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31 ひらり舞う

 ひらり。

 どこからか入り込んだらしい小さな蝶が舞う。

 懸命に羽をばたつかせる姿は優美というよりもいじらしい。

 壁にすっと止まって羽を休める姿を見て、ああ、と皇子は思った。蝶かと思ったら、蛾だったか。

 オレンジ色をした羽の中央に黒々とした点が一つ。両の羽を広げるとそれがまるで黒い双眸のようで、皇子の胸がざわつく。

 戦場に立った経験は数多あるが、停戦の交渉の経験などほとんどない。

 そのせいか、どうやら感傷的になっているらしい。

 壁にはりついた黒い瞳を見つめながら、皇子は手元の鎧を持ち上げた。


「皇子、来客です」


 部屋の外からその声が聞こえたとき、皇子は鎧の手入れをしているところだった。

 これから身に着ける鎧を丁寧に磨き、細部にほつれや痛みがないか確認するのだ。小さな金属片をうろこ状に並べてつなぎ合わせた構造の鎧は動きやすく丈夫だが、ひもが切れると分解してしまうという難点がある。だから自分の目で鎧の状態を確認し、必要なら補修をするのは、戦場に出る前には欠かさない大切な作業だ。


「通せ」


 短く答え、扉に背を向けたまま壁にとまった蛾を見つめた。

 背後の扉が薄く開き、こすれるような小さな足音とともにニラが入ってきたのがわかった。


 ――いつの間に自分は、足音でニラだとわかるようになったのだ。


 苦笑を漏らしながら、皇子は持っていた鎧をそっと床に置いた。


「ニラ」


 振り返らずに言うと、扉と皇子の中間あたりで足音が止まった。

 ためらうような気配を感じながら、皇子はゆっくりと振り返った。

 久しぶりに見るその小さな娘は、皇子の記憶にある以上に日に焼け、記憶にある以上に痩せていた。


「久しぶりだな」


 ウラジムの王弟の、あの件以来か。

 皇子に食って掛かったニラの血走った眼を思い出し、また皇子の心がざわつく。


「お久しぶりです」


 ニラは小さな声で言った。


「どうしてここへ?」

「今夜、発つと」


 モーリスか。

 まったく、余計なことを。


「なぜ、ですか」

「何がだ」

「なぜ皇子が?」

「再三の要求があったからだ」


 早い話が「将軍を出せ、将軍以外の小物とはいかなる交渉もせぬ」と向こう方が言っているのだ。だが、それは一因に過ぎない。むしろ――


「自らウラジムに行ったそなたには、わかるのではないか」


 時には、どうしても自らの手で成し遂げたいことがある。

 ニラはこちらを見つめるだけで答えなかった。

 何を考えているのかひどくわかりにくい黒い瞳に、またしても心を揺さぶられる。

 それをごまかすように皇子は黙って鎧を手に取った。頭からかぶり、力を込めて脇のひもを引くと胴がぎゅっと締まる。それと同時に心も引き締まるようなその瞬間の感覚が好きだった。

 自分は本当に骨の髄まで戦人なのだ。

 片側の脇のひもを引きながらそう思って薄く笑いをもらすと、反対側のひもがぎゅっとひかれた。驚いて目をやると、小さな手がそれを器用に結び、結び目がほどけることのないよう丁寧に鎧の裏側に入れ込む。


「ニラ」


 ニラはなおも黙ったまま慣れた手つきで肩ひもを結び、脇に置いてあった脛当てを取った。ガシャンという硬質な音が部屋の中に静かに響いた。

 ニラは皇子の足元にしゃがみ込んでそれを脛にあて、背後に回って丁寧に留め金をかけてゆく。


「すまない」


 礼を言おうと思ったのに、口から出たのは謝罪の言葉だった。


 ニラが自分の背後で顔を上げる気配があった。

 それから、何か迷っているようなかすかな空気が伝わって、ややあって小さな声が聞こえた。


「無事の、お戻りを」


 ――今、なんと?


 聞き間違いかと思った。


「私の無事を願ってくれるのか」


 またしばしの沈黙が流れ、しばらくして皇子の背後でニラが立ち上がる気配があった。

 立ち上がってもなお、小さな体。皇子の背中のあたりに顔がある。


「別れは……もう十分です」


 背中に息がかかるほど近い。

 しかし、心は斯くも遠い。


 アリアナ・ダリスの母はアリアナを生んですぐに病死し父も早世した。そして二人の兄、王子、ベルナール・ファヴィエが死に、ウラジムの王弟も。

 たしかに多くの別れを経験してきたのだろう。

 別れはもう充分、か。

 それでもいい。

 理由が何であれ自分の無事を願ってくれるということが皇子の心に穏やかな火を灯した。


「ニラ・ファヴィエ」


 敢てその名で呼びかけながら振り返ると、ニラはぴくりと肩を揺らした。


「そなたに感謝を」


 ニラの目が見開かれた。


「そなたの父、ベルナール・ファヴィエにも」


 大きな目とは対照的にアンバランスなほど小さな口がかすかに開いた。


「なぜ……」

「生前ベルナール・ファヴィエに言われた。私がそなたを恐れるのは自分の正義が揺らぐからではと」


 ニラは眉根を寄せた。

 ベルナール・ファヴィエの名を出したせいか、その目はわずかに潤んで見える。

 数秒見つめ合ってから、皇子はゆっくりとニラの顔に手を伸ばした。あえて緩慢な動作で、ニラが避けようと思えば容易によけられるように。

 だがニラはまっすぐに皇子を見つめ返すだけで、避ける気配はない。

 皇子はそのままニラの眉間にそっと親指を這わせた。そしてその皺を伸ばす。

 この娘には笑っていてほしい。

 こんな顔をさせているのは自分だが、その矛盾はこの瞬間だけ都合よく忘れることにした。


「あやつの言ったことは当たっていた。正しき義とは何か、近頃そんなことばかり考えている。国のために何をすべきか。民のために何ができるのか」


 そうしてようやく、黒い瞳の奥の奥に隠された思いの一端にたどり着いた気がしていた。ニラの心に燻る数多の感情に。


「その小さな体では背負いきれないほどのものを背負って、それでもまっすぐに歩むそなたが恐ろしかった」


 同時に、自分がひどくちっぽけに思えた。

 鏡に映る自分の瞳を恐れ、何かを振り切るように戦場に立ち続ける自分が。


「今は恐ろしくはない。ただ、感謝している」


 各地の属領で相次いでいた反乱もこの数か月で随分と落ち着いた。

 融和の方向に舵を切ったからだ。

 もちろんそれですべてが解決するわけではなく、多くの犠牲も払ったし、結局は力で解決をせざるを得なかったこともある。

 それでも、抱えた火種のうちいくらかは燃え上がる前に消すことができた。それは大きな成果だった。

 そして残った最大の関門が、北の国境線で続く争いだ。

 オード帝国が急に融和路線に向かった理由が軍の弱体化だと睨んだ周辺国が、今が好機とばかりに次々と攻撃を仕掛けてきたのだ。今のところ犠牲はさほど大きなものではないが、国境を守る兵には疲労の色も濃く、長引けば双方にとって不利益しかない。だから、自ら出張ることにしたのだ。燻る火を消すために。


「そなたに出会わなければ、きっと今でもずっと戦場に立ち続けていただろう」


 おそらくは、今この瞬間さえも。

 そうして新たな火種を生み出しながら、自分が踏み越えた躯に目を向けることもなく闘っていたはずだ。自分の内側から響いてくるかすかな叫びに蓋をして。

 ニラは返事に窮しているようだった。

 皇子は前腕に防具を取り付け、首と頭を覆う帷子をかぶった。そして冑を頭にのせる。

 ずしりとした重みが首にかかり、皇子はぐっと拳を握った。

 いよいよだ。

 最後に皮のベルトを腰に巻いて剣をさす。

 これを抜かずに終えられるといいが。

 剣の柄に施された丸い装飾をひと撫でして顔を上げると、ニラがマントを持ってそれを広げていた。

 肩にかけてくれようとしているらしい。

 その広げられたマントの赤に、ふいに皇子はアリアナの部屋に置かれていた引き裂かれたマントを思い出し、頭を振った。

 ナヴィニアでは妻が夫に、その無事を願ってマントを贈り、肩にかけるのだ。それをニラに、自分に対してさせるわけにはいかない。


「かまわん」


 自分でやる、そう言おうとしたが、ニラは黙って歩み寄り、肩にバサリとマントをかけた。


「無事の、お戻りを」


 そう言いながらマントのひもを結ぶ手はひどく震えて、うまく結べていない。

 皇子は手を添え、結びやすいようにしてやった。

 何とか結び終わって顔を上げたニラの瞳は、皇子ではないほかの誰かを見ているような気がした。


 ――フィアトルデ、ニラ。


 あの言葉を残してこの世を去った人物。

 ニラはその肩にマントをかけてやりたかったのだろう。

 その無事を願って。

 そうできていたなら、この娘の心は少しでも楽になったのだろうか。


『許す機会を与えられぬまま、二度と会えなくなってしまった』


 ナヴィニアに行ったとき、ニラはそう言った。

 そうか、だからここへ来たのか。

 同じ後悔を味わわぬように。

 皇子の記憶に残る最後のニラの姿が、血走った目で取り乱しているあの日のものにならないように。

 壁に止まっていた蛾が天井近くをひらひらと舞い、窓の外へと飛び立っていった。

 蛾もフリーデベルト王子も、戻ることはない。


「せめて私は戻ってこよう」


 誰にとでもなくそう呟いて、皇子は部屋を出た。




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