6 瞳
『お父さん』
そっと呼びかけると、ベッドに横たわる人物がゆっくりと目を開けた。
『……ニラ』
大きな手が伸びてきて、ニラの頬を優しくなでてくれる。暖かな手に包み込まれる安心感にほーっと息を吐きながら頬を委ねた。
『具合はどう?』
努めて明るく問いかけると、穏やかな笑みが返ってきた。その奥にどれほどの痛みを隠しているのか、ニラには推し量ることさえできない。
『大丈夫だよ。心配をかけてすまない』
頬に添えられた手に自分の手を重ね、その温もりを味わった。
『体が冷え切っているな』
『この一週間で気温がぐんと下がったから』
季節はすでに真冬を迎え、山間に位置するこの城塞には厳しい寒さが舞い降りていた。
『今日は何かあったかい?』
『特別なことは何も。城へ行って、帰ってきてモーリス様のお手伝いをしていたの』
ここへ来てから、母語のウル語を使う機会はほとんどなくなり、普段はオード帝国の公用語であるオード語を用いて生活をしていた。だがやはり、ずっと親しんできた言葉は心に安寧をもたらしてくれる。
『本当に?』
透き通るような茶色の目が、何もかもを見透かすように優しく細められた。
『浮かない顔をしている。何かあったんだね?』
そう言うと、父親は半身を起こそうと肘をついた。
『あ、だめ。寝ていなくちゃ』
『もう寝るのは飽きたよ。日がな一日ずっと寝ているんだから。すこし動かないと』
ニラはあわてて父を支え起こし、背中にクッションを宛がった。
『何があったんだい』
ニラは逡巡し、それから茶色の瞳を見つめる。
『皇子に会ったの』
『オードの? エドゥアール皇子か』
うん、と言って下を向いた。
『会ったというのは、偶然に?』
『昨日皇子の落し物を拾ったから、その関係で呼ばれて』
『そうか。それで?』
父親の纏う空気がぴりりと引き締まり、ニラは首を振った。
『違うの、別に何かをされたわけではなくて……ただ……その……お父さんは、皇子をどんな人だと思っていた?』
『さぁ。あまり考えたことがなかったな。他国の皇子がどんな人間かなど、同盟関係にあるか敵対関係にあるかでない限り、それほど気に留めないからね。オード帝国とナヴィニアは元々敵対関係にあったわけではないし、対岸の火事だと、そう思っていたから』
急速に領土を拡大したオード帝国は、もともと大陸の西側で勢力を伸ばし続けていて、その脅威が大陸の東端に位置するナヴィニアやウラジムにまで及んだのは、戦のほんの少し前のことだったのだ。
永く平和な時代が続いていたナヴィニアにとって、それは晴天の霹靂だった。
『恐ろしい人だと……思っていたの。でも会ってみると普通の人だった。兵にも慕われているようだったし……何より、セリア様のお兄さんだと。あんなに優しい人のお兄さんが嫌な人だなんて、考えられないでしょう? すごく仲が良くてね、楽しそうに話していた。それを見て……私と兄さまの関係みたいだなって思ったの』
ニラは心に浮かんだふたりの兄の記憶をゆっくりとなぞる。こうして時折思い出しておかないと、いつかその姿や声を忘れてしまいそうな気がして恐ろしかった。茶色い髪の毛に、黒い瞳。低い声。ふたりはよく似ていて、特に声だけでは聞き分けがつかないと誰もが言った。唯一ニラだけは、ふたりの声を区別できた。後ろ姿で見分けられるのも、おそらくニラだけだった。
『あのね』
『うん』
『皇子に会ったら……憎しみとか、そういう感情が浮かんでくると思ったのに……』
『憎くはなかった?』
『よく……わからなくなった。ただ、痛くて』
どこだかわからない、体のどこか奥の方が軋んで鈍く痛むのだが、それが何という感情なのか、ニラにはわからなかった。
『人の感情はたったひとつの言葉で表せるほど単純なものではないからね。無理に憎む必要はない。強い感情は時に仇となる』
ニラは黙ってうなずいた。
そう、仇となる。
憎しみや怒りを抱き続けるのは容易ではない。
自らの身も心も消耗し、残るのは虚しさだけ。
『小さい頃から、私は頑固者で。何度もそう教わった。兄さまたちにも、あなたにも』
『そうだったな』
懐かしそうに微笑んだ父の目に小さな涙の粒を見つけ、ニラは思わず抱きついた。
聞きたかったことが不意に、口をついて出た。
『嫌じゃなかったの? あなたほどの人が、あんな場所で、あんな仕事をして……敵だった人の……』
最後まで言えなかった。
ニラの背中に回された手が、なだめるようにゆっくりとそこを撫でる。
『何も考えていなかった、というのが正しいのかもしれない。老い先短い身だし、仕事があるだけでもありがたいという思いがあったし……あの仕事を得られなければ、君と離れ離れになっていたかもしれないからね』
城塞にとどまる捕虜は決して多くはなく、捉えられた捕虜の多くは戦の終結後自分の故郷へ返されるか、オード帝国の本国へ送られた。
ニラがここで雇われることが決まった後、モーリスが父ベルナールにも仕事を見つけてくれたのだ。
『だからそう、嫌ではなかったよ』
そう言ってニラの頬を両手で優しくはさみ、少し力を込めた。ぎゅっと両脇から圧がかかり、ニラの口が自然と尖ってしまう。
『昔はいつも、拗ねてこうして口をとがらせていたおチビさんがね。いつの間にか、私の心配をしてくれるようになったとは』
『もう16だもの。大人よ』
ニラが体を離して不満気にそう言うと、父はふっと笑った。
『でもそういうときの表情は、幼い時からちっとも変わらないな』
ニラも笑みを返したところでコンコン、と控えめなノックの音がしてゆっくりとドアが開き、モーリスの顔がのぞいた。
「モーリス様」
ニラはベッドの脇に置かれた椅子から立ち上がる。
「様子はどうかと思ってね。ベルナール殿、痛みは落ち着きましたか?」
「おかげさまで、昨日今日とかなり痛みが和らいでいます」
父のオード語は、ニラのそれよりも流暢で自然だ。
モーリスは父がナヴィニアの出身だということを当然知っているが、知らない人が聞けば何の違和感もなく、オード人だと思うだろう。
「それはよかった。ニラの看病のおかげですね。実は明日からあなたの看護担当が来ることになりまして。そのことをお伝えしようと思って来たのです」
その言葉にニラは微笑む。
よかった。皇子が手配してくれたに違いない。
父は少し驚いたような表情を見せた。
「看護担当……? それはまた、なぜ……」
「ニラが皇子の落し物を拾ってくれたお礼にと、皇子が手配したものです」
「そうですか。ニラ、君が頼んでくれたのか?」
「うん」
誇らしげに胸を張ると、父はその仕草を笑った。
『ほらまた、幼い頃と同じだ』
一言だけナヴィニア語で紡がれたその言葉には、父の愛情がこもっている。
「ニラ、あまり長くその姿勢でいるのはお父さんにもよくないから、そろそろクッションを戻して。セリアが君と話したいって待っているから、下に来ないかい」
モーリスが微笑んだ。
ニラはうなずきながら父の背にあてがったクッションをゆっくりと抜き取り、父を寝かせた。
『お父さん、おやすみなさい』
『おやすみ、ニラ』
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「ニラ、今日はごめんね」
一階に降りて座るなりセリアが申し訳なさそうな顔をしたので、ニラは少し戸惑ってしまった。
「あの……何が……」
さっきまで父とウル語で話していたせいで、オード語を話そうとすると言葉が詰まってうまく出てこない。
「兄上よ。随分と怖い思いをしたのでしょう? グレンから聞いたの。ニラが兄上を見て震えていたって」
「あ……いいえ。あれは……その……」
「皇子の瞳の色、変わっているだろう?」
モーリスが言う。
「紅いのはね、賢帝の証なんだよ。」
どう反応してよいかわからず、ニラは縦とも横ともつかぬ方向に首を少し傾けた。
瞳の色が変わっているのは事実だし、それを見て体が勝手に震え出したのも事実。しかし、最初に感じた恐怖も畏怖も、あの短い時間でほとんど消え去ってしまっていた。
「オード帝国の皇族に、ごく稀に現れるんだ。今の皇帝の曾祖父に当たる人、つまり皇子のひいひいおじいさんがあの瞳だった。弱小国だったオードの軍隊を鍛え上げ、今の帝国の礎を築いた人がね。それ以来紅い瞳は神格化されてね。あの瞳を持つものは稀代の賢帝になると言われている」
血の色をした目が、賢帝の証。
唐突に、「血の色みたいでしょう?」とセリアがため息交じりに言った。
頭の中の声が聞こえたのだろうかと、ニラは一瞬身を固くする。
「おまけに兄上は将軍としての秀でた才覚を発揮し続けてきたから。冷徹な血の目の将軍って言われているのよ」
「あの、でも、冷徹なわけでは……」
ニラの脳裏に、先ほどの父との会話がよみがえった。
皇子に対してどんな感情を抱くのが正しいのかまるでわからなくなってしまうほど、ニラが抱いていたイメージと実際の皇子は違っていた。
会うまでは恐ろしかった。
最強の軍隊を率いて数々の国を侵略してきた皇子。血の通わない、人間離れした人なのだろうか、冷酷で非情な、心を持たぬ人なのだろうかと。
しかし、普通の人間だった。
笑いもするし、臭気に不快そうに顔を歪めもする。甥っ子や姪っ子に向ける目は慈愛に満ちていて、どこまでも暖かかった。そして、色は違えどその眼差しはセリアによく似ていた。
たしかに瞳は血の色だが、それはむしろ皇子の中を流れる温かな血潮を感じさせる色で、皇子のせいで流された血を想わせるものではなかった。
戦で大敗し傷ついたナヴィニアも、日に日に回復して元の明るさを取り戻しつつあるという。
王と王子の死により王家の絶えたナヴィニアでは、有力貴族だったトルト卿が民を束ねて復興に尽力している。戦に参加した兵も、それぞれに裁かれはしたものの皆殺しにはならず、いくらかは働き手としてオード帝国の本土に、そしていくらかは故郷に帰って復興を力で支えている。
オード帝国の兵力ならばナヴィニアを完膚なきまでに叩き潰し、殲滅することもできたろうに、そうはしなかった。ニラ自身が捕虜としてとらわれている間も、決して虐待などにはあわなかった。それは、将軍の厳しい命令によって禁じられているからだという。
――わからない。
周辺の国々を次々にその手中に収めて拡大を続ける国の将軍が、普通の人間で、そして無駄に残虐な行為を好まないという事実は、ニラをすっかり混乱させた。
「そう、冷徹なんかじゃないのよ。むしろ、兄上は小さい時から優しかったの。私なんかよりよほどね」
セリアがため息交じりに言う。
「でも、今は兄上自身が紅い瞳に縛られているのよ」
「……? どういう……?」
意味がわからず、ニラは首を傾げた。
「賢帝にならねばならぬ。賢帝とは何ぞや。そのために今、何をすべきか。ってね」
モーリスの言葉に、ニラは息苦しさを覚えた。
『王妃とは何か。どうあるべきか』
正解のないその問いにどうにかして答えを見出そうともがいていた少女の姿が、記憶の縁を静かに漂っていた。