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この道の先に  作者: 奏多悠香


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32/38

32 飛び去って

 なんと声をかけたものか、ニラは背を見ながら少しの間逡巡した。


「なんだい、ニラ」


 その人が振り返らずにそう言ったので、ニラはあわてて喉をごくりと鳴らした。

 この人といい皇子といい、ときどき背中に目がついているのかと疑ってしまうほど人の気配に敏感だ。


「あの、何か瓶のようなものがありませんか」


 ニラがそう言うと、モーリスはゆっくりと振り返った。手には今しがた出来上がったらしい薬が握られている。


「瓶? あるけど、何に使うのかな?」

「実は、部屋に蛾が……」

「ああ、そう。捕まえるの?」


 ニラはふるふると首を振った。


「外に逃がしてやりたいのですが、自分ではなかなか出られないようなので……」


 その蛾はもう何日もずっとニラの部屋にとどまって、時折出て行きたそうに部屋を飛び回るのだが、壁に阻まれて出ることができずにいるようだった。


「なるほどね。どれどれ、私も手伝おう」


 瓶と薬包紙を手にしたモーリスとともに二階の部屋へ向かった。

 ベルナの病気の治療のためにとこの場所に移り住んでいたものの、彼亡き後ニラがここにいる理由はない。そう思って彼の死後ほどなくしてニラは長屋に戻ると言ったのだが、モーリスは「助手が身近にいる方が何かと便利だから」と言ってニラをここへ置いてくれていた。セリアや子供たちが本国に帰ってしまい、今はニラとモーリスだけで静かな日々を送っている。


「ああ、本当だ。大きな蛾だね」


 モーリスは部屋の壁に止まった蛾を見るなりそう言った。

 オレンジ色に、黒の班。

 羽を広げた姿は人の顔のようで、夜にこれを見たときには薄気味悪く感じもした。


「じゃあニラ、そっと瓶をかぶせて」


 モーリスに言われた通り、壁に止まっている蛾を傷つけないようにそっと瓶をかぶせるが、蛾はピクリとも動かなかった。

 モーリスが瓶と壁のわずかな隙間に薬包紙を滑りこませると、ようやく蛾は薬包紙に押されて瓶の中へと移った。そのまま薬包紙で蓋をして瓶を壁から離す。


「表に出してあげよう」


 ニラは黙ってうなずき瓶を持って再び階下へと向かうと、玄関の戸を出て地面にそっと瓶を置いた。

 そして薬包紙の蓋を取り去る。


「ほら、もう大丈夫だよ」


 出てこない蛾にそう声をかけてみるが、蛾は瓶の内側に張り付いたまま動く気配を見せない。嫌な予感がして瓶の外側から蛾をじっと見つめると、触角の先がわずかに動いているのがわかってニラは胸をなでおろした。


「しばらく置いておいたらきっと出ていくよ」


 背後からニラの手元を覗きこんだモーリスに言われ、ニラは瓶をそこへ残して家に入った。

 モーリスとふたりで出来上がった薬を瓶につめたり道具を洗って片付けたりしているうちにすっかり日が暮れ、ニラが外に出てもう一度瓶を確認してみると、すでに蛾はどこかへ飛びだった後だった。

 寂しいような、うれしいような。

 数日間の同居人を失って、ニラはまた独りぼっちになった。


 乱暴に扉を叩く音がしてニラが飛び起きたのは、その日の真夜中だった。

 窓から差し込む月明かりを頼りにあわただしく階段を駆け下りると、すでにそこにはモーリスが立って、玄関に置かれた燭台のろうそくに火を灯しているところだった。

 既視感を覚えるその光景に、ニラの手がわずかに震える。

 モーリスは一度ニラに気遣わしげな視線を寄越してから、慎重に扉の外に向かって声をかけた。


「どなたかな」

「ハミルトンです! 夜分に申し訳ありませんが、アダン殿にお話があって参りました」


 その名を聞くなり、モーリスは警戒を解いて扉を開けた。


「何事だ」

「至急城にお越しいただきたいとのことです」


 ハミルトンの声はきっぱりとしていたが、肩が上下し、わずかに息が上がっていた。どうやら走って来たらしい。


「城に?」

「はい」

「わかった。すぐに向かう」


 そう答えてからモーリスはニラを振り返った。


「ニラ、君は寝ていてかまわないから。私が出たらすぐに閂を下ろしておいてくれ、いいね」


 ニラはうなずき、その背を見送った。

 玄関の扉の閂を下さなければと思うのに、ニラの体は動かなかった。


「足が」


 ニラはひとり小さな声を上げた。

 足がぶるぶると震え、まるで役に立たない。

 ほんのわずかな距離なのに、数歩先の扉まで行くことができない。


 ――なぜこの時間に城へ?


 あのハミルトンの焦りようからすれば、ただ事ではない。

 兵の誰かが怪我をした?

 それは珍しいことではないし、ニラが手当てを頼まれることもあった。

 しかし、昼間の訓練中ならばともかく真夜中に兵が怪我をするとは考えにくい。

 敵の襲撃があったなら騒ぎで目が覚めるはずだ。この家の周辺はいつもと何ら変わらず普段通りの静けさに包まれているし、危機が迫っている気配はない。

 だとすれば――

 この城砦のことでなく、夜中にモーリスが呼び出されるような事態。

 ニラには、たった一つしか思い浮かばなかった。

 北の国境線で何かがあった……?

 震えは膝を駆け上って腰を巡り、手まで及んだ。指先がわなないて、どんなに止めようと思っても意志ではどうにもならなかった。

 結局ニラは、一晩中そこに突っ立っていたのだろう。

 明け方になって疲れた表情で戻ってきたモーリスに「ずっとそこに?」と尋ねられるまで、ニラの記憶はほとんど飛んでいた。


「ニラ。大丈夫か」


 モーリスの声がどこか遠くの方で聞こえる。

 大きな手が優しくニラの背に添えられ、ゆっくりと部屋まで連れられて、肘掛け椅子に座るようにと促された。


「これを飲んで」


 しばらくして差し出されたカップには何か温かい飲み物が入っていた。湯気がふわりと顔を包み込むのに、震えは止まらない。


「落ち着くから」


 そう言ってモーリスが自分のカップに口をつけた。その手もまた震えているように見えるのは、気のせいだろうか。

 ズズッと音を立てながら一気に飲みきってカップを置いたモーリスは、ニラが飲み終わるのを待ってからゆっくりと口を開いた。ニラを見据える瞳は力強く、そこに覚悟のようなものを宿していた。


「すぐに北に向かうことになった」


 北。やはり。


「な、にが……」


 顎が震え、うまく声を出せなかった。


「二人の使者が立て続けにやって来たので情報が錯そうしていて、それほどはっきりしていない。二人とも疲れ切っているし、かなり興奮していてね。ただ、ふたりのもたらした報せに共通しているのは……」


 ニラはごくりと喉を鳴らした。


「北の国境線で大規模な災害が起こったということだ」

「災害、ですか?」

「山が崩れたのだと言っていた」


 山が崩れた?

 にわかには信じがたい話だった。ナヴィニアは山間(やまあい)にある湖を中心に栄えた国だったが、山が崩れるなどという話を耳にしたことはない。


「第一報は皇子からのものだ。救助などのために至急兵と物資を補給してほしいと。例の封蝋があったから、間違いないだろう」


 例の封蝋。つまり、ニラと皇子が知り合うきっかけとなったあのインタリオリングを使って封をしたということ。

 皇子の手で書かれたことを示す封蝋が施されていたということは、皇子は無事、ということか。

 そう思った次の瞬間、モーリスの顔が歪んだ。

 奥歯をかみしめたのだろう、耳がきゅっと上を向き、頬が引き攣れた。


「だが第二報は……」


 耳の奥がぼんやりとしていた。

 音が耳から吸いだされるように消えていく。

 この感覚には覚えがあった。

 ナヴィニアの戦火の中でベルナに会ったとき。

 彼が伝えようとしていたことが、ニラの耳にはなかなか届かなかった。

 音がちっとも、聞こえない。

 ただニラは、その唇を読んで。


 ――王子と兄上はすでに


 それはベルナールが言ったこと。

 今目の前で動くモーリスの唇は、


 ――皇子の行方が


 ニラは耳を塞ぎ、目を閉じた。

 ふさいだ耳の奥で、落ち着いた声が響く。


「せめて私は戻ってこよう」


 皇子はたしかにそう言った。

 だから戻ってくるのだと信じていた。


 ……信じていた?


 誰を?

 すべてを奪った人を?

 モーリスの手がニラの細い腕に触れ、ニラの耳から手を引きはがした。


「聞いてくれ。私は朝にはここを発つ。本来なら本国からの援軍が来るのを待って出発するところだが、皇子が巻き込まれたとなると一刻の猶予もならない。留守を頼むよ」

「わ……」


 わたしも

 その言葉をニラが口にするより先に、モーリスが首を振った。


「ダメだ」

「お役に立てるかも、しれません」

「君まで来てしまったら砦の病人たちはどうなる? けが人は? 誰が世話をするんだ。皇子が出発する前に本国に使いを出したから、近いうちには援軍が来るだろうが、それまでは砦の守りが手薄になる。その分、兵の交替勤務がきつくなるから怪我人も出やすくなるだろう。砦には君の力が必要だ」


 ニラは押し黙るしかなかった。


「留守を頼む」


 うなずく以外の選択肢はニラには残されていない。

 うなずいた拍子に頬を一筋の涙が伝った。

 なぜ涙が出るのだろう。

 悲しいともちがう、胸を締め付けられるような。

 ニラは胸を押さえ、大きく息を吐いた。


「君ならできる。いいね? 頼んだよ」


 いつもは穏やかに細められているモーリスの目が、今は鋭利な刃物のように見えた。

 ニラは大きく息を吸った。

 また背中を震えが駆け上るが、それは恐怖によるものでも寒さによるものでもなく、自身を奮い立たせるような類のものだった。

 アリアナ・イルア・ダリス。

 その名に、故郷に、恥じぬように生きるのでしょう。気高く、強く。それが、ナヴィニア王家の血を継ぐあなたの生きる道なのでしょう。

 泣いたところで状況は変わらないし、泣いている場合などではない。

 自分に言い聞かせているうちに、跳び跳ねるようだった鼓動が徐々に落ち着いていくのがわかった。


「モーリス様」


 ニラが大きくひとつ息を吐き出したところで玄関から聞き慣れた低い声が聞こえ、足音が近づいて部屋に入って来た。


「ダミアン」

「私も同行することになりました」

「そうか」

「かき集められる人数だけを連れて、とりあえず出発します」

「そうか」


 この若者も行くのか。

 そうして皆飛び去って。

 戻って来るのだろうか。

 覚悟を決めたような彼らの表情は、飛び去って消えた蛾を思わせた。


「ニラ」


 ダミアンの声にニラは顔を上げた。

 鳶色の瞳がニラをまっすぐに見つめている。


「心配するな。皇子は幾度も死地をくぐりぬけてきた人だ。そう簡単には死なない。皇子の留守はグレンが取り仕切ることになっているから、何かあったら頼れ」


 ニラはうなずき、天を仰いだ。

 私にできることは。


『砦には、君の力が必要だ』


 たった今モーリスに告げられた言葉。

 ニラにできるのは、この砦を守ること。

 守る?

 この砦を?

 何のために?

 いや、誰のために?

 砦にはわずかな兵を残すのみ。

 守るには心許なく、攻めるには容易い。

 ナヴィニア王家のアリアナ・ダリス。

 木の天井が静かに彼女を見下ろしていた。




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