24 手紙の行方
――あっけないものだ。
暖炉の火に投げ入れた紙が燃えるのををじっと見つめながらそんなことを思った。
端から徐々に火に呑まれ、最後にぽぅと明るく燃えて灰になる。わずか数十秒の間に、まるで最初からそんな紙切れなど存在しなかったかのように姿を消すのだ。
この手紙も、そうしてしまえばいい。
右手に握りしめた一通の手紙は薄っぺらく軽いくせに、どうしてかひどく重く感じられた。
それを書いた人の想い。
それを自分に託した人の想い。
そして、手紙にこめられた真実。
どれもが重くのしかかる。
「殿下。セリア様がお見えです」
護衛の声が部屋の外から聞こえ、皇子は手紙を上着の袖口にしまって暖炉のそばを離れた。
「通せ」
返答とほとんど同時に扉が開き、妹が姿を現した。分厚い外套を着こみ、神妙な顔つきをしている。
「どうした」
「本国に戻る前に挨拶をと」
「ああ、そうか。今日戻るのだったな」
外套は旅装であったらしい。このところ忙しかったせいで妹の帰郷の日をすっかり忘れていた。
「万事滞りないか」
「ええ。予定通り今夜発つわ。色々とありがとう」
「いや、私は何も」
「体に気を付けてね。うちの人をあまり働かせすぎないで。それと、ニラを……」
戦場ではピクリともしない鋼の心臓が、その名を耳にした瞬間にわずかに動いた。
セリアはニラを本国に連れて行こうとしていたのだ。そのことを思い出して目を見開いた皇子に、妹は柔らかな表情を見せた。
「……連れて行こうと思ったんだけどね。ニラは来ないって。少なくとも故郷の行く先をきちんと見届けるまではここに残るそうよ」
「そうか」
聞くなり自分が安堵の息をついたことに気づいて自嘲した。
「お前がこの砦に来ると言い出した時、私は反対した」
「ええ。あの人から聞いてるわ」
「危険だと判断したからだ」
「あの人も同じ意見だったみたいね」
「そうだ。だが、今は……来てくれてよかったと思っている」
妹は意外そうな顔をした。
「一体どうしたの?」
「ニラのことで、色々と世話になった」
「あら嫌だ。今夜出発だって言ってるのに。槍が降るわよ」
「物騒なことを口にするな」
「それはこっちの台詞よ! 兄上からお礼を言われるだなんて思わないもの。不意打ちはやめてよ」
自分の肩を抱いてぶるりと身を震わせ、さも気味が悪そうに言う。
妹の反応のせいで、急に居心地の悪さに襲われた。
妹はしばらくからかうような表情を見せていたが、ふ、と真剣な顔になった。
「ニラは……王妃になるはずだったんですってね」
「ああ」
「ナヴィニアから戻った日にね、ぽつりぽつりと話してくれたの。あの子が自分のことを話すのなんて初めてで驚いた」
「そうか」
「見届けたいって」
「そうか」
妹は一瞬こちらをうかがうような表情を見せた。
「十六歳の誕生日に新王の戴冠と婚姻の儀式が行われる予定だったんですって。それって、ナヴィニアの城が陥落した日よ」
妹自身、どんな表情で語るべきかわからないのだろう。碧い瞳がいつになく揺らいで見えた。
ニラはこの話をどんな表情で語ったのだろうか。
「……そうか」
さっきから、同じ返事を繰り返している。
ほかに返す言葉が見つからなかったからだ。
アリアナ・ダリスは十六歳の誕生日に結婚するはずだった。ナヴィニアの成人は十六だから、アリアナが成人を迎える日に合わせて王子との婚姻と戴冠の儀を行うと、ずっと前から決まっていたのだろう。
だがその儀式が執り行われることは無かった。
奇しくもその日ナヴィニアの城は陥落し、ほとんど時を同じくして大将である王と副将である王子を失った。
国にとってはもちろん、ニラ本人にとってそれがどれほど大きな喪失だったか。
この砦が勝利の知らせに沸いていた頃、どれほどの人が涙を流していたことか。
それが戦の宿命だとわかってはいても、目の当たりにするとその事実はひどく残酷なものに思えた。
――あの子が怖いのは、あなたの中に迷いがあるからでは?
――あなたはよき皇帝になられるでしょう。
脳裏にベルナール・ファヴィエの言葉がよみがえった。
あの老人は自分にニラを託し、手紙を託し、あの言葉を残して逝った。
なぜ自分にニラを託したのだ。
なぜ自分に手紙を託したのだ。
なぜ、よき皇帝になるなどと言ったのだ。
その真意を知ることはできない。
ただひとつだけわかることは、あの老人がたとえ生きていたとしても、答えをくれはしなかっただろうということだ。
自分の中にある迷いにも、この手紙の行方も、自分自身で答えを出さなければならないのだろう。
皇子は無意識に、袖口に差し入れた手紙の端を握りしめていた。
手の中で封蝋が崩れるのがわかった。
「それは?」
目ざとい妹が問いかけてくる。
「……たいしたものじゃない」
「そう」
妹はあっさりと引いた。強引に聞き出すつもりはないらしい。
だがふいに、この妹ならどうするのか聞いてみたくなった。
ニラに手紙を渡すべきだと言うだろうか。
「セリア」
「なに?」
「もしその手に真実を握っていて、それをほかの誰も知らないとしたら。そして、真実を知れば苦しむだろうが同時に救われるかもしれない心があったとして……お前ならどうする? 真実を知らせるか、それとも握りつぶすか」
「その真実は……兄上にとって不都合なの?」
何も答えなかったが、セリアにはそれで十分だったらしい。
「握りつぶす」
セリアはあっさりと言った。
だが、
「……そう、言ってほしかった?」
続く言葉に息を呑んだ。
「兄上が握りしめているそれが何だか知らないけど、私ならきっとニラには渡さない」
「……なぜニラのことだとわかった」
「兄上が私に助言を求めるほど悩むことなんて、ニラに関わること以外にありえないと思ったから」
すっかりお見通しというわけか。
「ねぇ……ニラに知らせたらニラが苦しむから悩んでいるの? それとも、ほかに知らせたくない理由でもあるの?」
妹の問いは核心をついてくる。
思わず喉の奥から低いうなり声が漏れた。
知らせたくない理由ならある。
この手紙を渡せば、ニラは決して手に入らない。
そんな気がしていた。
「いや、ちがうな」
自嘲気味の笑みとともに言葉がこぼれた。
最初から、手に入れる望みなどなかったのだ。
自分がただ、望んでしまっただけで。
いつから自分は手に入れる望みの無いものを欲しがるような人間になったのだ。
これまでは、欲しいと思ったものはすべてこの手中に収めてきたというのに。
「渡す、か」
ぽつりと漏らすと、妹は静かにうなずいた。最初からそうすることがわかっていたかのように確信めいた表情だった。
――何が『私なら渡さない』だ。
馬鹿がつくほど正直でまっすぐなこの妹が渡さずにいられるはずがない。
最初から自分の下す決断などわかりきっていたか。
「兄上」
「なんだ」
「私は後悔したことはないわよ」
「何をだ」
「あの人と結婚したこと」
妹はそう言ってから、透き通る碧い瞳でこちらを見据えた。
「父上には随分と叱られたし、兄上にも迷惑をかけたけれど。これまで生きてきた時間よりこれからの時間の方が長いのだとしたら、隣にあるのは自分の望むものであってほしい。それは何も、おかしな考えではないと思うの」
妹の言わんとしていることはわかる。
だが、大前提が欠けている。
「お前の場合は、モーリスにも望まれていた」
ニラがそれを望むのだとしたら、皇帝である父親を黙らせることなど容易い。それだけの実績を残してきた。
だが、そんなことを考えるだけで罪だと感じるほどに奪ってしまった。
ニラの家族、恋人、未来。すべてを奪った自分がこれ以上あの痩せこけた娘に何かを求めることなど、ありえない。
「愚かな」
小さくつぶやくと、妹が「え?」と聞き返した。
「いや、なんでもない」
皇子は静かに首を振り、袖の中の手紙を取り出した。
「気をつけて帰れ。いずれ私も本国に戻る。息災でと、父上に」
「ええ。それじゃあ、またね」
「ああ」
妹はそれきり何も言わず、くるりと踵を返して部屋を出て行った。
硬質な足音だけが部屋に響き、妹が去った後もしばらく耳の奥に残っていた。
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「お呼びでしょうか」
小さな声に問われ、皇子は振り向いた。
ぼんやりとしていて、ニラがいつの間にか部屋にいたことにも気づいていなかった。
戦場ならとっくに死んでいるな。
そんなことを考えながら、乾ききった口を開く。
「ニラ……いや、アリアナと呼ぶべきか」
ニラは驚いた様子で皇子を見つめ、小さく首を横に振った。
「いいえ。ニラ、と」
「そうか」
そう言ったきり、どうやって切り出してよいかわからずに沈黙した。ニラも何も言わず、まっすぐにこちらを見つめて言葉を待っている。
重苦しい沈黙の末に、覚悟を決めて切り出した。
「そなたにこれを」
くしゃくしゃになった手紙を差し出すと、ニラは一瞬眉間にしわを寄せ、それからじっとその手紙を見つめた。走りがかれた宛名が目に留まったのだろう。驚いたように顔をあげ、小さな口から息を漏らした。
「これは……兄の……字……?」
「そう、君の兄の手によるものだ。ファヴィエから託された」
「ベルナが……?」
ニラは手紙をそっと受け取ると、黙って封を破いた。
さきほど来皇子が握りしめていたせいで崩れかけていた封蝋はあっけなく崩れ、ニラの細い指でも簡単に封を破ける。
震える手がそれを広げ、黒い瞳が文字を追ってゆっくりと左右に動いた。
そして瞳が幾度か往復するころには、大きな目から涙があふれていた。
その口からは声にならない声が漏れ、手紙をつかむ手が大きく震える。
「ニラ」
唐突に、ニラがこの場から消えてしまうような漠然とした不安に駆られて皇子は呼びかけた。
だがニラの目は危うく揺れるばかりで、皇子の姿を映すことはない。
ふっと、微かな空気の揺れを感じ、考えるより先に体が動いた。
ニラが突然足元からくずおれたのを、皇子の腕が抱き止めた。
――泣き崩れるというのは比喩ではなかったのだな。人は本当に、崩れ落ちるのか。
「ニラ」
皇子はただ、ニラの体温を感じていた。
どうすることもできず、名を呼んだ。
存在を確かめるように何度も何度も呼んだ。
震える小さな体には服の上からでもくっきりとわかるほど骨が浮いている。背を撫でてやりたいが、そんなことが自分に許されるのだろうかと自問するとやはり許されないような気がして、手出しはできなかった。
「ニラ」
しばらくしてから、震える手がゆっくりと動いた。
「なんだ」
問いに返事はなく、ニラはただ、手紙を皇子の目の前に差し出してくる。顔は伏せられ、皇子の方を見てはいない。
「読んでもいいのか?」
問いかけると、ニラはこくりと頷いた。
皇子は片腕でニラを支えたまま、もう片方の手で手紙をかざし、ざっと目を通した。
内容は思っていた通りのものだった。
フリーデベルト王子にはニラの他に愛する女性などいなかったのだ。
しかし、王が近くウラジムへ派兵するだろうということ、そして厳しい戦いになるであろうことを予測した王子はニラとの婚約を解消した。
ニラに危害が及ぶことを避けるためだった。
そしてまた、自分の死後ニラが縛られることのないようにとの配慮でもあった。
『真実を明かすことで君が楽になるかどうかわからなかった。
だが、君は愛されるに足る人間だということを忘れないでほしい。民も、王も、フリーデベルトも、そして私たちも、皆君を愛している。
自分を信じて幸せになってほしい。
婚約の解消を君に告げたあとのフリーデベルトの表情が今でも忘れられない。
あの決断が正しかったのかはわからないが、それでも、フリーデベルトがその結論に至るまでにどれほど苦しんだか、君にはわかるはずだ。
私たちの望みは同じだ。
ただ一つ、君の幸せを願っている。
どうしてもそれを伝えたかった。
アリアナ。心から愛している』
ファヴィエに宛てられた手紙は整った字で書かれていたが、アリアナ宛てのこの手紙は、ひどく震える文字で綴られていた。
この手紙を書くときには、彼らはすでに死を覚悟していたのだ。最愛の妹に残す最後の言葉を冷静に紡ぐことなどできようはずもない。
すでに死んだ人間なのに、手紙から漂ってくる気迫とでも言うべきものに、皇子は圧倒されていた。
「ニラ」
幾分呼吸の落ち着いたニラが身じろぎをした。
自分に支えられているこの状況が気に食わないのだろうとわかったが、手を離せばニラは床に崩れ落ちるだろう。そう思い、なお腕に力を込めてニラを支えた。
「これも、そなたに」
手紙と共に墓所に置かれていたダリス家の指輪をニラの小さな掌にのせた。
「このリングはそなたが受け継ぐのだと」
自分の声は掠れていた。
ニラはその指輪をじっと見つめ、それからぎゅっと握りしめた。
目はすっかり充血し、部屋へ来たときの表情とはまるで違う疲れきった表情をしている。
それなのに。
「ありがとう、ございます」
「……いや」
礼、か。
礼よりも、不自然に取り繕われた表情よりも、あの荒れた部屋のほうがよほど。
ニラはゆっくりと拳を開いた。
「私が、これを……」
たぶん、二人の兄のうちどちらかが身に着けていたのだろう。
「兄は小指に」
そう言いながらゆっくりと小指をリングに差し入れる。
「私には大きすぎるようです」
それはリングのことか。
それとも、小さな背で負うには大きすぎる家名のことか。
「そんなことはない」
皇子はそう言ってリングを手に取り、ニラの中指に通した。
まるであつらえたようにぴったりだった。
「これでちょうどいい」
「本当に……」
そう言いながらニラは手を顔の上にかざした。
窓から差し込んだ日が反射し、鈍く輝く。
「兄の想いに恥じぬように生きねば」
皇子の腕にかかっていた重みが消え、ニラがするりと腕を抜け出した。自分の足でしっかりと立ち、顎をあげて前を見据えている。
瞳は潤んでいて、涙をこらえているのがわかる。
「そなたの好きなように生きよ。彼らの望みはきっとそれだけだ」
妹を持つ兄として、それだけは言えた。
オード帝国の将軍としてニラに掛ける言葉など何一つないから。
ニラはうなずくでもなく、ただただ指輪を見つめて唇を噛み締めていた。
倍ほど生きてきた自分よりも、この娘の方がよほど多くのことを経験しているような気がする。そのせいか、ニラを前にするといつも落ち着かない気にさせられる。
沈黙を切り裂いたのは、部屋の外から聞こえた怒声だった。
「殿下っ。ウラジムへ向かっていた使者が戻りました! たったひとりで、ひどい手傷を! 他はすべて……」
ニラの目が見開かれた。




