20 ナヴィニアへ
ニラはゆっくりと目を開けた。
枕に押し当てられた頭がずきりと痛む。
窓から差し込む光は薄く、窓の外に人の気配がないことから、夕方ではなく早朝だろうと思われた。
「目が覚めた?」
足元の方から明るいセリアの声がかかって、慌てて体を起こした。
「あの……」
口から出た声は掠れきっていた。慌てて咳払いをして喉を整えようとするが、イガイガとした感覚が余計にひどくなっただけだった。
「お水、飲める?」
優しい声にこくんと頷いて、差し出されたコップを受け取った。
水を一口飲むと、のど元をひんやりと掠めて体にしみこんでいくのがわかった。空腹のせいか、腹がきゅうと音を立てる。
「あの……どれくらい眠っていたんでしょうか?」
「三日かな」
ニラがおずおずと尋ねると、セリアは事も無げにそう言った。
――三日。
「ごめんなさい。ご迷惑を……」
小さな声で言うと、セリアはニラの傍に屈んだ。蒼い蒼い目がニラを覗きこむ。
「迷惑なんかじゃないわよ。心配しないで。城の仕事はダミアンがニラの代わりを務めているそうよ。だから、何も心配することないの」
「でも……」
ウラジムの情勢は変わらず不安定で、オード帝国から送られる使者との交渉如何では更に悪くなることも予想された。だからセリアは近々、子どもたちを連れてこの城砦を離れ、オード帝国に戻る予定だと言っていたのだ。それがベルナの死やその後のバタバタで予定より遅れているのではないかと心配になった。
そんなニラの心を読み取ったかのように、セリアはニラのベッドにゆっくりと腰を落とした。
「あのね、三日後にここを発つことになったわ」
「そうですか」
うなずいてから、自分の気持ちをどう表現してよいかわからず「寂しくなります」とだけ付け加えた。
幼い子どもたちとの交流はいつだってニラの心を温めてくれたし、子どもたちに向けるセリアやモーリスの愛情を間近で見ているだけでも幸せだった。
国に戻ってしまったら、次にいつ会えるのかわからない。
寂しさというよりも恐怖というに近い感覚に、ニラは下唇を噛んだ。
「ねぇ、ずっと考えていたんだけど……ニラも一緒に来ない?」
「え?」
「本国の方がここよりもずっと安全だし、もう少し豊かな生活を送れると思うのよ。ここは城砦だから、決して物質的に恵まれてはいないでしょう? 一緒に来ない? 無理にとは言わないけど……」
故郷を遠く離れ、オード帝国へ。
考えてもみなかったことだ。
かといって、ここにずっといると思っていたわけでもない。
ふいに、自分がこれから先のことを何も考えていなかったことに気づいた。
このまま自分がどうなるのか、どうするのか。毎日を生きているだけで、その先にあることなど考えもしなかった。
そして、それでもよかったのだ。ニラにはベルナールがいたから。迷ったら彼に尋ねれば、いつだって導いてくれたから。
――だけど、いまは。
いまのニラは、暗闇の中で道しるべを失ったようなものだ。ベルナ亡き後、これからは自分で考え、自分で決めて、自分の足で歩いて行くしかないのだ。
「もっと前に言えばよかったのだけど、お父さんのことがあったから……」
ベルナがここにいる限りニラはこの城砦を離れない。セリアはそのことをわかっていたのだろう。
気遣わしげな視線に、ニラは静かに頷き返した。優しさに対する感謝を込めて。
「ニラをここで雇うって決めたのはうちの人でしょう? だからあの人にも聞いてみたら、ニラの望むようにすればいいって」
「そう、ですか」
「返事は私がここを発つまでにくれればいいから。もうあまり時間は無いけど、考えてみてくれる?」
「はい」
セリアが部屋を出て行った後ニラは自分のベッドから床に降り立った。何も履いていない足の裏が木の床に触れ、ひんやりとした感覚がふくらはぎを上ってくる。その感覚にぶるっと身を震わせ、部屋の反対側に据えられた空っぽベッドを見つめた。
ベルナが亡くなってからの七日間、ニラは働きづめだった。手を動かしていないと余計なことを考えてしまいそうで怖かったのだ。夜もほとんど眠れぬまま黙々と働いた結果、ついに体調を崩して動けなくなった。
そしてどうやら三日間も眠りっぱなしだったらしい。
――今は、仕事をしなくては。
セリアの提案について考えるのは仕事が全部終わってからにしよう。
ニラはぐんと伸びをして、寝間着をぱさりと床に落とした。
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「ダミアン」
ニラは見慣れた背に声を掛けた。ひょろりと縦に長い背がぴくりと動き、黒髪を揺らしてダミアンが振り返った。早朝だというのに眠そうな様子もなくすっきりとした顔をしている。
「ニラ、目が覚めたか。体調はもういいのか」
「もうすっかり。ありがとう。仕事のこと、ごめんなさい」
「気にするな。どのみち皇子がいなくて近衛の仕事が無かったから、手は空いていたんだ」
そう言いつつも僅かながら顔を歪めて臭気に耐えているところをみると、いまだにこの臭いには慣れないらしい。
ニラが表情を観察していると、ダミアンはニヤリと笑ってみせた。
「ニラは自分がぶっ倒れた後のことは全然覚えてないだろうけど……見せてやりたかったな。皇子のあの姿」
「あの……姿……?」
「意識が朦朧としてるニラを抱きかかえてモーリス様の家まで運んだのは皇子なんだ」
聞くなりニラの心に最初に浮かんだのは「また痩せすぎだと言われるだろうか」ということだった。
それから慌てて小さく頭を振り、懸念を掻き消す。
「お礼を……言わなくては」
「ああ、そうだな。皇子は今ちょうどナヴィニアだ」
「ナヴィニア?」
「ああ。トルト卿に会いに行った」
「そう。それなら、戻って来られた頃に」
ニラはそう言って、ダミアンが持っていた落し物をかき集める棒に手を伸ばした。仕事を代わるよ、というつもりで。
ところがダミアンはニラの手が伸びているのに気付くと、軽く首を振って棒を自分の方に引き寄せた。
「ここは良いからお前は行けよ」
「どこに?」
「どこにって、今日は十日目だろう」
ニラはその数字にはっとした。
そうか、三日間眠っていたから。今日はベルナの死から十日目だったのか。
死後十日は、ナヴィニアで死者が本当の意味でこの世を去るとされる日だ。この十日目の夜に墓の周りで宴を開き、死者を送り出すのが風習だった。
「でも……」
トルト卿の計らいで、ベルナの墓はナヴィニアの墓地に作られた。その墓にニラが行けるはずがない。馬でも数刻かかる距離もさることながら、ニラは捕虜なのだ。気楽にこの城砦を出られるような立場ではない。
「モーリス様と皇子からの許可なら出てる。今出れば夜には十分間に合うだろう。ウラジムの情勢がどう転ぶかわからない。今を逃したらしばらくナヴィニアには行けなくなるかもしれないぞ」
離れて一年以上経つ故郷に行ける。
それはとても嬉しいことのはずなのに、ニラの心に浮かんできたのは戸惑いだった。
辛い思い出ばかりが残るあの場所に、本当に行きたいのか。
最後に目にしたのはあちこちで火の手と悲鳴が上がり、土煙に包まれた姿だった。
ニラが押し黙ったまま答えないでいると、ダミアンは落し物に深く差しこんだ棒をぐっと抜いた。そして何も言わず、その棒を二つの木桶に向けた。一方の木桶にはすでに落し物がなみなみと詰まっている。他方の木桶は空っぽだ。
「俺は、あれだ」
そう言ってダミアンは空の木桶を指した。
「俺には家族の記憶はない。そしてお前のはそっちだ」
満杯の木桶。
たしかにニラには、思い出がたくさんあった。胸に突き刺さるほどの思い出が。
「俺のは空っぽだから、お前の苦しみは分からない。だけど、その木桶に詰まった記憶は苦しみだけか?」
ニラは木桶を見つめた。
違う。
心に詰まった記憶の大半は、幸せなものだ。
いつかベルナにも、同じことを言われた。
――でもね、ベルナ。
心の中で語りかけた。
苦しみがあまりにも濃いよ。他の部分を覆い隠してしまうくらいなの。
だからつい、すべてを心の底に押し込めて、忘れてしまいたくなる。
苦しいことを、無かったことにするために。
「お前は、この木桶に詰まったこんなに臭いものを肥料に変えられるんだろう。ならその苦しみだって、何か別のものに変えられるんじゃないのか」
苦しみを、別のものに?
変える?
何に?
喜びに変わるとでも?
顔を上げると、自分を見つめているかと思ったダミアンは、予想に反して空っぽの木桶を見つめていた。
その横顔を見て八ッとした。
ダミアンにはニラの苦しみがわからないと言ったが、ニラにもダミアンの心の痛みは理解できない。空っぽの木桶を抱えて生きるその苦しみは。
木桶に詰まったの落し物は臭く、重い。
だがそれが薬草の成長を助け、新たな命をはぐくむのだ。
きっと、ニラの心に詰まった苦しみが喜びに変わることはないだろう。
だがもしかしたら、何か別のものに変えることはできるのかもしれない。
「……行って、みたい」
ニラの言葉にダミアンは満足げに頷いた。
「仕事は俺が代わってやる。馬には乗れるだろう。俺の馬を使え。厩舎にいる葦毛の馬だ。額に白い模様があるから見ればすぐにわかる。わからなければ厩舎のおやじに聞くといい」
今度はニラが頷く番だ。
「ありがとう」
ニラが言うと、ダミアンはふいと顔をそむけた。
「礼なら許可を出したモーリス様と皇子に」
相変わらずの照れ屋だ。
ニラはそう思ってくすりと笑い、頭を下げてその場を後にした。
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ダミアンの馬を厩舎から引っ張り出して鞍を乗せると、馬は怪訝な顔をした。
自分の主人でないニラが乗ろうとしているのを不思議に思ったのだろう。
「今日だけ私を乗せてくれる?」
大きな茶色い目に向かって語りかけながら鼻筋をさすると、馬は心得たとばかりに低く嘶いた。
鐙に足を掛け、ぐんと馬上に上がる。
久しぶりのその高さは、恐怖ではなく高揚感をもたらした。
ここからナヴィニアまでは、駈足で七時間ほど。途中に休憩を挟みながら行っても、午後の早い時刻にはナヴィニアに着けるはずだ。
馬に乗って風を切る感覚に郷愁を覚えながら、ニラは目を閉じて大きく息を吸った。
―――ああ、気持ちいい。
『ニラ、馬に乗っているときに目を閉じてはダメだ。危ないだろう』
耳元で懐かしい声が聞こえた。
『だって気持ちいいんだもの』
そう答えると、呆れたようなため息がすぐそばで聞こえる。
『……それに、危なくなったらあなたが助けてくれるのでしょう?』
あの時は、そう信じて疑わなかった。
この声はいつまでも自分のそばにいて、自分を守ってくれるのだと。
閉じた目に涙があふれる。
そんなニラを気遣うように、葦毛の馬が小さく鼻を鳴らした。




