事に文句ひとつ言わず、真冬の川で裸で体を洗うことにもじっと耐えるのに、他人のこととなると必死だ。

 父親のことも、長屋のことも、モーリスのことも。


「ここの湯殿を自由に使っていい」


 深く考えたわけではない。ただ、気付けばそう言っていた。


「……え?」

「水浴びの代わりにこれからは湯浴みをしろ。必要なら侍女に手伝わせる。私が許可したと言えば文句を言う者はいないだろう」

「あの……」


 ニラは少し目を泳がせた。


「何だ」

「ありがとうございます」

「言いたいのは礼ではないのだろう」


 肩がぴくり、と動いた。


「……他の人は……」

「他の人?」

「私以外にも、汚れる仕事や体が冷える仕事をしている人はたくさんおります。その人たちにも機会を与えていただけるなら……」

「わかった。考えてみよう。毎日は無理かもしれないが、機会を設けるようにする。それも早急にな」

「ありがとうございます」


 他の人、か。


「いや。そなたの望みをまだ2つしか叶えていないんだ。だからこれは3つ目の願いだ。礼などいらん。礼を言うのはこちらの方だ」


 ニラは皇子の目をじっと見返してから、ほころぶような笑みを見せた。

 微笑んだ瞬間にあどけなくなるその表情の変化に驚きつつ、この娘が自分に対して微笑んだことが単純に嬉しくて思わず自分の頬も緩む。


「それでもやはり、ありがとうございます。殿下」

「殿下、でなくてよい」

「では何と……?」

「エディでかまわん」

「では……皇子、と」


 そう言ってニラは服の裾をつまみ、礼をとった。

 さすがに名を呼ぶのは抵抗があるらしい。


「そなたのことは、ニラ、でいいか?」

「はい」

「ニラ。そなたはもう少し太った方がいい。折れてしまいそうだ」


 ニラは川で自分の裸を見られてしまったことを思い出したのか、これ以上ないほど赤面して俯いた。




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