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5 願い

「セリア、久しぶりだな」


 右の腕の中に赤ん坊を抱き左手で次女の頭を優しくなでながら扉の前に仁王立ちをした人物に、軽い挨拶をする。


「お久しぶりです。兄上」


 セリアがそう言った瞬間、「えっ」と娘が小さく呟くのが聞こえた。モーリスの家で一緒に暮らしているはずなのに、知らなかったらしい。


「この砦に到着してひと月ほど経ったと聞いているが。その間何の挨拶もないので、もしかしてモーリスの妄言かと思っていたところだ。本当に来ていたんだな」

「そんなことをおっしゃる割には、私の顔を見てもちっとも嬉しそうな顔をなさいませんのね、兄上」

「私が会いたかったのは可愛い姪っ子や甥っ子たちだからね。ミロ坊やには、まだ一度も会わせてもらっていないし」

「だからこうして連れて来たではありませんか」


 互いに屈託のない笑みを浮かべて冷ややかな舌戦を繰り広げている間に、母親の腕をするりとすりぬけたレオが娘の足にしがみついた。


「おいたん!」


 そう声を掛けられ、小さな甥っ子の透き通った瞳を見つめる。妹にそっくりの、青い瞳。


「ニラをいじめちゃ、ダメ!」


 いっぱしに睨みを利かせてくるが、父親譲りの柔和な顔立ちと拙い台詞回しでは、見ているこちらに穏やかな愛情を抱かせる以上の力はない。


 ――しかし、人見知りの甥っ子がどうやらこの娘にはすっかり懐いているらしい。まいったな。


「いじめてなんかいませんよ」


 どう答えようかと迷っていると、皇子の代わりにグレンが答えた。

 この武人も幼子の前ではすっかり相好を崩し、優しい老人へと変貌を遂げる。レオと同じ視線になるようにしゃがみこんで微笑む姿からは、百戦錬磨の老兵の面影はすっかり消え去っていた。

 そのグレンの言葉に、妹はフンと鼻を鳴らした。


「ああら、それはそれは。聞き違いかしら? どこぞの近衛の坊やがうちの可愛いニラに随分と失礼な態度をとっていたように思うけれど?」


 セリアは眉を吊り上げてダミアンを見つめる。

 「見つめる」というのは少し控えめ過ぎる表現かもしれない。それに威圧感を加えて敵意を振りかけたのが、妹のこの表情だ。

 ダミアンは文字通り縮み上がり、柄にもなく直立不動の姿勢になった。

 それを見て皇子は苦笑する。

 まだ20代の半ばだというのに、この妹の放つ圧倒的なまでの迫力といったら。ぜひ見習いたいものだ、と思うが、一方で母の影に隠れるようにしてこちらを覗く小さな姪っ子には、あまり見習ってほしくない。


「ただでさえ忙しいニラを呼び出して、ありもしない疑いをかけたんですもの。今日ニラがこなさなければならなかったはずの城の仕事は、もちろん、あなたが代わりにやるのよね? ダミアン」

「えっいや……」

「やるのよね?」


 妹は満面の笑みを浮かべているが、そこから放たれる冷気がもろにダミアンを穿つ。

 我慢ができなくなってつい小さな笑いをこぼすと、ダミアンが心底嫌そうな顔をして睨みつけてきた。


「皇子! 笑いごとではありません!」

「いや、きっと貴重な経験になるだろう」


 グレンがダミアンの肩にぽんと手を乗せる。その顔には取ってつけたような笑顔が光っている。


「――!」


 「落し物集積所」を見に行った時、一番嫌そうに顔をゆがめていたダミアンがあそこで仕事をしている姿を想像するだけで、しばらくは楽しい気持ちになれそうだ。


「皇子!」


 ダミアンは最後にもう一度叫んでから、諦めたように全身の力を抜いた。


「いいですよ。わかりましたよ。やりますよ。やればいいんでしょう、やれば。やってやりますよ」


 捨て鉢な台詞を吐き、ダミアンは肩をいからせ身を翻した。


「あ、あの……」


 去ろうとするダミアンの背中にニラが言葉を掛けた。


「何だ?」


 不機嫌そうに振り返ったダミアンだが、その目は「私がやりますと言ってくれ」と訴えかけていた。

 ダミアンのそんな表情には当然気づいているはずだが、娘はあっさりとその訴えを無視して「運ぶ先は川沿いに10キロほど行った場所です。たくさん積んであるからわかると思いますが」と必要事項を伝達すると、最後に「あ、それと」と言って付け足した。


「頭上からの攻撃には、くれぐれもお気を付けください」


 それを聞いたとたんダミアンは頭から湯気が立ち上りそうなほど真っ赤になって踵を返し、皇子とグレンとセリアは腹を抱えて笑った。


「相変わらず、すぐに熱くなるのね。からかい甲斐があるわ」


 セリアが涙をぬぐいながらそう言う。


「それにしても、兄上に心酔しているダミアンがあんなに怒るなんて。ニラの仕事はそんなに大変なの? あのダミアンが嫌がるほど?」


 ダミアンは時に度を越して見えるほど皇子に忠実だった。そう、尊敬というよりもセリアがいう心酔の方が的確なのだろうと思うほどに。そのダミアンが渋るほどだから、よほどだと思ったのだろう。

 セリアの問いに、娘は首を振った。


「そんなに大変では。ただ少し手が汚れるのでお嫌だったのでは」


 小さな声だった。何か後ろめたく思っているような。


 ――セリアもモーリスも娘の仕事の内容は知らないと見える。


 おおかた「落とし物を集める場所だ」とでも説明しているのだろう。

 皇子はセリアに話そうかと口を開きかけたが、娘がこちらを見て軽く首を横に振ったような気がして話すのはやめにした。

 知られたくないというのなら、敢えて話さなくてもよい。確かに、毎日あそこで働いているという事実を吹聴したいとは思わないだろう。


「あら、そうなの。思いつきで言ったんだけど、我ながら悪くないお仕置きだったのね」

「お前も人が悪い」

「あら兄上、笑いながらそんなことを言っても説得力がないわよ」

「それもそうだな」


 そう言って笑い合う兄妹を交互に見つめて、娘はホッとしたような表情を見せた。

 さっきの舌戦のせいで兄妹仲を心配したのだろう。

 よく勘違いされるが、実のところ妹との仲はすこぶる良かった。互いに遠慮がなく、相手を怒らせないぎりぎりのラインを熟知しているからこそ、挨拶がわりの舌戦が鋭さを帯びるのだ。


「それで、願いは? 礼と詫びだ」


 本題を思い出して娘に向き直った。


「三つよ」


 鋭く切り込んできた妹の声に笑ってしまう。


「わかった。一つではなく、三つだ。願いを三つ聞こう」


 娘は足に纏わりついて離れないレオをひょいとその腕に抱きあげた。細腕の割に力があるというのは案外本当なのかもしれない。


「何でもよいのですか?」


 さっきよりも幾分緊張を解いたらしい。

 こんな妹だが、一応役には立つようだ。


「私に叶えられる願いならな」


 叶えられる願い、と口先だけで小さく呟いたあと、娘は少し考え込むような仕草をしてから顔を上げた。

 一瞬何か思い付いたように眉が上がり、またすぐに戻る。

 さっきまでは皇子の瞳の色に怯えて目を合わせるのを避けているように思えたが、今はまっすぐにこちらを見つめてくる。すっと鼻筋の通った小ぶりの鼻に小さな唇。瞳だけがアンバランスに大きく、顔の大半を占めている。


「どなたかに父の看護をお願いできますか。モーリス様はお忙しい身ですから……」


 訴えかけるような声に即答した。


「すぐに手配する」


 たやすいことだ。


「傷病兵の世話をする専門の人間がいる。それでよいか?」


 娘は頷いた。


「ありがとうございます」

「二つ目は?」

「それでは、父に食事を。今はモーリス様に何もかもお世話になっているので」

「あら、食事のことなんて心配しなくていいのよ!」


 セリアが大きな声を上げるが、娘は軽くかぶりを振って「これ以上お世話になるわけには……」と固辞している。


「最後に、父が回復したら何か体に負担の少ない仕事をいただけますか。」


 三つとも全て父親のことか。


「そなた、自分の願いはないのか」


 娘は目を丸くした。


「どれも私の望みですが」


 無表情のくせに、まっすぐにこちらを見る瞳には「何をこの男はおかしなことを言っているんだ」とでも言いたげな色を宿していて、皇子は眉間を寄せた。


「他にはないのか」


 娘は困惑を隠すことなく少し瞳を泳がせた後、おずおずと口を開いた。


「3つの願いのほかに……でしょうか?」


 見上げるような角度でこちらを見つめる瞳がかすかに潤んでいて、生まれたての動物を見ている気分になる。


「今の三つは、父親の今後の生活の保障。一口に言えばそういう事だろう。それで一つの願いとして聞き入れよう」


 娘の瞳の黒が、より濃くなったような気がした。


「……ありがとうございます」

「ほかには」


 娘は下を向いて考え込む様子を見せた。

 考えごとをするときに下を向くのが癖なのだろうか。


「それでは、長屋の修繕を……」

「長屋の?」


 長屋というのは、労働者たちが暮らす棟続きの家のことだ。

 ニラのように城で働く者や職人の見習いなど、それほど裕福ではない人々が暮らしている。


「そなた、モーリスの家に住んでいるのだろう?」

「今はそうですが、父が倒れるまでは長屋に住んでいましたので……」

「なるほど。それで、長屋をどう修繕するのだ」

「すきま風が入りますので、これからの季節は厳しく……修繕が無理でしたら、厚手の布地か何か隙間を覆うものを」

「わかった」


 とは言ったものの、今は長屋に住んでいるわけでもないのに長屋の修繕を願う娘の気持ちが今一つわからない。だがまぁそれが願いだと言うのならと、手配を約束する。

 考え込む様子は見せるものの、願いを口にすることに特に躊躇いを見せるでもないところをみると遠慮をしているというわけではなさそうだ。


 ――やはり不思議な娘だ。


「そなた、肝心なことを忘れていないか」

「肝心なこと……?」

「あの仕事場から解放されたくはないのか」


 今頃ダミアンが苦い表情でこなしているであろう仕事。あれをやめたいという願いが一番最初に出てくるとばかり思っていたのに。

 意外なことに、娘は首を横に振った。そんなこと考えもしなかった、とでも言いたげな顔をしている。


「誰かがやらなければならないことに変わりはありませんから。それならば若い私が」


 ――確かに若いが、もっと力のある適任の人間がいるだろう。


 そう思うが、それを言うと反抗的な目で「細いが力はある」と言われそうな気がして、皇子は言葉を飲み込んだ。


「それに、今担当を替えるのは危険かと」


 続く娘の言葉に目を瞬く。


「危険?」

「殿下の指輪がもし盗み出されたのだとしたら、少なくとも犯人が見つかるまでは……」


 姪っ子のアニーを宙吊りにして遊んでやっていた老翁グレンも、これには身を乗り出した。


「どういうことかな?」


 アニーはグレンの腕の先でけたけたと楽しそうに笑う。


「もし私が間者で、皇子の権力を奪おうと画策したら……」

「したら?」

「あの仕事は、うってつけです」


 思わずぽかんと口を開けた。

 どういうことだ。

 娘は腕に抱いていたレオを床にそっと下ろし、セリアに目配せをした。

 子供には聞かせたくないということか。

 グレンもアニーをセリアに託し、セリアは心得たと一つ頷いて3人を連れて部屋の外に出ていった。


「まず、落とし物の状態から落とし主の体調を事細かに把握することができます」


 狩りをするとき、動物の糞の状態を観察する。あれと似たような感覚か。


「それだけでなく、直接害そうと思えば、あの場所から上に向かって矢を射て尻に一撃を加えることもできます」


 一気に静かに、そして緊張感の増した部屋に響いた娘の言葉に思わず尻の穴に力が入る。

 尻への攻撃は、上半身へのそれに比べ危険度が低いような感覚がある。しかし、座位で下から尻に矢を打ち込まれれば、内腑への影響は避けられないだろう。


「それに厠は密室で近衛すら同行しない場所。長時間気付かれないということも考えられますな。攻撃を加える側からすれば、逃げる時間を稼ぐのがそれだけ容易ということにもなる」


 グレンが深い皺の刻まれた顔を歪ませてそう呟く。

 この娘は、そんなことを思いながらあの仕事をしているのだろうか。

 不思議というより、末恐ろしい。


「今の生活に不満はありません」


 皇子の考えをよそに、娘は少し表情を緩めた。


「モーリス様の助手をしながら医術を学ぶのも、落し物を運ぶのも楽しんでいます。体力のいる仕事ではありますが」

「何が楽しいのだ」


 すさまじい臭気の中で汚物をかき集め、それを城壁の外へ運び出すのが楽しいとは。酔狂という言葉でも足りぬほど変わった好みだ。


「落し物を捨てる場所の周辺では草木が茂っています。それで、もしや落し物が関係しているのではと思い、色々と試しているところです」

「何をだ?」

「本当に落し物の力で草木が育っているのか、そうだとしたらどのような条件でどのように作用するのかを」

「一体何のために?」


 草を茂らせてどうなるというわけでもあるまいに。


「農作物にも作用するかもしれませんし、薬草にも……モーリス様が薬草は大変に希少なものばかりで栽培も難しいとおっしゃっていましたが、もしあれが働くならば薬草の栽培も多少は楽になるのではと」

「糞尿がどう作用するかを検証するのが楽しい、と」


 娘は頷いた。その瞳が先ほどまでより輝いているのを見つけ、こちらの気持ちも少し晴れやかになる。


「そうか。必要なものがあれば申せ」

「ありがとうございます」


 頭を下げた拍子にぴょんと動いたハチミツ色の短い髪の毛を見つめながら、皇子は久々に不思議な昂揚感に包まれていた。




おまけ




 ニラとセリアが連れだって執務室を去った後、執務室からつながる厠への扉を開けた皇子の耳に飛び込んできたのは、はるか下から響いてくるダミアンの苦悶の叫びだった。




「くそーっ!くせーっ!!」



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