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この道の先に  作者: 奏多悠香


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30/38

30 にじむ汗

 ニラはふうと息を吐き、額ににじんだ汗を肘で拭った。そして足元の木桶を持って小部屋を出、押し車に乗せる。

 暖かな季節を迎え、小部屋とその周辺に立ち込める匂いは日に日にひどさを増している。

 こめかみの辺りを流れた汗をもう一度拭いながら、ニラは空を見上げた。

 腹が立つほど真っ青な空には雲一つ浮かんでおらず、照りつける太陽がじりじりと肌を焦がす。

 冬場は暖かくなるのがあれほど待ち遠しかったというのに、今はあの涼しさが恋しくなってしまうのだから、人間の感情というのは勝手なものだ。


『さてと』


 もうあとひと仕事。

 そう思って手押し車の持ち手に手を掛けたときだった。

 背後から「あー」という声が聞こえた。

 それを聞くなり、ニラはそっと忍び笑いを漏らした。こんな風に話しかけてくる知り合いは一人しかいない。振り返ると、やはりそこにはすっかり日に焼けた青年が立っていた。


「ダミアン、どうしたの?」

「ああ、用があって」


 それはそうなのだろうけど。

 何の用か、と問うているのだ。

 ニラが先を促すように頷くと、ダミアンは何やら視線を泳がせてからつま先で地面を掘り返し始めた。

 身長は数か月ですっかり伸び、顔立ちも随分と精悍なものに変わってきたというのに、この人は。相も変わらず、幼子のような照れ屋なのだ。


「頼みがあって」


 そう言ってゆらゆらと揺れる鳶色の瞳を見つめて、ニラはなんだろうと思った。


「私にできることなら」


 ニラが短い返答にダミアンは頷いた。


「断髪の」

「だんぱつ?」

「髪を切るやつだ」

「髪?」


 そういえば出会ったころよりも随分と髪の毛が伸び、今はそれを後ろで結んでいる。

 伸びすぎて鬱陶しくなったのだろうか。

 でも、なぜそんなことを私に?

 城砦とはいえ、床屋くらいはいるはずなのに。


「ただ切るんじゃなくて、あれだ。成人の」

「成人?」

「こんど俺が成人する」

「そう」

「成人の儀式みたいなもんだ。断髪っていって、髪を切るんだ」

「その儀式のために髪を伸ばしていたの?」

「ああ、まぁ」

「なぜ私に?」

「ふつうは母親がやるんだ」


 ニラは驚きを隠せなくて、思わず眉根を寄せてしまった。


「いや、別に俺はお前を母親だと思ってるわけじゃない」

「うん。それはわかっているけれど」

「だけど俺に母親はいないし、ほかに頼めるやつもいなくて。鬼ババも帰っちまったし。まぁ、いたとしても頼まないけど」


 鬼ババが誰のことか察し、あえて聞き返さなかった。

 ダミアンはとことんセリアを苦手としているらしく、セリア自身もそれをわかっていてダミアンをいじめて楽しむものだから、ダミアンは余計に意固地になっていくのだ。

 オード帝国に戻ってしまってからもう随分と経つまぶしい人の姿を思い浮かべ、ニラは少しだけ明るい気持ちになった。


「……髪を切るだけ?」

「そうだ」

「いいよ」

「そうか」


 鳶色の目をした青年は小さくうなずき、それから「ん」と言って手を出した。


 ん?


「礼に、それ運んどいてやる」

「え?」


 この匂いをくさいくさいと嫌がっていた人が。


「くっせーけどな」


 とってつけたような嫌そうな顔に、ニラは思わず噴き出した。


「なんで笑うんだよ」

「ううん。ありがとう」


 ニラは遠慮せず、余計に不機嫌な顔になったその人に運ぶのを頼むことにした。

 その分の時間を薬草の世話に費やすことができる。

 重いはずの押し車を軽々と押しながら去っていく背中を見つめ、もう一度汗を拭ってからニラは薬草畑へと急いだ。

 城の裏手、モーリスの診療所からほど近い場所にある薬草畑には、ニラの背ほどもある薬草が元気よく並んでいる。暖かい季節を迎えたこの地は、今まさに草花がもっとも生い茂る時期なのだ。

 畑に着くなり、ニラは隅っこにある「落し物」の壺をのぞいた。そこには、もうほとんど悪臭のしなくなった「落し物」が貯められている。「落し物」に厩でもらってきた牧草などを混ぜ込んでしばらく壺の中に入れておくと発酵して匂いが薄れ、肥やしとして使えるようになることがわかったのだ。それを井戸水で薄め、畑にまんべんなくまいていく。

 その作業のおかげで薬草は元気よく育ち、モーリスも「こんなに大きく育つ草だとは思わなかったな」と驚くほどの成長ぶりを見せていた。


「やっぱり、ここにいたか」


 ひととおり撒き終わったところで後ろから声をかけられて振り返ると、モーリスの暖かな笑顔がそこにあった。


「はい」


 肥壺から離れ、薬草の畝のそばにしゃがみ込みながら返事をした。

 根は地中に元気に張っているようだ。しっかりとした茎がぐんと伸び、ニラの姿を覆い隠してしまうほどに成長している。


「さっきダミアンと会って聞いたけど、彼の髪切りを務めるって?」

「あ、はい」

「そうか」


 そう言いながら近づいてきたモーリスは、薬草の葉を摘み取るニラの横にしゃがみこんだ。そしてニラの顔を見る。


「断髪の儀には皇子も参加するけど、いいの?」


 問われてニラは、こくりとうなずいた。


「本当に? ここ数か月、あからさまに避けているように見えたけど」


 ニラは首を振った。


「そういうわけでは。ただ……」

「ただ?」

「用がないから」


 そう言うとモーリスは笑った。


「まぁ、そうかもしれないね」


 一介の捕虜と、城砦の統括者である将軍。

 用など本来ならばあるはずもない。

 皇子の落し物を拾ったあの日から接する機会が多かったのは色々な事情が重なったからにすぎないのだ。皇子のお礼やベルナのこと、襲撃のこと、それにウラジムのこと。嵐のようなあの日々が去った今、ニラはただの捕虜として、皇子は将軍としてそれぞれの道を歩んでいくだけ。

 そう思った途端、ニラの胸の奥がぎしりと軋んだ。

 あの日、皇子の部屋で見た光景がまざまざと瞼の裏に浮かぶ。

 王弟の遺体はあの後ウラジムの森の奥に埋葬されたと聞いた。そして王弟の遺志を継ぐかたちでアドルフが先頭に立ち、ウラジムもまた再興に向けて着実に歩みを進めている。

 王弟を棺に入れてウラジムへと運び丁寧に弔うようにと指示をしたのは皇子だったという。

 ニラはぷつりと薬草の葉を摘んだ。

 そういえば、この薬草の種をくれたのも皇子だった。

 優しいのに残酷な。

 薬草をくれた人、兄の手紙を渡し「好きなように生きよ」と言ってくれた人。

 ニラの故郷を滅ぼし、大切な人を奪い、王弟の命を絶った人。

 それが同じ人間だということが信じられず、ニラの心はゆらゆらと揺れるのだ。だからそのことを考えまいと思うのだが、頭から追い払うのは難しかった。あの日からいつもニラの心のどこかに居座って、時折思い出したようにそこをかき混ぜる。

 皇子を避けていると言われれば、その通りなのかもしれない。顔を合わせそうな場所には近づかないようにしていたし、城の周辺を歩く時はいつも顔を伏せていたから。


「この間、皇子と話をしたんだ」


 顔を上げると優しい色の瞳がこちらを見つめていた。


「……何のお話ですか?」


 太陽がじりじりと首筋を焼く。


「価値観の話」

「かちかん?」


 そのオード語はニラの知らない単語だった。


「そうだよ。大切にするものの序列、というのかな」

「序列、ですか」

「そう」


 モーリスの言わんとしていることがわかるような気がしてニラはうつむいた。


「オード帝国はその昔、小さな国だった」

「はい」


 それはニラも知っていた。

 数十年で一気に勢力を伸ばした新興国だから。


「祖父から聞いた話だが、そのころはみんな本当に貧しかったそうだ。働いても働いても生活はよくならず、誰もがその日を生きるのに必死だった。周辺の国の顔色をうかがってばかりいて。どこかの属国だったわけではないが、実質的には隣の国に支配されているようなもので、搾取されるばかりで資源にも恵まれず、皆がやせた土地を来る日も来る日も耕していた、そんな国だった」


 ぷつり、また葉を摘む。

 積んだ葉は小さなかごへ。

 乾燥させて使うものもあれば、そのまますりつぶして使うものもあるし、葉を煮出した汁を使うものもある。

 葉についていた小さな虫をそっとつまみ、地面においた。

 つまんだ時に少し力加減を間違ってしまったらしく、虫はどことなく痛そうな歩き方であわてて草のかげへと姿を消した。


「だから、先々代の皇帝が目覚ましい活躍を遂げて国を拡大したとき、国の誰もが喜んだ。その皇帝は今でも賢帝と讃えられている。その話はたしか、したことがあったね」


 赤い目をした皇帝の話。

 確かにモーリスから聞いたことがあった。もうずっと前に。


「それが私たちの正義だった」


 ニラは草から視線を外し、モーリスの目を見た。


「国土を拡大し、国が豊かになる。それが私たちにとって最も大切なことだったんだよ」


 価値観の話。

 ニラはうなずくことができず、ただモーリスを見つめ返した。


「それにね。長く圧政の下に置かれていた国をその王の支配から解放した時などは、随分と感謝されもしたんだ。今でもよく覚えているよ。馬に乗って行進する私たちの両脇で人びとが歓声を上げている光景をね」

「そう、ですか」

「オード帝国の人間にとって、それは誇るべき歴史だ。将来にわたって受け継いでいくべきことだと思っていた」


 ニラはどう返事をしてよいのかわからなかった。


「だが君の考えは、きっと違うのだろうね」

「そう……かもしれません」


 ニラは静かにうなずき、地面の土をじっと見つめた。

 幼いころに駆け回った故郷の土がじわりと心に浮かんでくる。

 当時すでに参謀の地位を退き、後進の指導に当たっていたベルナールは、ニラとフリードの師でもあった。そのベルナールが教えてくれた歴史には、繰り返し繰り返し戦の話が出てきた。

 幼いニラとフリードには理解できなかった。


『どうして戦をするの?』


 二人の問いにベルナールはあっさりと答えた。


『簡単だからですよ』

『簡単?』


 そんな風には到底思えなかった。

 剣術の訓練では、いつだって痛い思いをするのに。

 あれのどこが、簡単なのだろう。

 幼いニラは思った。


『アリアナ様の兄上二人はよく喧嘩をするでしょう』

『うん』


 やんちゃな双子の兄たちは、よく取っ組み合いの喧嘩をしていた。


『勝ち負けがわかりやすいのです。何かの意見がぶつかって、どっちが正しいのかわからなくなったときに、力の強い弱いというのはわかりやすい。勝った方が『どうだ、参ったか、このやろう』と言って考えを押し付けることができるから。戦はそれと同じです』

『ふぅん』

『前に森に遊びに行ったときに、二頭の鹿が角をぶつけ合っていたことがあったのを覚えていますか? あれも同じです。力比べをして、強い方が勝ち、群れのリーダーになる』


 そっかぁ。

 動物も、同じなのか。


『でも、一つ違いがあります。人間の力比べは相手をたくさん殺すから』


 ぶるり、ちいさな背が震えたのを、今でもよく覚えている。


『でも、ベルナは兄さまたちにいつも言ってるじゃない。なぐり合いじゃなくて話し合いなさいって』

『そうだね。だけど――』


 その方法による解決は、容易ではない。

 モーリスの言うように、優先順位には人それぞれ違いがあるのだ。

 ニラが故郷を思い、皇子がオード帝国の未来を思うように。

 異なる価値観を持つ者同士が話をしても、答えが見つからないことがある。


「私たちは、自分の国が大切だ」


 モーリスの言葉にニラはうなずいた。

 それを責めることなどできようはずがない。

 同じように、ニラにとってはナヴィニアが大切だった。


「ただ……大切にすることの意味を考えた」

「意味、ですか?」

「ウラジムの王弟が皇子に言ったそうだ。『王は常に中を見ていなければならない』と」


 ――中?


「ニラはナヴィニアが大切だろう?」

「はい」

「そして君は故郷に暮らす人々が少しでも苦しまない方法をずっと考えている。あの王弟の発想も、きっとそれと同じだったのだと思う」


 そこに暮らす人々の幸せ。

 国を大切に思う、というのにそれ以外のことなどあるのだろうか。


「私たちはきっとずっと外を見てきたんだ。苦しみを減らす方法よりも幸福を増やす方法を。今だって本国から遠く離れた地にいて、我々の目は常に外に向いて来た」


 そうか。

 だから真逆なのかもしれない。

 苦しみを減らすことと幸福を増やすことは、同じように見えてきっと全然違うのだ。

 苦しみを減らすには、その原因を知ることが不可欠だ。だから自然、その目は内へと向かう。国土を拡大して幸福を増やすのは、外に目を向けてこそできること。


「……と、皇子が言っていてね」


 そう言ってモーリスは肩をすくめた。


「でも、本国には皇帝が……」


 その人が中を、そして将軍が外を。

 それは国の形として珍しいものではないはずだ。


「その皇帝の目は外に向いているよ。ここに我々を派遣しているのはほかならぬ皇帝で、その目が常に見つめているのは皇子のことだ。民じゃなくね」


 その言葉に何か引っかかりを覚えてニラは眉根を寄せた。


「それは……」


 じわり、額に汗が浮かぶ。


「赤い目が賢帝の証だと、話したことがあっただろう? 皇子はその証をもって生まれた奇跡の子だった。それが何を意味するか。本人にとっては重たい鎖、そして皇帝にとっては……」


 その時モーリスが一瞬見せた表情に、ニラは思わず息を深く吸い込んだ。


「おかしいだろう? 皇位継承第一位の皇子が前線に立ち続けるなんて」


 モーリスは眩しそうな表情をしていた。でも、目元をくしゃくしゃにしたその表情は、もしかすると眩しいせいではないのかもしれないとも思った。


「皇子は父親である皇帝に疎まれている。皇帝はその座を奪われはしないかと戦々恐々としているんだ。国民から絶対的な支持を集める皇子を恐れていて、だから皇帝は皇子を本国から遠く離れた場所に置きたがる。そして皇子の方はというと、自分が疎まれていることに気づいているからこそ実績を残して何とか認めてほしいと願っているし、賢帝にならねばという思いに駆られてもいるから、何かに追い立てられるように戦場に立ち続けてきた。各地で勝利を収めて皇子がその力を強めれば強めるほど、皇帝は皇子を遠ざけ、皇子はさらに外へと向かう」


 外と、内。

 優しさと、残酷さ。

 人の心もその決断も、大切なものの序列も。


「それでも、皇妃――皇子の母君が亡くなるまでは、それほど酷くはなかったのだが」


 ニラは首を振った。

 額の汗が髪を伝い、ぽとりと地面に落ちて丸い染みをつくる。


「私には難しすぎます」


 一介の捕虜である、ニラ・ファヴィエには。

 だがアリアナ・ダリスとしては、その立場に置かれることの重圧を理解できる気がした。


「そうだね、難しい」


 モーリスの返答を聞きながらニラは葉をつかみ、それをむしり取ろうと引っ張った。動揺して少し乱暴に引いてしまったせいか、草はニラが意図した場所とは全く違う、茎の根元の方でぽきりと折れてしまった。


「力の加減を間違えれば、意図した以上の結果を生んでしまうこともある。さっきの虫もね」


 モーリスが静かに言った。


 ニラは黙ったまま折れてしまった茎から葉をすべて摘み取って、残った茎はそっと土の上に置いた。


 ――土に還りますように。


 そしてまた葉を摘む。

 今度は茎を折ってしまわないよう慎重に。


「だが、その結果から学ぶこともある。同じことを繰り返さないように」


 ニラは顔を上げた。


「なぜその話を、私に?」


 思いのほか、口調が強くなった。

 モーリスはふうーっと細く長い息を吐いた。そしてすっと吸い込むと、ため息に混ぜ込むようにして言った。


「皇子はずっと小競り合いの続いていた北の国境地帯へ行くことにしたそうだ」

「え?」

「今夜発つんだ。この城砦を」


 ニラが首をかしげると、モーリスは静かに言った。


「これ以上双方の犠牲を増やさないために、皇子が自ら停戦の交渉に行く。相手から強い要請を受け続けて来たが、今まではずっと歯牙にもかけずに捨て置いてきた。だが、ついに行くことにしたのだと」


 ニラは立ち上がった。


「それは……」

「言うまでもなく、危険だろうね」


 相手側から要求してくるその交渉が、緊迫したものにならないはずはない。


「君の背を見送るよりは自分で行くほうがよほど気が楽だと笑っていたけれど」

 モーリスはやはり穏やかな表情で言った。


 見上げた空に、許す機会を与えられぬまま会えなくなってしまった人の笑顔が浮かんで消える。

 額ににじんだ汗を、ニラは両のてのひらでぐいと拭った。




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