2 落し物
「なに? 皇子に? 私は主治医だから皇子には会えるけれど。急にどうしたんだい」
ニラの雇い主であり家主でもあるモーリスは戸惑った様子を見せた。
「皇子の落し物を拾いましたので」
「落し物? 城での仕事の時に拾った、ということかな?」
モーリスの温かく澄んだ翠色の瞳が、ニラの双眸をとらえた。
ニラはうなずいた。
人の好い医者は一瞬眉間にしわを寄せてから顔をこちらに寄せ、声を潜めて問いかけてくる。
「で、その落し物っていうのは一体……」
ニラは黙ったままモーリスに向かって握りこぶしを突き出した。
これを彼らの言語で何と呼ぶか、ニラは知らなかったから。
モーリスはニラのこぶしの下で手を広げた。
大きな手だ、とニラは思った。
ニラの手よりも二回りほどは大きい。
――ニラの手は本当に小さいな、ほら、片手で包み込んでしまえるよ。
心の中によみがえった声を掻き消すように、握っていた拳を開いた。ポトリという小さな音とともに、モーリスの掌に小さなものが転がる。
失くしたりしては大変と、拾ってからずっと神経質になっていた。手放したおかげでようやく肩の荷を下ろすことができ、ニラは安堵した。ふぅっと細く息を吐き出し、空っぽになった手で服の裾をくしゃりとつかむ。
一方のモーリスは、自分の手の上に転がり落ちたものを見るなり、信じられないというように目を見開いた。
「こ、これは……」
「皇子の大切なもの……だと思いましたので」
モーリスは口をパクパクと開け閉めするばかりで、言葉が出てこない。よほどの衝撃だったのだろう。何度も瞬きをし、ようやく言った。
「こんなに大切なものを落とすなんて……一体どこで……?」
「仕事場です」
「ニラの仕事場……たしか、城中の落し物が集まる場所だと言っていたね」
ニラは頷いて視線を落とし、ゆっくりと瞳を横に泳がせた。
嘘は言っていない。が、本当のことも言っていない。
ひと月前まで父が自分にしていたのと全く同じ説明を、今は自分が雇い主に向かってしている。
もしかすると、父は言わなかったのではなく言えなかったのかもしれない。今の自分と同じように。
そんなことを考えた。
「これを……私から皇子に渡しておけばいいんだね?」
人の好いこの男性はこの国の軍に属する医師であり、皇子の幼馴染でもある。この人の下で働き始めてまだ一年にも満たないが、皇子が最も信頼を置いている人物の一人だということはわかっていた。
ニラは無言でうなずいた。
「もう夜遅いが……これは、すぐにでも届けた方がいいだろうな。ちょっと城まで行ってくるよ。ニラは先に寝ていてかまわないからね。明日も早いのだし、仕事の掛け持ちで疲れたろう」
「ありがとうございます」
「じゃあ行ってくるよ。すまないが、妻に先に寝るようにと伝えてくれるかな」
モーリスは玄関に掛けてあった外套をさっと羽織ると、すぐに寒空の下へと出て行った。
ニラはその背を見送ってから玄関の扉に閂をかけ、奥の部屋へ向かう。コンコン、とドアをノックし、ドアを薄く開けた。
「あら、ニラ」
赤ん坊を抱いた女性が肩越しにこちらを振り返って微笑んだ。
「あの人は?」
「私が城で拾った皇子の落し物を届けに、城に向かわれました」
「あら、こんな時間に? 明日にすればいいのに。あの人、寒くない格好をして出掛けた?」
ニラはうなずいた。
「外套を羽織ってお出かけに」
「そう。それならよかった」
そう言うと女性は腕の中にいた赤ん坊をそっとゆりかごに横たえた。
「ずっとぐずって、ようやく眠ったところなの」
もうすぐ九ヶ月を迎えるその子の寝顔に優しいキスを落とす女性を見つめていると、ニラの心にじわりと温かい何かが広がっていく。女性と赤ん坊のちょうど間くらいの年齢のニラにとって、赤ん坊に愛情を注ぐ女性が眩しくもあり、愛情を注がれる赤ん坊がうらやましくもある。
「あの……温かいお茶をお淹れしましょうか?」
ニラの提案に、女性はぱっと破顔した。
「あら、いいの? ありがとう。居間で一緒に飲みましょう」
女性の名はセリア・アダン。ニラの雇い主であるモーリス・アダンの妻だ。
二人の間には三人の子供たちが居る。六歳になる長男のレオ、三歳の長女のアニー、そして生後九ヶ月になる次男、ミロ。
ニラがモーリスの下で働くようになって一年弱だが、お産のために離れた土地にいたセリアが子供たちを連れてここにやってきたのはひと月ほど前のこと。セリアの朗らかな人柄のお陰で、ニラは彼女とすぐに打ち解けていた。
「うーん! ニラの淹れるお茶は本当においしいわね!」
長くほっそりとした指でカップを包み込みながら、彼女が言った。
きらきらした笑顔でそう褒められて、ニラは思わず下を向く。
ごく幼い時に母を亡くしたせいで母の顔も母の愛情も知らないニラには、わが子を慈しむ彼女の姿は神々しいもののように映った。そして、子供たちに向けるのと同じような優しい笑顔を自分にも向けてくれるのが、とてもくすぐったく感じられるのだ。
しかし母語ではない言葉で細やかな感情を表現するのは案外難しく、いつもニラは曖昧な笑みを浮かべるだけで精一杯だった。
「お茶の淹れ方はモーリス様に教えていただきました」
「あら、そうなの? 私と同じね。私もあの人に教えてもらったのよ。結婚したばかりの頃は、お茶の淹れ方はおろか、湯を沸かすためにかまどに火を入れることすらできなかったの」
セリアはそう言って肩をすくめ、大輪の花のような笑みを見せた。碧い瞳が優しく揺らいで、ニラの故郷にあった大きな湖を想わせる。
「あの人の帰りは遅くなるのかしらね。あの皇子の落し物なんて、ほおっておけばいいのに」
冗談めかして顔をしかめながらそう言う。
「皇子を……ご存じなのですか?」
「まぁ、ちょっと、ね」
「そうですか」
モーリスが皇子と幼なじみであることを考えれば、その彼に嫁いでいるセリアもまた高貴な生まれなのだろう。
彼女は気さくで率直で親しみやすい人柄だった。それでも時折にじむ高貴さが――たとえば料理というものがおよそ出来なかったり、小さな虫を見つけては悲鳴を上げたり――ニラは大好きだった。
「それはそうと、ニラ。お父さまの具合はどう?」
急に真顔になったセリアに尋ねられ、ニラは軽く首を横に振った。
「今日は痛みも少なく、よく眠っていたようですが……」
「そう」
ニラの表情があまり明るくないことに気付いたのだろう。セリアはそれ以上父のことを問うてはこなかった。
「あなたは?」
「へ?」
唐突に尋ねられて、ニラは間抜けな声を上げてしまう。
「あなたは大丈夫なの?」
何を聞かれているかわからずに目でそれを伝えると、彼女はその大きな瞳をさらに広げてニラの顔を覗きこんだ。
「お父さまの看病に、城での仕事に、私たち家族の面倒まで。疲れるでしょう。なぁんて、お茶を淹れさせておいて言うようなことじゃないけれど」
軽い口調で紡がれた言葉だが、その奥には静かな湖のように大きくて深い優しさがある。
「いいえ。モーリス様が父を看てくださってとても助かっていますし、私もこの家に置いていただいて感謝していますし、三人のお子さんはかわいいし……疲れなんて」
この土地へ来て以来、父とニラは城で働く人が集まる長屋のようなところに住んでいた。しかし、父が倒れたのをきっかけにモーリスがここへ移り住むようにと言ってくれたのだ。それで今は、モーリスの診療所の二階の小さな一室に間借りして生活をしている。
幼子を抱えてただでさえ忙しい生活の中にニラとその父がお邪魔をすることになっても夫妻は嫌な顔一つせず、それどころか温かく迎え入れてくれ、何かと気にかけてくれる。
「そう? ならいいのだけど。無理は禁物よ」
「……ありがとうございます」
本当に、この家族にはいくら感謝してもし足りない。
ニラは暖かいお茶のカップを両手で包み込むように握りしめ、ゆっくりと目を閉じた。少し冷めてしまったお茶からはふわりと柔らかい香りが立ちのぼり、疲れた体にしみこんでくる。
「あらあら……本当に疲れてるのね」
優しい声がどこか高いところから落ちてくるが、目を開けるのが億劫で、そしてその優しい声を遮るのが嫌で、つい柔らかい椅子に身をゆだねてしまう。
ふわりとあたたかい布が掛けられて、ニラはゆっくりと眠りに落ちて行った。




